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はじめに
この小説は、ハードボイルドタッチで描く三人称視点の短編作品です。
ハードボイルドというジャンルが苦手な方、また 特に翻訳調の文体が苦手だという方は余り肌に合わないかもしれません。ご賢察をお願い致します。
著者敬白

※Firefox・Opera等の方、申し訳ありませんがルビはカッコ表記です。ご了承ください。
 

Δ HARVEST
by
Taki Sara
Copyright © 2009 by
Taki Sara





デルタ・ハーベスト


 大ガードを潜ると、そこはもう新宿だった。東京の中心、文化の交流場であり、歓楽街にして戦場。軋轢が搾り出した甘い汁を好物とした生き物達が、群集に紛れながら、今宵もネオンの海でひっそりと潜水している。
 葉一よういちは靖国通りから区役所通りへと足を運んでいた。先週末から突然訪れた寒波の影響で、新宿の町並みは既に冬一色といった具合だが、葉一のわき腹は汗ばんでいる。なにしろ、生まれた瞬間から組織犯罪の片棒を担いできたような筋者と、これから顔を突き合わせようというのだから。
 約束の場所は、雀荘が一階で幅を利かせた雑居ビルの、三階から睨みを利かせる中山開発という土木建設事務所だった。手狭な階段を上がり、摺りガラスのドアを震える手でノックする。紫煙と唸り声と、それから大量の札束と一緒に姿を見せたのは、背負った通り名よりもずっと小柄な体躯をした男だった。大仏という通り名で同業者達に知られているように、顔立ちと髪型は確かに文字通り形容できる。しかし、初対面の印象は小鹿といったところだ。
「見せてもらおうか」と、大仏は値踏みでもするかのように、葉一の爪先から頭髪にまで視線を這わせた。
 名刺と同時に一枚の更紙を取り出すと、大仏の火掻き棒のような指がそれをひっつかみ、記された一文と血判が吟味された。
「入れ」
 言葉と一緒に札束が飛んできた。葉一は紙幣を残らず床から拾い上げ、大仏の尻を追いかけた。尻に案内されたのは、いたる箇所に龍の代紋が施された応接室だった。
「さて、探偵」と、出入り口を塞いだまま大仏は厚い唇を弾いた。
「探偵が東の人間だということは信じてもいい。だがどうやって、南の人間でないと証明するつもりだ」
 大仏の発した東と南という単語には、それぞれこの界隈独自の意味があった。東という呼び名は、大ガードを挟んで東側の地域を指す言葉で、都市開発の波に呑まれた西側を縄張りとする筋者達への辛らつな皮肉であり、明確に東西を線引きをしたいという東側の主張である。南という表現も、御苑周辺の麻薬売買で伸し上がった外国人連中と違い、歌舞伎町を生き抜いた日本人の筋者達が矜持を含ませて一線を画する意味合いで使用されている。
 葉一は、ここ一月の期間、苦労に苦労を重ねて、東側の人間であるという証明を、新宿の長老とでも冠することのできる男から得ていた。その苦労の結晶が、先ほど大仏に手渡した更紙だった。
「野暮な質問だ」と、大仏は歯を剥いた。笑うこともできるのだと、自慢しているような笑みだった。
「西の人間が東で生きているわけがない。魚が陸で生きているようなものじゃないか。なぁ、探偵。俺は探偵を受け入れた。だからここへ呼んだ。探偵も、俺を信用しないか」
 その横柄な振る舞いに対しても、葉一は口を閉ざしたままでいた。
「いま、例の女を連れてくる」
 大仏が部屋を去り、靴音がリノリウムの廊下の奥へと吸い込まれていった。紙巻一本分と待たせなかった。すぐに靴音が二つになって帰ってくると、まず大仏、そしてその背後から洗練された容姿の女が姿を見せた。
「リリィだ」と、大仏が女の腰に手を回した。
 女の顔立ちは鋭く都会的で、身体には可能な限り金をかけ、一挙措一投足には気品が感じられる。タンゴの踊り子みたいに真っ赤なドレスを纏っているが、それとは不釣合いに手錠が手首には食い込んでいた。
「日系ブラジル人の3世になる。それ以上の詮索は必要ない」
 彼女の紹介を交えながら、大仏はたいして身長の高低差を変えずに座って見せた。その傍らで、リリィの方は、磁器の作り物みたいに身動き一つしない。
 このビルに入ってはじめて、葉一は口を開くことにした。
「私は新宿に明るくない。でも、彼女が南の人間だということが分かるくらいには、稼業をやっている」
「彼女じゃない。リリィだ。気をつけろよ」
「リリィだ」
 従順に頷いた葉一の空虚な笑みは、神経質そうに引きつった。大仏の眼差しが、葉一の口の端に張り付いてくる。
「三日にしよう。それ以上はまかせられない」
「結構。どこかのホテルの一室に匿(かくま)うつもりだ」
「好きにするがいい。俺がリリィを迎えに行くまで、誰にも指一本触れさせるな。無事に引き渡せた暁には、さらに報酬を支払う」
 これ以上の長居は無用だった。葉一は立ち上がり、忠告どおりリリィには指一本触れないように注意して、彼女をビルの外へと促した。葉一の手足は、大仏の視線に神経を焼き切られたとでもいうように感覚が乏しくなっている。慎重に階段を降り、それから外へ出るまで、二人は指一本触れるどころか言葉すら交わさなかった。
 帰路の道中、再び大ガードをくぐった頃に、リリィが寒空に負けないくらいに澄んだ声で言った。
「サトウキビを食べながら、口笛を吹くことはできない」
「日本語を侮(あなど)らないほうがいい」
 葉一は振り返りもせずに答えた。
「何かを成し遂げることはとても難しい。まずは自分が集中するべき部分に取り組んで、それから次の手を打っていくということを考えなければいけない。そんな教訓のことを指した、わたしの故郷の諺」
「今回の件、難しいヤマはない」
「南の人たちは、わたしを助けてくれるわ」
「なぜ」
「自動式拳銃、プラスチック爆弾、毒ガス。何でもあって、使うことを躊躇わない。あの大仏のような男は、自分達の北が真っ当で、南が歪んでいると諭そうとしていた。百歩譲ってそうだとしても、強いのは南。わたしは南の人たち――故郷の仲間を信じている」
「北も南も東も西も、どれが正しいのかなんて私は知らない。どこへ行っても、間違いだらけだ」
 口よりも、足を動かすべき時だった。暫く歩き、葉一とリリィは車に乗り込んだ。しかし、震えた手では、サトウキビどころかハンドルを握るのだって難しかった。


 初手から葉一の中には、言葉どおりリリィをホテルで匿うつもりなど微塵もなかった。経営する探偵事務所に施錠をして、リリィを軟禁し、再び新宿に帰ってきた。
 日が落ちて、駅から見下ろした街にはLEDの絨毯が広がっている。光の道を南へ下ると、新宿御苑を目前にして暗闇に包まれた。臨めるのは、一区画を跨ぐほどの長さがある生垣と、その敷地内に建つ豪奢で堅牢な屋敷のみである。新宿を仕事場にする探偵で、ここに南の人間達を束ねる頭領が居座っていることを知らないとなると、路頭に迷う覚悟を決める必要がある。大仏に惚れ込まれて拉致されるまで、リリィもこの屋敷で男達に酒を注いでいた。
 門扉の直前で、葉一は頭上に吊るされた防犯カメラに視線を向けた。すると扉が独りでに開き、小間使い達が玉砂利を跳ねながらやってくる。さらにその奥から、ドレッドヘアーを揺らしたラテン系の外国人が姿を見せた。大仏とは違った大柄な身体で、こちらには通りの名どおりの印象を誰もが持つだろう。
 葉一は言った。「コヨーテ。リリィは無事なようだ」
 コヨーテは、新宿区役所御中と草書体で記された便箋を持った手で、小間使いたちをあしらった。
「良い仕事ぶりだ。ブラジルでもやれる」
「まだ彼女を取り戻したわけじゃない」
 コヨーテの表情は一瞬険しくなったが、文句と質問は呑み込まれた。その代わりに吐きだれたのは、コヨーテの持つリリィへの情熱だけだった。彼の脳味噌は、現在のところリリィ一色に染まっているようだった。
「リリィは宝石だ。もう誰の指紋もつけさせるつもりはない」
「頭領と話しがしたい」
「縁側から庭園を眺めている。いつもそうだ。あの場所から動いたのを、見たことがない」
 コヨーテは葉一の脇をすり抜けて、息づく夜の新宿へと溶け込んでいった。玉砂利の向こうでは、小間使いたちが待っている。彼らの案内に従って、敷かれた木歩道を進んでいった。
 どん突きの中庭は、龍安寺を模した造りの空間で、都会の中で冷え冷えとした威光を放っていた。屋敷の縁側で、厚手のちゃんちゃんこを羽織った日本人の老人が、のんびりと葉一に振り返った。
「こっちへおいで」と、老人は孫でもあやしているかのように語りかけてきた。
 葉一はその言葉に従い、老人の傍へ寄った。近めで眺めると、孫をあやしているなどという表現は戯言に等しいということに気づく。この老人は、南を束ねるために、生死の狭間を生き抜く諸外国の連中たちを、日本人でありながら、常日頃から手なづけているのだ。
「わしのかわいいリリィはどうしただろう。はて、どうしただろう」
「一杯食わされました」
「食わされたのはお主だけじゃ。わしは何も指図しとらん」
「リリィは北の連中に入れ知恵をされています。そのせいで、南より北で生きていこうと考えているようです。彼女はこちらの事情に耳を傾けようともしません」
「小癪な。信じられん。リリィはあれで賢い女じゃ」
「おっしゃる通りです。しかし、それが現実です。リリィは北に寝返りました」
 もごもごと蠢く口元以外には、何の反応もなかった。ここが正念場だった。果報を寝て待てるほど、葉一の神経は丈夫にできていなかった。葉一は喋り続けた。
「上手くやれば、弾丸一つで全ての片がつくかもしれません。武闘派の頭である大仏を仕留めて、リリィを取り戻す」
 老人の目が、深夜のハイウェイを両断するヘッドライトのように瞬いた。案外、武力行使を仕掛けるきっかけと口実を待っていたのかもしれない。
「コヨーテを遣そう。構わん、事後処理は全てわしがする」
「コヨーテとは今しがたすれ違いました。なにやら保険年金の便箋を持っていましたね」
 恥でもかかされたかのように、老人は突然頬を紅潮させた。
「そのことは忘れていい」
「報酬は弾みます。今夜、コヨーテに持たせてください。片付き次第、受け取るという手筈で。公よりも、信ずるべきは私です」
 老人は渋面をこさえて虚空を睨み、何度も頷いた。
 コヨーテと大仏は、東側地域を代表する武闘派の二台頭である。その二人が、今夜ぶつかろうとしている。葉一がその導火線に着火したという現実に偽りはない。
 葉一は中庭から離れると、屋敷を後にし、再び大ガードを潜り抜けて事務所へ帰った。


 日付が変わって三時間が経過しようという頃、今日何度目になるだろうかと思いながら、葉一は大ガードを潜った。新宿に人の影がない時はなく、もしそこから人が消えてしまう時が来くるとしたら、それは葉一のような稼業の人間にとって最期を意味するだろう。歌舞伎町は、まるでそんな新宿を下支えでもしているかのように、夜にも動じずに、寒さに耐え忍び、食虫植物さながらに人々を誘(いざな)っていた。
 葉一は、視界にコマ劇場を捉えると、裏路地の奥へと身を捻りこんだ。雑居ビル群の隙間に並べられたトラシュ缶の中に、一際大きな影が潜んでいる。ドレッド・ヘアーを靡かせた影は、しなやかな身のこなしでネオンの明かりに姿を晒し、通りに立ち塞がった。
「時間一杯だ。探偵」
「報酬は用意してきたのか。コヨーテ」
 葉一の質問に、コヨーテはブルゾンの上から親指で胸を小突いた。その仕草通り、これまでの顛末とこれからの段取りは、南の老人から全て伝え聞かされているはずである。葉一は頷き、彼を先頭にして中山開発へと歩みだした。
「得物(えもの)はあるのか」
 今度はコヨーテが疑問を呈する番だった。
「探偵に必要なのは、明晰な脳味噌と、屈強な身体と、美人な秘書だけで充分だ」
「探偵、おまえには何一つない」
 返す言葉が見つからなかった。コヨーテが歩みを止めぬまま葉一に拳銃を握らせた。侮辱した侘びの印というわけではなかった。
「俺のブラック・スターだ。命を預けるには心許ないが、相手を片付けることに関してはピカイチだ」
「君の武器はどうする」
「リリィのがある。リリィを守るために、俺がアイツに持たせた。実際には、役に立たたずに俺の手に残された」
 葉一は黙って拳銃をコートのポケットに落とし込んだ。それと同時に、目の前に明かりを感じとり、足を止めた。雑居ビルの三階、中山開発の事務所から四角い光が通りに落ちている。
 コヨーテは、生まれてこのかた一度たりとも躊躇ったことがないとでもいう風に、光を跨いだ。ブルゾンに忍ばせた得物を確認しながら、階段をゆっくりと這い上がっていく。緊張や焦燥を微塵も感じさせない背中に、葉一は語りかけた。
「私はここで背後を見張る。異常がなければ、すぐに後を追う」
 コヨーテは、微かに頷いたと判別できる程度に首を動かすと、階段の踊り場を回った。
 彼の姿が消えると、葉一は電話ボックスに身を滑り込ませた。汗ばんだ手で受話器を慎重に持ち上げ、大ガードの向こう、西側の筋者達に連絡をとるべくダイヤルを回した。今日、これまで何度も大ガードの下を往来してきたように、葉一の探偵事務所は西にある。何年もそこで生きてきた葉一にとって、西側の勢力は切り札だった。受話器の口元をハンカチで覆い、筋者四人に電話を繋げ、四件全てとも一方的に内容を告げて切断した。北の事務所で動きがあると、それだけ伝えられれば充分だった。葉一は電話ボックスから出ると、急ぎ足で雑居ビルの入り口へと向かった。
 ビルの中は生暖かく、騒がしかった。一階からは牌の転がる音が響き、二階からはダンス・ミュージックが漏れて床を揺すった。三階まで上がると、銃声がした。しかしよく耳を傾けてみると、その銃声は、ノイズ交じりの会話と共にのべつまくなく響いている。察するところ、どうやら事務所の中で、テレビの深夜放送が大音量でがなりたてているようだった。
 葉一は身体を伏せたまま、階段の踊り場から事務所の様子を探った。これだけの雑音に満たされていながら、どこか静謐に包まれているような雰囲気さえある。
 摺りガラスのドアを引き、事務所の中へ入った。廊下の電気は落とされ、ほとんど真暗闇に近かった。一番奥の部屋から聞こえてくる深夜放送が耳障りだった。その部屋のドアは閉ざされており、嵌められたガラスから一条だけ明かりが漏れている。光と影の境目で、耳を澄ませるコヨーテの姿が見えた。コヨーテの手がドアノブに掛かるのと、背後の部屋からゆっくりと影が現れるのが同時だった。影は大仏だった。暗がりの中で瞬く匕首を片手に、コヨーテへと近づいてく。テレビの雑音が一際大きくなり、大仏の存在を希薄にしていた。両手が振りかぶると、突然何の前触れも無くコヨーテは廊下に跳躍して一撃を避けた。匕首がガラスを突き破り、ミラーボウルから放たれたような光が舞った。そのときになって、コヨーテがガラスに映った景色越しに背後の状況を捉えていたのだと、葉一は覚った。
 匕首を引き抜いた大仏に向けて、コヨーテがゆっくりとリリィの拳銃を突きつけた。
「間一髪だ」
「リリィならここにはいないぞ」
 大仏のふてぶてしい態度は変わらなかった。それに対して、コヨーテは挑むように言い放った。
「拳銃なしで俺を仕留められるとでも思ったのか」
「拳銃は、リリィに渡しただけだ。護身用にな」
 微かな明かりの中で、コヨーテの表情が曇った。それを隠すように、影の中へと距離をとる。
「リリィはそいつを受け取ったのか」
「あの女は、口では南の人間だと言いつつも、北に寝返ろうかと迷っている」
「後でいくらでも直接訊けるさ」
「リリィは俺たち東側の弱みみたいなもんだ。なぁ兄弟。ダイヤモンドみたいに綺麗だが、火にくべれば消えちまう」
「何が言いたい」
「情報を西に与えちゃならねぇ。誰かが西に情報を漏らした。やつらが来る。今日は引き上げろ」
「がたがた言うなよ」
 引き金に掛かったコヨーテの指に力が込められていく。
 葉一は深く息を吸い、喉から声を絞り出した。
「リリィ!」
 叫び声がリノリウムの床を走り、一幕を吹き消した。廊下へ振り返ったのは、この場にリリィが現れるはずがないと知らないコヨーテだけだった。隙を突いて大仏が匕首を構えた。コヨーテは異変を察知し、咄嗟に首を戻した。匕首が煌くよりも先に、銃口が火を噴いた。爆音と共に銃弾が大仏の右肩と背後の壁を弾き飛ばした。致命傷ではなかった。怖気づくことを知らないかのように、大仏がコヨーテの腹部に匕首を突き立てる。屈曲したコヨーテが大仏にもたれかかり、堪えきれなくなった大仏も膝を折った。二人分の血飛沫が壁に跡を残して、それきり三人には静寂が訪れた。
 一部始終を見届けた葉一は、二人のもとへ歩み寄った。大仏の喘ぎ声を耳に、縺れた二人の懐から、今夜の報酬である十センチ弱の封筒を頂戴する。西の筋者達がすぐそこにまでやってきている。深手の大仏は西側が片付けることだろうし、この有様ではコヨーテも終わりだった。
 葉一はビルの外へ出て、新宿の雑踏を求めて早足に進んだ。
 数台のメルセデスが、闇を切り裂いて通りをやってくる。葉一はすれ違うのを避けて裏路地へ走り出した。そしてそれから間もなく、背後で数発の銃声を聞いたような気がした。


 リリィを軟禁する探偵事務所へと、葉一は真っ直ぐに車のハンドルを繰った。新宿から逃れるまでの間、リリィには人質を演じてもらう必要がある。
 事務所のドアを蹴り開け、報酬の封筒をソファベッドに投げ出した。拍子に、札束が転げ出た。帯で束ねて耳を揃えた壱万円札が、一つの封筒につき一千枚づつ。拾い上げると、申し分のない重量が手のひらに掛かる。
 しかし、一息入れている暇は残されていない。
 葉一は、予め用意しておいた事務所の引払届出書をデスクに置き、日用品と報酬をボストンバッグに放り込んだ。新宿から逃れるために、あと必要なものはリリィだけだった。葉一は彼女を軟禁する部屋の前に立ち、ゆっくりとドアの錠を開けた。リリィが拳銃を持っていたことを知ったので、用心しながらドアを引き、電灯のスイッチを捻る。借りて以来一度も使用したことのない殺風景な部屋が青白く照らし出される。部屋というより、物置の類だった。トイレの方がよっぽど使い勝手が良い。そんな部屋で、リリィは死んでいた。
 彼女は壁に背をもたせ、両腕を力なく地に落とし、虚空に焦点を定めていた。開いたままになっている口元からは、赤く糸を引いた体液が大量に流れ出し、喉の奥で泡立っている。口に銃口を咥え、引き金に引いたに違いなかった。鉄の匂いが充満する空間で、葉一はしばらく呆然として、その屍を眺めていた。真っ赤なドレスだけには満足できず、挙句の果てに、彼女は自分の身をも赤く染めてしまった。せめてもの慰めに、彼女を床に寝かしつけ、開いたままの瞼を閉じ、一言だけ言い放った。
「サトウキビを食べながら、口笛を吹くことはできまい」
 銃口を咥えながら、生きていくことはできまい。
 窓の外で鳥達が鳴きはじめていた。やがて日が昇り、街には陽が差すだろう。それまでに、誰にも知られずに、誰も知らない場所へ、葉一は逃れる必要がっあった。意を決して立ち上がり、窓の外を見ると、薄墨色の空が眩しかった。突然背後で声がした。
「サトウキビよりも、銃口を咥えたままくたばるのがオマエにゃお似合いだ」
 振り返ると、リリィの拳銃を構えた、半身を血に染める大仏がいた。
 そして、さらにその背後には、彼に拳銃の照準を合わせた南の老人がいた。大仏は、老人の存在に気づいていない。

THE END


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