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THE BLANK TRACK
by
Taki Sara
Copyright © 2007-2010 by
Taki Sara





   2

「ロングビーチに来てくれ」
 わたしが受話器を握りなおすと、路辺ろべは腹に力のこもった声で続けた。賑やかな場所では役に立つだろうが、電話越しに聞くと神経を握られたような気分になる。
「同性愛者のパレードを見たい気分じゃないんだ」わたしは酒瓶をデスクの引き出しにしまった。
「見たきゃ行ってこいよ、ロサンジェルスのロングビーチに。私が言ってるのは大磯のだ」
「遠いだろう。だいたい何故行かなければならない」
「そう邪険じゃけんにするなよ。おまえさんが面倒事に巻き込まれるのを私がなんとかしてやろうというのじゃないか」
「点数が欲しいだけに違いない」
「悪いが管轄外だ。今からやろうとしてるのは全くの慈善事業だよ。だいたいなぁ、コテツ。事件の管轄だった中華街署に運良く私の知り合いがいたから話が回って来たんだぞ。おまえさんは私に感謝するべきだろう。依頼人が殺されちまったんじゃあ商売アがったりじゃないか」
「どうして殺されたのが依頼人だと思うんだい」
「遺体が探偵の名刺を持ってりゃそうも考えるさ。依頼人じゃなかったとしてもいずれ依頼人になる予定だった人間じゃないか。どっちも同じようなもんだ」
 そうとも言えないがわたしは沈黙を守った。
「ロングビーチの入り口にドライブイン・シアターがある。そこで待ってるからな。私の車はわかるだろう」
 知らなければ大損だというような口調だった。
 わたしは答えた。「存じてないがね、多分、この雨の中じゃ他に客もいないよ。だいたいドライブイン・シアターなんて深夜営業じゃないか」
 今度は彼が沈黙する番だった。路辺は複雑そうに唸ると「待ってるからな」と念を押して電話を切った。
 わたしは事務所を出て、雨を避けながらの駐車場まで向かった。道程で、どのように目的地まで向かうかを考えた。昨日で高速道路の料金を払いすぎてしまっていたような気がしたのだ。しかし、路辺巡査部長に待ち惚けを食らわした後の叱言こごとと暴れ馬のような鼻息は好きになれない。わたしは第三京浜に乗り、まずは保土ヶ谷まで向かった。時間を見て新湘南バイパスにも乗ったが、結局大磯に入ったのは昼過ぎだった。雨は霧雨となっていた。
 湘南の海と高麗の丘陵郡を両断する国道一号線から左折すると、霧雨を呑んだ潮風に乗って、賑やかな雰囲気がフロントガラスにぶつかってきた。モノクロームのような海と砂浜のツートンに、まるで海岸線からの侵略に備える要塞のようにシーサイドホテルがたたずんでおり、その周りには堀のように雑多なプールが設けられている。ロングビーチである。歓声はそこから沸きあがっているのだ。
 マークⅡが、椰子ヤシの木を両脇にしつらえたドライブウェイへと入った。ゆったりと螺旋状に旋回する一車線のスロープの脇には、ふんだんに雨水を吸った青々しい芝生が敷かれている。告知板には、上映予定の映画宣伝用ポスター、漫才師やタレント、アイドル来場のイベント広告がピンクチラシのごとく張り巡らされていた。
 カチカチと音がしそうな仕草でホテルのボーイがやって来て、ウィンドウをノックした。
「どちらへおいでですか」彼は暑さを微塵も感じさせない口調で言った。
「シアターだ」わたしはガラス越しに答えた。
「このままスロープを左手へお上がりください」
 言われるがままに左手のスロープへ進んだ。上りきると、直ぐ目の前に、バイパスを挟んで海が望める広い駐車場に出た。大変賑やかである。といっても、それは隣接区域に伸びる西湘バイパスを駆ける自動車の騒音であり、松並木に仕切られた向こう側から届くプール場の歓声である。潮風が年中吹き付けるこの地域では、防風林として傷まない松の木が重宝されているようだった。
 シアターの入り口には、屋根を赤く塗った料金所の小屋が設けられていたが、空っぽだった。リアゲートは迫り上がったままである。わたしはマークⅡをそのまま中へ乗り入れた。
 客の無い荒涼としたスペースに、まるで老人の最後の一本歯のように白いセルシオが一台止まっていた。覆面PCパトカーではなく私用のものだ。
 わたしは、屋外用の真っ白な巨大スクリーンの前を通り過ぎて、マークⅡをセルシオの横に着けた。
 セルシオのパワー・ウィンドウが下りて、艶の無い胡麻塩頭が運転席から顔を出した。浅黒い皮膚に、目が特徴的な男である。梟のように丸い眸は、情報には機敏に反応しそうで隙がなく、眠りを忘れたように忙しない。どの刑事の例にも漏れず、枯渇した涙腺の持ち主だった。
「乗れよ」彼が、頑固そうに結ばれていた口を大きく開き、声を張り上げた。
 わたしは助手席に滑り込んだ。
 間近で見ると、彼は、台布巾でさんざん磨かれた後のバーのカウンターのような顔をしている。恰幅が良く、いかにも叩き上げの警官といった感じだった。しかし、年はもう良い年齢だと言われても反論できまい。
「なぜこんなところに呼び出した」わたしはハンカチで雨粒を拭った。車内には、紫煙が無理矢理詰め込まれたように充満していた。
「遅いぞ、コテツ。今な、私は湘南署に配属されとるんだぞ。当然、おまえさんとこにまで出向く暇もなければ、待つ義理だって無いんだ」
 わたしは聞き流して同じ質問を繰り返した。
「ここなら邪魔も入らないだろうからだ」と、路辺は答えた。
 それから彼は、深い眼窩がんかの奥で黒目を転がすと出入り口の料金所へと向けた。ジーンズ素材のハーフパンツにプリントシャツを着たサーファーらしき若者が、ドライブウェイに進入禁止のロープを張っていた。
「あの知り合いがやっとるんだ、このシアターは。昼間は営業時間外だ。おまえさん以外は暫く誰も入れんようにしてもらった」
「さっきわたしが言ったことだね。耄碌もうろくしちまったのかい。なにをそんなに警戒してるんだ」
「ここは大きな犯罪なんてそう滅多に起きない狭い田舎町なんだ。だのにそれがいま、管轄に捜本 ・・が建っとる。皆そいつのせいで天手古舞てんてこまいだ。私一人こんなところでサボってるのがバレてみろよ。定年まじかにしてハコ番に逆戻りだ」
 路辺は言いながら煙草をせかせかと吹かし、型崩れしたシャツのポケットから二つ折りの長三番茶封筒を引き抜いた。彼の履いていたグレーのトラウザーズもシャツと同じように冴えていなかったが、むしろそのせいで良く似合って見えた。
「はやいとこ済ませよう。これをみてくれ」
 浮腫むくんだ毛むくじゃらの指が、まるでやっかいものでも押し付けるかのように掌に封筒を握らせてきた。わたしは折り目を正して口を逆さに向けた。三つ折りにした二枚のFAX用印画紙が滑り出てきた。
「そんなもんしか手に入らなかった。そのせがれも運が無いな」
 路辺が、わたしの手の中から印画紙を一枚つまみ上げると、広げて示した。写真を転送したものであろう。チョークで括られた道路上の枠内に、仰向けに寝そべっている男の姿がプリントされていた。男の服装は、事務所に転がり込んできた梁道一リャン・ダオイーと寸分違わぬアイヴィ・リーグ・スタイルだった。不鮮明なコピーだが、アスファルトに出来た水溜りを血液が侵していることくらいは分かった。顔面にうがたれた無数の打傷が、あるじをとうにデッドラインの向こう側へと送ったことを証明している。
 印画紙の余白には、書いた本人以外には読めないような細かい注意書きがびっしりと記されていた。
 私は訊いた。「その倅“も”ってのはどういう意味だい」
「おまえさんだって運がない。良く見るまでもないだろう、こいつの顔。まるでジャガイモだ。ジャガイモもジャガイモ、アメリカ人の大好きなマッシュポテトだ。死んでから散々叩かれたらしい。もっぱら鑑識の間じゃあ精神異常者サイコの仕業じゃねぇかって噂が出るくらいさ。死体のめんが割れてりゃまだ事件も単純だったかもしれんが、誰が見ても本人かどうか顔が解からん。おまえさんへの期待も高まるってもんだ」
 路辺は、何でも無かったかのようにまたせかせかと煙草を吹かし、それをドアの外へ放ると、今度は手帳を繰りはじめた。
「あそこは場所も悪い」路辺は黒目を手帳に向けた。「私も昔は山手署にいたことがあったがな。中華街チャイナタウンに住んでる奴らは全員野次馬の血を引いてるんだ。DNAの塩基配列を調べてみろ、必ず同じ並びがあるはずだぜ。そいつが野次馬の塩基配列だ。どうだい、ノーベル賞への近道だと思わんか」
「その仕事は転職を考えてるような検死医に譲ろう。人生に近道は無いからね」
 わたしは二枚目の印画紙を広げた。写真のコピーではなかった。
「人生には無くとも」と、路辺が唸った。「捜査に近道はあるな。そいつを良く見てくれ」
「台詞がデモ行進の標語みたいだな。何だいこれは」
「わかるだろう」路辺が跳ね、車内が揺れた。「どう見てもパスポートのコピーだ。遺体の懐に入ってたもんだぞ。人相ぐらい確認してもらわんと、こっちは本当に慈善事業になっちまうじゃないか。おめぇさん以外、マル被を知っとるやつがいないんだぞ」
「そんな狙いがあったわけかい」
 路辺の説明どおり、二枚目はパスポートの一ページ目を見開きにしたコピーだった。パスポートタイプ・発行国・旅券番号・発行官庁などが刻印されている隣で、精彩の無い梁道一リャン・ダオイーが肩身狭そうにしている。モノクロでは背景とは見分けがつかないような白い肌と、挑戦的な睨んだ瞳に、今にも文句を言い出しそうな生意気な口元は、間違いなく梁道一リャン・ダオイーのものであった。
 他の見開きの項目では、Nationality国籍CHINA中国 、年齢は予想より上の二十八となっていたことが分かった。だが、とびきりのウィンクを寄越してきたのはSurname苗字の欄だった。その感情の変化を汲み取って、抜け目無い路辺のひとみ狡猾こうかつに光った。
「だんまりは無しだぜ」
 彼は老獪ろうかいに視線を逸らすと、フロントガラスに跳ねる雨を見つめているふりをした。
「たいしたことじゃない」わたしは印画紙を元のように折りたたみ直して封筒にしまい、路辺に返した。「パスポートの苗字が“董”になってる。拼音ピンインはDong。董道一ドン・ダオイーだ。わたしにはリャンだと名乗ったのだけどね」
 路辺はゆらゆらと頭を振って封筒を跳ね除けた。「いらねぇよ、とっとけよ。気になるのはそれだけかい」
 わたしは「それだけだ」と頷いて、封筒を湿ったズボンのポケットに突っ込んだ。
 霧雨の向こうにけぶっているまっさらなスクリーンへ、この事件の残像が映ってはしないかというように目を凝らし、その空白さに愕然としながら、路辺は言った。
「結局その兄ちゃんは、おまえんところを尋ねてきた者に違いはなさそうなのか?」
「この写真だけじゃ何もわからないよ。わたしが彼に会った時は、チェスみたいなのが印象的だったがね。今日の海みたいにモノクロームだった」
「いんや、ポーカーだよ」と、路辺は言った。「ありゃトランプさ。白と黒と赤。あんなに完璧なポーカーフェイスは見たことがねぇ。その男で間違いはなさそうだな。もちろんこれから司法解剖やら鑑定やらが行われるわけだろうが、このままじゃ身元不明になっちまうんだろうな。後はせいぜい外事課の仕事だ」
「身元不明? パスポートがあるじゃないか」
「見てもらって今更なんだが、どうも偽造らしいのだ。偽名かどうかはわからん。私は、内容も全部嘘っぱちだと思っとるがね。今ある手掛かりで調べた限りじゃあ血縁者も解からない。知り合いだと名乗り出てくるものもいない。寂しいもんじゃないか。殺されたってのに」
「相手はどうなんだ?」
「トランプのか?」
「まさか。婆抜きをしにいったわけじゃあるまい」
「ホシは、残念ながらまだ何も解っちゃいないらしい。もくは無し。遺体がほっぽり出されたのは早朝だったんだな。見つかったのは南門通りの牌楼パイロウを潜ってすぐのところだったが、実際の殺しの現場は別だという話だ。凶器は鈍器だが、これも どの衝撃が決定打になったかはもう解からん。解からんことだらけの上に、私もこれ以上は知らん」
「一介の私立探偵に、随分良くしてくれるのだね」
「私はおまえさんが面倒ごとに巻き込まれる前に、手を打つきっかけを与えてるにしか過ぎんのを忘れんでくれ。なにか手掛かりがあるなら教えてもらいたいのも事実だ。中華街署のやつらは、今頃はおまえさんの事務所のドアを叩いてる頃だろう」
梁道一リャン・ダオイーは気になることを幾つか言ってた。人生を賭けるとか何とか」
「あのぐらいの年齢の青年はいつだって似たようなことを漏らしとるな。実際にやってのける人間は一握りだ」
「そう思うのかい」
「それもわからん。いつのまにか年をとって、いつのまにか若い者の考えることも解からなくなっちまった。だが刑事である以上、相手を解かろうとする気持を失くしてなるまいだろうよ。おまえさんの考えを聞かせてくれ。これもその努力の一環だ」
「考えも何も、わたしはさっきこの事件を知ったばかりだ」
 路辺は大儀たいぎそうに頷くと、決心したようにため息をついた。
「いいか」と、彼は言った。「これが私からの最後の情報だ。パスポートに載せた顔写真の青年の足取りだけは唯一掴めているんだ。中国東方航空の国際線で中国人の客室乗務員が、一昨日の晩に機内で酔っ払った彼を介抱したのを覚えていたそうだ。やっこさんが日本にやって来たのは一昨日ってことになる。これが限界だ。公安の資料を引っ掻き回せだなんぞ言わんでくれよ」
 たしかに路辺は話すだけ話し、カラカラに絞られた雑巾のようになっていた。今日の雨に暫く晒されたぐらいでは元に戻りそうもなかった。
「おまえさんは、暫く拘留されるぐらいなら、自分で犯人を捕まえちまおうとする型の人間に見えるがね」
 そのままボロ雑巾のような渋い表情で、路辺はよれよれのセブンスターを取り出して咥えた。雨に湿気た煙草はなかなか火が点かなった。
「ただ働きじゃないか」
「職業倫理に反することが好きそうな顔をしているよ」彼は胸いっぱいに煙を吸い込み、低い声と一緒に吐きだした。「私はおまえさんみたいな探偵がその稼業ビジネスを支えているんだと思う。メディアの注目を集めるなんざ探偵の仕事じゃない。本やコラムを書くのも探偵の仕事じゃない」
「あんたに探偵の気持は解からない。わたしも理解に苦しんでいるがね」
 ドアに手を掛けて、わたしは自動車を降りようとした。
「これからどうするんだ?」
 路辺が背中に声を浴びせかけてきた。
「またどうせ正式な聴取が待ってるのじゃないのかい。面倒だから暫く事務所に帰るつもりはない。行くところがある」
中華街チャイナタウンか? 立ちんぼに聞き込みでもするのか。残念ながらあそこにはもう街路生活者ストリートピープルすりゃいないんだ。そりゃ何十年も前の話だ」
「酒を飲みに行くだけだ」
 ドアを閉めると、「好きにせい」という投げやりな言葉が車内で行き場を失くしているが聞こえた。セルシオは雨の中で小さく身震いすると、出口へ向けてしわぶきをあげた。ドライブウェイの脇に駐められていたキャンピングカーから、あわてた青年が飛び出してきて、やり過ぎなくらい低い腰でペコペコしながらロープを畳んだ。
 セルシオが視界から消え、わたしはマークⅡの運転席に落ち着くと、梁道一リャン・ダオイーについて何かを思い出そうとした。しかし、騒音が邪魔をした。バイパスとプール場のほかに、海原では多くの漁船が帰港の警笛を叫んでいたのだ。
 仕方なくキーを回して自動車をスタートさせた。
 ハーフパンツの青年が、片手でロープをぶんぶん振り回しながらわたしを待っていた。何か叫んでるが、良く聞こえなかった。自動車を彼の前で駐めてウィンドウを下ろした。
「何か?」と、わたしは訊ねた。
「いちいち止まるな」彼は眉間にしわを寄せた。「早くしてくれって言ってたのにこれじゃ逆効果じゃねえかよ」
「それだけかい」
「そうだよ」
「路辺とは親しいのか」
「何でそんなこと……。別に親しかねぇよ。昔、あのオッサンが生安にいたときにちょっと世話んなっただけだ。未だにそん時のこと恩着せがましく言い寄ってくんだよ」
「迷惑なのか」
「いや」と、彼はかぶりを振った。「めんどくせぇだけだ。たまに会うくらいならいやじゃない。ここって、路辺さんの管轄だろ。だからしょっちゅう顔を遭わせる度にかしこまるのが億劫おっくうなんだよ」
「それとなく伝えておこう」
「あんたが言って、どうにかなるものなのかな」
「さあね。それでトラブルが一つ減るのなら儲けものじゃないか」
「あんた探偵なんだってな。トラブル・イズ・マイ・ビジネスってやつだろ? 金でも取ろうってハラなんだろ?」
「いや。必要ない」と、わたしは言った。「それより、路辺は何時頃からわたしを待っていたかい」
「たしか、掃除のおばちゃんが来て……、メシ食って、その後だから、十一時には来てたな」
 わたしは腕時計を眺めた。一時半過ぎを指している。わたしがここへ着いたのは一時前だった。事務所へ帰っても、中華街署の警官達が待っている可能性は十分にあった。わたしはハーフパンツの青年に礼を言うと、マークⅡを横浜中華街チャイナタウンへと向けた。

 国道一号線を上り、関内のパークインに自動車を駐めた頃になると、もう霧雨は止んでいた。雲間から僅かに覗く午後のまぶしい陽射しを合図にして、せみたちが駄々をこねる様に一斉に鳴きはじめた。
 中華街や元町界隈かいわいの混雑は昨日と何も変わっていない。殺人事件が起きたことも、死体が放り出された場所も、文字通り群集に踏み倒されてしまったのだ。アスファルトから昇る蒸気と共に、今やその痕跡さえも消えようとしているのかもしれない。

 わたしは、玄武門を潜って、北門通りから中華街大通りへとぶらぶら歩いた。
 海側へ出れば、それらしい景観はピタリと止んでしまうだろう。中華街の中でさえも、電子音の響くテーマパークが建ち、自動車を駐めようとすれば昼夜に関わらず料金を取られ、洒落た土産物屋が澄ました態度で気取っているのだ。米海軍が酒に溺れてアメイジン・グレイスを歌った港町ベイシティも、老酒ラオチューしか置いてない泥臭い飲み屋が軒を揃えていた中華街も、きっと、もうずっと昔に滅んだ文明の産物なのだろう。
 観光客用に張りぼてされた大通りにはうんざりしていた。わたしは、いた裏路地に歩を進めることにした。余所者よそものの自分が、一体何所どこを歩いているのかは分からなかったが、目的地だけははっきりしていたのだった。路辺に酒を飲みに行く、と言い捨てたことは満更まんざら嘘でもなく、梁道一リャン・ダオイーの最後の言葉にあった酒場バーを探していた。
 その道程で、朝食も昼飯も摂っていなかったことをわたしは思い出した。質素な食材屋が軒を連ねる通りに入り、何気なく店先で籠詰めにされたリンゴを一つ手に取ってみた。
「買うの?」
 中国語なまりの店子たなこが、新聞を読みして、カウンターの中から顔を出した。簡易食堂と肉屋に挟まれた、ひなびた惣菜屋のようだった。
 わたしは暫くリンゴをてのひらの中で弄んでから言った。「もらっていくよ」
 百円玉を放り、踵を返すと、謝謝シェシェありがとうと女の声が後ろで言った。
 わたしは、そのまま店を後にしようとしたが、調度あつえたように、肉屋の軒下に吊るされた北京ダックの群れと鼻が突き合ってしまった。
 リンゴをかじりながら、彼らと一緒に通りを眺めてみた。何かが見えると思ったのかもしれない。そのときの気分を変えてくれるものが、どんなものでもいいから見えてくれれば、それでよかったのかもしれない。
 しかし、わたしには何も見えなかった。通りを行く人々も、自転車にのった主婦達も、旧き中華街の景色も、中華街署の警官の姿も見えなかった。
 だだわたしには、写真に見た梁道一リャン・ダオイーの有様だけは、はっきりと触れるように見ることが出できた。目を閉じたところで、それは変わらないようだった。しかし、だからといって、それもどうということでもないのだ。
 歯が、リンゴの芯に触れた。
 わたしは、もう一度振り返り店子を見た。
 ほつれの目立つ赤いエプロンを着けた中年の女性で、頭髪には大分白いものが目立ち、長い間 疲労という川流が撫で続けたかのように面相には深い皺が刻まれている。わたしの生まれる何年も前から、そこに座り、人々の流れをじっと眺め続けてきたように見えた。
何よシェンマ?」彼女が首を傾げた。
「今朝も、そこに座っていたかい」わたしは何気なく訊いた。
 彼女は眠そうな目のまま、空虚に唇を開いた。連なる鍾乳石しょうにゅうせきのような歯が覗いた。呼吸はまるで洞窟を吹き抜ける風のように荒かった。
ドゥイ。そうね」彼女はゆっくりと頷いた。「わたし、長い間腰が悪くてあまり歩けないのよ。神様がここにいろと言ってるわけね」
「そうかい。それじゃあ、そこに座ってなきゃ不味いな。訊きたいことがあるんだけどいいかな」
「中華街ってのは、何でもあるし、何にも無い場所なのよ。桃源郷みたいな場所ね。望みのものが必ず手に入るとは言えないわ」
「ちょっとかっこいいこと言ったからって、もう何も買いはしないよ」
「そんなこと言ってると罰が当たるよ。買ったほうがいい」
 女はまた鍾乳石を覗かせた。
 わたしが黙って首を左右に振ると、今度は、彼女は背筋を伸ばし、長患ながわずらいの持病を訴えてみせた。
「みんな、今日と明日のことで精一杯なんだね」
「明日に、何かあるのかい」わたしは冗談めかして言った。
「そうじゃないわよ。生きてるだけで余裕が無いってこと。みんな両手一杯に“今”を抱えてるのさ。未来なんて精々せいぜい口にちょいと咥えてる程度が限界よ」
「ここじゃ誰もがそんな風なのかい。つまり、忙しくて今朝のことなんて覚えてる奴は誰もいない?」
「そんなこたぁないわよ。さすがにあんな出来事があればねぇ。一度抱えた荷物を、脇に置いたって神様も怒りやしないわ」
「覚えているんだね」
 彼女はまたゆっくりと、皺だらけの首にあごを沈めた。「きっとみんな覚えてる。通勤に中華街通る人も大勢いるのよ。パンくずけば鯉みたいに寄って来る人間は、中国人チョンゴーレンだけじゃなくって、日本人ジャパニーレンもアメリカンも一緒よ。大勢いたわ。あんなショウガールみたいな死にざま、あたし見たの始めて。きっと見ただけで罰が当たるわ」
「ショウガール?」
「まるで見世物みたいだったってわけよ。南門通りに捨てられてて。もしかしたら、見世物じゃなくて、見せしめだったのかもしれないねぇ」
 わたしは腕を組んでうつむき、眉を上げてみせた。先を促したつもりだったが、あまり上手くはいかなかった。
「それ以上は知らないわ。腰が悪くて長い間立ってられないのよ。それに神様が――」
「わかったよ。腰も神様も、一先ひとまず脇に置いとこう。もっと今朝のことについて知りたいんだ」
「あんたも罰が当たるよ。そんなことばかりに首突っ込んでると」
 わたしを睨み据えながら、彼女は体をまさぐった。煙草を探しているようだった。わたしは煙草を吸わないが、いつもこんな時のために持ち歩いているキャメルを一本引き抜いてカウンターに乗せた。彼女は染みだらけの手でそれを摘まみ上げると、フィルターをちぎり、からからに渇いた唇に捻り込んだ。
「もう、この街には情報屋ハトなんか飛んでないわね。それと――。火は、あるのかしら?」
 わたしは燐寸マッチを擦って差し出した。しかめ面になって懸命に煙を肺に送り込む彼女に、続けて訊いた。
「この路地は、南門から数えて何番目かな」
「五番目よ」煙草を吸うのに夢中で、上の空といった様子である。
「近くに、酒場があると聞いたんだけど、知らないかな」
 彼女は天井に向かって細く煙を吐き出すと、じりじり燻る煙草の先端をはす向かいの細い路地へ向けた。
「そこ」と、そっけなく言った。「路地に入って直ぐのところ、酒場ね。むかしは、情報屋ハトたむろの場だったのよ。でも一昨日くらいから店の主人が変わったみたいだわ。もう何にも残っちゃいないでしょうよ。たぶん神様が――」
「ありがとう」わたしは矢庭に言葉を被せて、それ以上の台詞を封印した。「もう十分だよ」
不用謝ブーヨンシェ。お気に召したかしら」
「もちろんだよ」
「まかせなさいよ。中華街には何だってあるのよ」
「でも、何も無いんだった」
「ここで手に入らなければ、探し物はどこに行っても結局手に入らないわよ」
 わたしは同意した。近くに探し物が見つからないのならば、結局、人はどんなに遠くまで行っても、何も見つけることは出来ない。少なくとも、梁道一リャン・ダオイーはそうであった。
「感謝するつもりがあるなら、コイツを買っておくれ」彼女は陳列棚から殻も割っていない胡桃くるみを一つ取り、ぶるぶる震える手で差し出した。「なかなか売れなくてね、場所ばっかり食って当面のトラブルなのさ」
 わたしは胡桃と引き換えに、染みだらけの手に千円札を握らせた。
謝謝シェシェ」と、老婆は言った。
 トラブルが一つ減ったのかもしれない。一銭にもならず、わたしの右手には胡桃が、左手にはリンゴの芯が残っただけである。
 しかしそれでも、これがわたしの仕事なのではないだろうか。誰かがやって来て、わたしと握手を交わし、手の中には何かが残る。探偵でなくとも、このやり方は、人の歩むべき道と何も変わらない。
 梁道一リャン・ダオイーは、わたしのてのひらの中に、何を残してくれたのか。

 通りのトラシュ缶にリンゴの芯を捨てようとして、間違えて胡桃を放り込み、わたしは慌てて回収した。要るものと要らないもの、それらを正確に取り捨て選択することは難しい。

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