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THE BLANK TRACK
by
Taki Sara
Copyright © 2007-2010 by
Taki Sara





   3

 その建物は、白塗りのベニヤ材で組まれ、簡易食堂と薬師堂の間でこじんまりとしていた。
“大陸酒館”と赤くペイントされた安っぽいトタン看板が、二階のヴェランダから軒下へ干されていた。店の壁面には、明かりの無い真紅のネオン管が悠然とはしり、イルミネイトされる夜を待ちわびている。入り口と非常階段には、積まれていたはずのビールのカートンボックスが、消防法をまるで恐れぬ勢いでなぎ倒されたままだった。
 シャッターは上がっているものの営業中かどうかは疑わしい。
 酒場バーの引き戸をノックした。小さな覗き穴のようなめ硝子がびっくりするほど大きな音を立てて振るえ、建物全体までもが揺れた。
 わたしには、この建物が関東大震災と第二次世界大戦を潜り抜けてきた猛者のように見えた。
 何かしらの反応を待ちながら、路地の奥へと目をやって時間を持て余した。
 薬師堂の軒下で、上裸のまま熱い緑茶をすすりながら、大怪ダァグゥァイ(中国のトランプゲーム)を楽しむ四人の老人達が手を休めて、余所者を眺める視線でわたしを観察していた。その隣で、簡易食堂の影から子供達が素足のまま飛び出してきて、ニ胡演奏の郷愁の音色に乗せた民謡を中国語で口ずさみながら、トラシュ缶を漁る野良猫を追い回した。彼らもわたしを見て、きょとんと足を止めた。
 わたしはこの街の人間ではない、場違いな空気が流れ出ているのだろう。
 ここにいれば、誰もわたしを知らないし、わたしの方でも誰も知らない。ずっと昔から変わらずにそんな所にいたような気もするが、わたし自身どこにもいなっかたような気もする。
 死人に招かれた場所にいるのだ、そんな気分になっていても不思議ではない。
 腕時計の針は四時に届きそうだったが、陽射しは未だじりじりとした情熱的な眼差しを投げかけていた。
 返事はいつまで経っても無かった。
 わたしは迷った末、真鍮しんちゅうのドアノブを引いて中へと足を踏み入れた。
 寄木細工のフローリングが軋んで、背後でドアが悲鳴を上げて閉じた。
 あまりの暗さに、わたしの眼球は窄まった。海を近くに感じさせる外の眩しい陽射しは、遥か遠くに置き去りにされてしまったようである。繁盛していない酒場の例に漏れず、この店にも窓は無く、埃が匂った。冷房の唸り以外には、誰も声を掛けてくる者はいない。
 仕方なくわたしは目が慣れるのを待った。
 再び待つことになったようである。
 わたしはずっと待ち続けてきた。いつまでも、幾度も、これからも様々な場所で待ち続けるのだろう。
 そんなことを考えていると、突然コロンの強い香りが鼻を打った。その臭気に紛れて、靴音がわたしに忍び寄った。相手は見えなかった。何かが鼻先を掠めると、脛に衝撃がきた。足が滑り、薄暗闇の中で視界が捻転したまま、目の前に床が迫った。両腕で床を受け止め、すぐに立ち上がろうとしたところで、今度は額で何かが破裂した。壊れた蝶番のように、首から上が飛んだ。大の字で転げたまま、思考はまとまらず、メリィゴーランドに巻き込まれたみたいな気分だった。
 そこで、ビームライトが犯人を照らし出すように、店内には一斉に明かりが点いた。わたしの目の裏でもちかちかと明かりが灯っていた。
 天井の照明の脇で、四つ羽のファンがとろとろと回っているのが見える。催眠術みたいに、そこへいざなわれていくようだった。
 男の声が、突然耳をつんざいた。
「ゴーアウェイ! 出去チューチューイ!」
 続く罵声だけで、追い討ちはなかった。
「ひどい歓迎だ――」わたしは仰向けのままで言った。額だけが、やけに痛んだ。
 短いリズムで、ミリタリーブーツがフローリングにかかとを打ちつける足音が響いた。また外人である。草履ぞうり文化の日本人ならば、こういう場合は足を引きずって後退るものなのだ。手を出すことに慎重派な自分は得をしたのかもしれない。
「日本人か?」と、声は言った。「今、日本語をしゃべったな?」
「日本人のつもりでいる。ついでに言うと客のつもりでもいたんだ。でも、もうそんな気も無くなった」
 視線を上げると、ブロンド髪の男がリズミカルに中背の体を揺すってわたしを覗き込んでいた。口にぶら下った煙草も軽快に踊り、そこから昇る煙と、店内の赤い間接照明の隙間から、冷たい碧眼がっと見下ろしていた。眉も髭も金で、わたしから見える限りの体毛は全て繋がっているようである。厚い胸板と上腕二頭筋が、膨らまし過ぎた捻り風船みたいに、マドラスチェックのシャツと洗いざらしのブルージーンズの下で隆起していた。
 彼の酷薄そうな唇が動いた。
「どうして日本には店に入るときに声を掛ける習慣がないのかね? ここがアメリカか、もしくはオレが銃を持っていたか、どちらかに一つでオメェさんはくたばってただろうよ」
 可笑しなアクセントの日本語が、まるで悪いのは全て日本の文化だというように言った。
 外人は、空っぽの掌をぶらぶらさせ、自分に責任が無いことを執拗に主張すると、悪びれた様子も見せずにくつろぎはじめた。
「内弁慶なんだ」わたしは立ち上がった。「知らない人間と話すときには、いつもおっかなびっくりしていてね。だからといって、こんなお持て成しを受けたのは初めてだよ。だいたいそう簡単に日本でぶっ放されたんじゃ堪らない」
 わたしは真鍮のレイルに足掛けて、手近な赤いビニール張りの止まり木スツールに腰を落ち着けた。暫くそうしていたい気分だった。だから素直にそうしていたのだが、時間が経つと、次第に自分がどこにいるのか不安になってきた。目的の場所とはまったく見当違いの場所にいるのではないか、そんな妄想が背中から這い上がってきた。
 恐る恐る室内を一揖いちゆうした。
 沈んだ照明の下に、まるで沈没間際の船のような、ガラガラの景観が目に付いた。酒棚とカウンターと止まり木スツールしかなく、飾り気は全く無い。しかし、バーであることにも違いはない。それでようやく、自分はまともな思考であることが確認できたような気がした。
「昨日の中国人チャイニーズ達の仲間じゃないんだな?」と、男は言った。彼の声は、筋肉と同じように奇妙に張りつめている。
「良く分からないが、君に危害を加えるつもりはないし、トラブルを起こすつもりも無い。わたしの頭に何をぶつけたんだ?」
 相手はつまらなさそうに微笑んで、ミリタリーブーツをコツコツと指した。そして、その裏で煙草を揉み消した。
 この男には、カクテルシェイカーを振る仕草も、愛想笑いで客の相手をする姿も似合いそうにない。代わりにジャックナイフを振って、船の甲板で捕虜でも射すくめているほうが気が利いていた。
「どうしてわたしを蹴った?」
「店はまだ開けてないんだがね」というのが、彼の答えだった。だから出て行けという意味らしい。
「君が、ここのマスターなのかい?」
 男は、係留用のもやいロープみたいな首で短く頷いた。そして、左足をひきずってカウンターの向こう側へまわり、わたしを軽くあしらうと、台布巾でそこらじゅうを磨きはじめた。
 力が有り余っているのか、筋肉が隆起するタイミングに合わせて、建物がみしみしとないた。
「わかった。さっきのことは水に流すよ」わたしは言った。「その代わりに訊きたいことがあるんだが――」
「余計なことをしたな、謝るよ。これでいいのか?」
「そうじゃないんだよ。本当に訊きたい事がある。ある人間に言われてここへ来たんだ」
「知ったことか。だいたいオメェさんの、まるで憲兵エムピーみたいな物腰が気に入らねぇんだ」
 彼の口にする言葉はみんな小粒だった。世の中にあるものはきっと全てが気に食わないのだろう。
「探偵みたいだって言ってくれよ、誰もそう言ってくれないんだ。それに、“憲兵エムピー”だなんて、君の方は米兵みたいなことを言うようじゃないか」
 自称マスターだと言う男の表情は目まぐるしく変わり、ふいに哀愁を帯びたしおれ顔になった。掃除に張り切りすぎて、疲れたというわけでもなさそうだった。その証拠に、建物はまだ鳴いている。
在日米海軍ネイヴィのことか?」と、彼は言った。
「そういう言い回しがあるのかい」
「オレはヨコスカの在日米海軍ネイヴィだったよ――、一月前までの話だがな」声を落とし、視線も左足の膝へと落とした。「好きでもない女のために馬鹿みたいに夢中になってな、膝を壊してクビになったんだ。だが、そんな話に何の意味があるってんだ。オレは何を話してんのかね」
「そうでもない。あんたがどんな人間か知ることができる。これは重要なことだと思うよ」
「それじゃあ、おまえさんは何者だい?」
「二度も身分を名乗る気にはなれない」
「へぇ、それじゃあ本当に探偵シャマスってことか?」と、彼は空笑いを一つし、手を休めて顔を上げた。「とてもそうは見えない。よくてパートタイムの警備員ってところだ」
探偵シャマスだなんて、よくそんな時代遅れな表現を引っ張り出してきてくれたね。それとも最近は流行ってるのかい」
「おまえさんにはそんな古い言い回しがぴったりだ。オレとは正反対なのさ、いいか? おまえさんはくたびれてしがない私立探偵だ。一方、オレは明日、この店をオープンする。人生を新品にしてやり直すのさ。正反対だと思わないか?」
「そりゃ結構」
「だろう」
 調子が上がってきたのか、男の舌が回り始めた。尚更なおさらバーテンダーには不釣合いだ、と思った。しかし、彼とは友好的に努めた方がわたしには得策だった。彼はなかなか気になることを言ってくれたのだ。
「今、明日オープンと君は言ったね」わたしは訊いた。「どういう意味だい?」
「そのままの意味だ」と、声がまた硬くなった。
 何がそうさせているのかは分からないが、彼の耳元では常に警報が鳴り響いているようで、話している時の態度も警戒と親和が入り混じったようなどっちつかずの調子をみせている。
 わたしは続けて訊いた。「前の店はどうしたんだ? 内装を見る限り、その店もバーだったんだろう?」
「ああそうさ。でも潰れたぞ」
「いつの話だい?」
「一昨日」
「急だな」
「知ったことか。このテナントはオレが借りた。それだけで十分だよ」
梁道一リャン・ダオイーという、名前に心当たりはないかい」
 マスターは、首を傾げ、眉をひそめた。発音すら聞き取れていない、といった様子である。
 誰がどう見たって、彼が梁道一リャン・ダオイーを知らないのは明らかだった。
 どうやら幸先悪く、いきなり出鼻を挫かれたようである。この事件の足取りは、階段を一段と昇る以前に途切れてしまったという気もする。
「残念だよ」と、だけわたしは答えた。
「まぁ潰れちまったんだから、そんなことはしょうがない」
「友人に薦められた店だったんだ」
「良くある話だ」
 確かに良くある話だった。そして何か、こうしてやろうと決意したときに限って、現実の方から逃げていていってしまう、そういうのも良くある話だった。
「そう落ち込むなよ」と、元米兵は言った。
「そうでもないさ。そもそもあんただって、こんな中国人だらけの一角で商売になるのかい」
「さぁな。やるだけやるさ。無理なら店を畳んでまた別の場所へ行けばいい。場違いなのは承知の上だろう。いつだって在日米海軍オレたちは場違いなのさ。何所に行っても煙たがられる」
「あんたに少し親近感を持った」と、わたしは言った。しかし、カウンターの木目に映った自分の影に向かってそう言ってしまったような気もした。
「オレは仕事に戻ってもいいのか」彼はわざわざそんなことをわたしに断った。
「仕事ってのは?」
「掃除だ」
「合間に質問に答えてくれるとありがたい」
「そうかい」と、雑巾を再び手に取った。
 わたしは言った。「さっきの梁道一リャン・ダオイーという男について、もう少し質問させて欲しいんだ。もしかしたら董道一ドン・ダオイーと名乗ったかもしれないが――」
「日本人には聞かない名前だな」
「中国人みたいでね」
中国人チャイニーズ?」マスターはおうむ返しに答えると、手にした雑巾を再び元に返した。クルーカットの下の表情が、大袈裟に思慮深く歪んでいる。
 わたしは続けた。「貧弱な体躯に、生意気そうな顔をした青年なんだがね。年は二十歳くらいに見えたな。身形は、流行おくれだが、どれも高そうなものばかり着けている。見覚えはないかい」
 マスターは小首を傾げた。「わからない。顔なんか主観によってどうとでもなっちまう……だが、昨日、オレの店にも中国人チャイニーズが何人かやってきた。つっても客じゃなくて、性質の悪い連中だったがね。同じ中国人チャイニーズって聞いただけで何か関係があるものだと考えちまうのは良くないことだが、あんたはどう思う?」
「もう少し詳しく聞かせてくれないと分からない」
「オレも良く分からないんだ」
「ならわたしにはもっと分からない」
「トラブルだよ。中国人のチンピラどもが、揉め事を起こしにやって来た。そこにあんたの探してる男が混じっていたと思うかい?」
「まず有り得ないだろうね。万が一に混じっていたとして、それであんたに見分けがつくのかい」
「もっと特徴を言ってみろよ」
梁道一リャン・ダオイーはこの店を紹介してくれた。彼がここへ来いと言ってね、それでわたしはこの店を知ったんだ」
 マスターはいぶかしみ、式典のときみたいにはっきりと首を横に振った。
「そんなんじゃ見分けようがないだろ?」
「そう言われてもね。外見が当てにならないと言ったのは君自身でもあるよ」
梁道一リャン・ダオイーねぇ……良く分からん……。ただな、その梁って野朗がこの店を紹介したって言ったな? あんたが教えられた店はやっぱり前の店のことだろう。オレの前、この店は中国人のマスターが経営を牛耳っていた。外に錆びた看板が出てただろ? あれがそうさ。大陸酒館ダァルゥジゥグァンとか言う覚えずらい名前だったよ。この街は中国人の街だからな、中国人が中国人の飲み屋を紹介した、それは良くある話だ。昨日、この店に来た中国人たちってのも大陸酒館ダァルゥジゥグァンが結局の目的でやって来てたんだ」
「如何わしい店だったのかい?」
「オレは全く知らんよ」
「あんたの店と梁道一リャン・ダオイーとは、やっぱり無関係そうだね」
「そうなるな」
 マスターは同意を求めるように身を低くし、カウンターに両腕をついた。
 わたしは判然としない気持だった。
 さっさとこの事件から手を引いてしまおうという気持と、さらに詳しく梁について訊くべきだという使命感にも似た心境とが、ヤジロベーのように上手く均衡を取り合っていた。それは言ってみれば、未知なる池の水深に興味を持ってしまったような状況に似ているのかもしれない。少しずつ水深を測るために、わたしは池に入っていく、次第に水面は膝を越え、腰を越え、胸を越えるのだが、最深部にはなかなか到達しない。あと一歩進めばそこに到達するのかもしれないが、百歩進んでも届かない可能性もある。だだそこまで来ると、収穫なくして帰れないと言う意地も出てくる。まずは一歩だけ、足を進めてみることにした。
「その男達のことについてもう少し詳しく聞かせてもらってもいいかな?」
「驚いたな」彼は柔和に顔を綻ばせた。そして次第に表情を崩し、人を小馬鹿にしたように笑った。「この男は本当に探偵シャマスみたいなことをやってやがるんだな」
「ああ、そうさ」
「大したもんだ。この国では探偵にライセンスが必要なのか?」
「今はまだ必要ない。が、近いうちにそういう法律が出来るという話もある」
「元警官カップなのかい」
「いや、そうじゃない。この職業にそういう人間が多いのは確かだが、わたしは違う。それより、さっきの中国人達について聞かせてくれよ」
「ああ、そうだな。今言ったとおり、中国人のチンピラ達が幾人かオレの店に押し入って来た。そして、そいつらは大陸酒館ダァルゥジゥグァンに用があった、これは良いな?」
「そうだな」
「話を頭の中で整理する。少し待ってくれ」
 わたしは頷いて、カウンターに肘を乗せて言葉を待った。そうしながら、今までの考えを自分なりにまとめた。
 梁道一リャン・ダオイーが、わたしに紹介したのは大陸酒館ダァルゥジゥグァンというバーだった。大陸酒館ダァルゥジゥグァンというバーには、謎の中国人達が絡んでいた。彼らには同じ中国人だと言う共通点もある。
 そこまで考えて、急に馬鹿馬鹿しくなった。彼らに共通点があるからといって、だから何なのか。梁道一リャン・ダオイーが見せた妙な意地の張り方と、革命を起こすなどという無謀な空威張りとに関係があったとでも言うのか。そして、彼の死に深い因果関係をもたらした要因があるとでもいうのか。考えれば考えるほど、さらにくだらないと感じられた。
 それからすぐに、マスターは昨日の顛末を大雑把に話してくれた。それは時間が経つにつれて話す内容を忘れてしまうので、そうなってはいけないといった調子で早口なものだった。
「オレは昨日の夕方、店を開けて近所へ挨拶に出回ってたんだ。丁度それが終わって、ここへ帰ってきた時だった。男達がオレの店に土足で上がり込んで何かを探してやがったんだ――しゃぶか拳銃ハジキかな。とにかく、人に見られたらマズイような代物を探しに来てたようだった。探してるところをオレと鉢合わせちまった。そして揉め事になった」
「わかりずらいね……どうして、しゃぶや拳銃ハジキを探していたと思うんだい?」
「そういう雰囲気のヤツらだったからさ。派手なダブルのスーツで、しゃぶ顔さ。話しかけても中国語で何を言ってるのか解らない。そんなやつらが、血眼になって探すようなものっていったら他に何がある? まぁ結局探し物は見つからなかったんだがね」
「それは何時ごろだったかい?」
「さぁな、まだ日は暮れてなかったな」
「トラブルはひどかったのかい?」
「ああ。こっちが何もしないうちに殴りかかって来るんじゃあいやでもそうなるだろう。膝が悪くとも相手くらいはできた。その間に、挨拶に行った先のご近所さんが警官カップを呼んだらしい。でも、警官カップが顔を見せた頃にはもう中国人あいつらとんずらさ」
「なるほど」
「飛んできた警官カップは普通の下っ端だったな。巡査ってのか、額に旭日章きょくじつしょうのついたやつらだ」
「結局、その中国人たちについては何か分かったのかい?」
「そんなものはオレが知りたいくらいさ。店へ来たら、わけわからねぇゴロツキどもがゴキブリみてぇにこそこそ嗅ぎまわってただけだぜ? 手掛かりなんて無ぇよ。せっかく新しい人生の船出だってのに」
 そこで彼は、いかにも自分が在日米海軍ネイヴィらしい発言をしたことに気付き、不器用にはにかんだ。それを誤魔化すようにして、続けた。
「だからオレは、また奴らが来るのを待ってたのさ。今度は先手でいこうとしたんだ。でもよ、そこんとこでおめぇさんに勇み足で迷惑をこうむっちまったわけだ……」
「別にもう気にしてはいない」
 彼は泰然たいぜんと肩を持ち上げ、落っことした。
「オレのイメージだと、私立探偵ってのは歩くハンムラビ法典みたいなもんだったんだが……」
「わたしはただの腰抜けだ。そんなことはしない」
「どんな人間だって腰抜けさ」
 彼は微笑んだ。そして半袖を肩まで捲り上げて上腕二頭筋をふんばらせた。随分旧弊な仕草であるが、それがまた在日米海軍ネイヴィらしいような気もした。
「“自身のないやつは腰抜けだ。自身のあるやつは訓練された腰抜けだ”ってのがリーダーの口癖でね、毎日訓練された腰抜けになるために汗水垂らしてたのさ」
 そう言いながら、対の袖もたくし上げ、アメイジング・グレイスを口ずさんだ。 途中で我に返り、唇をすぼめ、視線を天井にやり、それから今まで自分がマスターとしては余計にしゃべり過ぎてしまっていたことに気が付いて、自分に驚いたような表情になった。
「随分話し込んじまった……」彼は腕時計にぼやいた。「こんなんでこれからマスターなんだからな、笑っちまうよな」
「はっきり言うが、あんたにマスターは向いてないよ」
 彼は肩をすくめると、背後の棚から酒瓶を幾つかカウンターに並べはじめた。カティサーク、ラフロイグ、ラガヴーリン。彼の好みが自然と知れた。それから一つづつ酒のラベルを眺め、胡乱うろんな目つきで中の液体を照明に透かしてみたりした。そうして動くたびに、強いコロンの香りが室内で行き場を失くした。
「なぁ」と、彼は言った。「その梁って野朗を、あんたは何故探してるんだい?」
「探しているように、見えたのか?」
「ああ、絶対に見つからないと確信しながら、それでも探しているように見えたよ」
「そうか」
「前の店の酒だけど」と、彼は抱えていた酒の栓を抜いた。「普段の行いが善いからな、中身は本物だ」
 わたしは黙って頷いた。
 マスターはカウンターに並べたボトルに微笑んだ。「何にする」
 酒の種類は多いようだった。カウンターの向こう側に設置された詰所の三段ベッドのような酒棚には、所狭しと種類に縛られない酒が並べられている。なにもせずに、これだけの物を手に入れたとなると果報者のマスターである。
 わたしは、酒瓶を眺めていて一つ思いついたことを訊いた。
「キープ用のボトルがないかな?」
「ああ? 前の店のか? ――確か、いくつか残っていたな」
「“梁道一”か“董道一”というのがないか、探してみてくれないかい」
 漢字の表記は、パスポートの複写と契約書で確認済みである。説明すると、マスターは、カウンターのかげから、オーク材のどでかいモルト樽を引きずり出して来た。
「たしか、ここにまとめておいたはずだ」と、彼は呟き、普通科の二等兵がゲリラ戦に備える時みたいに、上半身を樽の中に潜り込ませた。すると、目当ての酒はすぐに見つかった。まだ琥珀色の面積が六割強を占めている。そこに巻かれたラベルには、筆文字で小さく“董道一”とサインが入っていた。
「上等のスカッチだ。タリスカーの十八年じゃないか」マスターは舌なめずりした。
 わたしは頷いた。「梁道一リャン・ダオイーが、わたしに訪ねろと言ったのは、前の店だったわけだ」
 彼の苗字の違いは今でも気がかりではあったが、ひとしきり納得するしかなかった。わたしは冷たくなった彼のために、一杯飲むことにした。マスターは何も言わずに事情を悟ったような面をして、カウンターの上へショットグラスを三つ並べた。そしてその内の一つを手繰り寄せ、言った。
「これがオレ、こっちがあんたのだ」
 グラスが一つ余った。
「三つ目は、梁道一リャン・ダオイーに」と、うやうやしく彼は言った。、
 店内にうら侘しそうなコルクの抜ける音が咲いた。ボトルがマスターの手によって傾けられ、琥珀色が徐々にグラスを浸した。
 マスターは静かに、何かを囁きはじめた。“彼の者にとって歩きやすい道でありますように”と、はじめに彼はそう言った。続けて、“いつも追い風が吹きますように。悪魔が彼の者の死を知る一時間前に、どうか天国へいけますように――”と、胸元で十字を切った。
「それは何だい?」わたしは訊いた。
「父方の故郷、アイルランド式の祈祷だ。梁のために祈ったのさ。オレはキーンだ。よろしく」
「わたしはコテツだ。よろしく。彼に代わって礼を言うよ」
 わたしたちはグラスをカチリと合わせた。ぶつけ合ったというほど彼の力は強かった。
「この店にはまだ名前が無いんだ」と、彼はいった。「だから、梁の名前をもらおうと思うんだ。なんとなくでいいんだ。リャンズ・バーなんて語呂がいい」
「おもしろいな」
 三つ目のグラスの主に礼を言い、その中身だけを残して、わたしたちはグラスを乾した。
 その間、これからのことを考えてみた。このまま梁道一リャン・ダオイーの足跡を追いかけ続けるのか、それとも一つの過去として記憶の片隅に仕舞い込んでおくことにするのか。仕舞い込んでおけるのならば、そうしておくのが一番良いようにも思われた。もしわたしがそれに納得ができなくても、依頼人もいなければ金も無い、わたしは動けない。そうするより仕方がないような気もした。そして何気なく、ウィスキーは明かりを暗くし、ヴォリュームを下げ、物の形をまるくしてくれる、と言った作家は誰だったろうかと考えた。
 マスターは三つ目のグラスの中身を流しに捨てた。カウンターに戻ってきて、煙草に火を点けた。両切りの煙草で、いがらっぽいが肥えたような香りがする。
 しかし、一口も吸わないうちに、また直ぐに火を消してしまった。
「そういう吸い方もあるのかい」わたしは言った。
「そうじゃない」と、彼は声を低くした。「誰か来た」
 外から砂利を踏みしめるような足音が聞こえてきた。マスターは、わたしより先にその気配を感じ取っていたようだった。
「客じゃないのかい」と、わたしは掴んでいたショットグラスを置きなおした。
「言っただろう。まだ改装中だ。こんな外装じゃあ営業中だと思うやつはいないだろう」
「例のヤツらかね」わたしは中腰になった。
 一呼吸おく前に、既にドアが鳴っていた。外の蒸し暑い熱気がうねり込んできて、調度冷蔵庫を開けたときと真逆のような気分になった。ドア枠の光の中に、影絵のような人間のシルエットが浮かび上がった。
 しかし、男ではなかった。強い陽射しの中で、白いレースの日傘を差した女が、マリーローランサンの自画像みたいに巧みな曲線のポーズで気取っていた。髪型がシニョンスタイルで涼しそうである。大きなミラーグラスが顔を覆っていたが、美貌がそこから余ったように漏れ出ていた。
 その女は、後光を浴びたまま不機嫌そうに言った。
こんにちはニーハオ小陸シャオルゥ待たせたわねラァンニージィオドォンラォ
 マスターの疑問符を並べた眼差しがさっとわたしへ向いた。わたしはその視線を受け止めて、もう一度彼へ投げ返してやった。
「何だって? コテツ」マスターの唇は困惑に揺れていた。
「わたしに聞かないでくれ」
 女は日傘を小さく折りたたんで半月型のショルダーバックへ落すと、わたし達を仔細げに見つめた。眸は真っ直ぐで、我侭わがままそうな唇と一緒になって、周囲といがみ合っている。誰もが思う中国美人と同じように鼻柱はつんと澄まし、美しさのマスクの裏には、少女時代から変わらずの傲慢な面影が見えるようである。服も振舞いも、自分が十分に魅力的だと自覚した女性のそれのようだった。
 彼女は、咥えたシガレットホールダーを、肘まである日除け用手袋で支えていた。刺繍が入った朱子織サテンで、チャイナドレス風ホルターネックをあしらった群青色のワンピースが、たった今からこのバーは自分の領域だと主張するように、我が物顔でなびいている。何よりも、彼女自身がそんな風貌なのだった。
 その女は、ミラーグラスをドレスのネックに挟むと、美しいマスクをいぶかしんだ表情に崩した。
あなたたちは、誰ニーメンシーシェイ?」
 わたしとマスターは、また顔を突き合わせるはめになった。
「あなたたちは、誰なのかしら? ルゥはどこ?」と、今度は仏頂面な日本語が飛んできた。
「またこんな客か。トラブルきばかりじゃないか」
 マスターがやりきれない様子で悪態を吐いた。
「随分な言われようね」
 女は、計算されたポーズで突っ立ったまま、乾いたルージュのような声を出した。
董道一ドン・ダオイーという男を探しているのよ。知っていることがあれば教えてくださらない? それから、ルゥについても何か知らない? ここのマスターのことよ」
「ダウジングでもしましょうか」と、わたしは言った。そして、随分つまらないことを言ってしまったと思い後悔した。
 彼女の挑発的な視線が飛んできて、勢いよくわたしへぶつかった。さらに、その兆弾がマスターも食った。わたしたちは三つ巴で睨み合ったまま、暫く互いの顔色をうかがった。
 やっかい事の足音が忍び寄っていることを、ここにいる誰もが感じ取っていた。
 ある意味で、ついていたとも言えなくはないのだが、それでもわたしはまだ暫く、腰抜けから這い上がれそうに無かった。

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