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※申し訳ありませんがルビはカッコ表記です。ご了承ください。
 

THE BLANK TRACK
( correction version )
by
Taki Sara
Copyright © 2007-2010 by
Taki Sara





   Epilogue

「今日は少し酒を入れたほうが良いかもしれない」と、わたしは言った。
 自分自身のことではなかった。
 カウンターに載せられたのは、薄緑色の液体が注がれたカクテルグラスだった。これも、自分のものではなかった。言葉は、守永希望にかけた一部で、酒は、キーンが彼女のために随意に選んだメニューだった。ギムレット、とキーンがそっけなく囁いた。
 わたしは自分のシングルモルトを煽った。
 盛り場とは呼べなくなったかもしれないが、中華街でも日が落ちれば酒気を帯びた嬌声が湧く。リャンズ・バーの店内の空気も、時折その断片に掻き回されていた。
「私、謹慎になりました……。たった一日だけなんです。でもそのたった一日が、これから私の人生では大きな足枷になるんだろうと思います」
 守永は酒には手をつけず、代わりに、被った赤い帽子の鍔を摘まんだ。原はいない。
 キーンが視線で、わたしに慰めの言葉を促した。
「黒鉄町の事件はどうなったんだい」
 キーンの視線をやり過ごし、わたしは言った。彼の仕事は彼自身にさせるべきなのだ。
「まだ未解決です。なので、一課が捜本・・を設立しました。四課も五名程度の捜査員で特捜・・を編成するようです」
「四課は巣穴へ帰って、そこから目を光らせるってわけかい」
「あの事件は、請負殺人の線が強いんじゃないかって、小耳に挟みました。実行犯は、はした金で雇われた中国人ではないかと」
「なぜ」
「使用された拳銃は黒星(ヘイシン)、つまりトカレフです。かつて中国本土で大量生産されたモデルでした。最近の筋者ならば、もう少し良い品を使用します」
「あんまりそういうことは私立探偵に話さないほうが賢明だよ」
「いいんです――こういうのが、原先輩のやり方だったんです。それに、訊いたのはコテツさんです」
 わたしは空になったショットグラスを押しやり、指先でカウンターを叩いた。キーンの腕の中でボトルが傾いた。守永は、ラスト・ダンスを終えた踊り子のように、虚空の一点を見つめていた。
「どうする気だい」と、わたしは訊いた。
「なにをですか」
「事件さ。ギムレットのことじゃない」
 守永は、思い出したように視線をカクテルグラスへと滑らせた。それから手繰り寄せ、静かに唇へ傾け、やがてぼやいた。
「誰かが煩いことを言わない限り、成すべきことは決意していますので、それを実行するだけです」
「手掛かりの少ない事件だ。わたしの場合、依頼人にだって満足に話してもらえない」
「どうしてです」
「わたしが煩さすぎるからかもしれない。煩いことを言えば、誰だって口を噤みたくもなる」
 彼女は頷いた。「今のところ、わたしに煩く言う人間はいません」
「まだ煩く言う人間に出会っちゃいないだけさ」
「そうかもしれません」
「いい考えがある」
 あえかな色合いを湛えるスカッチを透かし、わたしは原の言葉を思い出した。――希望を、この事件の最後まで連れて行ってやってくれないか。
「謹慎を長めにもらうんだ。釣りが出るくらい長めに」と、わたしは言った。「舞台裏とまではいかないかもしれなが、映写機くらいは見せてやれるかもしれない」
 守永は、凍った首筋を溶かすようにゆっくりと首を左右に振った。
「全てが見たいわけではありません。自分の足元くらい、自分で照らせるようになりたいだけです。私、強くないですから」
 わたしは酒を煽って、再びグラスを乾した。守永が続けた。
「自分の歩むべき道には、自分ひとりで行こうと思います。――コテツさんだって、そうではないんですか」
「そうかもしれない」
「不思議ですね。どうして私達って、肝心なところへは一人で行きたがるのでしょうか」
「煩さすぎるからさ」と、わたしは小銭をカウンターに積んで立ち上がった。「この街じゃ、たとえ橋上じゃなくたって、どこへ行っても煩さすぎるのさ」
 わたしはバーを出て、きっかり二十分でパシフィック・ホテルへ戻った。
 董道一事件は何一つ片付いてはおらず、未だロング・ランを続けているのだ。

TO BE CONTINUED...

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