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※申し訳ありませんがルビはカッコ表記です。ご了承ください。
 

THE BLANK TRACK
( correction version )
by
Taki Sara
Copyright © 2007-2010 by
Taki Sara





   11

 守永は、らしくもなく交通規制を無視して、事件のあった黒鉄町へローバーを転がした。
 現場のマンションにはロープが張り巡らされ 部外者は立ち入り禁止となっている。防犯の腕章と白い手袋を着けた制服警官が、見張りのために若干名待機しているのみで、鑑識ワゴンも見当たらず、その他には赤色灯を載せたPCが一台駐まっているだけである。
 ロープ一本を隔てて、現場はこちらとでは別世界のようだった。向こう側は、私立探偵ごときが干渉できる領域ではない。わたしと守永は完全に蚊帳の外なのだった。
「先輩が一人で捜査を進めているのならば、一度はここを覗いているのではないでしょうか」
 エンジンもエアコンも切り、空気が床に積もったような車内で守永が言った。
「だが動きはなさそうだ」と、わたしは答えた。
 フロントガラス越しの景色は、静止画のように寂寞(せきばく)としていた。
 わたし達は、現場のマンションからは二百メートルほどの距離にある斜(はすか)いの私営駐車場にローバーを無断駐車させ、そこから様子を伺っていた。逆にわたし達を伺い返す者は誰一人としていなかった。
「一度、見張りの捜査員達に直接話を訊いてきます」
 彼女としては、ここでいつまでも瀬踏みをしている時間は惜しいので、それよりも行動を起こそうと決めたようだった。
 車内から飛び出すとマンションまで小走り、制服警官ときっかり六秒のやり取りを交わし、すぐにまた息を弾ませて席へ戻って来た。
「機捜(・・)以外の捜査員は誰も来ていないそうです……」
 彼女の声が、一抹の不安と失望に押し潰された。
「他に原が目をつけそうな場所を考えればいい」
「でも……難しいです」
「現場の部屋へ出入りした人間――つまり、原の自宅にあった写真に映された者の中で、見覚えの無い顔が二つあった。そっちはどうだい。捜査を進めているのなら、事件の関係者を当たっている可能性があるね」
 守永は小さく唸って、その末に引きずり出してきた結論を口にした。
「伏羲を匿っていた暴力団の構成員という可能性はどうでしょうか。それならば、彼らはあの部屋を自由に出入りできます。原先輩がそれを知っていれば訪れるかもしれません」
「あるいはそうかもしれないね」
 守永がイグニッションキーを回すとエンジンが気を吐いた。タイヤが砂利に絡み、バンパーは関内方面へ風を切った。自動車は16号線を走りはじめた。
「事務所の入り口で、刑事が聞き込みに来なかったかどうかと、見張りの若い衆に質問をするだけのつもりですから、ご安心を。身分を明かせば、彼らは概ね協力してくれるはずです」
 さらにエンジンが嘶(いなな)き、前方を走る自動車を次々と追い越していった。全ての信号が彼女を迎合するようにブルーのランプを点している。フロントガラスからサイドガラスへ、サイドガラスからリアガラスへ流れる町並は、さながら風の強い日にふかす紙巻の煙だった。映画のセットのようなガーデン・カフェや、宵を前にしてそろそろとシャッターを上げ始めたジャズ・バーといった、洒落た空気のある風景も、一瞬にして役割を終えて消え去っていく。
 首都高速が視界にちらつきはじめると、ローバーは速度を落とし、路肩へ寄った。
 幹線道路沿いの二百メートル程先に、広い敷地に植えつけられた木々の隙間から、暖色をした中層マンションが顔を出していた。
 守永はエンジンを切って、その建物を振り仰いだ。
「小幡谷運輸物流共同組合、それが表看板名です。中身は、構成員人数十五名程度の沖仲仕(おきなかし)を中心とした港湾暴力団組織です。小規模ですが、その筋では嘱望される新人も多いらしく、本部のリストには掲載されています。原先輩は、単純に筋者と呼んでいましたが、この手の組織は慮犯性が高いというだけで――」
「待ってくれ。それ以上機密を喋らないでくれ、後でまた警官の世話になんかなりたくないんだ」
 彼女は口を噤んだ。
 マンションには人の出入りこそ無いものの、入り口では既に数台の外国産車が鼻先をつき合わせて犇(ひしめ)いていた。組織側も、構成員が殺された窮状となれば、ただ手を拱(こまね)いているわけにはいかないのだろう。そこここに、肉体と精神力が共にわたしの二周り以上もありそうな男達が徒党を組んで鼻息を荒げていた。彼らは刈り揃えられたように、スーツで角刈りという身形だった。
「四課の方達も混じっています」と、守永が言った。「現状では彼らとの協力は難しいでしょう。――ですが写真の二人が、やはりこの組織の構成員だったから張っている、と考えてもいいですね。もしかすると、その二人の身柄が重要参考人としてもまだ抑えられていないのかもしれません」
「原がその二人を連れまわしていれば、あり得る話しかもしれない。もっとも、他にも様々な可能性は考えられるわけだが……」
「いずれにせよ、この状況ではマンションに近づきにくいです」
 守永は眉間に皺を寄せ、化粧気の無い唇を噛んだ。それから周囲に何か手掛かりが転がってはしないかというように、視線をやおら泳がせた。マンション入り口を離れ、辺りを伺い、再びマンションへ帰って来ると眸が止まった。
 計ったようなタイミングだった。見覚えのある人相が、わたしの視界の端にも現れた。 彼女は、わたし達の乗るミニへ向かってヒールを響かせた。ジンジャーエールの小瓶を片手にしたアゲハだった。どうやら午前中で既に聴取を終えた彼女は、今は拘束を免れているようだった。
 アゲハは脇に奔る細い路地を顎で指し、わたし達を促した。四課の目を気にしているのだろう。守永に車を出させ、わたし達はアゲハの入っていった路地へ車を進めた。
 路地の先、自動販売機の陰で彼女は待っていた。
「暇だから、事務所の窓から物見係りをしてたのよ。そうしたら、コテツが見えたから下りて来たの」
 日の光の下で見る彼女は、やはり孔雀のような女だった。髪が埃っぽいわけでもなく、疲れた肌をしているわけでもない。バー・カウンターの似合わない、健康で煌びやかな女だった。だが、しわがれた声だけが唯一、階段を一段踏み外させるのだ。それも生憎なことに、ウェディングロードの階段なのだ。
「一先ず車に乗ってくれないかい」と、わたしは言った。「訊きたい事があるんだ」
 微笑と共に、彼女は車の後部座席に尻を滑らせた。
「結構大胆な男だったんだ」彼女は言った。「白昼堂々と人攫(さら)いでもしてるみたい」
「無闇に攫ってるわけじゃない。ちゃんと相手を選んでいるし、礼儀も弁(わきま)えてる」
 彼女はつづら折れみたいに体をくねらせて笑い声を立てた。車が揺れた。
「この車、狭いよ」と、アゲハは文句を垂れた。
 構わず、わたしは守永に車を出させた。
「このまま家、送ってよ」さらにアゲハが続けた。「もう事務所はうんざりなの。帰る」
 車に乗れば、どこへ向かおうとしているかよりも、自分の希望の場所を言う。彼女は極道の女ならしいが、どちらかと言えば、極道の家出娘のような印象だった。
「そのために下りて来たのかい」
「丁度退屈してた時に、コテツが見えたからってのもあるわ。都合が良かったのよ」
「訊きたいことがあるんだ」
「今日散々お巡(まわ)りにそんな科白を聞かされたわ」
 わたしは聞き流し、構わず質問を持ち出した。
「原を探しているんだ。原を覚えているかい」
 後部座席へ振り返ると、疑わしそうな彼女の視線がわたしの顔で彷徨った。
「赤い帽子のやつね、覚えてるわ。アイツがあんまり気に食わないんで覚えてたのよ」
 今度は、守永の白熱した視線がアゲハを盗み見た。が、食って掛かったりなどはしなかった。
 わたしは言った。「原が、君達の事務所に来なかったかい」
「今日のこと?」
「そうだ」
「来たわね。昼前だったかしら、吉崎と朱美の二人と何か真剣に話し合ってた」
「いい調子だ。どのくらいの間、事務所にいた?」
「結構長かったかな。三十分くらいいたんじゃないかしら。あたし、四回もコーヒー挽きなおしたのよ。あんなに飲んだら、あたしだったら胃を悪くしちゃうよ」
「その後はどうなった?」
「さぁ。原に興味が無かったから……。でもなんか、事務所はそろそろマズイからって、三人で出かけたみたいだったよ」
「その原と話し合ってた二人に連絡することはできないかい」
「あたし、携帯の番号知らないもん。無闇やたらと訊きまわると、姐さん姐さんって周りの人間が煩いし」
「原と二人が話し合っているとき、どこかへ行くとか、そういうことを漏らしていなかったかい」
 顎に手を添えて考えていた彼女であったが、ゆっくりと首を振った。
「覚えて無いわね――。あ、それよりちょっと待って、待って。ここで車止めてよ。家、そのマンションなのよ」
 アゲハは窓の外を標的にして、さかんに指をつついた。ミニは16号線を引き返していて、守永の自宅からもそう遠くない距離を徐行していた。守永は、アゲハの言葉に従ってローバーを路肩へ寄せた。
 そこは新築らしい、十階建ての分譲マンションだった。近年になって数を増やしてる欧風造りのスタイルだったが、わたしにはそれが何王朝時代を意識して造られたものなのかは分からなかった。もっとも、そんなものは初めから意識されていないのかもしれない。
「ありがとう」と、言いながら、アゲハはやっと解放されたとでもいうように長い足を真っ直ぐ外へ放り出した。
「もう覚えていることは何も無いかい?」わたしは念を押してみた。
「うん。ごめんね。あたし、あの男が気に食わなかったからさ――なんかせこい雰囲気のある男じゃない」
「そうかい」
 わたしは、守永を横目に頷いて、原の話頭を避けてアゲハへ訊き返した。
「もう一つ訊きたいことがある」
「なに?」
「なぜ警察の事情聴取でわたしのことを話さなかった?」
「日本ってのは、黙秘権のある国なのよ」
「日本じゃなく、君の事が知りたい」
「色々理由はあるわ。でも一言で無理矢理まとめると、あんたのこと結構気に入ってたからってとこよ。また時間があるときにゆっくり話しましょうよ。――本当は、大切な理由もあるの。今は、急いでるんでしょ?」
 アゲハもちらりと運転席を伺った。わたしは頷いた。
「ねぇ、さっきからずっと思ってたんだけど――その娘って警官なんでしょ?」
「人を一目で見分けるのが得意だって言ったのは、嘘じゃないんだな」
「余計なお世話かも知れないけど……ひとつ言っといてあげる――お譲ちゃん」
 守永が、もはや憎憎しげにといっても過言でもないような眸でアゲハを真正面から見た。
「原先輩への誹謗や中傷でなければ聞き入れますよ」
「皮肉はやめときなよ、お譲ちゃんには似合わないよ。それから――警官も辞めときな。これもお譲ちゃんには無理な職業だよ。あんたのお母さんや恋人さんだって喜ばないよ」
「いえ」自嘲が彼女の顔から涙のように毀(こぼ)れ出た。「母は既にいませんので……。それに、恋人もいません」
 彼女の言葉は弔辞のように虚しく響き、車内に暗雲を充満させただけだった。
「それにしても」と、守永が呟いた。「どうしてみんな、揃いも揃って向いて無いって言うんでしょうね……。いいんですよ――別にそんな無理に気を遣ってもらわなくても……向いて無いじゃなくって、いっそ辞めろと言ってもらったほうがいいんです……。お前のようなやつには警官は務まらない、むしろそこに居られると迷惑だって……」
「そこまで言ってなけど……」
 事情を飲み込めないまま、アゲハはそれでも咄嗟に空気を察したが、後の祭りだった。
「ちょっと……今は、一人にさせてください……」
 彼女は湿った目尻を袖口で拭い、わたしの体を外へ押しやった。必死に涙を隠そうとするその仕草よりも、その向こうにある彼女の冷たい眼差しに、わたしは車を追い出された。
 彼女に優しい言葉を掛けるべき人間がいなかった。いつも隣で日課のように茶化してやるべき人間が必要なようだった。ミニはその主を探しに、どこかへ走り去った。わたしは取り残された。
「あたしのせいじゃないよぉ……ね?」
 おずおずとわたしの顔を伺いながら、アゲハが言い抜けの間口を探した。わたしは黙っていた。
「車……貸そうか?」と、彼女なりに責任を感じたのか、苦笑いで言った。「帰れないでしょ?」
「ああ」と、わたしは頷いた。「車が無いと、あの世にだって行けそうにない。――それから、別に君に責任はないから気にしないでいい」
「うん……キィ取って来る。――先に地下駐車場に行っててよ。一番目立つのがあたしの車だから」
 彼女はマンションの中へ入そそくさと逃げるように消えた。
 わたしは言われた通り、ホールの脇にある階段を下って、地下駐車場へと向かった。このまま一人で原を探し続けるつもりだった。
 地下駐車場内で一番目立つ車は、キャディラックのコンバーティブルだった。モデルに詳しくはないが、そう古くないものであることは分かった。だが、それはどう考えても彼女のものではないだろう。わたしの給料を丸々三年分注ぎ込んだ上に、ビルの屋上から飛び降りないと手の届かない代物だ。
 二番目に目立つのは、最新型のセルシオだった。セルシオは幾つかあったが、最新型はそれ一台きりだった。
 自分の愛車が一番だと思う心理から、こういう間違いは良くあるものなのだ。わたしはセルシオの近くでアゲハを待った。わたしは相変わらず長い時間待たされた。
 アゲハはエレベータから降りてくると、キャディラックの辺りでリスのように周囲を見回した。わたしが彼女を呼ぶと、彼女もわたしを呼び返した。わたしがキャディラックの脇に立つと、彼女はキィを握らせてくれた。
「これ、持って近づくだけで勝手に鍵開くから気をつけて」
「このキャディラックは君のかい」
「うん」
 眺めると、気が引けるデザインと大きさだった。後光が感じられ、乗るのが躊躇(ためら)われた。乗っているだけで、至る所で目を付けられそうである。しがない私立探偵にはまるで相応しくないレンタカーだった。
「いくらしたんだ。事故を起こした場合、わたしを生涯飼いならす気かね」
「知らないよ。もらったんだもん。別に壊してもいいよ」
「壊そうと思っても簡単に壊れる代物じゃない」
「どっちよ」
「――普段、乗ってないのかい」
「あたし、免許ない」
「なのにこんなもの貰ったのか」
「うん」
 関東地方全域から皮肉られているような気分になった。極道の女が、美人なこと以外に何の取り得もない現実など考えたくも無い。
 わたしは、慣れない左ハンドルの、コックピットみたいな運転席へ乗り込んだ。キィを捻ると、辺りの景色が空でないのが不思議なくらいだった。ウィンドガラスは滑らかに音も無く下りた。
「今、色々知り合いに電話して、吉崎と朱美と連絡とらせてもらってたの」
 彼女はやはり責任を感じていたようで、ガラスを下ろした途端に、補うように説明を始めた。
「二人とも、さっき警察の事情聴取から解放されたんだって……。それで、あんたが、あたしに訊いたようなこと訊いてみたんだけど……余計なことだった――?」
「決してそんなことはない、続きを聞かせて欲しい」
 ほっと息を吐いて、彼女は言った。
「なら良かった。原が、事務所に来たのは十一時半くらいだったみたい。それで十二時過ぎに三人で事務所を出て、中華街で食事をして、四時に別れたって。その間もずっと黒鉄町で起きた事件の話をさせられたようね。二人は別に疚(やま)しいところがあったわけじゃないから、原に付き合ってやってたみたいよ」
「それで?」
「それからは、一度帰るって事を言ってたらしいよ。“署に?”って訊いたら、自宅だって言ってたって」
 原が四時に中華街を出たということは、わたしと守永は彼の自宅ではほぼすれ違いだったのかもしれない。
「それで全部かい?」
「まだ何かいるの?」
「いや。充分ありがたかった。そろそろ車を出させてもらうよ」
「ハイチャイ」
 隙間を残してウィンドガラスを上げた。アクセルに足を乗せると、制動を感じずに景色が動き出した。ギアが六速まであるが、わたしには半分で事足りそうだった。
 地下道からスロープを上がると、フロントガラスの向こうから強い西日が降り注いできた。空では幾重もの雲が、暗く人々の無念のように浮いている。ウィンドガラスの隙間からそよぐ風は湿り気があるものの、触れれば涼しいと感じられた。
 アゲハの言葉を参考に、わたしは反町へとキャディラックを走らせた。行くべき場所に、もう見当はつけていた。
 渋滞を迂回し、横浜駅の線路郡を越え、旧東海道を上った。この車だと、一般道を走っているのが馬鹿らしくなってくる。
 時計の針は六時を過ぎ、夕陽とその陰影が作り出した縞模様(しまもよう)に街は浸かっている。入道雲の向こうには深い宵の帳が迫っている。都会の喧騒(けんそう)の隙間から、寂しげな蝉時雨(せみしぐれ)が耳を撫でていた。

 横浜駅で、わざわざ有蓋のコインパーキングを選び、わたしはキャディラックを駐車した。幸い東口を過ぎた辺りに見つかり、目的地までは労せずに着いた。煙草一本分だとか酒一杯分だとかいうほどの時間は掛からなかったような気がする。

 青木橋では、赤い帽子を被った男が欄干に持たれていた。のべつ幕無しに流れる自動車のせいで、彼の姿自体は晦(くら)んでこそいるものの、あの目を射すなような色彩の帽子に見間違いはなかった。さんざん探したにも関わらず、今となっては、彼がそこにいる理由を求めることの方が野暮のように思われた。
 わたしは彼の傍らへ近づき、声を掛けた。
「何をしている」
 顔も体も、視線ですらも原は微動だにさせなかった。長い線路の先に沈む夕日を眺めているようだった。
「守永が君を探していた」と、わたしは言った。
「らしくねェ」彼は唇を僅かに上下させた。「コテツまで血相変ることもないだろう」
「かと言って、家で石を積んでいるわけにもいくまい――慣れない車を運転したんだ、何か得をさせてくれ。君は、今まで何をしていた」
「捜査だ、捜査。他になにがある」
 冷え切った眼差しのまま、声だけが乱暴に響いた。
「何を調べていた」
「まるで糾問のラッシュだ。取り調べられる側の気持がちょっとは理解できそうだ」
「普段は人を問いただすなんてことをしないんだ。やり方を知らない」
「じゃあどうする?」
 わたしは考え、面白くもないアイデアをさも大袈裟に口にした。
「やり方を変えようじゃないか。わたしから憶測や推理を話すんだ。私立探偵らしい」
 彼が首を動かした。眉をあべこべに動かし、わたしの言葉の意味を探った。
「黒鉄町の事件をもう解決かい?」
「名探偵じゃないんだ、一等航海士でも、スーパーの親父でも、ましてや警官でもない。まだ事件を解決はできない。でも分かっていることはある。あのマンションの一室で何が起こったのかということと、その後に君が何をしていたのかってことだ」
 彼の好奇心が、首を縦に振らせた。「聞いてみよう。一方的に訊かれ続けるよりはましだ」
 わたしも欄干に体重を持たせ、夕日を眺めた。太陽が潰れ、沈んでいこうとしている。
 わたしは話し始めた。
「まずは黒鉄町のマンションで何が起こったのかということからだ」
「結構」
「わたしと君が黒鉄町のマンション出た後、事件が起きるまでには、あれから最低でも六人以上の人間が現場の部屋に出入りしたことになると思う」
「六人、聞かせてもらおう」
「小幡谷運輸物流共同組合の関係者が四人に、アゲハと伏羲が挙げられる。捜査資料の写真にあったフードの人間は、この中の誰かという可能性もあるから、最低でも六人、だ」
「完全にではないが、概ね正解だろう」と、原はほくそえんだ。
 既に彼の中では一つの解答が形作られている様子だった。
「小幡谷運輸物流共同組合の関係者四人というのは、マンションの駐車場にいた用心棒二人――つまりスキヘッドとレイバン、それから吉原君と朱美君だ」
「大分話が分かるじゃないか。用心棒の二人、吉原、朱美、アゲハ、伏羲で、最低でも六人だ。問題はこの中にマル被とマル害がいるのか、だ」
「殺された男は、多分、伏羲じゃない。屍体になっても特徴のある男だから、警察も身元確認は容易いはずだ。なのに身元がすぐには割れなかったのだから、屍体は伏羲ではないと思う」
「それは正解だ――屍体の身元確認は上手いことやって、俺がしてきた。
屍体は、俺達にやたらと絡んできた用心棒二人組みの内の一人――顔にでかい傷のあるスキンヘッドの男だった。小幡谷運輸物流共同組合の構成員で、器の小いせえやつだったらしい。組内じゃあ口だけの野朗だってことで名が知れていたそうだ、シノギも少ない人間だった。だからって別に、死んで良い人間だったなんて言うつもりはないがね」
 わたしは頷いた。「あとは彼を殺した人間が誰なのか、なぜなのかという問題が残る」
「マル害は、その話題の中心である六人の中にいるのか、どっちだと考える?」
「わたしは、いないと考える。彼を殺したのは、恐らくもっと別の人間だった――もっと深く、董道一事件全体に関わるような人物だと思う。それこそ、白いパーカーを被った何物か、かもしれない。そいつが部屋に出入りした七人目になる」
「吉原と朱美、アゲハ、残った用心棒の一人は関係ないと?」
「はっきりとは言えないが、吉原君と朱美君が屍体の第一発見者で、匿名で警察に通報したのも彼らだと思う。他に、そんなことをやりそうな人間はあの部屋には出入りしていない。
別に論理的な組み立てなんかじゃなく、それが一番真っ当で現実的だってだけさ。用心棒やアゲハが警察へ通報すると思うかい?」
「あんたのような出来損ないの私立探偵らしい意見だ」
「黒鉄町で事件が起こったと、匿名で警察へ連絡が入ると、今度は君の出番だ。君は、仲間内から送られてきたばかりの捜査資料に目を通し、その中から真っ先に吉原君と朱美君に目を付けた。君は彼らに話を訊きに、小幡谷運輸物流共同組合の本部へと赴いた。そこで吉原君と朱美君を問責すると、案の定、事件の通報者は彼らで、屍体の身元は小幡谷運輸物流共同組合の構成員であった用心棒だと分かった」
 原は迷い無く顎を引いた。「俺単独の捜査の過程はまさにその通りの道を辿ったよ。僅かにだが疑いの残っていたアゲハを後回しにしたのは正解だった。アゲハの事情聴取で、一旦、四課の足が止まったからな」
「まだ話は終わりじゃない」
「だろうな。犯人については何もわかっていない」
「犯人は、やはりパーカーを被っていた何者かだ。だから誰だかは分からない。君もそれが誰なのかは知らない。だが、その犯人が何故、小幡谷運輸物流共同組合の用心棒を殺したのかは、はっきりしている」
「憶測のうちでははっきりしている、と」
「可能性の一つに過ぎないというやつかもしれないが――犯人は、伏羲を狙っていたんだと思う。ただその人物は、伏羲がどんな人間か、外見や性格などを全く知らなかった。知っていたのは、伏羲がどこに潜伏しているのかという事実だけだった。それは伏羲が神経質に塒を変えていたことからも証明できると思う。狙われている伏羲は、相手がそういう人間だと気付いていたために、何も知らない小幡谷運輸物流共同組合の用心棒を身代わりにして、自分は逃げた。何も知らずに部屋に待機していたその用心棒を伏羲だと勘違いした犯人が、迷わずに犯行に及んだ」
「銃殺だったよ」と、原はあっさり肯定した。
「あのマンションに、俺とコテツの二人で入ったときに教えたはずだが、入り口の玄関ホールの脇に非常階段がある。実質セキュリティチェック無しでそこから建物内に入れるんだ。ついでに言うと、事件が起きたときには既に伏羲は現場からとんずらしていたはずだから、用心棒だって見張っちゃいない。つまり、マル害がマンションへ入るのを引き止める障害は何も無かったってことさ。――もっとも、あったとしても関係なかったかもしれないが……。――犯人は非常階段を上がって、部屋のインターホンを押す。そうすると、中に待機させられていた用心棒は「やっと伏羲の糞野朗が帰ってきた」ってんで玄関を開けに出る。すると拳銃が目の前にある。驚いて後退ると、犯人が部屋に入ってきて玄関がしまる。腹に一発。逃げようとして背中にもう一発ハジかれた。――警察の検視が無くても、吉原と朱美の証言だけでここまで推測できる」
「なぜ銃声が、見張りの捜査員の耳に届かなかったと思う?」
「現場から監視場まで距離はあった、それに、現場も監視場も屋内だ。よほど耳を澄ませていなきゃ聞こえない距離さ」
「近隣の住民には?」
「忘れたのか。あそこはほとんどゴーストタウンだったじゃないか。それに、そもそも音の出ない種類の拳銃を使用した可能性だってあるんだ。となると、それだけのブツを手に入れる組織力や資金源のある人間が怪しくなってくるが……」
「しかしまだはっきりとは言えない。可能性の範囲だけで、物事が語れるわけじゃない」
「ああ、でも、大分はっきりしたじゃないか」
「それでも大きな疑問が二つ残る」と、わたしは話しの腰を折った。
「聞こう」
「当然ながら、一つ目は犯人が誰なのか未だに分かってはいないということ。そして二つ目には、なぜ君が、わざわざ一人で勝手に無茶な捜査に乗り出したのか、ということだ」
「なぜだろうな。俺を疑っているみたいな物言いだ」
「君への疑惑などは微塵も持ち合わせてはいない。ただ、なぜ君が無茶な捜査を続けたのかという理由は、守永も知りたがるだろう」
「そうかい?」
「無鉄砲な捜査だった。君は自宅で大人しく石でも積んでいればよかったんだ」
「その喩えはさっき使ったばかりだべ」
 原はスラックスのポケットに手を突っ込むと、何かを引っ張り出した。別に殺人事件の証拠だとかそういったものではなかった。タンバリンを持った女のシルエットが描かれたパッケージの煙草だった。一本引き抜き、風を避けながら火を点けた。紫煙が空に流れた。
 彼が煙草を喫っていた記憶がわたしには無かった。その疑問を察して、彼は弁明した。
「一年に一本くらいだべ。世の中がそんな風習にさせてくれるんでね」
「見ないデザインだ」
「フランス産のジタンってんだ。このシルエットの女は花売りがモデルでね――コテツの良く解からない花売りの話を聞いたら、思い出して吸いたくなった」彼は深々と紫煙を吐き出した。
「コテツの話しだと、その花売りの娘は何をしているんだったかい?」
「なぜ急にそんな話を訊くんだ」
「今は夏の夕時じゃないか。耶悉茗の咲く頃だ。彼女が花を売る時間だべ」
 わたしは夕日を眺めた。足下のレールでは、満員で食傷気味の列車が気怠るそうに走っていた。確かに夕刻だったが、花売り達の居場所などはどこにも無さそうだった。「裏路地で花を売ってる」と、わたしは言った。「でも彼女の目的はそれ一つじゃない。もう一つあるんだ」
「何をしてるだ?」
「見張っているんだ。裏路地から眺めて、メインストリートからそこへ人が迷い込んで来ないように。人並みからはぐれる者が生まれないように。彼女は裏路地の番人でもある」
「お偉いさんだ。そりゃいい」
「裏路地に迷い込んでくる人間がいると、教えてやる。ここは街の掃き溜めだって、だが掃き溜めなだけに、何もかもが有りのまま正直にあるってね」
 原は、欄干で煙草の火を揉み消し、ポケットへ落とした。そしてパッケージをしげしげと眺めると、懺悔を前にした人間のように、口の端で笑った。
「じゃあ俺も、コテツ風に一つの話をしてやろうか」原は喉を絡げ、少し照れ臭そうに語りはじめた。
「あるところに少年がいたんだ。彼はいつも街のメインストリートを仲間達と練り歩いて、自分の周りには詳しいが、それ以外にはてんで疎い人間だった。ある時少年は、友人連中に連れ添われて、街の裏路地の探索に向かった。そこで辿りつ着いたのが、列車の音が喧しい橋の上で、出会ったのが花売りみたいな娘だった。少年にとって、メインストリート以外は未知の輝かしい世界だった。出遭ったその娘も、彼女の売る花も、宝物に見えた。誰でも初めて光る物を見たら、素晴らしいものだと勘違いする。くだらないビー玉と広大な土地を、イギリス人と交換しちまったアメリカ先住民族が良い例だ。少年の出遭った娘は、そこが街の掃き溜めだと言ってくれたかもしれないが、その少年の耳には届かなかった。少年と娘は友達になった。少年は、赤い帽子を被ったその娘に憧れた。橋の上にいつも佇んで、街の最後の砦みたいに見えたのさ」
 原の表情に、もうはにかみは露ほどにも残っていなかった。
「誤解させないように先に言っておくが、彼女は別に最初から花を売っていたわけじゃない。少年が頼んだのさ。夕暮れにだけ咲く、香りの強い花を、摘んできてほしい、と。彼女は摘んできてくれたよ。こんなものが珍しいのかってな。何も価値も無いって言いながらも、彼女はそれを少年に与えた。でも彼女の言うとおり、それは珍しくて良い香りがするだけで、宝物なんかじゃなかった。少年もそれに気がついて、怖くなってすぐに捨てた。それから数日もしなかったと思う。彼女は廃棄処分になったエレベーターの中で殺されたんだ――」
 恐らく無意識に、原の手が頭上の帽子に触れた。同時に口も動かし続けた。
「彼女を殺した人間がしゃぶの元締めだったと知った時、少年は自分が彼女を殺しちまったんだと錯覚した。自分が変なものを欲しいと頼んだから、彼女は殺されちまったんだって、焦った。実際のところ、彼女が何故殺されたのかは分からない。だが、自分が彼女にしゃぶを買わせに行かせたわけなんだから、自分も当然捕まるべき存在だと認識した。覚醒剤取締法違反で捕まれば、懲役で最長十年だ……いや場合によっては……なんてことも考えたわけだ。それだけじゃねぇ――自分は人の手を通してとはいえ、しゃぶを買った罪を背負った上に人を一人死に追い遣ったのが事実だ。警察だけじゃなく、せこい売人にまで狙われる可能性だって出てきた。少年は、自分がこの先どうなっちまうのか分からなくなって、毎晩ゲロを吐いてから布団に入ってた。布団に入ると眠れなくて、もし眠れても、しゃぶを食っている夢を見る。可笑しな話だよ、一度も食ったことなんてねぇのに。――殺人者の心理みてぇさ」
 わたしは次の言葉を静かに待った。
「彼女の葬式には出たんだ。そこで彼女の親父さんが警官で、しかもかなりのお偉いさんだって噂を耳にした。俺は怖かったけど直接会いに行った。敵を知らなきゃ始まらないって心理だったのかもしれない。親父さんは、見た目は強面だが、本当はやさしくて、俺には良くしてくれた。生前の娘さんとは仲良くさせて頂きましたって旨のことを伝えたんだ。そうすると親父さん、愛美と俺が恋人同士だったと勘違いしたらしくてね。唯一の形見だとか言って、泣く泣くこの赤い帽子を俺に押し付けた」
 今度は意識的に、原は帽子に触れた。
「親父さんのせいで、恋人同士だったなんて噂が沢山流れちまった……。親父さんは良い人だったよ。――でも、俺との会話のふとした拍子に事件の話が出たんだ。その時、愛美を殺した犯人は自殺したが、それでも絶対に許せねぇって怒鳴り散らしたんだ。死んだのに許せねぇって……俺には想像もできなかった。死人にだって罪があるんだ。じゃあ、どうすりゃ俺は許してもらえるんだよって……ことになるわけだ。親父さんの形相にマジでびびっちまって、捕まったら殺されるだけじゃすまない、家族や友人まで吊るし上げられちまうって思った。警官とやくざが紙一重だなんて言葉を思い出して、背筋が震え上がった。そうやって脅えながら過ごしてたある日、俺は雑誌の特集記事で警察組織特集を見つけ出して読んだ。その記事によると、どうやら最近じゃあ不祥事ってのが流行ならしい。悪いことをした警官を、お偉い警官達が懸命になって庇ってる写真が載ってるじゃねぇか。犯罪をした警官が庇われてるという現実――しかもお偉いさんにだ。そこに行けば、せこい売人からも、愛美の親父さんからも逃げられると思った。俺はその日から警官になることを決めたんだ。――丁度、進路も定まらねぇ高校三年で、木枯らしの吹く街を徘徊しながら考えたことだった……。――だから俺は別に、平和を渇望して警官になったわけじゃない。安全なシェルターを探して、なんとなくそこに漂着したんだ」
「君みたいな餓鬼の考えそうなことだ。警官だって捕まる。彼らは身内事を小さく済ませようとするだけだ。売人だってそんな安い餓鬼を相手にはしない」
「警察学校で一年。交番、それから刑事を四年やった。約千八百日分の最初三百六十五日で、自分が捕まる可能性なんてほとんどないことを学んだ。五百に達する前に辞めようと決めた。そうしたら、俺一人のために、配属先の署へわざわざ愛美の親父さんが表敬訪問にやって来た。たまげたね。それでもう辞められなくなっちまった――そっからは、どうやって理由をつけて辞めるかを考える毎日さ。そりゃたまには刑事も悪かねぇって思う時もあったが、やっぱり稀なことだったよ。周りにゃ刑事を誇りに思ってる輩しかいねえんだ、バツも悪くなってくる」
「無茶な捜査も、わたしに手の内を明かしたのも、全てクビ覚悟が成せる技か……」
「守永のせいさ」と、彼は呟いた。「あいつを見てたら、余計にここは自分のような人間のいる場所じゃねぇって思った」
 皮肉なものだった。警官嫌いが警官であり続け、警官を夢見た者が警官として認めてもらうことができないのだから。
「そんな時に限って」と、彼は吐き捨てた。「俺は伏羲には馬鹿でけえ借りを作っちまった。アイツは俺に“手帳がなけりゃ何もできねぇ”なんて言い捨てやがった。そんなわきゃねぇ、俺は手帳が欲しくて警官になったんじゃねぇんだからな。もともとそんなもんなしで生きてきた。そうやって怒りを遷す中で、俺はさっき、噂を小耳に挟んだわけだ――。“伏羲がハジかれたらしい”。それ聞いたとき、警察組織の外聞なんざ俺には関係なくなった、勝手に足が動いたよ。刑事の誇りだとか、職業倫理だとか、俺を束縛するものは何一つ無かったわけだからな。簡単に屍体になられちゃたまらねぇ、屍体でも一発殴らなきゃたまらなかった、とさ」
「ただの馬鹿野朗だな。少し自分の存在を否定されただけですぐに頭へ血が昇る――」
「あの野朗が言った、“警官を抜け出したら何も出来ない”ってのが事実なら、俺ははじめから空っぽだったってことになる。だが実は、よくよく考えてみると、それが丸々図星だったのかもしれない。振り返ってみると、俺の足跡はどこにも残っちゃいなかったんだ。逃げ回って、逃げ回って、そうしているつもりでも、俺がしてるのはただの足踏みだったわけさ」
 原は笑っていた。しかしその笑みから、わたしは彼が抱えた一つの重大な感情を読み取った。
 わたしと伏羲の取引で覚醒剤をちらつかされた事実も、赤い帽子に唾を吐き掛けられた事も、この男はひどく気に入らなかったのだ。じゃなかったら、なぜ彼は肌身離さず赤い帽子を被っている必要があるのか。赤嶺愛美は、原の恋人ではなかったが、原の想い人ではあったのだろう。
 わたしには、原の見た裏路地の原風景を眺めることはできない。同時に、原体験を再現し、見せてもらいたいとも思わなかった。ただその瞬間、微かにだが、彼を理解できるような気がした。
 随分長いこと二人だけで話していたような気がした。日がまだ焼けているのが不思議なくらいだった。
「――実はもう、辞表は提出してきたんだ」原は締め括るように、溜息と共に吐き出した。
「受理されたよ。いざこうなれば早いもんだ。必要なのは、きっかけだけだったのかもしれない」
 わたしは彼をつくづく眺めてみたが、さすがにもう、何の感情も湧いて来などはしなかった。
「コテツはどうせ、守永から色々聞かされてたんだろう。誤解の多いことを」
「彼女からは色んな話を聞かされたな。事件のこと、警官のこと、彼女自身のこと、それから君のこと。そのどれのことを言っているのか、わからない」
「あんたは可笑しな男だ。別に惚けているんじゃないんだが、いつもそうやってお茶を濁す。あんたにとっちゃあ、どんな話も他人事なんだな」
「わたしは私立探偵なんだ。不幸な話なら、掃いて捨てる程に見てきた」
「見ているだけなのさ。だけど、見ているだけで、あんたはどんなことにでも当事者にはならないんだ。そして、なれない」
「警官だって同じだ」
「だから辞めたじゃねぇか」と、彼は言った。「言っただろう? 辞めるときは潔(いさぎよ)く辞めるってな。覚えてないのかい」
「もうちょっと、気の利いたことを言ってくれないか」
「なぜ」
「守永がいる。それも、すぐそこにだ」
 確かにその時、彼女は、わたしの視界の中にいた。橋の向こう、流れる自動車の僅かな間隙(かんげき)に、佇んでいた。垣間見えたその影は、堅実な歩みで近より、夕闇のように静かに、原の背後へと忍び寄った。
 どこをどう辿ってここへやって来たのかは知らないが、彼女が今まで原のために歩いてきた道則は、たった今歩いて来たその距離とは比にならない程長かったことだろう。二人の繋がりでもあり、隔たりでもある距離だった。
 原は欄干から体を翻(ひるがえ)した。表情は、この一年の間彼女がずっと傍に居てくれたことを今さらになって初めて気がついたという驚きに満ちていた。
 守永の唇がこわばったような動きを見せたが、声にはならなかった。
 列車の味気ないリズムが棚引いて、二人の間を埋めている。
「先輩ってひどいですよ……」息を吐いて、彼女が最初に言った言葉はそれだった。「私のこと、一人前の刑事にしてくれるって約束したのに、肝心な時に限って一人でどこかへ行ってしまうんですから」
 いや、と、原は溢れてくる感情に喉を詰まらせた。
「でもやっぱり――私考え直したんです」と、守永は屈託のない微笑を作った。「私この職業を辞めることにしました。私には、全く向いてない職業だったんです――」
 膨らみすぎた悔しさか、寂しさかが、彼女の喉元を塞いだ。
「――ありがとうございましたっ。私なんかみたいな小娘に色々教えてくださって。大変だったし、楽しくもなかったけど――でも、悪くもない場所でした。むしろ大好きな場所でした」
「辞めるのか?」原が、ようやく言った。「どうして急に、そんな」
「急にじゃないですよ。私ずっと考えてました――警察へ入る前から、入ってからも、誰からも向いていないと言われ続けていましたから。それで結局、向いてないって結論に至りました――」
「よせよ」
 さりげなく、原は帽子に手を掛けて、それを脱いだ。汗ばんだ頭髪が風にはためいた。
「今日、見ず知らずの女性にも向いていないと言われてしまいました……。課長にも、また言われたんです――向いてないって。それで手帳を投げちゃったりして……だから、先輩が戻ってきたら、もう刑事を辞めようって――もう絶対に辞めてやるって、心に決めていたんです」
「俺とのコンビだって、あと二ヶ月で終わりだったじゃないか」
 原も語気は弱いが、その分実体の無い圧力に底知れぬ意思が感じられた。原は本当に、守永に辞めてもらいたくないようだった。
「そうですね。でも、このまま続けていくための、自分を支えるものが見つからなくなってしまいました……。そうすると、今度は今まで培ってきた全てのものまでが、無意味に感じられたんです」
 沈黙があった。わたしはただ二人の成り行きを見守っていた。守永と原の間に裂けた深い溝を時間だけが埋めていく。その一瞬は余りあるものであったのだが、あくまで一瞬でしかないのだった。それは二人の共有した短くも長い刑事生活であるのかもしれない、とわたしは思った。
「先輩は、赤嶺さんのために一生懸命だけど、私には……何もありません」
「それは違うぞ。そうじゃない――」
 ずっと歪められていた現実を補正しようと、原は語気を荒げた。そのせいで、守永が一瞬怯(ひる)んだが、怯んだのは原も同様だった。迷いはあったろうが、しかしそれ以上、原は自分を露にすることができなかった。
 守永は原をいぶかしんだ。
「何かあったんですか?」
「いや、おまえが気にすることじゃない。おまえは、真っ直ぐ前を向いて、刑事人生を歩むだけでいいんだ」
「いいえ」と、彼女は静かに頭を振った。「それはできません」
 原の口からは何も出てこなかった。
 やがて「もう行きます」と、彼女は別れを告げると、ゆっくりと首(こうべ)を垂れた。誠心誠意を掛けた御礼と、彼女なりの去り際のようだった。
 踵を返し、歩き出した彼女を引き止めるものがあった。
「しっかり押さえとけ」原が言った。「この場所は、いつだって風が強いからな――。あの日も、風の強い日だった――」
 原が、彼女の頭に赤い帽子を載せていた。
「こいつには何かしら意味があるはずさ。この帽子は、少々経緯がひねくれてはいるが、おまえのような純粋な気持の野朗には力になってくれると思う」
 背を向けたまま、彼女は言った。
「止して下さい。これじゃあ、辞めれなくなっちゃいますよ――」
 守永の声は、小鳥の羽ばたきのように掠れて響いた。橋の下から強い風が吹き上げた。思わず、彼女は帽子を掴んだ。帽子はしっかりと、二人の手で押さえられた。
「おまえは警官に向いてる。おまえみたいな警官がいるべきだ。こいつを被って、街を走りまわるんだ。赤い帽子のやり手の刑事(デカ)がいるって、噂になる――」
 原の手が伸びて、目深に帽子を押しやった。守永は原の手に、自分の手を重ねた。
「あたしには、無理なんです……やめてください。お願いですから、やめてください。私なんかに、先輩の赤嶺さんへの想いが継げるはずはないんですから……」
「俺とオマエは違う。オマエのような者が、やらなきゃならない」
「わかりません。わかりたく、ありません」
「聞け」
「今更ひどいですよ。今更になって――」
 原が彼女の両肩を掴んだ。彼女を向き直らせると言った。
「俺は今日、辞表を出してきた。受理された。これでもう確定したんだ。後はおまえが、好きなだけ頑張ればいいんだ。好きなだけ頑張れる。そうすりゃもう……誰にも女には向いていないだなんて言わせやしないだろ」
 守永は、然したる驚きも見せずに原を見つめ返した。
「向いて無いですよ……そんなやり方、先輩には、まるで向いてないです……そんな言い草」
 原は無言で見つめ返した。寂寥たる町の雑踏だけが聞こえていた。夕日が宵を糧にするように燃え上がっていたが、真夏の香る湿った強い風が吹くと、浚われていくように明るさを失っていった。
「コテツ――頼みがある」原はそれとなく言った。「あんたは、頼まれるのなんか慣れてるから、こんなことはなんでもないはずだ」
 黙ってわたしは耳を傾けた。
「希望(のぞみ)を、この事件の最後まで連れて行ってやってくれないか。世間知らずな小娘だ。大した事件も目にしたことも無い小娘だから、このおかしな事件の結末を受け入れられないかもしれない。だが、こいつに教訓として教えてやってくれよ。こいつの望む人助けが、どれほど矛盾に満ちて、どれほど汚れたものであるのか――だが、それだけじゃなくて、どれだけ価値のあるものなのかも――」
「私は人助けが純粋に好きなので……」と、守永が突然原の言葉を遮った。それの言葉は、彼女がわたしにいつか話してくれた、そのままのものだった。
「例えば、絵や音楽を創ることに自分を見いだす人間もいれば、犯罪捜査に自分を見いだす者もいます。私の場合は、人を救うことに自分を見いだしただけです。変わるのはあくまで周りの環境であって、私自身ではありません。たとえばもし私が別の時代に生まれて、それが戦時中であったら、人を救うために武器を握るなり医療的な救護をするために走り回るでしょう。たまたま現在、私が警察官という手段を採っているに過ぎないのです。どんな場所でも、どんな時代でもあっても、私がしたいことには変わりがありません。だから今も、こうして私は警察官として街を走り回っているのだと思います――そして――」
 雑踏の隙間から、彼女の声が滲み出た。
「――そして、これからも、警察官として街を走り回るのだと思います。この帽子を被って――」
 一滴(ひとしずく)の涙を隠すように、野球帽が深く被られた。
「でも、もう一つ、私が警察官を続けている理由があったんですよ」
 そっと微笑んで、彼女は告げた。
「――私、先輩の過去を忘れさせてあげたかったんです。……自分にそう、忘れさせようと誓ったのに……でも今は……自分で決めたことに後悔しています」
 守永は、背を向けた。俯いた表情を隠す肩が震えた。
「私――、私――先輩が――」
 列車がやって来て、騒音の波が、彼女の言葉を深く呑み込んでいった。だからわたしには、彼女の言葉をそれ以上聞き取ることは出来なかった。
 二人の影は、日没と共に闇に呑まれた。それはまさしく二人の存在そのものなのかもしれないと、わたしは思った。
 わたしの目の前にいるのは、過去を捨てきれないでいる哀れな男と、過去を忘れさせてやることもできない無力な女なのだ。二人の影のように、いつ、その矮小な存在がこの街のなかに紛れてしまってもおかしくはない。
 だが、そんなことはどうだっていいだろう。この二人を、一途な男と健気な女にだって、見立ててやれなくもないのだから。
 二人の憧憬の赤い帽子が、微かな慰めにでもなれば、とわたしは思った。

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