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THE BLANK TRACK
( correction version )
by
Taki Sara
Copyright © 2007-2010 by
Taki Sara





   Epilogue2

 わたしはショットグラスの中で燦然と輝くスコッチと睨みあっていた。気分によって最適な酒というものがあり、決まってそれを選るのが日課なのだが、今日だけはそんな酒が見つかりそうになかったのだ。リャンズ・バァのカウンターでは、路辺と守永の二人が横並んでコーヒーを啜っており、アメリカでこれがバァだと口走ったりしたものなら、酒の代わりに拳が飛んでくるだろう。だがここは中華街で、飛んできたのはキーンの舌打ちだけだった。

 アゲハとフッキが霧の向こうに姿を消した夜から、丸三日が経過しようとしていた。あの晩、わたしは警察に連行され、一杯の冷めたコーヒーと引き換えに、事情聴取で調書の山を築き上げたのだった。怪我の手当ても服を着替えることすらも許されぬまま、尋問が何度繰り返されたのか、二十四度目までは数えたが、それ以降は壁の染みを眺めるのですら億劫だった。会議室と札の掛けられた署内の一室は、刑事達が密集したおかげで咽返るように蒸し暑く、しかも彼らは口を開くたびに恫喝紛いの糾問でわたしを締め上げた。臨機応変に質問は繰り出され、わたしの応答は全て速記され、供述には矛盾がないか、矛盾があることを前提として隅々まで閲(けみ)された。
 現場最前線の刑事達は、スクリーンの中の刑事達よりもずっと粘り強く、聡明で、自己の損得よりも遠くにあるものを追い求めているストイックな集団だった。
 恐らく路辺と守永の提言、そして何より金沢刑事課長殿が巧言を弄さなければ、明日にでも何もかも洗いざらい吐かされていたに違いない。このような各過程を経て、倉庫街での一件は、董道一事件に興味を抱いた一私立探偵が暴力団と外国人窃盗団の抗争に偶然巻き込まれたという顛末で一先ずは落ち着いたのだった。

「オマエさんはまだ探偵稼業を続けられるが、私は十課二係厚生班に飛ばされて刑事は引退だ」と、路辺は忌々しそうにキリマンジャロを口に含んだ。「報告書をこれでもかと重ねたのだが、どうも発砲動機が釈然とせんらしい。というよりもむしろ、胸を張って大義名分を掲げられるような言い分を捻り出せと圧力をかけられとる」
 わたしは首を傾げた。「そもそもどうやってあの場を警察が嗅ぎつけたのかだって謎なんだ」
「通報は君がしたのだったか?」と、路辺が守永に話を振った。
「いいえ、私ではありません」と、こっちはモカの香りを漂わせている。「どうやら他にタレコミがあったようです。しかし、男の声という意外には何も……」
 刑事ばりに、路辺が溜息を吐いた。「泣き止んだと思ったらまた泣き出す赤ん坊みたいな事件にならなきゃいいが……」
「からきしだな」と、わたしはグラスを押しのけ、守永へ言った。「念のために断っておくが、酒のことじゃなくて事件ことだ。そもそも路辺に要請がいくとは不測だった。どうしてそんな判断を?」
 守永が視線を泳がせて、渋りながら答えた。「その……原先輩のアドバイスだったんです」
「私が墓に入る前に事件が蔵に入らんでよかったじゃないか」と、路辺は余生を棄てるみたいに守永を庇った。「いつか悔いを残したくないと言ったが、その通りに落着してくれた。皆救われた。特に、フッキの気持は良く分かる。娘を想う気持はどんな親でも変わらんよ」
「何の縁か、董道一が話題に出した本の一節さ」と、わたしは頷いた。「“人の振る舞いはそのままにしていれば必ず行く末を指し示す。だが、振る舞いを変えれば行く着くところもまた変わる”」
 守永が言った。「アゲハさんは、一番そうして欲しくないところで極道らしく振舞ってしまいましたが、それでもきっとあの二人は上手くやっていけると思います」
「いずれにせよ」と、路辺がわたしの肩に手を置いて立ち上がった。「オマエさんが萎(しお)れていないで何よりだ。わざわざ横濱くんだりまで脚を運んだかいがあったというもんだ。私らはそろそろ夜勤に出向かせてもらおう」
 守永は名残惜しそうな視線をわたしにくれた。「もう、終わったんでしょうか……全てが」
 事件はどこへ向かい始めたのだろうか。過去が明るみ、現実が動きだしたというのだろうか。それとも、その逆だろうか。
 わたしは言った。「いつだって、終わらせようと思えば終わらせられた事件じゃないか」
「そうでしたね……」と、彼女は安心したような笑顔を見せると、別れを惜しむ香りを残して路辺と共に店から出て行った。
 梁道一が禍を招いて以来、こんなに静かな夜とは随分ご無沙汰していた。わたしは脱力しており、眠気の原因は事件が終息したからではなく、警察の事情聴取から逃れられたせいなのだと自分に言い聞かせていた。
 スコッチを飲み干し、カウンターの木目を眺め、もう一杯空けると、わたしは席をたった。そのまま店を後にしようとしたわたしを、キーンが物乞いみたいな目で追っていた。
「なにか」と、わたしは言った。「金ならまた今度にして欲しいんだ。今夜は余分に払い過ぎちまいそうな気分さ」
「あの男が、昨日この店にきた」
 キーンは無表情に、わたしの眸を見据えた。そこに何も伺えなかったのだろう、彼は半ば呆れた様子で喋りだした。
「図体のでかい、サングラスをかけたのだ。印象が随分変わっていた。女も一緒だった」
 わたしははっとして、カウンターに手をついた。「酒を飲みに来たのか?」
「明日ブルゥ・プーパに来いと、テメェだけに伝えてくれってな。昨日の明日は今日の今だ」
「いいことを聞かせてくれた」と、わたしは余分に銭を置いた。「釣りはチップで構わない」
 なるほど、彼女達がこれから生活を営むには、もっとも真っ当なやり方だった。
 心なしか、おもての夜風は心地よかった。バァの外にはゴロツキ風の中国人たちが数人屯(たむろ)していたが、わたしは気にも留めずに歩き出した。

 ネオンに彩られた横濱の夜景よりも、わたしの心を掴んで離さない別のものがある。今夜はそんな、粋な夜だった。
 ブルゥ・プーパの蒼白いネオンを潜り、わたしは店に入った。ステージの上に並ぶ顔ぶれは、今夜も変わらない。客席を一望し、このちっぽけなバァがさらに一回り小さくなったように感じた。
 ウィリアムテルが及び腰でやって来て、わたしを手招いた。バァの片隅へ案内され、そこではフッキが微笑したまま腕を組んで壁に寄りかかっていた。
「満足そうだね」と、わたしは言い、握手を利した。
「不満足ではないな」と、彼は手を握り返し、わたしと変わらぬ痣だらけの顔で、新品のサングラス越しにステージを見やった。「昨夜にまた、アゲハのメロディが聴けた」
「今夜は?」
「無理をしてステージに上がりたがっている。できるなら、俺の代わりに聴いてやってくれ」
「そんな仕事は受け付けていない」
「そう言うなよ。小幡谷から耳にしたんだが、所轄にも金沢という男を中心にした数人の特捜が生き残っていて、捜査の手はすぐ背後にまで迫っているそうだ。俺は、小幡谷よりも一足先に国へ帰ることにした。今晩発つ予定だが、フライト時間ぎりぎりに駆け込むのが計画の一端でね。今度は不正出(・)国ってわけだ」
「わたしは、まだ君を許したわけじゃないんだぜ」
 彼の表情は傷ついてはいたが、穏やかなままだった。「これから通報したとして、俺が日本を出るのと、どっちが早いかな」
「わかったよ」と、もうその話題には拘泥しなかった。「国へ帰ってどうするんだ」
「向こうに着いてから考えるさ。ただ、克昌には一報しておきたい。世話になったのは事実だ」
「克昌には、結局会えないままだったな。遺書も行方不明のままだ」
「道一が持ち出した遺書については、克昌が本人から直接取り上げるつもりでいたんです。だが、道一は持っていなかった。俺は電話で、その事実を知らされました。道一は、遺書をどこかに隠すか、誰かに預けるかしていたんです。そこで、俺は旦那に接触しました。原と守永の現れた、夕方の事務所でね。それ以前から、克昌には会っていない」
「電話でなら、声は聞いたよ」と、わたしは曖昧に言った。「ただ――それだけなんだ。何かを預けたいとは言っていたが、それが遺書なのかも確認は出来ずじまいだ」
「俺の関わった日本の刑事は良くこう言いました。真実は奇なり、事件は往々にして釈然としないまま終焉を迎える」
「じゃあ、わかる話をしようか」と、わたしは行き詰まった話題に見切りをつけて、まだ痛む身体の傷を摩りながら別の話題に進んだ。「なぜ、君がアゲハの唄を何度も聴きたいと願ったのか、そこが今ひとつなんだ」
 ステージで曲が終り、客席から溜息が漏れると、一団が去った。スポットライトは上げられたままで、次のパフォーマンスを待ちわびている。
「あいつは気付いちゃいないが」と、静まり返ったバァの中、フッキは話し出した。「もう何年も昔、この店がもっとちっぽけな面構えだった頃、俺は足繁く通っていたもんさ。なんとなく、気になる歌声でした。日本へはじめて来て、日本をはじめて感じた歌だったんです」
 漆黒のイヴニングドレスで着飾ったアゲハが、小さな舞台袖から姿をみせた。わたしはその光景を、フッキのサングラスの中に眺めていた。彼女は長い手袋をはめていて、指に負った傷は確認できなかった。
「アイツが俺を見つめるのと同じ目で、俺もアイツを見つめていたんじゃないかと思うんです。はじめて耳にした旋律と歌声に、自分と似た何かを聞き分けたのかもしれない。見えないこのひび割れた眸を透かして見た光景に、何か共鳴するものを見つけたのかもしれない」
 わたしはステージへ振り返った。アゲハは、わたし達の姿を目で捕らえ、目配せしてみせた。
「これだけ近づくことになったのが不思議でしょうがない。何年か前に一度、アゲハが店先でチンピラに絡まれ、刃傷沙汰になったことがありました。俺は逃走した犯人を追いかけて、トラシュ缶の中に突っ込んでやり、二度とそんなことをしないよう誓わせた。記憶の中では、一番アイツに近づいたのがその時です。犯人を直接連行できなかたのは勘弁してください、俺も不正入国者の身でしたからね」
「それ以来、アゲハの歌う姿を見たことは?」
「そう……アゲハはそれ以来、ステージに立たなくなっちまった」
 フッキはもう一度、わたしに握手を求めた。だが、わたしは彼の手を握り返さなかった。
「言ったはずさ。わたしは君を許しちゃいない」
 アゲハが一揖し、席を落ち着けるとジャズピアノに向かいあった。
「この曲の、最後の歌詞は何かの縁ですかね」と、フッキは言った。「This is where I say goodgye.So long amigo...」
「じゃあ、仰せの通りに。ここでさよならをしようか」
 わたしの微笑に、フッキも微笑を返した。
「いずれ近いうちに、小幡谷が旦那の事務所を訪れます。道一について、積もる話があるようで」
 彼は背を向け、店内を横切り、店を出て行った。おりからステージで旋律が零れ落ちはじめた。彼女の指の動きは、まだ傷が癒えていないせいか不器用なもので、はじまりはたどたどしかった。しかし、その原因は、フッキの出際の背中姿が知った影に重なったからかもしれない。
 聴きなれたその旋律は、次第にリズムを想い出し、深い呼吸を吐きながら、長い旅路を奏ではじめた。
 彼女はその束の間、街に産み落とされた終り無き孤独を照らす灯火だった。嵐に煽られながらも一層に光り、降りしきる雨の中でも辛抱強く瞬き、役目を終えた夏の日にも傍らで君臨し続ける道標だった。
 たった一曲だけのメロディが、観客の顔色を満たされたものに塗り替えていった。やがて曲が止むと、彼女は惜しげのない笑顔を返し、ステージを下り去った。
 衣装換えしたアゲハは、真っ直ぐにわたしのもとへやって来た。わたしは、手袋を脱いだ彼女の指先を見て、引き出物に包帯を山ほど買ってきておくべきだったと後悔した。
「医者とチーフマネージャーに無理を言って、一曲だけ弾かせてもらったの。今晩は、最後の夜だったから」
 アゲハは、恥ずかしそうに手を背中で組んで隠し、話題を変えた。記憶する限り、いつだって彼女はそんな調子の女だった。
「中華街で介抱した女の人、あたしのアパートで寝かせておいたの」
「迷惑をかけたね。今はどこに?」
「それが、いなくなっちゃたの。昨日の朝にはもぬけの殻で、代わりドル紙幣の束がたくさん。あの女の人、お金の妖精?」
「あながち外れじゃないが、わたしの依頼人だ」
「そうだったの……ごめんなさいね」
「彼女が悩んだ末の行動だろう、君が気にすることじゃない。それに、せっかくの別れの夜なのに話題が重過ぎる」
「それもそうね」と、彼女は大袈裟な動作で髪を梳くと、明かりを沢山蓄えた眸で、わたしを見つめ返した。
「フッキって、ああ見えて、余るほど愛のある男だと思わない?」
 わたしは肩を竦めたが、それでも彼女は最後の夜を最初の旋律で終わらせられて、終始ご満悦な様子だった。
「あのね、夢じゃないのよ……。あたし、ずっと以前から、やっぱりアイツのこと、知ってたんだと思う。あの不思議な眸、あたし、覚えてるもの」
「というと?」
「アイツも、あたしと同じ目で見てたの。歪んだ過去を、ひび割れた眸を透かして。なんでフッキが、こんな声でも歌ってくれって何度も願ったのか、やっと理解できたわ」
「心当たりがあった?」
「ええ。でも、もうそんなことは忘れましょうか。あたし達が見ているのは、過去でも夢でもなく、現実だけなんだから。それに、いつもあたしの過去の傍にいてくれたあの眸の主って、もっとずっと細身だったわ」
 事実を知ってか知らずか、彼女の笑みはどこか悪戯っぽかった。
 ひび割れた眸、歪んだ過去を透かしてみる景色が、どうかもうこれ以上傷つかぬようにと願いをこめながら、彼女はこれからも奏で続けてくれるだろう。わたしは、傷口に染みる引きつった微笑を悟られないように、口の端をグラスでそっと隠した。
 グラスの模様に、何人もの自分が映っていた。その一つ一つが、語りかけている。事件の真相は、案外もう手の届く距離にあるのではないかと――

TO BE CONTINUED...


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