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※ルビはカッコ表記です。ご了承ください。
 

THE BLANK TRACK
( correction version )
by
Taki Sara
Copyright © 2007-2010 by
Taki Sara





   20

 ゆっくりと、わたしは水中へ沈んでいた。穏やかな水の流れが背中を心地よく撫で、意識は光の渦に飲まれていく。沈みゆく自我の中で、昇っていくたくさんの気泡を見送っていた。
 無数の記憶が、気泡の中で踊っている。水面へ逃れては消えてしまう記憶の数々を、わたしは朧気な意識のままで掴んだ。
 手にした記憶は、温かいのに、どこか素っ気無かった。あの夜、わたしははじめて、董道一に出遭ったのだ。煤けた探偵事務所の一室でも、彼一人いれば、凶事の素養は充分だった。
『変なところへ迷い込んでしまったらしい……』
 そんな科白からはじまる物語が、確かにあった。この一言に誘われ、遥々(はるばる)こんなところまでやってきてしまったのだから。
『ここがどこだか、できれば見ただけで察してほしい』と、気泡の中で梁道一が答えた。それに合わせて、水流が鳴いた。
 わたしは驚いて首をひっこめた。さっぱりだ、と。
 水に揺蕩(たゆた)うこのやり取りは、記憶にある景色とは何かが違っている。あの夜と、二人の立場が全く逆転しているのだと気付くのに、暫く時間が掛かった。
 これは夢なのだ。それでも奇妙なほどに、わたし達の会話は、あの夜を逆さまに演じ続けた。夢ではないなら、精神錯乱に違いない。精神錯乱でもないのなら、きっと脳味噌を入れ替えられたのだ。
 梁道一は言った。『目的があってここへやって来た、というわけではなさそうだな。しかも、ここがどこだか解からないとあんたは言う』
『表層意識だろう……。夢の中にいるんだ』と、わたしは周囲を見渡してみた。『ちょっとちらかっているのが難点だ。それに、有機溶剤(トルエン)の刺激臭がするのはいただけない』
『でもね、あんたが有機溶剤(トルエン)に浸かってるのは、確かな事実さ』と、梁道一は微笑んだ。
『やられたのさ。有機溶剤(トルエン)だけじゃなく、万札みたなパンチにね。釣りを返さないと』
『そうか。でも、俺はもう行かなきゃならない。ジャスミン畑で、また会おう』
 わたしはあの夜、この言葉にどう答えただろうか。ひどく咽喉が渇いていた。梁道一を追うのにも、何かを思い出すにも、頭の中で線香花火が散って邪魔をした。
 頭上で水面が揺れている。そこから眩(まばゆ)い光が差し込んできた。四十四口径が耳元で暴発(ぼうはつ)すると、無数の気泡が視界を覆い、意識が毀(こぼ)れ出はじめた。それでも、まだ夢から目が覚めるには、時間が掛かりそうだった。
 わたしは幾つもの泡を両手一杯に抱き締めた。
 視界が暗い。そのせいで、泡の中にいる赤い帽子を被った男の姿が、誰だか判別できなかった。
 頭の中に霞が掛かっている。そのせいで、守永と交わした約束が思い出せなかった。
 耳鳴りがひどい。そのせいで、泡の中で歌うアゲハの歌声が聞こえなかった。
 身体が透明だった。そのせいか、泡の中にいるフッキと視線が交わらなかった。
 力が及ばない。丁玲どころか、誰一人として救えない。
『誰もが同じ苦しみを……』水面から聞き覚えのない少女の声が落ちてきた。『あなただけじゃない』
 砂時計をひっくり返したように、水が空へ落ちていった。床一面には燃えるように紅く染まったジャスミン畑が迫り上がってきた。わたしは世界にたった一人で放り出された老人だった。叫び声も荒涼とした景色に吸い込まれ、当てもなく彷徨う両足はいつまでも足踏みを続け、都会の夜を懐かしく思う心は孤独に洗われた。
 風が吹いた。人類が生まれたときからずっと吹き続けている風だった。風がどこかへ帰ると、花畑には籐椅子がぽつりと一つ残された。
 夕日を背にしたジャスミンの少女が、籐椅子に手をついてお辞儀した。彼女は、大地に突き刺さってジャスミンの血を噴出させた短刀のようだった。赤い風の中へ、ミルクが毀れるように銀髪が流れ出ていた。死を覚悟した老婆のようにも見えたし、生まれたての赤ん坊にも見えた。
『あなた一人じゃない』少女の声を、わたしは聞いた。散り逝く花びらのようにグロテスクな震えだった。『私はどこにでもいるし、どこにもいない』
『言葉遊びはもう充分だ』
『良く考えて、この事件のこと。パパの言ったこと……』
 わたしは怪訝な表情をしたに違いない。
『韋代英(ウェイ・ダイイン)よ』と、少女が涼しげに笑った。『考えてみて。董道一が言ったこと。董克昌の言ったこと。董丁玲の言ったこと。原お兄さんが言ったこと。路辺おじいさんが言ったこと。分かるはず、この事件のあらましが』
『頭が悪いんだ。だから私立探偵をやっている。それより君は……』
『私は小鈴、赤嶺愛美、そして陸(ルー)……』
『随分な自己紹介じゃないか。頭が悪いんだ。講義を開いてくれ』
『残念。もうパパのジャスミン畑を眺める時間だわ』
 少女は、電源でも落とされたみたいに唐突に姿を消した。暗闇が訪れるより前に、わたしはジャスミンの花弁の集った房に吸い込まれていった。細く長い茎の中を滑った。長い旅路を眠り通した。そしてその眠りが、ついに夢から覚める合図になった。暖かい光が、殺人現場のクリスマスキャンドルみたいな焔が、わたしの夢を燃やしていった。
 オーケー。視界は5ガロン缶だ。18リッター、樹脂コーティングの無いブリキ丸出し。殴るとすれば、的としては小さくないし、理由も申し分ない。憂さは晴れるだろう。
 道が開けるように、フロアを割ってブリキ色の光が差した。幻覚が薄墨の空へ消えていく。視界は再び倉庫街の管理事務所へと戻って来たのだ――。

「ここは……倉庫街か……」
 首を巡らすと、そこは紛れもない、わたし達が先程殴りあった倉庫街に設置された管理事務所の一室だった。幻は過ぎ去り、辺りは静謐に狂いっているというのに、それでも董道一の声だけは妙に頭に染みていた。
「トルエンに頭でもやられましたかい」
 声のする辺りに目をやると、塗料と血液で濡れ鼠のフッキが転がっていた。
「こっちは丁度、色んな人間に出会ってきたところだ」
 部屋は暗闇に呑まれていたが、目は順応していた。廃墟に見劣りしないくらいに殺風景な、トルエンの臭いが充満した一室だった。余剰在庫だったと思われる一斗缶が山と積まれ、そのさらに高いところには窓が嵌っている。
 そこまで知れなくても、自分が窮地に陥っていることぐらいは明白だった。
 わたしは、出入口を遠くに見つけ、立ち上がろうとした。しかし、手足の自由が利かなかった。四肢には安い造りの手錠と電線が喰らいついていたのだ。出口はさらに遠くなったような気がしたが、泣き寝入るわけにはいかないだろう。何とか身体を持ち上げたが、今度は胃の中が裏返り、手錠ががちゃがちゃと足をすくい、その結果肩をしこたま床に打ちつけた。頭の中は虹色で、身体は素材を精巧に似せた泥人形だった。
「逃げるぞ、フッキ。董財閥の遺書を捜すにも、娘を救うのにも、まずはここから出なければ」
 彼の首が持ち上がって、泥濘みたいな表情でこちらを睨んだ。「その通りだ。だが、八方塞だ」
「ヤツらはもういないのか?」と、上の空で、わたしは喘いだ。
「ドアの向こうに重石を積んで、もう何時間も前に姿を暗ませちまいやした」
「君は、ずっと起きていたのか……?」
「さっきまではウトウトしてましたが」
「誰か、ドアの外で話していなかったか」
「誰かって?」
「例えば、董道一だとか……」
「莫迦いっちゃいけねぇですよ。こりゃあ旦那には無添加無着色の新鮮な空気が必要だ」
 彼は、牛の遺体を引き摺るみたいに巨躯を滑らすと、手頃な一斗缶を背中で押した。一斗缶は階段状を成すようにして既に幾つか積みあがっていた。
「なにをしているんだ?」
「八方塞といっても、上(・)はお留守でしょう。ほら、こうして積んでいけば、あの高い窓までも届く。いつかはここからもおさらばできるって寸法です。一枚岩といきましょうや」
 高い窓は、外からこの部屋を窺ったときに見えたものだった。それは高いだけでなく、人が潜るには小さすぎた。しかしそれでも、換気はできる。
 わたしは立ち上がった。今度は上手くいったが、案の定身体は鉛のようだった。なんとか時を凌いで守永の助けを待たなければ、我々は立ち腐れなのだ。
 わたしは念のために出入り口の扉を確認した。しかし、やはり扉の向こうから何かが打ち付けられでもしたかのように一寸も開かない。
「ヤツら、このまま俺達を事故に見せかけて抹殺する気だな」と、フッキは咳き込んだ。「直接手を下すのに怖気づいて、こんな方法思いついたのか。――ほら、これでもう一段完成だ」
 彼の手は塗料の詰まった缶を探り、不安定にならぬよう、互い違いに積み上げていく。
「董克昌に会ったのか」と、わたしは言った。ようやく自転し始めた脳味噌が口を動かしたのだ。
「なんですかい急に」
「外に駐めてあるロールスロイスに乗っただろう。あれは董克昌のものだ。誰が君に手を貸したのだ」
「克昌は乗っていませんでした」と、その変化のない抑揚と表情には、確かに真実を述べている気配があった。「しかし、こんな状況で尋問とは驚いた」
「誰が君に手を貸したのかと訊いたんだぜ」
「どうしても俺に喋らせたいんですかい」
「知る必要があるんだ」
「こっからは全て旦那が自分の目で見て、はっきり決めなくちゃならないことですよ。俺なんかに訊いちゃだめだ。董克昌は運転席にはいなかった、これだけは言える」
「口止めされたんだな」と、わたしは癇癪でも起こしたように吐き棄てた。もし責任転嫁が許されるのならば、有機溶剤(トルエン)と暗闇のせいにしただろう。「だったら質問を変えよう。今一度訊く。君が道一を殺した事実に間違いはないのか?」
「またぞろ、話さなきゃなりませんか――」
「殺人犯ってのは色んなタイプがいる。だが、彼らはいつだって人を殺したという過去と、自分の犯行を供述したがるという事実を共有している」
「このしつこさは、立派なシャマスの証ってとこですか。それとも旦那は、俺が殺したとは信じたくないってことですか」
 わたしの両腕から一斗缶が滑り落ちて、鋭い音をたてた。中身が泡を盛り上げながら噴出し、わたしとフッキは、同じ液溜まりの上に佇むことになった。
 フッキは続けた。「肝心なところだ。前にも言ったように、はぐらかすわけにはいかないでしょう。俺は人を殺した。紛れも無い事実です」
 殺人というその現実は、何度耳にしても、わたしの躯幹を慄然とさせるものがあった。
「董道一が日本へやって来た翌日です」と、フッキは一斗缶を持ち上げたが、そのまま自分の思い出みたいに抱いていた。「造船ドッグの片隅で、そいつは両腕と両足を縛られて、目隠しをされて、口をハンケチで塞がれて、最後に麻袋をすっぽり被せられて、転がされていた。鉄のバッドも一緒に転がっていた。何もかもが打ち合わせ通りだった」
 わたしは、積み上がった一斗缶の頂を呆然と眺めた。まだ四角い夜空まではニメートル以上ある。地面に転がった木刀が頼みの綱だった。
 フッキは、抱えていた缶を足下へ力なく降ろした。ナイフによって刻まれた傷口から血が流れ出すように、言葉が流れ出ていた。
「俺には何故、道一が殺されなきゃならなかったのか理由がわからなかった。純真な洟垂れ坊主で身形は紳士って野朗なだけで殺されなきゃならんってのなら、他にも殺されなきゃならんヤツはごまんといる。だが、それでも董克昌が殺せと命じたのは董道一に違いなかった。十万円。十万円ぽっきりの命だった。日本人なだけで五十万以上だが、中国人は五万円からさ。希少価値ってやつですかね。俺自身だって、殺されて埋められちまえばそれまでの存在なんです」
 彼はすまなかったと詫びて、再び作業へ取り掛かった。それから、こんな話は酒を飲むか頭が可笑しくなっているときかじゃないとできないだろうと言い、さらに彼の吐露は過去をなぞり続けた。
「造船ドッグってのは、夜でも昼間みてぇに明るいんです。俺は暗い場所だと、案山子(かかし)も殴れねぇんだ。克昌が気を利かせてあの場所を選んだ」
「君はいつだって、暗がりを気にしていたな。黒鉄町のマンションで原と殴りあったときに、蛍光灯の話なんて持ち出すもんだから、不審に思ったんだ。ついさっきだって、周囲が暗いとなると、まるでサンドバッグになっちまった」
 彼の表情が、いたたたまれない暗鬱なものに変わった。「一度だけ。小鈴に人を殴っている現場を見られたことがあった……。昼間にゃ何も見えない娘だが、日が落ちれば俺と同じように目も利く。そん時、蛇頭と揉めた。そしたら、小鈴が黙って涙を流したんです。俺の中の何もかもが冷めていっちまいやした。昂ぶりも、体温も、逆に自分自身が小鈴への愛を冷まさないようにするのが、精一杯だった……。それ以来、暗闇では娘の視線に脅えるようになった」
「話を戻そう。あの夜にだ」
「あの夜に関しちゃ、俺にはもう話すことなんざありませんよ」
「黙ってやるには辛い作業さ」と、わたしは身体に鞭を打ちながら促した。「夕方、中華街で小幡谷に会ったんだ」
「なんですか、また藪から棒に。さっきから旦那はそんなのばかりだ」
「君が埠頭で話した内容は出鱈目だったのじゃないか? 君は小幡谷と董財閥の間に溝があると言ったが、そうじゃなかった。小幡谷も董財閥と繋がりがあり、君と同じような裏側(・・)の仕事を任されていたんだ。小幡谷は、克昌とも道一とも旧知の仲だって自慢していた」
「警察、財閥、小幡谷の三つ巴って話しのことなら、嘘じゃない。今、小幡谷の組織は、俺のせいで真っ二つに割れているのさ。同じ仕事を共にしてきた俺を擁護する上層部側と、身内を殺されて黙っていられない下層部側に」
「やはり君は、この事件よりもずっと以前から、小幡谷と繋がりがあったんだな」
「小幡谷について、旦那に明かしていな」と、フッキが濡れた砂のような声を出した。
「遺書たった一枚が、どれだけの禍を招いているんだ」
 熱帯夜が、妙に寒々しく感じられた。それだけでなく、この歯止めなく膨張する事件にいつまで向き合えるのか、諸所の問題が目の前を塞いでいた。
 わたしは再び作業に取りかかりながら、彼の供述を促した。
「旦那に明かしたように、俺は、表では董克昌の経営する店の給士でしたが、裏では日系(・・)董財閥の汚いところを隠蔽するために、人柱を担ってきました。小幡谷個人も同様に、俺と同じものを背負ってきていたんです。俺達は、殺しや高利貸しや密輸なんて仕事(ゴト)をたった二人で任され、共に手を汚してきた仲なんです。じゃなかったら、ヤツも俺を匿ったりなんかしません」
「似た者の同士ってことか」
「一つ、勘違いして欲しくないことがあります。俺と小幡谷は、根本的には違う人種ってことですよ。小幡谷はただの悪どい筋者崩れだ。だが俺は、本音を言えば、サングラスを掛けてなきゃスープも溢しちまうような気の利かない給士でずっといたかったんです。自分の娘を救うためとはいえ、仕事(ゴト)なんざ身を裂かれる思いだった。娘が殺されたら絶望するくせに、他人にも自分と同じ道を強いようとしている。だから俺は、この仕事を――董道一殺しを最後にして、足を洗いたいと克昌に持ちかけていた――。日本のやくざ風に指を詰めるなり、金を払うなりしてでも……」
「答えは?」
「イエスだ――これには驚いた。都合の良い時にだけ頼って来た、俺みたいな人間の我侭(わがまま)を、克昌はすんなり聞き入れた。アイツはしかも、蛇頭グループに直接干渉して小鈴の身を渡すことまでも保障してくれた」
「引き換えに、道一を殺したのか」
「……鉄のバットで人をぶん殴った感触は、まだこの手に残っている。ライトアップされた、真っ白な視界の造船ドッグで、俺は人を殴り続けた。殴打をかわそうと右に左に、まるで千切れたミミズみたいに転げまわる麻袋を、感覚で追いながら、動かなくなるまで痛めつけた。なるべくはやく麻袋が動かなくなるのを祈って。はじめは頭に、それで意識が無くなればそいつは不幸中の幸いだ。下手に逃げ回ると、当たり損ねる。首だか、肝臓だか、肺だか、どこに当たっても致命傷にはなかなか及ばない。だが、あくまでそいつの着陸地点は変わりがない――拳銃を使うより、ずっと後味が悪い仕事だ。予定通りに事が済むと、俺はそのまま埠頭を後にする――
 董道一殺しに関しては、相当綿密な計画が練られていたんです。道一を拉致する人間。拉致した道一を監禁する人間。殺害現場まであいつを運ぶ人間。道一や実行犯に成りすましてアリバイを偽装する人間。偶然を装って凶器を現場に置いていく人間。直接手を下す人間。凶器を処分する人間。屍体を運ぶ人間。警察に嘘の証言をする人間。全員別々の人間で、しかもプロフェッショナルを誇りにしている野朗どもに加えて、自分が何をしているのかも知らずに報酬と引き換えに任務をまっとうしている人間。これだけの荒くれどもを単(ひとえ)に束ねられたのは、財閥の金の力によるところが大きい」
 擦りきれた暗闇に向かって淡々と告白は続いた。
「稼業(ゴト)を、俺は娘に見られているような気がしていた。ジャスミン畑が、世の中で一番綺麗だと思っているような暢気(のんき)な小娘に。だからこそ、あいつだけは救ってやりたかった。あいつは……ただ一人で時の移り変わりを眺めていたに過ぎないじゃないか」
 表情や態度は糸が切れたみたいに静止しているが、声は深い井戸の底から昇って来たように、底力を秘めている。わたしはこの男が嘆かぬというのなら、せめて一緒に笑ってやりたくなった。
 わたしは首を左右に振った。「娘は帰ってこないのか?」
「克昌の音沙汰が無くなりました。それが答えです」
 天井が近づいていた。わたしは両手両足を手錠で飾ったまま、木刀を握り締めて、ぐらつく一斗缶の長城を這い上がった。両腕を振りかざして三度目で、祝辞をあげるみたいにガラスの破片が月光を巻き込みながら降り注いだ。わたしはブリキと一緒になって土崩瓦解した。
 隙間風が、新鮮な空気と夜霧を連れてきた。まだ異臭は漂っているが、これで数時間は耐え忍べるだろう。
 フッキは靄のかかった四角い夜空を仰いで、口を閉ざしていた。まだ話は終わっていなかったし、好奇心も底を尽きてはいなかった。疑問はボトリングして地下貯蔵庫で熟成させておけるくらいに余っているのだ。しかし、身体と脳味噌が今とは違う何かを求めていた。わたしは窓から入り込む空気を貪り、できる限り肺に溜め込んだ。酒が飲みたかった。それもピートの強い、極上のシングルモルトが必要だった。
 プロメテウスの拷問のような室内で身悶えしながら、出入り口のドアに噛り付いた。フッキの声が背中を掴んだ。
「殺した男は、死ぬ間際にも何も言わなかった。ダンナは、その時に死者が発した声無き声を聞こうとして、捜査をしている――」
 わたしは振り向いて、拳を握った。腕に手錠が巻きついていなくて、彼の眸がわたしを真っ直ぐ見つめていなかったなら、顎を粉砕するまで殴り続けたに違いない。代わりに全身の力を込めてドアを蹴った。体中が悲鳴をあげ、汗が飛び散った。
「もっと真っ当な方法があるはずだ。娘を救うのにも、生きていくのにも、自分を通すのにも」
「これ以外、やり方を知らない――。俺は十回以上人生をやり直しても、同じやり方しか知らんだろう」
 フッキも並んで我武者羅にドアを蹴り上げた。潮風に錆びた、苔蒸したドアと言えど螺子一本飛びはしない。まるでフッキの人生を囲った塀のようだった。二人とも壊れた振り子みたいに同じ動きを繰り返した。わたしは訊いた。
「遺産相続書の片割れを、君はひとつでも持っているのか」
「道一が持っていたものを中心に探しているが、まだです。もう一つは、克昌がはじめから持っていたはずだが、これもアイツと一緒に姿を消しちまいました」
 金属音が律動を刻んでいだ。合わせて部屋全体が軋んでいる。痛む節々を庇いながら、わたしはもう何も答えなかった。

 忘却の彼方に自我が霞んでしまうほどの永い時、ドアを蹴り上げ続けていた。手を変え品を変え、文字通り足を変えた回数は枚挙に暇がなかった。
 兆しが見えたのは、半ば次の手段が無いかと模索しはじめた頃だった。重くなった足を一斗缶の上に放り出して、呼吸を整えながら耳だけを働かせていた。
 はじめは微かな律動だった。律動はずっと遠くで、波紋を残すようにして止まった。それがヒールを打ち付ける靴音だったと気づくのに、暫くかかった。
 わたしは叫ぼうとしていた。干上がった咽喉がそれを拒絶して、バブルガムの潰れたような擬音がしただけだった。ドアを際限なく足蹴にするのが精一杯の意思表示だった。
「誰かいるの?!」
 届いた声は、女のものだったが守永ではなかった。今のわたしのように嗄(しゃが)れたこの呼び声を、わたしは知っている。ステージを追い出された、空疎な声だった。ここにいると叫ぼうと、もう一度大きく息を吸い込んだとき、後ろから口を塞がれた。人差し指を唇に当てがったフッキが、首を左右に振って制した。
「ねぇ、返事をしてちょうだい――」
 アゲハの呼びかけを、フッキはやり過ごそうと身を固くしていた。彼としては、アゲハを巻き込みたくないのだろう。しかし、生憎わたしにそんな余裕はない。ドアを蹴って、彼女の注意を惹いた。
「誰かいるんじゃない? ねぇ、何か言ってよ――?」
 昂揚する声調は、尾部がぼやけるほど距離があった。なんとか応えようと身悶えると、四肢を羽交い絞めにされた。
「どうしたの? 何かあったの?」
 木霊が尾を引き、沈黙が後に連なった。わたしは身体を捻って、一斗缶を蹴り上げた。塗料が放物線を描いて生々しく壁に付着した。
「やっぱり、誰かいるんじゃない」
 それ以上はトーテムポールほどの自由だって与えられなかった。
「待ってて」と、怯えと慎重さを含んだ声で、アゲハが言った。「今、これをどけるから。塗料の缶が沢山積みあがっていて、前へ進めないの」
 フッキの身体から諦めたように力が抜けて、肺から空気が抜けていった。
「アゲハなのか」フッキは背を屈(かが)め、ドアに耳を押し当てた。
「そこにいるの、フッキなの?」と、予期されていた驚きに突き動かされ、アゲハの答えが返ってきた。「待ってて、すぐにそっちへ行くから……!」
「今すぐに帰れ!」
「何言ってるのよお馬鹿さんね。あたしが助けなかったら、あんたのことなんか、誰もが忘れちゃうわよ」
「邪魔だ」
 疑惑、安堵、気遣い、厳しさ、羞恥、矜持と様々な感情がフッキの顔を掠めた。彼はそれを拭き取るみたいにして顔を拭うと、ドアに背を持たせて、石のように腰を下ろした。煙草を抜き出し、火を点けようとしたが、引火でも恐れたみたいに躊躇った。ドアを挟んだ先では、微かな息遣いと金擦れの音が発ちはじめた。
 フッキは峻厳に忠告した。「こんなところまで付いて来て、何がしたい。テメェの遺体が回収されなくても俺は知らねぇぞ!」
「あんた、ずっとこんなところにいるつもりじゃないでしょうね?」
「夜が明ければ誰か来る、だからテメェは帰れ」
 その夜明けまで、わたし達が正気でいられるとは思えなかった。フッキ自身だって、瞼は痙攣し、顔は蒼ざめ、呼吸は浅く、汗が吹き出て、恐怖が躯幹まで染み込んだような形相なのだ。
 アゲハは言った。「止してよ。こんな辺鄙なところ、誰も来るはずが無いじゃない。このままじゃ、冗談抜きで一人で野垂れ死んじゃうわよ」
「一人で野垂れ死ぬわけなかろう」
 フッキとしては、わたしがここにいる以上一人にはならないという意味で答えたのだったが、アゲハにしてみればただの強がりに過ぎなかった。
「あんた、こんなところで終わっていいの?」と、微かに涙ぐんだような、深い親愛を湛えた訴えであった。「こんなんで……」
 言い終えるより先に、金物が崩落したらしく、彼女の悲鳴が押し潰された。
「おい!?」と、腕を伸ばさんばかりの勢いで、可能ならば悲鳴だけでも抱きとめようとするようにフッキが扉に張り付いた。「とっと帰りやがれ! まだ間に合う。ヤツらが戻ってきたら、テメェも巻き添いだ!」
「何よ巻き添いって……っつ。あたし達の繋がりって、そんな淡白で素っ気無いものかしら?」
「知り合って一週間と経っちゃいないぜ……」
「あんたもあたしも、似たようなはぐれ者じゃない。タイムマシンに乗って、昔の自分でも見つけたような気分だわ。ずっと同じような過去に縛られ続けて……境遇は大分違うんだけどさ……それでも……」
「俺は縛られてなんぞいない。小鈴を救うために、戦っている……」
「あんた、やっぱりさ――」
 声は途方も無い絶望を突きつけられたように尻すぼみ、それ以上紡がれはしなかった。それまでの言葉は水面に浮いたままで、その先だけが、まるで価値のある宝石が深海へ眠りにでもつくが如く沈んでいった。
 わたしの正気も沈みかけていた。意識が朦朧としてきているのだ。時を刻むようなアゲハの呼吸が妙に耳に残像を擦り込み、その息遣いだけが離れ逝く意識を繋ぎとめる唯一の錨(いかり)だった。活動写真のようなコマ送りの意識。擦りきれた磁気テープのような自我。ハイウェイを眺めているときような時間の経過。
 フッキはぐったりとうな垂れたまま、おもむろに煙草を丸めて指先で弾き飛ばし、悪戯に時間を過ごしていた。
 アゲハが言った。「もうちょっと、もうちょっとだから――、待っててちょうだい」
 わたしはぼんやりと、現状をどこか夢のように捉えはじめていた。天から自分を見下ろしているような心地だった。筋者達の常套手段とも言うべき一時凌ぎの軟禁に雁字搦めにされた哀れな私立探偵。忘れ去られた土地で事故死にみせかけられ、事件自体は無かったものに仕立て上げられる。いずれ遺体は埋葬され、七年後には民法第三十条によって死亡が認定される。
 アゲハの鎖のような声がぴんと張って、わたしの意識を繋ぎとめた。「入り口がみえないの……まだ遠いのかしら……」
 フッキはドアと対峙し、渾身の力を込めて蹴りあげた。その額(ひたい)には、先ほどとは違った脂汗が、凶事の前兆にようにぶつぶつと浮いていた。ドアを挟んで、当ても果ても無い地道な作業が進む空気が伝染してくる。
「暗闇で暴れるってのは、どうも気骨が折れる」一瞬射した後ろ暗い感情を誤魔化すように、フッキが囁いた。抗うような、渾身の一撃がステンレスの分厚い扉を揺るがすと、部屋が軋んだ。
 わたしは黙って、時が忍び足で去って行くのを待ち続けていた。誰の時計でも、グリニッジ天文台でも計れない時間が流れた。自分に対する不安とアゲハを気遣う心が、気紛れに時の歩調を変えてしまう。
 振動が止み、時間が経ち、また振動が再開し、さらに時間が流れた――。
「平気なの?」と、幾分鮮明になったアゲハの肉声が、しょんぼりとドアの隙間を抜けて、わたし達の存在を確認した。「さっきからずっとだんまりじゃない……」
「気にするなよ」と、フッキが湿気た白い息を吐いた。「少し、休ませてくれ」
「退屈じゃないの?」
「退屈には程遠い生き方をしてきたさ」
「気を紛らわすのに、歌ってあげましょうか? 約束したものね……」
「悪くないかもしれん」
「嘘よ。あたし、歌えないもの」
「歌うより、ドアを開けてくれ。どうせ歌うつもりもないんだろう」
「あなた、もっと人を信用した方がいいのよ」
「生い立ちが許してくれそうにない」
「ねぇ、昔の話をしましょうよ」と、アゲハが呟いた。「なんだかずっと黙っていられると不安になっちゃうから――」
「どんな話しだ」
「あんたが上海に来てから――この前の続きがいいな……」
 フッキは諦めたように、ゆっくりと目を閉じ、再び白い息を吐いた。
「数ヶ月は物乞いだったさ――。金を稼ぐために、夏場は花を売る。夕方になると咲く花だけを集めて、花環を作る。観光客が、香りに誘われて珍しそうに覘いていく。だが、買う者は、多くない――」
「それって、ジプシーとか、易者よね」
「生きていけないと感じた。生きていくために、人民解放軍の陸軍に志願した。チベットの解放戦線を弾圧したかと思うと、次の月には災害派遣で大勢の命を救った。次第に人の命が、一体何なのかわからなくなった」
「それから?」
「発病して、除隊を余儀なくされた。また、その日暮らしの花を売る日々がはじまった」
「奥さんとは?」
「ジャスミンの手柄だよ。俺は董家の人間に拾われた――拾い手は董道一ってな優男で、こいつも幼い頃にジャスミンの花環売りだったのさ。俺とヤツが出遭ったとき、ヤツは既に董財閥の人間だった。ヤツは自分と同じ境遇にいた俺を哀れんで、義母に頭領を説得させた。そのおかげで、俺は董家の分室に連れ込まれることになったのさ。分室があったのは、福建のコロンス島っていう、赤レンガの洋館が今でも立ち並ぶ旧共同租界の地域だ。百年前に華僑富豪が競って洋館を建てた土地でな、アラビアからヨーロッパ、アジアまで、世界中の商人が集っていた島なのさ。俺はそこで小間使いとして働いた――。幸か不幸か、瀾(ラン)に出遭った」
「やっぱり、お金持ちだから優雅な暮らしだったの?」
「ピアノが有名な島だった。中国で唯一のピアノ博物館がある。毎日ピアノの音が聴こえ、週に一度は富豪同士による社交パーティが開かれる。欄は音楽教師の卵で、よく舞台に上がった」
「……あたしに、似てるかな……。音楽を奏でるために舞台上がっていたからじゃなくって、もっと別のところが、似てる気がする……。あたし達だけじゃない、皆が皆、どこかが似てる……。あたし、おかしなこと言ってるかしら?」
「さぁな。俺達は知り合って、結ばれないと互いに気付いた時には、手を取り合って島を抜け出した。俺の故郷の蘇州へ帰ったんだ。そこで小鈴が生まれた。こんな事情から、俺は国へ帰っても、瀾(ラン)の本家からも狙われている身だ」
「なんだか御伽話みたい」
「口にしてみると、俺だって夢見心地さ」
 フッキの表情は、目を瞠るほどに穏やかだった。アゲハの気配も近い。
「だがな、それは夢じゃない」と、フッキは二十年間不屈であり続けた意思を眸に宿し、掌を凝視した。「娘が編んでくれたジャスミンの腕環を、俺は後生大事にし続けている。触れれば、あの過去は幻じゃなかったのだと、思い出すことができる。小鈴が俺にはじめて腕環を渡してくれたとき、触ったらぶっ壊れちまうかと思った……。でも、壊れるはずがねぇんだ。あいつが一生懸命に編んでくれたんだからよ――」
 重いドアが軋んで揺れた。淡い光が一閃し、次の瞬間にはドアが開いて、小柄な女がひっそりと部屋へ入ってきた。悲しそうに濡れそぼった髪が紅潮する頬に絡み、安堵のためか眸は雨の日の窓ガラスみたいに曇ってみえた。
「あんたのために、ピアノ弾いてみようかなって……本当は、ずっと弾いてたんだからさ……誰にも言わないで。もし、誰かに聴かれて、ヴォーカルじゃなきゃ輝いてないなんて言われたら、あたし、やっぱり立ち直れそうに無くて怖かったから……。でも本当は、歌えなくなったその日から、絶え間なく練習していた……」
 アゲハの視線が手の平に落ちた。折れた翼のように、傷だらけの指があった。その時フッキが彼女へ送った視線は、歓迎でも賞賛でも感謝でもなく、忌まわしき己に向けられた怒りだったのかもしれない。
「だったら――」と、フッキはその感情を呑み、声を押し殺した。「どうして、こんなところへのこのこやって来た……!?」
「いいのよ」と、アゲハは見るに耐えない寂しげな表情で、フッキの口に指を添えた。「どっちみち、この指じゃあ、もうピアノなんて暫く禄に弾けないわ――」
 フッキの手が、彼女の指先を探った。
「馬鹿馬鹿しい」
 それでも、アゲハは微笑んでいた。目の端が、部屋中の僅かな光を集めて煌いていた。
 わたしは野暮だと感じながらも、疼痛と吐き気を堪えながら、二人のもとへ這い寄った。
「まだ夜の空気に値札はついちゃいないんだ。思う存分吸ってやろうじゃないか」
 アゲハが、暗闇の中に遺体でもみつけたかのように目を剥いた。口を開閉させる動きが、言葉という情報伝達の手段を獲得するまでに些か時間を要した。
「いつからそこにいたの?」切れ味の良い言葉尻だった。
「君よりずっと先に陣取ってたぜ」
「ずっと聞いてたの?」
「わたしの稼業柄仕方なくね。どうしてここへ来た? 守永は近くにいなかったか?」
「これを見た時に、もっと早くあんたがいるって気付くべきだったわね」と、腹立たしそうに手の平に視線を落とした。「心配して来たのに。最低だわ」
 手の平には、水着姿のアイドルがプリントされた優待券が、くしゃくしゃに握り潰されていた。彼女の顔には血が昇り、薔薇のように紅く染まっている。
 わたしは手帳を取り出して、その間に挟んだ優待券が失くなっているのを見止めた。
「それはわたしのだな」と、わたしは言った。
「そうよ。あんたが、あたしに奨めたものよ。人気(ひとけ)のある倉庫にこっそり潜入してみたら、梯子の下に落ちてるじゃない。拾ったのよ。なんだか失敗だったわ」
 そうは言いながらも、手錠のついた両腕を差し出すと、彼女は一斗缶で手錠を叩いて鎖をひしゃげた。見込みどおり、手錠は容易に捻り千切ることができた。わたしとフッキは、忌まわしきこの部屋を一瞥もすることもなく、四肢を鎖で飾ったままでアゲハと共に後にした。
 二人の次にドアを一枚潜ると、瞬(まばた)きと言葉を忘れた。
 視界全体がギラギラしたブリキの壁だった。しかもそれは、幻覚の続きなどでは決してなかった。高い天上が、モノサシみたいに真っ直ぐブリキの壁を頭上で両断している。仔細に眺めると、ブリキは全て煉瓦細工のように詰まれた一斗缶だった。
 筋者達はフォークリフトを動員し、パレットごとに積み上げたに違いないのだ。だが、アゲハはここに至るまで、金属の壁を非力な二本の腕だけを頼りに掘り進んで来た。
「出ましょうよ、こんなところにいつまでもいたら、頭が痛くなるわ」
 彼女の尤もな主張にわたし達は背中を押され、横這いになって搬入口の巨大な扉を目指した。逃亡者の歩調というのは、古今東西無意識に早くなるものなのだ。しかし、彼女を見たら、誰だってこれ以上傷つかせず、ただどこか遠くへ逃がしてやりたくもなる。わたしは先陣をきって駆け抜けた。ロールスロイスも二台のメルセデスも、倉庫内からは既に消えていた。

 いくらしめっぽい霧の塊を掻き分けても、そこはいつまでも見通しの利かない灰色の真夜中だった。月光を纏う水の粒子は、思いのほか力強い光を蓄えている。
 わたし達は、荒涼とした舗装道路(ペーブメント)から、身を隠してくれそうな暗がりを貪り求めて走り出していた。夜は深く、街明かりは遠い。闇が囲い、霧が覆っている以上、条件は味方していると言えるだろう。
 広場に降る水銀灯の明かりを避けるために倉庫を迂回し、プレハブ街を突き進んだ。あと一息で抜けるというところで、低いエンジン音が心臓を握り締めてきた。
 遁走劇はいやに短かった。
 こう時宜よく相手が姿を見せたということは、彼らの手の平の上で踊らされていたのかもしれない。待ち伏せられていたという事実は、揺るぎようがなかった。その上、ヘッドライトに気が付くのが遅すぎたのだ。光の双環は、瞬く間に踵を引っかいた。全身が暴かれ、舗装道路(ペープメント)に長い影が奔った。
 わたしは死に物狂いで猛然と横っ飛びした。思いがけず、状況を飲み込めないままアゲハの影は光の中に取り残された。
「馬鹿野朗! 逃げろ!」
 フッキが叫びと共にアゲハの手を取り、貨物の隙間に転げ込んだ。
 わたし達は、区画(ブロック)が連続する海側へ走った。鉄骨やバルブに身体を打ちつけ、オイルに脚をとられ、雨水溝に落ち、それでも直角に折れる逃走路を選択し続けた。甲高いタイヤのスリップ音は離れない。海の畔(ほとり)が建造物の隙間に姿を見せた。食い下がるエンジン音は、まだ背中にぴったりと張り付いてくる。視界が拓け、対岸に大黒埠頭が光り輝いた。足下に海。同時に、夜霧を切り裂いてメルセデスが脇を駆け抜けた。車輌は制動がかかると、大きく道路標識を躱して、タイヤを軋ませながら横ざまに退路を塞いだ。
 ドアが蹴り開けられると、人影が持ち上がり、尖った革靴が砂利を散らした。ドアの閉まる音は、まるで今宵の耳飾りだった。男の膝より上は眩(くら)んでいるが、そのアーモンド型の翳は光の中でほくそ笑んだようだった。
「どこへ行こうってんだ、この豚野朗どもは。入水自殺をしようってんなら、手伝ってやるぜ」
「随分と呆気ないもんだったな」と、フッキが喘ぎながらに言った。
 わたしがヘッドライトの光芒に目を細めると、男は車内に手を伸ばして光を落とした。夜霧が再び押し寄せ、月明かりが機関拳銃(マシンピストル)の如くそこに穴を開けて降り注いだ。男は腕を車内に残したまま、陰険な目をして、めんどくさそうに名乗り上げた。
「悪いが、そこの探偵に一発お見舞いしたのが俺だ」男の顔が得意気に膨らんだ。次の一手を探るチェスの世界王者みたいに、忙しなく瞬きをしている。「だが、お頭(つむ)じゃ一歩先に行かれたよ。まさか警官を囮につかうとは想定外だった」
 わたしは訊き返した。「警官が、来ているのか」
 年嵩の男はちょっと意外そうな顔をしてみせた。「赤い帽子の女がうろついていた、知り合いじゃないのか。立ち居振る舞いが素人じゃなかったぜ。そいつのせいで、メスネズミ一匹見落としちまったんだ」
「だが、わたし達の脱走は見破ったじゃないか」
「チケットさ」と、彼は芝居がかった仕草で明かした。「落ちていたチケットを、俺達は帰りに目にしたが、気に留めなかった。だが、切り上げる際、気に掛かって、拾いに戻った。可笑しなことに、チケットが消えていた。こうなると下手に倉庫内を調べて闇討ちされるよりも、待ち伏せて闇討ちするほうが得策だろう? その結果がこの状況さ」
 わたしはもう少しでおめでとうと言いかけたが、代わりの言葉を思いついた。「私立探偵を相手にしているってこと思い出したんだね」
「満更でもなさそうじゃないか」
「いや、満更さ」
 ばね仕掛けのビックリ箱みたいに男は笑った。笑いが止むと、車内から腕が出てきた。露(あらわ)になった腕先には、グリスに皓々(こうこう)と照る漆黒の自動式拳銃が一丁ぶら下っていた。これも中国製のトカレフ――黒星だった。月光と夜霧を身に弾(はじ)く銃口に後ろ盾をされた凄味を効かせ、年嵩の筋者は早口に捲くし立てた。
「さて、女と探偵は見逃してやってもいい。フッキの身柄だけ渡せば大人しく引き上げよう。これはテメェらにとっても悪くない取引ということになる。決まりでいいな?」
「物事には段取りってものがある。なぜ、わたしと彼女だけを見逃してくれようとするのか。まず訊こうじゃないか」
 海を背にした背水の陣が気に召さないのか、男は一歩ずつ、秒針の動きよりも慎重に間合いを詰めてきた。その行為に共鳴するように、傍らをフッキがすり抜けて男と対峙した。
「腹癒せに拳銃を振り回す、良くある場面(シーン)じゃないか。肩肘張るなよ」と、フッキが無理に割り込んだ。「男に二言はねぇよな?」
 年嵩の筋者は、何か他のものに気を取られたように、不器用に頷いた。「もちろんだ。二人の身の安全は保障してやる」
 不意に、わたしの背中を悲鳴が突き刺した。
 年嵩の筋者の動きが陽動だったと気付いた時には、アゲハの首筋にジャックナイフが押し付けられていた。アゲハの背後で、先程木刀を握っていた活きの良い若造の不適な笑みが月明かりに暴かれた。
 しかし、この瞬間の動乱はそれだけではなかった。拍子にフッキが地面を蹴って年嵩の筋者へ飛び掛り、銃把を押し上げると自分の手中に収め、男の首筋に銃口を食い込ませた。
 状況は縺(もつ)れ合い、絡(から)み合った。霧が濃くどこまでが足場なのかも分からないこの突堤では一歩間違えば海に転落する。そうした状況が、命のやり取りの狭間でも行われている。
 わたしは、彼らの間に立ち尽くした。放射冷却と殺気で、夏のくせに底冷える夜だった。
 明るすぎる中天の月が、恐怖に歪む蒼白いアゲハの頬を照らしだした。湿った風がその頬を撫で、束の間、霧を追い遣った。流れていった霧の上には、倉庫街の屋根が諸島郡のように浮いている。その遠くに瞬く夜景は、まるで古代文明の黎明期が創り出した産物のようだった。
 暫くの探り合いの後、最初に口を割ったのはフッキだった。擂(すり)粉(こ)木で潰されたような怒りが、歯の隙間から出てきた。
「だから言わんこっちゃねぇ……。おい、その女に手を出したら、一生地べたを這い蹲りまわることになるぜ」
 歳若い筋者が勝利を確信したように高笑った。「地べたを這い回る気なんぞそこいらにいる夜光虫ほどにもねぇぞ」
「テメェとコイツが、その夜光虫の餌になるぞ。今からせいぜい頭を下げる練習をしておけよ」
「頭を下げるのが上手いヤツは出世する。俺はもう充分に出世している。兄貴を放してもうらおうか」
 アゲハの首筋にジャックナイフが吸い付き、彼女は痛みを避けようと身を反らした。若者が肩で背中を押し返すと、小さな悲鳴がおこり、堪えきれなくなったアゲハが思わずナイフを両掌で握りしめた。血の気の無い指先から、どうしてそれ程の血が迸(ほとばし)るのか、わたしには理解できなかった。霧に濡れたアスファルトに、一滴二滴と血が滴ったと思うと、目にも止まらぬ速度でその赤い染みが広がっていくのだ。血は霧に混じり、わたしの肺まで浸すようだった。
「俺はそんな女が殺されようがどうってことはねぇんだ。――だが、これならどうだ?」
 フッキが銃口をこじり、年嵩の筋者の喉仏を押しつぶそうと力んだ。すると人質の足は爪先立って、口元は雛鳥のような上ずった呻き声を発した。
「正直、人を殺したことは無い」と、若者が揺ぎ無く力強い口調で断言した。「そんな度胸も無い。だが、指の一本や二本なら、切り落としたことはある」
「小幡谷の女の指をか?」
「自分の命と引き換えるなら、仕方が無い……」
「気の済むまでやれよ」
 この場にもルールなんてものがもし残っているとすれば、そろそろわたしの話す番に違いないなかった。
「二人とも、まずは肩の力を抜けよ。話し合いの前に、人質が衰弱したら元も子も無くなる」
 若者がちらりと視線をわたしへ投げかけたが、眸のはすぐに元の位置に帰っていった。「探偵は黙ってろ、テメェは殺さない手筈になったんだ、自分の強運に感謝して、十字でも切っているのが道理ってもんだろ」
「どういう意味だ」
「テメェは観客なんだよ。舞台に上がる器じゃねぇのさ」
「わたしは初手から部外者だったが、一度だって黙っていようと考えたことは無い」
「だったら――」
 言い掛けた時、わたし達五人の心臓は跳ね上がった。鼓膜を、この場では最も聞きたくなかった騒音が叩いたのだ。その音は反響しながら埠頭を侵し、もう直、その主がこの倉庫街にまで到達することを報せていた。霧の隙間で、夜目にも鮮やかな夜光虫に照らされていた緑色の海面が、赤色灯によって斑(まだら)に染め上げられていく。その遠吠えるようなサイレンの響きに共鳴して、満月は不気味に霧を吐くのだった。無数のエンジン音に掻き回された濃霧は、わたしの心へ蔦(つた)のように恐怖を這い上がらせた。
「こんな割の悪いチキンレースは御免だ」と、若者が吐き棄てた。「とっとと済ませちまうのが筋ってもんだ」
 若者のジャックナイフを握る腕が隆起した。腕を引き剥がそうと、アゲハの傷だらけになった細い指が、手首とジャックナイフを遮二無二掻き毟った。同時に、年嵩の男の喉も潰されて嗚咽(おえつ)が毀(こぼ)れ出た。
「小幡谷が黙っちゃいないぞ――!」
 脅しながらフッキは片腕だけで首筋を完全に締め上げ、黒星の照準を若者へぴたりと合わせた。
「撃ってみろよ! さあ!」と、若者が食って掛かった。「銃声が聞き分けられない警官なんていやしない! キサマはもう終りだよ!」
「よすんだ」と、この時ばかりは、わたしも若者に賛同した。「今回ばかりは証人がいる。警官が来たら、どんな言い訳も効かないぜ。運が良くて強制送還だ」
 フッキの表情はちっとも変わらないのに、眼差しだけはいやにはっきりと燃え、捌け口に困窮した憤怒が、今にも破裂してしまいそうだった。体内には、ライターオイルでも血液の代わりに滾(たぎ)っているに違いない。それが引火して、拳銃の引金がいつ引かれてもおかしくはない。だが同時に、ようやく素直に奏でられると言えたきっかけでもあり、これからの希望でもあるアゲハの指が、次の瞬間にはこそげ落ちるかもしれない。恩人を殴り殺した男が、雑魚一匹拳銃で弾くことが何故できないのか。アゲハがそこにいるからだと、この男は認めることもできやしないのだ。
「どうした!?」と、若者がさらに高らかに叫んだ。「中華街に長いこと君臨し続けた一匹狼もこのザマか!」
「大丈夫……」と、アゲハのいつも以上に擦れた声が響いた。「なによ、どうってことないじゃない……」
 静かな虫の羽音のような金属音が無数のサイレンの間隙にあった。わたしはその震えに耳を傾け、正体を辿った。微かな動揺に襲われた。フッキの手の中では玩具のような拳銃だが、外された安全レバーが煩わしいほどに高鳴っているのだ。
「運のない野朗だと笑ってやってくれ」と、押し殺したような、フッキの声が言った。「アゲハ、笑えもしないなら、黙っていてくれないか。頼む」
「撃っちゃだめ……。あんた、小鈴ちゃんを助けないと……。撃ったら、ここで本当に全てが終わっちゃうのよ……!」
 言葉が一語一語形になる度に、ナイフと指は血に染まり、同時に、熱の無い焔のような紅(くれない)色のサイレンが、倉庫街を染め上げる。逃げ腰になった若者を、年嵩の男の眼光が睨めつけた。
「いいか。指にはあまり力を入れるなよ!」いよいよ腹をくくったというように、フッキが恫喝した。
「撃(はじ)けやしないさ! テメェごときに、女一匹に踊らされるチャイニーズごときに、俺が撃てるってか! 笑わせるんじゃねぇ! 無理だ! 無理に決まってやがる!」
 形相が鬼気迫り、口数の多さは気負わされた若造の心理を露呈していた。戦慄(わなな)く腕の筋肉が、緊張の余りに収縮して、意思に反しながらアゲハの指と首筋の肉を割って食い込んでいく。
「……よく思い出して。あんたの故郷も今夜みたいに、あたしの故郷みたいに霧に出る町だって話してくれたじゃない……。小鈴ちゃんは、今もそこであんたのことを待ってるの! 帰ってくると信じて!」
「黙っていろ! いいか!? この場で救うべき人間は、小鈴じゃない!」
 引金に指が掛かった。まるで二人の関係は、拭ったら酷くなる一方の汚れみたいだった。
「よして!」
 アゲハの忠告が闇を裂き、若者が絶叫した。甲高い慟哭が連なった。しかし、それとはまるで無関係に、永い銃声が轟いた。耳を劈く轟音は、存在の巨大さの割にはささやかに、足音を発てない巨人のように静かに倉庫街を跨いで、海の中へゆっくりと沈んでいった。鼓膜には、金属の砕ける長音が、いつまでも名残惜しそうに居座った。
 慎重に視線を戻すと、ナイフを握り締めていた若者の手の甲の肉が抉り取られ、拍子に血液の飛沫痕を蒼ざめた頬に残しているのが見えた。彼は大地を抱擁するかのように倒れこんだ。
 銃弾は、恐るべき命中率をもって若者の拳に命中したのだ。アゲハの指も、十本揃っている。
 フッキは終幕を覚悟したのか、黙って拳銃を重力にまかせた。傷ついた両手を祈るようにしたアゲハが、膝まづきながらフッキの胸にもたれかかった。束の間の安らぎに浸るのも忘れて、わたし達は揃って同じ方角――倉庫街の出口を眺めていた。
 まだ、PCの姿は見えなかった。街の瞬きもずっと遠くにあった。ただそこには、二つの人影があった。
 赤い帽子を被った女と、馴染みのある老いぼれた警官の影が、中天の月に刻まれていた。
 老いぼれた刑事は、しっかりと二本の足で地を掴み、腰を落として、低く銃身を構えていた。銃口からは硝煙が立ち昇り、わたしたちは、それが夜霧に紛れてしまうのを待つかのように、ただ唖然と事態を見送っていた。
「真夜中、しかもこの濃霧だ、おまけに拳銃がニューナンブときて、この命中率」と、わたしは霧の中へ一歩踏み出した。「路辺の爺さんよ、あんたの若かりし頃は、いったいどんなじゃじゃ馬だったんだい」
 いつもの厳つい辛味のある姿勢に正すと、路辺が静かに吐き出した。「馬鹿言っちゃいかん。ニューナンブの時代は終わったよ。今はサクラだ。パチンコ弾よりも狙いが難しいぞ。それに、銃弾は当たらなけりゃいいってもんじゃない。銃弾の周囲にはソニックブームが巻き起こるんだ。指なんぞ簡単にそいつに毟りとられちまうからな」
「なぜここにいる」
「彼女に応援を要請された」と、路辺は守永を視線で前へ押しやった。「フッキに用があってな」
 にやりともせず、路辺と守永の二人は、ただ口元を引き結んだまま早足に近寄ってきた。守永が、わたしの脇を颯爽と駆け抜け、無防備になった若者と、咽喉元を押さえて蹲る年嵩の鼻っ面に警察手帳を突きつけると、手錠(ワッパ)を手際よくはめた。
「久しぶりだな、フッキ。洟垂れ坊主が、随分といっちょまえになったじゃないか」
 爺さんが目尻に深い皺を寄せた瞬間を、わたしははじめて目撃した。しかし、安堵の瞬(まばた)きを一度終えると、もうそこに笑顔はなかった。代わりに、腰の入った握り拳がフッキの右頬骨を砕いた。飛散した汗が海面に静かな水音を立て、フッキは背中から崩れ落ちた。
「これだけの大仕事を踏めば、私の腕はもう丸三日も上がらんよ」と、路辺は膝を折り、フッキと向き合った。「いいか、良く聞け。オマエはいつまで、こんな無作為な行いを、死んだ娘のために続けるつもりだ……」
 フッキは路辺をゆっくりと見据えた。その目は、他人を締め出した部屋の中から外を眺めているようだった。
「誰だ……てめぇ……」
 路辺は、フッキの胸倉を捻り上げ、鼻先を突きつけた。かつての鬼刑事の魂が垣間見えた瞬間だった。
「もう一度言うから良く聞けよ。オマエはいつまで、死んだ娘のためにこんなことを続けるつもりだ。来日が二度とも夏を過ぎてすぐ、ジャスミンの枯れる頃だったのは偶然か? テメェの戦いは、既に終わっているんだぞ! ここは日本だ! テメェのルールを持ち込んでくる場所じゃねぇ!」
「ジジイ何者だ……?」
「坊主の生い立ち、調べさせてもらった。中国政府の照会だ。韋代英(ウェイ・ダイイン)。蒙古族と漢民族の混血児、蘇州生まれ。幼少時に自然災害で身寄りを亡くし、中国人民解放軍陸軍に入隊した後、武装警察部隊に抜擢され、チベットの反独立運動を鎮圧する小部隊のリーダーにまで上り詰めた。だが、数年で目の持病が発病し、已む無く除隊。まだ身のある肉だったお前さんは、董家に拾われた。妻を娶(めと)る以前、董家から抜け出すまでの数年はさぞかし平穏な日々だったろう。しかし、抜け出してから地獄だった。娘の出生届とほぼ同時に妻の死亡届が提出される。五年後には、突然日本から強制送還された。にも拘らず、一年後には就労ビザを取得して日本へ発つ。娘を救うために孤軍奮闘し続けた結果、中華街では天地創造の神の異名を受け継いだ――。おかしいとはずっと思っとった……。十年も日本に滞在し続けているわりには、ちっとも国へ帰る気配が無い。それもそうだ、娘はもう十年近く生存が確認されていないんだからな。帰っても、オマエを待っている者は誰一人しておらんのだ」
「……俺の質問に……答えろ」
 寄り添っていたアゲハが、血みどろの両掌でフッキの顔をやさしく抱擁した。顔面に、何かの呪詛のように血液が抽象画を描いた。
「耳をすませて、よく聞いて」アゲハの拭った瞳の中に、フッキがいた。「あなたの娘は、恐らくもうこの世にいないの。何年も前から、生存が確認されていないの……」
 アゲハを思い悩ませていた真実、半ば強引とも思える干渉の正体だった。
「あたし、ずっと気がついていた……。多分あんた以外、誰だって気付いてた。あんたが娘の死んだ現実から目を背けるために、何かを必死に追い駆けていたこと。だって、あたしも同じだったから……」
 今になって、フッキは身に負った深い傷を意識した。無力に伸びた腕が、水面に映った偽りの月を掴もうとして足掻いていた。そこに、約束されていた光ある未来でも見ているのかもしれない。
 心地よく息が触れ合う距離で、アゲハとフッキの視線は交差した。
「小鈴と見た、あの夢すら俺に忘れろと言いたいのか」半眼で、映らない眸で、現実を目の当たりにしていた。「見えない現実をちらつかされて、現実を見ろと迫られたところで、そんなものが俺の目に見えるってのか! なんだっていい、なんだっていいんだ。だから、俺を、あの夜から連れ出さないでくれないか……ただ、それだけだ……」
 アゲハにとって自分の人生は過去の数年間に閉じ込められている――それはフッキにとっても同じだった。彼の人生は、小鈴の生きていた数年の檻に閉じ込められていた。
「人生は一人きり――」と、アゲハが口ずさんだ。「過去に降る麗さ、遠い日のあなたを思い出す――。ここで眠れば、あの日の夢の続きが見えるだろうか――。街に居るのは、彼らは罪人ではない――。So long amigo...」
 何年も前に落としたつまらないものを、この夜空に向かって返して欲しいと嘆くように、彼女は歌った。歌声が、月の照らす夜の海を越えていく。まるでもう滅びた月の幻を海面にみつけた狼の悲しげな遠吠えのようだった。
「あたし、声が無くても、音楽を続けるわ。だから、あなたは、光が無くても、現実を見つめて」
「馬鹿いうなよ」
「歌えなくても、奏でて見せる。光が無くても、見ることはできるわ」
「馬鹿言うな……」と、フッキはアゲハに凭れ掛かった。「だが、もう少しだけ、もう少しだけ、歌い続けてくれないか……。小鈴のために。見えない小鈴のために、聞こえない、その唄声で……」
 翼に深手を負った小鳥のようにもがき、決して誰の耳にも届かぬまま唄声は夜の海を越えていく。しかし、ここにいる者達の心には、届いてたに違いない。
「わからない。わからないが、いまだけは、俺の傍らにおまえがいてくれて……良かったと思える……」と、フッキが顔を上げた。「――なぜ、泣くんだ……アゲハ……」
「ずっと、届かなくて、もどかしかった。こんなに傍にいるのに、叫んでも、抱きしめても、脅しても、現実を突きつける以外には、あなたの心に何も届かなかった。どうすれば、あなたを救えるのかわからなかった。あたし嬉しいの。嬉しくて……泣いているの……。歌うこと以外に、人の励まし方を知らなかったから……生まれてからずっと……。それでも、あんた、あたしが傍にいてくれて良かったって言ってくれたから……」
 この瞬間ようやく、諦念(ていねん)せずに悲しみを押し隠したままで笑い続けていた彼女が、ようやく人との繋がりを得たのかもしれないと、わたしは感じた。もし、ステージの上で枯れるまで彼女が唄い続けていたとしても、この繋がりは、一生手に入れられなかったものではないだろうか。
「補い合って、やっていけないかな。この時が止まった檻の中から、二人揃って、抜け出せないかな」
「俺なんかに、何ができる」
「あたしだって一緒よ――」
 PCのサイレンがアゲハの声を蹂躙した。このまま、二人はどうなってゆくのだろうか。一抹の不安が、わたしの脳裡を掠めた。見えない傷が、また抉られようとしている。街に生きる誰もが負っている、よじり上げてくる悲しみによって何度も抉られた癒えることのない見えない傷が、また。
「あんた、いつか話してくれた」と、アゲハの涙が口の端に差し掛かった。「振り返れない。振り返りたくない。振り返れば、何かもが遠ざかってゆく現実を。あたしも同じだから」
 美しい顔をしかめ面で終わらせたくないのだろう、彼女は微笑んだまま歌おうとした。だが、それ以上声が出なかった。それは決して枯れ果てた咽喉のせいではなかった。溢れた感情が、熱い感情の噴出を堰き止めるのだ。
 アゲハはフッキの手を取ったまま、腰を上げた。
「逃げましょうよ――このまま、ふたりで」
 唖然としたフッキの表情が見上げた。「なぜ、逃げなくちゃならん。全てを清算する機会がやって来た」
「いいえ、まだすることがある。小鈴ちゃんの死を受け入れられるその日まで、あたしが再び満足のいくまでジャズを奏でられる日がくるまで、あたし達が過去の檻を忘れてしまえるその日まで――」
「人を殺してきた。汚いことをやって金を手に入れてきた。それでも、俺に逃げろと言うのか? 現実からも逃げてきた。どこまで、俺は逃げなきゃならん。もう少し、時間が欲しい……」
 燃やされた肖像画に描かれる乙女のように、アゲハは微笑んだ。微笑が消えぬうちに、彼女はフッキの足下に転がっていた拳銃を素早く拾い上げた。銃口が、路辺を睨んだ。
「動かないで――!」
 路辺がほくそえんだ。「なかなかキレるお嬢ちゃんだよ」
「お爺さん。あたしとフッキを無事に逃亡させると約束しないと、引金を引かせてもらうわ」
 どこまで本気なのか分からなかった。
「良かろう。立派な恐喝だ。フッキを連れて逃げるがいい」と、路辺の下した決断は明確なものだった。「行け、坊主にまだ罪の意識があって。どうしても良心の呵責が己を苛むようならば、私は引退した後であっても牧師になろう。だから今は、ここから逃げろ。この場に、殺人犯はいなかった――」
 誰もが耳を疑ったはずだった。引退を間近に控えた、老後に娘との安泰した生活を待ち望む好々爺(こうこうや)の言葉にしては、一世一代の大博打だった。
「後は私が取り繕おう。守永君、口裏をあわせられるな?」
 赤い帽子の翳から光る瞳が静かに同意していた。彼女にとっても、原を愚弄した二人を取り逃すとなると、苦い決断だった。
 アゲハは指が白くなるほど拳銃を強く握り締めた。「わかるわね、フッキ。今この場であなたが捕まるというのならば、あたしは引金を引くわ」
「上手くやったもんだな」と、フッキが身体を持ち上げた。「逃げてやろう。こうなったら、地獄の底まで逃げてやろう。ダンテ・アルギィエリも腰を抜かすくらいに――」
「あたし達の人生の分岐点に、おじいさんがいてくれて良かったわ」
 アゲハはサクラを袖で拭うと、地面に置き、倉庫街の闇の中へ走り出した。かつてのラジヲの宣伝文句のように、自分を孤独な過去からサルヴェージするように。
 霧が一層濃くなっていた。フッキの巨躯もろとも、ありのまま全ての過去を受け入れるように、いとも簡単に二人の姿は覆い隠されてしまった。
 わたしにとっての人生の分岐点にも、誰かがいてくれたのだろうか。いたにしろ、いなかったにしろ、今の二人は独りではなかった。
 PCが群れをなして押し寄せてきている。ゆっくり振り返ると、そこはもう赤色等の瞬く夜の底だった。エンジンとタイヤの咆哮がした。やがて警官達が熱閙(ねっとう)し、完全に周囲を塞いだ。
「全員動くな!」拡声器の怒号と共に、無数の靴音が倉庫街を埋めた。そして次の瞬間には、完璧な規律をもって靴音が止んだ。
 煩わしい警告を繰り返し続ける拡声器のノイズが、誰かの悲鳴のようだった。
 それでも、全てを優しく包むような、静かな波の音だけは聞こえていた。
 泣いているような音だった。
 すがるような音だった。
 アゲハの声無き唄に向かって、もう一度その唄を聴かせてくれと、せがんでいるような音だった。
 PCのドアが一斉に開くと、その音は消えてしまった。
 わたしは耳を塞ぎたくなった。

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