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※申し訳ありませんがルビはカッコ表記です。ご了承ください。
 

THE BLANK TRACK
( correction version )
by
Taki Sara
Copyright © 2007-2010 by
Taki Sara





   10

 五時過ぎ、列車が東急東横線反町駅に滑り込んだ。わたしは、人いきれ(・・・)のする車内から押し出されるようにして飛びだすと、プラットホームから地上までの長いエスカレーターを上がり、改札口を抜けた。
 僅かながらの観葉樹を植えつけた煉瓦(れんが)敷きのコンコースは、黄昏はじめた陽射しを強く照り返し、目眩(めまい)を感じさせるほどだった。
 周囲を見回すと、閑静な露店と住宅街が取り巻くだけで、原や守永の姿どころか警官一人として見当たりはしなかった。ここまで来たは良いが、まずはどちらか一人だけでも見つけ出す方法を考えなければなるまい。
 わたしは頭の中でロードマップを広げ、青木橋の方角を探った。
 守永が原を探しているという条件の中で、導き出される採るべき行動といえば、原の足が向きそうな場所へとわたしも赴くことだった。それはすなわち守永と同じ行動をなぞることにもなるだろう。
 ロードマップと奮戦しているうちに、わたしの五感が何かを感じた。強い振動が鼓膜を揺すり、下腹部を突き上げてきた。それは列車の車輪が軋る音だった。足下の地下鉄からではなく、ひなびた商店街の向こう側から届いてくるようである。
 わたしはその音を目指して、商店街と住宅街の路地を縫った。小高い丘らしく、ゆるい勾配(こうばい)が続いていく。
 次第に音が近くなり、丘を登りきると幹線道路に出て眺望が拓(ひら)けた。石垣造りの土手を見下ろした近景の底で、遥か陽炎(かげろう)の先まで爪を伸ばす線路が望めた。右手には殷賑(いんしん)を極めた横浜駅のビル郡が拝め、錆(さび)色の平行線はその中へ飲まれてゆく。
 川崎方面から滑り込んでくる列車と並走しながら、木漏れ日の注ぐその土手沿いを、横浜方面へわたしは下っていった。すると五分と進まない内に、視界の中央では青木橋が焦点を結んだ。
 橋の中腹には、自動車と人の流れに匿われるようにして佇む二つの人影があった。
 その状況で確かに言える事は、人影の一つが守永だと言うことと、もう一つの影は赤い帽子を被ってはいないということだけだった。
 わたしは枚(ばい)をふくみ、守永の視界に入らないように注意して、雑踏に身を馴染ませながら二人へ近づいた。守永の気丈な振る舞いが、一悶着(ひともんちゃく)あったような様子を醸し出していた。
 青木橋の交差点まで着くと、赤信号を待ち続ける芝居を演じながら、二人の会話に耳を欹(そばだ)てた。ボタン式信号機に触れなければ、時間が稼げるだろう。
 交通量が多く、慎重な感じの二人の会話は、寸断されながら僅かに喧騒の隙間に聞こえる。が、同時に橋の下では八本のレール上を暇(いとま)なく列車が驀進(ばくしん)している。こうなると、会話どころかほとんど何も聞こえてはこないのだった。
 守永の背へ向かって、わたしはさらに距離を詰めた。彼女と向き合う男の視界に入ってはいたが、相手も会話に夢中でわたしに構っている余裕はないらしい。
 その男は橋のど真ん中に立って、苛立たしそうに煙草のパッケージを握りつぶすとサイドポケットにねじり込んだ。
 第二次大戦終戦直後の退役軍人といった風采だった。いかにも人生で類稀なる厳しさに揉まれてきたという顔立ちの中年で、現に今もそうしているのだと表情が語っているのである。気難しさが深い皺となって顔中に彫り込まれ、眸は冷淡さに渇いていた。着ているものだけが、少々時代錯誤に現代的なのだった。金メッキのバーで飾ったエンブレムが、正義の象徴かまたは押し付けか、胸元で曖昧な光を放っている。要するに、彼はなかなかの階級の警官なのだった。
「口惜しいな――」最初に聞こえたのはその一声だった。「こんな事態は重々承知のものだったが、それだけに、由々(ゆゆ)しく忌避されるべき事態だったはずだ……」
 守永は深く息を吸い込み、飛び出しそうになった自分の言葉を堪えた。男は、哀れみないしは軽蔑のような響きも込めて言葉を繋いだ。
「原君がなかなかの資質を持った捜査員だということは私も認めているし、その上で高くも評価していた。もちろん今もその評価は不動のもで、これからもそうあることだろう。彼の捜査流儀には、それなりの大きなメリットがあった、と私は考えている――」
 誰にでも分かる状況だった。男は、日常的にこんな言葉遣いをした文化勲章者の巡査などではない。守永の相手は、金沢刑事課長殿なのであろう。彼は今現在、まるで架空のマスコミ相手に模擬戦でも繰り広げているかのような口ぶりだった。
「しかしながら、上層部の意向、即(すなわ)ち下された彼への処分については、現状で我々がどれほど原君に目を掛けようが成す術なく適用されることも明らかだ。どういうことだか言明を希求するかね?」
「分かっているつもりですが、納得はいっていません。説明をお願いします」
「結構だ」と、刑事課長殿は厳厳(いかいか)しく眉をそびやかした。「既に記者クラブの面々からは遺憾な報告を多数受けている――これは常駐している周り中のクラブ記者達からだぞ――有り体に言えば、週刊誌やワイドショーの記者に漏洩しなかったことは運が我々に身方したのだ。件(くだん)がどこまで波及しているのか、把握しているのかね?」
「いえ……」
「厳しい情報統制は布いてある。だが、報道管制下にありながら、彼らは既に黒鉄町のヤマまで嗅ぎつけている。件のマンションを張り込んでいた刑事連中のリストアップがなされたと同時に、リストに名を載せた原君が無断でマル対と接触を計っていたことに裏づけがされれば、上(・)も事実を首肯(しゅこう)するだろう。原君への処分なくして、このジャーナリズムによる糾弾がやり過ごせるものだとは思えん」
「しかし――」
「問題はもう一つある。自宅謹慎中となっていたはずの彼が、動機も瞭然(りょうぜん)とさせぬまま失踪中ということだ。軽率の謗(そし)りは免(まぬか)れんな。――君はどう庇(かば)う?」
「私はそんなつもりではなく。先輩が心配で――」
 言下に被せるように男は声を高くした。「殺人の容疑で懲戒免職中の刑事が失踪だなどという失態は、最近では余りにも良くありがちなワイドショーのネタだ。同僚による性質の悪い犯罪がここ最近立て続けにあったな――傷害事件が起こり、身元が明らかになった結果が停職中の警察官だった――本件も“不祥事”として煽り立てられるには充分な素養だ。これから記事にされるかどうかで、戒告、停職、免職が変動するだろうが……あまり期待はできんな……」
「心得ています」
「よかろう。煽動的なジャーナリズムの方針に今更罵詈雑言をぶちまけたところで何の意味も無いんだ。上(・)が原君へ下した処分には従順すべきだろう。いつまでも彼を擁護することは不信を呼び込む以外の何ものでもない。金輪際(こんりんざい)このようなことが一切あってはならない」
 刑事課長殿は暗色の溜息を吐いた。苦虫よりも苦いものがあることを知ってしまったというような感じだった。守永にもその空気は伝染していた。
「守永君」と、刑事課長殿は今までの演説を締めくくるように言った。「間もなく新しい署長が顔出しに来るぞ。今は原君のことを忘れて署に戻り、待機していたまえ。こんなところで油を売っていると、所轄の者にすら馬鹿にされかねん」
「金沢課長は、これからどうされるのですか?」
「班の連中と共に原君を捜索することになるだろう、緊急呼集を掛けるつもりだ。Nシステムや町の防犯カメラを浚ってみることになるかもしれん。報告とそのためにも一度署へ戻る。君もついてきたまえ」
 刑事課長殿が背を向けて、路上駐車してあったアウディへと足を向けようとした。それが彼の車なのだろう。アウディの鼻先には、ブリティッシュグリーンのローバーもあった。
「ちょっと待ってください!」守永が拳を握り締めて、刑事課長殿の背中へ叫んだ。「原先輩への処分は刑事訴追が濃厚であるのに対し、私への処分は謹慎のみですか? 私だって、共犯みたいなものですが」
 足を止め、刑事課長殿は振り返った。顔は先程よりも少しだけ穏やかなものになっている。そこから先は、感情に湿った破れやすい議論が暫くの間繰り広げられた。
「落ち着きたまえ。今述べたとおり、これは原君が警察官としての素行いに欠ける部分があっての処遇とはやや違う。原君のやり方は、些(いささ)か芳志(ほうし)ではあったものの、過去からの検挙率においては素晴らしいものがあった。だから正直、彼は手元に置いておきたいというのが私の本音だ。しかし、今、時代が求めているのは彼のような警察官ではないだろう。犯人を捕まえるよりも粗相(そそう)を犯さない警察官が優秀な時代だ。彼は粗相を犯してしまっ捜査員の一人なのだよ。私だって、彼が不祥事の権化だと言うつもりはさらさらない」
「先輩についてはただ運が悪かったと諦めろ、ということですか。手駒の一つが減ったという扱いに過ぎないと……」
「駒か……強ち的外れな表現とも言えぬかもしれんな……」
「原先輩のような部下を、これからはどう扱っていくんですか? 他にも無鉄砲な捜査員は沢山います。彼らも事が表沙汰に成り次第また刑事訴追ですか?」
「いた仕方なし、だろう。私はそういった刑事も抱えている必要があると考えている。例えば誤認逮捕のような不祥事を恐れる捜査員ばかりでは、犯罪は一向に無くならんな。粗相をしても結果を残せる刑事も必要だということだ。本当は、粗相(そそう)もせずに結果を残せる人材が理想なのだが、そんなものは一握りしか存在せんだろう。それに――」と、寂しそうに彼は笑うと、付け加えた。「原君も初手から問題児で、上(・)の寵愛を受けてもっていた(・・・・・)ような者だ」
 彼女は黙っていた。返す言葉が見つからないのか、何か考えがあっての事なのか、わたしには分からなかった。
 二人の水掛け論を急かすかのように、列車の汽笛が足元で鳴った。
「私、覚えています……」守永が言った。「就任当初、原先輩と組むことが告げられたときに、課長が会議室へ私を残し、その時に言った言葉を――」
「そうか」と、男は真っ直ぐに頷いた。「私は君に、原君の捜査方法には口を挟むなと言ったな。それは今言ったとおりの理由があってのことだ」
「これからもこんな風に、捜査員を駒のように扱う方法しかできないのですか?」
「私達とて、望んでこのようなシステムを採用しているわけではないんだ。……そもそも良く考えてみたまえ。このまま原君の失態がいつまでも尾を引いてみろ。守永君にまで、歓迎できない影響が及ぶかもしれんぞ。原君のやり方を間近で見て来た君までみすみす手放したいとは思わない。背に腹は代えられん。十分な英断だと思うがね」
「でも、それは何か肝心なところで誤魔化されている気がします。それでは消耗品や捨て駒と変わりません」
「消耗品や捨て駒か……」と、彼は目を細めた。「考えてみれば、警察関係者以外の人間というのは、我々のことをそう思っているのかもしれんな。普段は鬱陶しがられ、だが、いざという時にはたとえ命を捨ててでも市民の身を守るべき盾でならなければならい。それならば、それを捨て駒と言う表現もあながち的外れなものでもないだろう」
 潜んでいた迷いが、たった今表面化したのだろう。守永の表情は嘆かわしさで一杯になった。感情は警察組織にではなく、今まで迷いを見て見ぬ振りをしていた自分にぶつけられているのだろう。迷いとは恐らく、自分が刑事であったことへの後悔に他ならない。
 彼女は言った。「捨て駒も一人の人間なんです……その人を愛する人だっているんです」
「我々の誰もが、この職業へ就いた時に何かしらの覚悟ができていたはずだ。そう決意し、この職業に就くものだろう」
「たとえそこにいるのが、恋人を殺された過去を持ちながらも、悲劇を繰り返さないがために働き続ける者であってもですか?」
「個人か組織か、我々がまず守らねばならないのは組織の信用だろう。本末転倒だと論じられようが、その先にあるものを見据えなければなるまい」
「それでは――あまりにも……原先輩が報われないのではないでしょうか……」
「君が居る場所はそんな報われない職場だ。納得できないのならば、それは単に君がこの職業には向いていなかったというだけに過ぎない」
 刑事に向いているかという、先日彼女がわたしに訊いた疑問には、こんなところで答えが出たのかもしれない。
「向いてない、ですか……だったらいいですよ――向いてないんだったら……。誰もが、私は刑事に向いてないって言います……だからきっと向いてないんですよ……」守永は徐(おもむろ)にサイドポケットへ手を突っ込んだ。甲高い金属音が耳を突いた。チェーンが千切れ、警察手帳が金沢の胸へ叩きつけられた。「――だったらいいですよ。辞めますから……辞めてやりますから!」
 列車の残した突風が、地面に落ちた手帳をパラパラと捲った。繰られるページの上に、守永のその言葉は一言一言綴られるように落ちていった。
 金沢は、自分の誇りを汚辱されたことに対し、一瞬我を失ったような形相となったが、思い直して怒号を呑みこんだ。思い直した理由に、守永が女性であったことが関係しているかもしれない。しかし、彼女はこんな場合にでも女性扱いされることを好まなかったはずだ。
「今は捜査に戻る必要も無い、自宅で待機してしていたまえ。二、三日休むといい。そのころには騒動も沈静化しているだろう」
「……いやですよ、そんなの……」
「余計なところまで、原君に似てしまったのか」刑事課長殿は警察手帳を拾い上げた。「刑事であり続けることと原君と、君は原君を選ぶと言っているように聞こえるな。よかろう、君も女性だ」
「どうしてそんな結論に行き着くんですか? そんなことには何の意味もないじゃないですか。――だから……私は別に……原先輩へ個人的に特別な感情など持っては――」
「もう、それ以上は止そう――」
 わたしは二人の間に割って入った。「揉め事だろう、こいつはわたしの仕事みたいだ。トラブルはわたしの稼業なんだ」
 金沢は、見下したような視線でわたしをためすつがめつ眺めた。
「何者だね君は?」
「君からすれば、ただの部外者かもしれない」
「なかなか外連味のある男だ。何かを気取っているつもりかね」
「自分に酔っているところを人に見せるほどつまらないことはない。わたしはしがない私立探偵だ」
「民間の人間、ということか」と、彼は小馬鹿にしたように鼻で笑った。「これは失敬。こんな公衆の面前で騒ぎ立てたのでは迷惑極まりなかった」
「そんなことを聞きたかったわけではないんだ」
 わたしは投げやりに答え、守永を見た。今朝よりも彼女の呼吸は早く短く、顔色は悪かった。時計の針が進むごとに彼女の周りから少しづつ酸素が奪われていくのを眺めているようである。彼女は弱弱しくわたしを見上げ、両手を固く握り合わせた。
「来る必要なんて……なかったんです……全然、なかったんです。来る必要なんて無かったんです」
「確かに、わたしごときでは力になれそうもない」
「そういった意味では……」
 金沢が遮った。「申し訳ないが、こちらの問題なので部外者の方の立ち入りはご遠慮願いたい」
「部外者ね――」
 わたしはいつだって部外者だった。浮気調査を依頼されて家庭の事情に足を踏み入れれば部外者だし、企業の内部調査に携わるときも部外者だ。わたしはいつだってこうして生きてきたのだから、そんな扱いには慣れている。しかし、それはわたし自身が、という話しだった。ここにいる一人の娘が、部外者として片付けられてしまうこともないだろう。
 わたしはそこを引かずにいた。そんな姿に、金沢は寸鉄を撃つような視線を這わせ、怜悧さを匂わすように、即妙に返答した。
「原君のBMWにもう一人乗っていたという話は、四課から流れてきている。私は金沢だよろしく」
 彼は握手を求める手を差し出してきた。まるでこれから握力テストでもはじめようかというように力んでいた。
 わたしはその手を握らずに言った。「わたしも貴方のことは噂に聞いている。だから、貴方の言い分ややり方も理解できるし、あなたの気持も立場も理解できる。だが、わたしにはこの手を握る気にはなれないね」
「もちろんだ」と、彼は手を引っ込めた。「人の考えは一つではない。だからこうして私達の間でも齟齬が生じているのだ」
「ご賢察をどうも」
「もう十分だろう」と、彼は峻厳(しゅんげん)に言った。「私は守永君と話がしたい。どいてもらおうか」
「原を処分することだけにそう汲々(きゅうきゅう)とすることもないじゃないか」
「水清ければ魚棲まずだ。世の中が、これから責任の有り所を望もうとしている。責任のある場所が目に見えるというだけで大衆は納得する」
「適当な警句を並べられれば、わたしなんて生きていること自体が間違っているんだ」
 わたしは煙草を取り出し、一本彼に勧めた。金沢はそれを咥えたが、火は点けなかった。
「原の疑惑が晴れれば、こんな無駄なことはしないで済むのかい」火を差し出しながら、わたしは言った。彼はそれを手で払い除けた。
「無駄だ。上層部の判断は覆(くつが)らん」
 急に気が変わったというように、金沢は手にしていた警察手帳をわたしに預けて背を向けた。顔を振り向かせもせずに、彼は続けた。
「守永君。君のこれからの動向には暫く目を瞑(つむ)ってもいい。ただ、原君への処分についての口出しは厳禁だ」
 アウディに乗り込んだ彼に、わたしは言った。「つまり、原への疑惑くらいは晴らさせようって腹かい」
 ウィンドガラスが下りた。「探偵君。上層部はな、犯人を捕まえるよりも破目を外さない警官ばかりをかき集めてるんだ」
「そんなところで、原を好きなようにやらせたアンタのやり方は、別に嫌いじゃない」
「私は何もしない警察官が立派な警察官だとは思わない」
「だが、粗相ばかりの警官にも困りものだ」
 彼はわたしの言葉に頷いた。「原君には犯罪者として刑事訴追ではなく、せめて辞職というかたちで、仕事から離れてもらいたいと思っている。守永君、健闘を祈る」
 自動車はすぐに出発し、旧東海道の流れに乗った。
 わたしはそのテールエンドを見送るまでもなく、守永へ向き直った。彼女は、まだ両手を胸元で固く握り締めていた。どこからかやさしく涼しい風が吹いて、その手を解き解(ほぐ)した。
「コテツさんは、来る必要なんてなかったんです」
「まだそんなこと言っているのかい」
「コテツさんも、私を刑事として認めてくれなかったんだ――」
「今はそんなことを言っている場合じゃない」
「はい」
「原への疑惑を晴らさなくてはならない」
「臭いものには蓋をされたんです……こういう処分は、いつもノンキャリアが槍玉に上げられます」
 上の空で呟く彼女の頬を、警察手帳で何度か軽く叩いた。
「い、痛いです」と、彼女は目を白黒させて、手帳を受け取った。それから何かを言おうとしたが、今度は思いなおしたように、わたしに手帳を押し返した。
「私には、これは必要ありません。この手帳に、私の求めるものは無かったんです――」
「だが、こんなところへ手帳を放っておけば、君は犯罪者だ」
 彼女は唇を固く噛み締めて、それでも手帳を受け取ろうとはしなかった。
 わたしは、彼女の手のひらの中に手帳を無理矢理握らせた。
「君が原を探すべきだ」
 温かい指が、ゆっくりと閉じていった。
「この事件が終わったら、必ず刑事を辞めてやりますから」
 彼女はそっけなく、だが力強く言うと、手帳をサイドポケットへしまった。
「原を探そう、同時に黒鉄町の事件も何か分かるかもしれない」
 彼女の顔が近づいた。「一度、原先輩の自宅に戻りましょう。幾つか気になることがあるんです」
 わたしはもう暫く彼女に付き合うことにした。伏羲の匿われていたマンションの一室で殺人事件が起きたのだ、董道一事件に無関係とはいえないだろう。何が起きたのか知ることは、董道一事件の真相にも一歩近づくことにはなる。
「案内してもらおう」
 頷いて歩き出した彼女の後姿を、わたしは追った。
 線路沿いから逸れ、小高い丘の勾配を小さな背中が昇っていく。歩調は狭いが早かった。彼女の顎を滴った汗が落ち、アスファルトの所々に黒い斑点を結んだ。しかし、それも彼女の見た理想の欠片ように、長くは持たずに儚く蒸発して消えた。
 丘の頂上付近まで来ると、林が覆う平凡なアパートの前で足が止まった。ベージュ色の二階建て軽量鉄骨造りのものだった。
 守永は黙って共用駐車場の砂利を踏みしめると、すぐにアパートの裏手へと小走りに向かった。アパートを一周すると、すぐに戻ってきた。肘と膝に泥が付き、目の周りは煤けて痣のようになっている。
「これを取りに行ってきました」掌の中で飾り気の無い鍵を広げた。「使われなくなった雨水溝の奥に隠してあるんです」
 別に鍵の在り処を知っていたことに、わたしは驚く気は無かった。
「部屋に着いたら、君はまず探索よりも洗面所へ行くべきだ」と、わたしは答えた。
「着いて来てください」
 ステンレスの階段に足音を響かせながら、守永は二階へ上がった。わたしもそれに続いた。開放廊下のどん詰まりの部屋で、鍵を回しはじめた彼女に、わたしは訊いた。
「黒鉄町の屍体の身元は?」
「まだです。既に検視は行われたでしょうが、私の方にはあれから新しい報せは何一つ入っていません。今の署の状態では、誰も私には連絡してこないでしょう」
 鍵が小さな音を発てて回った。合板の向こうはすぐにキッチンなのだろう、換気扇がわたしの目の前で唸っている。
 中へ入ると案の定、左手に流し場があった。そこはダイニングキッチンで、洗い残された食器類が、危ういバランスで踏ん張っていた。廊下を挟んで左手にトイレ、バスルーム。最奥に仕事部屋を兼ねた質素な六畳間の和室があり、そこからベランダが丘の景色を見下ろす形で迫り出している。和室は暗くじめじめし、いぐさの捲れ返った畳の上にはちゃぶ台とファイリングキャビネットが置かれていた。
「既に一度、この宅へは入っているんだろう?」わたしは訊いた。
「コテツさんに電話を入れる前に入りました」と、流し場で汚れを拭いながら、彼女は答えた。
「そのときに刑事課長殿は一緒だったのかい?」
「いえ、鍵のありかを知っているのは私だけなので。課長はその後、確認に訪れただけでしょう」
「失踪なんていっても、雲隠れじゃないんだ、何か目的があるはずだろう」
 彼女と相談しながら、わたしは一人勇んで部屋中を隈なく探索していた。ほとんど使われていない押入れには、無造作に煎餅(せんべい)布団が投げ出されているだけである。和室のファイリングキャビネットには鍵が掛かっていた。それからベランダの使い古された収納ケース、キッチンでは流しの中、トイレでは水槽まで目を届かせた。しかし、無駄足だった。そんなところに何かを隠すのは、不意打ちのガサ入れに切羽詰ったしゃぶの元締めくらいなものだ。
 バスルームを漁っているときに、守永の呼ぶ声が和室から聞こえた。
「これを見ていただきたかったんです」
 和室へ戻ると、彼女の手の中で、六枚の写真がポーカーの手札のように並んでいた。わたしはそれを受け取り、ちゃぶ台の上で観察した。
「私がさっき来たときにも、いくつかの資料と一緒にデスクの鍵が掛かった引き出しに仕舞ってあったんです」と、彼女は付け足した。
「鍵はどこに?」
「いつも鍵の掛かっていない引き出しの奥に隠してあります―― 一応、これは仕事上のパートーナーとして知っていたことなので、あまり誤解をされましても……」
 口の中で曖昧に言葉を捏(こ)ねる彼女を放っておき、わたしは写真を見た。望遠レンズの付いたカメラで遠巻きに撮影されたものだろう、そこからさらにデジタルズームでぼやけたアップにされている。一枚につき一人、伏羲のいた黒鉄町のマンションを出入りした者達が写されている。
 一枚目が、アゲハ。二枚目、三枚目がメルセデスに待機していたスキンヘッドとレイバン。四枚目、五枚目には見覚えのない男と女が一人づつ。六枚目に、真夏にもかかわらず白いフード付きパーカーを頭からすっぽり被った者が写っていた。線が細い体つきのため、性別は判別ができない。
 どの写真にも付箋が貼られ、出入りした詳細な時刻が記されている。原と守永以外の捜査員が収めた資料なのだろう。
 わたしは守永に言った。「原は、自宅に捜査資料を持ち帰っていたようだね。これは不味いことなんじゃなのか?」
 引き出しの中に腕を突っ込んで、得体の知れない紙資料を引っ掻き回していた守永は、気まずそうな表情だった。
「写真の中に見覚えのある顔はありましたか?」と、彼女は以前の話題を引き伸ばした。
 質問には答えなかったので、多分そういうことなのだろうと納得し、わたしは彼女へ答えた。
「マンションの見張り番の男達、それから伏羲と同じ部屋にいた女、この三人には見覚えがある。マンションに入った時間は男女の組が最後だが、胡散臭さで言えばパーカーを被った白いの(・・・)が一番だ。ひねくれて考えなければ、彼が本命で、通報者は最後に入った二人組みのペアだろう」
 わたしは守永の隣へ行って、引き出しにの中に眠る資料を眺めた。かなりの量があるが、それらも全て捜査資料のようだった。
「それ以上、この事件の詳細を訊こうとはしないのですか」
「誰が殺されたのか。誰が殺したのか。それが大切だ」
「銃殺だったんです。捜査員は誰も銃声を聞いていなくて、通報で事件が発覚したんです」
「どんな方法にしろ、人が殺されたことには変わりない。可能性も考えれば切がない。そういう種類の拳銃を使っただけなのかもしれない。君達はライフルマークを洗える、その結果でものんびり待っていたまえ」
「……はい」
 わたしも捜査資料に目を奔らせた。そこに書いてある文面は理解できるが、これまでの事件に関する文脈が明らかに欠如しているため、内容は掴めない。
「やはり、原はまだ捜査を続けているという可能性が高そうだね」
「なぜ謹慎になった今でも捜査を続けているんでしょうか……? コテツさんにはそれがわかりますか?」
 彼女は手を休めて振り向いた。この娘らしい真っ直ぐな眼差しで、わたしを見つめている。
 期待に満ちたような視線を、横を向いてわたしは避けた。顔を動かした先で、不器用に飾られた写真立てをわたしは見止めた。ファイリングキャビネットの引き出しの中に、守永の部屋にあった写真と同じものが横たわっていた。白いワンピースに赤い帽子を着けた赤嶺愛美が、原に寄り添っている。それを見たとき、わたしの中で何かが渦巻き始めた。
「なぜ謹慎になった今でも、先輩は捜査を続けているのでしょうか……?」守永は同じ質問を繰り返した。
 守永は、ちらりとわたしの視線がどこに向いているのかを確認した。彼女の中でも何かが渦巻いていた。
 わたしは写真を持ってベランダへ出ると、太陽の明かりの下で観察した。が、特異な事があるわけでもなかった。心霊写真よろしく腕が一本多いわけでもないし、思わせぶりに守永と赤嶺愛美の顔が似ているわけでもなかった。
 この写真には何も変わったところは無い。原にとっても大した意味はない。事件の内容も、もはや今の日本においては珍しくもない。警官の娘に麻薬所持疑惑があった、これも珍しくはない。この事件は、スキャンダルを生み出しはしたが、中身は、街に溢れた理由の無い小さな犯罪の一つに過ぎない。ならば、それだけの事として、原の中でも過去に片が付いているのだろう、とわたしは思っていた。彼は守永にも、事件の原因は赤嶺愛美自身にあると告げたし、行動にも、いつも過去を振り切った匂いがあった。だが、良く考えてみると、守永は金沢刑事課長に何と言っただろうか。
 “たとえそこにいるのが、恋人を殺された過去を持ちながらも、悲劇を繰り返さないがために働き続ける者であってもですか?”。
 彼女の眸には、原の像がそう映っていたのだ。原が、わたしや世間の目に幾らその感情を押し隠そうとしても、彼女の目にはそう映っていたようだった。彼が過去を過去として割り切っているベテラン刑事だという考えは、わたしの浅はかな幻想なのかもしれない。
 “なぜ謹慎になった今でも捜査を続けているのでしょうか……?”。
 守永がそうわたしに訊いたのは、原が過去に縋(すが)っているような男ではないと、誰かに否定してもらいたいからではないのか。彼女にとって、原は憧憬(どうけい)の的というよりも、やはりもっと純粋な感情の対象だったのか。
 ふと顔を上げた。
 夕刻の闇が忍び寄る室内は、ひどく暗がりで、ベランダからは何も見えなかった。先ほどには、はっきりとわたしの眼に焼き付いていた彼女の気丈さも、暗闇に霞んでいた。
 わたしは言った。「原はまだ、過去から逃げられないというわけか――。単純なことだけに、原のような男なら乗り越えられているものだと高を括っていたのが間違いだった――」
 わたしはこの時はじめて、彼女が今まで一度も見せなかった涙が、その朱に染まった頬の表面を撫でていくのを見た。
「はい」と、彼女は静かに一滴の涙を拭った。「……誰も、原先輩に、過去を忘れさせてあげることができません――」
 列車の音が、単調にわたし達の間を蝕(むしば)んだ。
「原を探すか」と、わたしは言った。「黒鉄町からだ」
「はい」
 わたし達は青木橋まで戻ると、ブリティッシュグリーンのローバーに乗り込んだ。

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