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※申し訳ありませんがルビはカッコ表記です。ご了承ください。
 

THE BLANK TRACK
( correction version )
by
Taki Sara
Copyright © 2007-2010 by
Taki Sara





   9

 片足をドブに突っ込んだような気分のまま、わたしはマンションを出た。コンビニに駐めたBMWの中で助手席をリクライニングさせて原を横たわらせると、情報の引き出しを頭の中で整理した。
 その間に、原は正気を取り戻した。血はシャツに濃い錆色の染みだけを残し、すっかり生々しさを失っている。
 原は時間を気にすると「守永を連れてくる」と一言だけ早々に告げ、ガードレールを跨いで道路の向こうへと消えた。
 夏の太陽はこの時間にして早くも天上で燃え、その光を浴びた港町は薄い雲の下で活気付き始めている。
 このまますぐに芸者町へ足を向けてもよかったが、時間帯が早朝のせいで身動きはとりづらかった。ホステル郡を浚うのならば、従業員の協力が不可欠となる。なのに、こんな時間から出向いて行って、わざわざ彼らに嫌な顔をする訓練をさせる必要は無いのだ。
 待ち時間は永かった。煙草を吸う人間ならば、こういった待ち時間に堆(うずたか)く積まれたシケモクを眺めて、自分の気分を推し量ることができるのかもしれない。しかし、だからといって何なのか。煙草を吸えば待ち時間が葉と共に燃えて短くなっていくとでもでいうのか。短くなるのは自分の寿命だけだという気もした。
 原が守永を連れてきたのはそれから十分後だった。張り番の取次ぎを終えて、もつれた携帯受令機をヒップポケットから引き抜きながら二人はやって来た。
「解散だ解散」原が声を掛けた。二人は象牙のような顔色をしていおり、目の下は色が抜けたように隈が張っていた。
「帰り道がよくわからない」わたしは空いた駐車場に佇んでいた。「連れまわしているつもりだったが、連れまわされているのはわたしの方だった。君らが得意のやり方さ」
「守永に送っていかせよう。俺は署に帰ってまだやることがある。課長が基本にうるさい部類の人間でね、嘘でも報告は怠れねえんだ」
「伏羲にぶちのめされた事もちゃんと報告するんだぜ」
 彼はつまらなさそうに笑った。「あんな男のことなんか気にしてたら刑事はやってられないべ。それにテメェは馬鹿だよ。今日あった出来事を丸々課長に報せるわきゃねえだろ」
「君の立場なんて知ったことじゃない」
 原はBMWのドアを引き、運転席へ乗り込んだ。ウィンドガラスを下ろし、今晩の一山が作り出した仮初(かりそめ)の親しさを滲ませた表情をわたしに見せた。
「その科白返そう。言っておくが、探偵に事件を持って行かせるつもりはねぇぞ。少なくとも、市民は私立探偵に負けるような警察は欲しがっちゃいない。警官はその期待に応えなければならない。これは努力じゃなくて義務なんだ。あんただって、捜査線上に浮かんだら弁解の余地も無く容疑者なんだぜ。四課から槍玉に上げられねぇようせいぜい気をつけな」
「董道一事件の槍玉かい?」
「それは、コテツが一番知ってることだべ」
 そんな捨て科白を吐くと、彼は会話の矛先を守永へと変えた。
「課長には上手く報告しとく。あの親父は俺達をヒヨッコ扱いして舐めているように見せかけて、実はかなり抜け目無いからな」
 守永が申し訳なさそうに頭を下げた。
「私は引き続き情報収集にあたります」
「帰って寝ろ。休むときは休め。突然そんな強靭な人間になるとコッチが困る」
「私は別に……平気です。強靭になるんだと教えてくれたのは先輩ですから」
「言うようになったじゃねぇか。その調子でこれからも頼むよ」
 原はアクセルを踏み込み、車を出すと、黒鉄町を迂回するルートを辿りながら桜木町方面に消えた。
 二人きりになって、守永の自動車を駐めた先へ向かう途中、彼女が最初に述べたのは謝辞だった。
「多くの事情を伺おうとは思いません。原先輩を選んでくれて、ありがとうございました――」
 この生娘たるような真っ直ぐな言葉を、わたしは素直に受け止めることにした。そうすることに、理由があった。身の丈に合わぬような、無鉄砲で向こう見ずな原のやり方を見ていると、わたしは脳みそを濁流に流されるような気分になる。わたしは原に、董道一の姿を垣間見ていたのだ。だから素直に彼女の願いを聞き、礼を受け入れたのだろう。
「好きでやったことさ」と、わたしは言った。「わたしに出来る、ちっぽけなことを思い出したに過ぎないんだ」
 守永のミニは、時間貸駐車場でその深緑色の車体を日に輝かせていた。
 何所を走ったのか、細い路地を縫い、彼女の操る自動車は伊勢佐木町の辺りまで来ていた。その移動中の車内で、眩しそうにフロントガラスの向こうを見つめながら、守永はおもむろに切り出した。
「寄って行かれませんか、うち」
 思わせぶりだが、重大な打ち明け話があるというわけでもなさそうだった。ダッシュ・ボードのデジタル時計は、七時三十二分を報せている。芸者町を訪れるには、時間はまだ早すぎた。
「構わない」と、わたしは答えた。「朝食つきなら」
「事情聴取も付きます」と、彼女は冗談めかして笑ったが、その笑いを否定するかのようにミニは加速した。
 路辺からの話を信じるならば、董道一事件は蔵入りになったはずである。だからきっと、この振って湧いたような事情聴取は相変わらず四課絡みのものなのであろう。

 朝食が付くというのも事情聴取があるというのも、半ば冗談でありながら事実でもあった。朝食だと思われる食パンとコーヒーを与った一方、再び董道一事件についての事情聴取とも呼べぬような砕けた調子の質疑応答が続いたのだった。董道一との出会い、関係、別れ、事件発覚のときの心理、犯行時間帯のアリバイ、その他執拗な質問が、蔵入りとなった事件に関するものとは思えぬほどの扱いで繰り返された。
 損得勘定をすれば、このやり取りはわたしに分が悪かった。そこでわたしは、今までに路辺から仕入れた警察側の情報についての裏づけと、それに伴った彼らの今後の動向を探ることに力を入れた。
 幾らか駆け引きのような話しを終え、一つに分かった事は、路辺が聞かせた通り警察側は董道一事件からはほぼ撤退する、ということだった。
 そうなるとわたしにとって、やはり残るのはこの疑問だった。「警察側は何を目論んでいるのか」その疑問を直接ぶつけるわけにもいかず、少々歪曲した形でわたしは訊ねた。
「撤退した董事件について、なぜ君はまだしつこく調査して回るのかい」
「それはちょっと、私個人についての話ではなくなりますね。この前話したように……」
「本部の四課絡みかい――?」
「警察は、組織で犯罪を捜査していくものです」と、彼女は言った。「個人で調査を行い犯人を捕まえるところまで一人で何もかもこなす個人探偵とは異なりますから」
「それで?」と、わたしは訊き返した。そこで会話がぶつ切られそうだったので、繋ぎ穂のつもりだった。
「以前言った通り、私達所轄の人間は人員補充ということで駆り出されているだけです。所轄に指令が下りたのは情報収集という仕事のみです。ですから私達にとっては情報収集そのものが目的です。目的のための情報収集ではありません。その情報がどのように活用されるのかは、四課に任されています。言ってみれば、私達は歯車や伝書鳩といった組織を構成する一つの役割に過ぎません」
 彼女はそこで一旦言葉を切って、わたしに考える間を与えてくれた。
 閉鎖的で陰鬱な警察組織内を、わたしが理解するのは難しいようだった。彼女は決して驕らずに、さらに淡々とつづけた。
「私が今おこなっている事情聴取にどういった意味があるのか。その問いに対する答えは、自分の手柄を得るためだということに他なりません――これは残念ながら、事件を解決するためだということとは異なります――解決するのは私ではありませんから……。ただその行いが、事件の真相を導き出し、犯人を捕らえ、次なる犯罪の抑止に繋がるということだけは明確なのです」
「つまり君達は、やはり支持されたことをこなしているに過ぎないと」
「そうなります……。――今回の件は、それが顕著に表れて見えるというだけです」
「それで君は満足なのかね」
 昨日、彼女が話してくれた、警官になった動機を思い出しながら、わたしは訊いた。
 彼女は首を傾げた。それは満足していないという意味ともとれたし、言っている意味が理解できないという意味ともとれた。
「私は人助けが純粋に好きなので……。例えば、絵や音楽を創ることに自分を見いだす人間もいれば、犯罪捜査に自分を見いだす者もいます。私の場合は、人を救うことに自分を見いだしただけです。変わるのはあくまで周りの環境であって、私自身ではありません。たとえばもし私が別の時代に生まれて、それが戦時中であったら、人を救うために戦うなり医療的な救護をするなり尽力するでしょう。たまたま現在、私が警察官という手段を採っているに過ぎないのです。どんな場所でも、どんな時代でもあっても、私がしたいことは変わりません。だから今も、こうして私は警察官として街を走り回っているのだと思います」
「結構だ」と、わたしは言った。「事情聴取の代価としては充分すぎるほど興味深い話を聞かせてもらったのかもしれない」
「そろそろ行かれますか?」
 彼女は腰を上げ、空になったトーストの皿とカップを下げに行った。
 立ち上がる気にはなれず、気分を変えようと手を伸ばして戸を開け放した。おっとりとした風が吹きこんできて、部屋中の紙類を捲った。
 結局、県警四課の狙いを訊き出す目的は、上手くはぐらかされてしまったというべきか。だが、このままわたしが董道一事件を追い続けるのならば必ず何所かでぶつかるはずである。ぶつかり方が、正面衝突か、玉突きか、ほんの掠り傷で済むのかが問題だった。
 風に靡かれて微かに繰り返されていた紙擦れの音が、突然集積して大きくなった。テレビ台に束ねられていた新聞や雑誌の記事の類が床に落ちたのだった。片付けようと手に取った時、思わず手が止まった。同時に視線も、その数年前の古い記事のタイトルと写真に釘付けにされた。
“crime 廃屋エレベーター内・強姦殺人 警察官愛娘の麻薬所持疑惑”
 モノクロで掲載されていた写真には、事件の真犯人は映っていなかった。頭を垂れる警察関係者の姿でもないし、憤る遺族の姿でもなかった。血を浴びた、恐らく初めから赤かった帽子を、わざわざストーリー仕立てに演じてレンズは捕らえていた。ざっと目を通す限りでは、その物語に被害者はいなようだった。“悪は悪に染まり、赤は赤に染まる”という、深い意味がありそうで無い、字面や響きが良いだけの、いかにも話題を集めそうなサブタイトルが打たれている。
「警察官となった後、はじめてその記事を読んだとき、赤嶺さんの死に私は悲しみましたが、それは義務みたいなものでした」
 背後の声に、わたしは振り返った。
「被害者が自分からその手の道に進んだ人間だと知っていたからです。だから冷めた視線を他人に悟られぬよう、義務的に同情や哀れみを見せていました。内心は、それらの記事と何も変わりありませんでした」
 彼女は部屋へ入ることを恐れたように、暗い廊下にたたずんでいた。
「でもある時、原先輩がその記事を見て言いました。“この女が悪かった。悲しむ必要はないだろう”って。悲しむ必要が何もないと気が付いたときに、わたしは始めて、彼女のために何故か涙を流しました」
 わたしは記事を束ねてテレビ台へ載せると、窓を厳かに閉めた。なぜ原と赤嶺愛美の写真がこの部屋にあったのか、はっきりとは解からないが、その答えはもしかしたら、守永が流したその涙にあるのかもしれない。
「殺された人間にも罪あるんでしょうか」と、彼女は言った。
 董道一が殺される前に、何か重大な犯罪を犯していた場合、彼に罪はまだあるのか。わたしはただ首を横に振って、無粋な断定は避けた。そして話頭を転じて誤魔化した。
「君は今でも、警官であることに悔いはないのかい」
「少しだけ」と、彼女は全身を窮屈そうに竦めた。
 その少しだけがどっちなのか、という問いは呑み込んだ。先程何気なく閉めた窓ガラスに、寝不足気味の目をしばたたかせる無精髭を生やした男が映っていたからである。その姿が、誰でも救えると驕(おご)りたかぶっている自分の末路のような気がした。
「わたしは捜査に戻るよ」
 誂え向きに、ハト時計が部屋の片隅で鳴いた。
「原先輩の無鉄砲のやり方については、何も訊かないんですね……」
 玄関へ向かいながらわたしは答えた。
「警察は何かあるとすぐクビにしたがる――そうやって、問題を捌いた気になっているという印象がある。なのに不見点な原がクビにならない……。それは赤嶺くんの父親さんの影響力かい」
「いいえ、金沢課長です。課長はノルマばかり追う刑事とは違う先輩を評価しています」
「訊くに値することじゃなかった」
 気を取り直して、わたしは靴に踵を入れた。
「これから芸者町に行かれるんですか?」彼女は言った。「話は先輩から伺ってます」
 情報の共有が早すぎるというのも、時に弊害を生むようだった。
「だが、芸者町がどこだか知らないんだ。この辺りには疎くてね」
「芸者町は、根岸線石川町駅の付近です。全国的に名は通っています、有名なスラムなので……。今ではヨコハマ・ホステル・ヴィレッジという地域計画でかなり改善されましたが、一昔前までは、路上生活の日雇労働者の方達がたくさん町を徘徊していました。ゴミ収集も分別回収などが出来ない地区です。それを皮肉ってか“治外法権”などと住民達は自虐的になったりもしています」
「なるほど」
「一度足を運べば分かると思いますが、実際に住民登録をしていない方々が多数居住しています。食料券を取り合って、刃傷(にんじょう)沙汰が起きたような町だったんです」
「伏羲もドヤ街という奇妙な呼び方をしていたね……」
「“ドヤ”というのは日雇い労働者方の簡易宿泊所を指します、三畳一間くらいでしょうか――芸者町には、現在もそのような簡易宿泊所が百件以上も軒を連ねているために“ドヤ街”と呼ばれているんです。昔、横浜が港湾事業で栄えていた頃の爪痕ですね」
「百件以上ね……」
「どうやって、そこからドンさんを探し出しますか? 恐らく、宿の経営者や従業員がフッキの潜伏先を知っていたとしても、多額の現金を握らされていれば、簡単に口を割るとも考えづらいです」
「しかも、端から訪ねて回っても、宿から宿へ相手は移動している……。探偵にローラー作戦はできない」
 彼女が顔を近づけてきた。口は難しそうにひねくれている。期待に醒めたような彼女の眼差しから、わたしは逃げるようにしてマンションを後にした。

 大通り公園を歩きながら、丁玲には一度連絡をとっておこうと決めていた。芸者町にある無数のホステル郡を端から訪ねまわったところで、ドン自身が匿われているのならばそう簡単に決め手となる証言は集めづらいかもしれない。丁玲に何か心当たりがないのか、可能ならば初手(はな)から見当をつけて行きたかった。
 わたしは携帯電話を取り出してディスプレイを眺めた。時刻はもうすぐ九時になる。ホステルの客は各々出掛け始める時間だろう。
 わたしはリダイヤルで丁玲の携帯番号を呼び出した。
 だが、芳しくなくなかった。同じ音が繰り返し耳に残っただけである。相手が出たくなければ出る必要はないのだ、こんなものなのかもしれないと思いながら、わたしは芸者町へと向かった。

 町を一周しないうちに、芸者町は散策には適さない界隈だということは分かった。路上駐車が多すぎて歩きづらく、景観も、木造建築の平屋と宿を謳う看板に占領されていて変化はないし、空気は饐えて鼻をさす。時折注意を促されるのは、道路脇に捨てたように投げ出された自転車や家電セット、寝具類などだけだった。平日の午前中にも関わらず人影は濃く、何度治療を受けてもぶり返す虫歯のような町だった。
「あんちゃん役所の人間かぁ」
 そう訊かれたのは、町を歩いて三周目、簡易宿泊所を数十件訪ねた後の頃だった。
「それとも道にでも迷ったか。何度もここいらをうろうろしているのう」
 振り返り、わたしは答えた。「役所の人間に見えるのかい」
 そこはメインストリートから折れた先にある空き地だった。人が擦れ違うのがやっとなほど手狭いな、看板がひしめいた路地を抜けると、浮浪者たちによる屋外集会所のような形でその場所はあった。ブルーシートの翳で人だかりができ、その中心でテレビが録画の競馬を放映している。
 老人はその外れで、キャンプ用の折りたたみ椅子の上から、ワンカップ越しに皺だらけの微笑を見せた。掃除の必要がある歯だったが、それとは不釣合いに眸は艶(つや)やかに光った。
 彼以外にも幾人かが黙ってわたしに視線を向けている。
「いんや、営業で客が取れなくて逃げてきたクチかもしれんな」と、濁声で他の老人が言った。
「客がとれないのはいつもだけど、今日は逃げちゃいないんだ」わたしは答えた。
 最初に話しかけてきた老人は、寒そうにみすぼらしい衣服をかきあわせた。かなり酔っている様だが、懸命にしらふを装っている。
「今日は寄り合いでな」と、彼は言った。「配給は随分前に終わっての。これから炊き出しで、皆で食事をするところじゃ」
 見やった先に、ベニヤ板で設けられた即席の調理台があった。風呂釜のような鍋から湯気が上がっている。
「社会に戻る訓練の一環じゃよ。人と話すのが、今のわしらにとって何よりも大切なことじゃ」
「人を探してる」と、わたしは用心しながらも言った。「今朝から探しているが、見つからず、もう昼を回った。正直、手を拱(こまね)いているんだ」
「警官かのう。お主、広域捜査でもしているみたいじゃな」
「そこまで評価してくれたのは爺さんがはじめてだ」
「失礼なことかね」
 わたしは黙って首を横に振った。
「誰を探しとるんじゃ」と、老人は言った。「わしはここが永い、力になれるかもしれんぞい」
「爺さんはどっちの身方だい」
「わしゃ金の身方だ」
 わたしは長札に手を伸ばし、夏目漱石を一枚引き抜いた。皺の中に汚れが染み付いた手を出し、老人はそれを摘まみ取った。
「誰を探しとる」
「ドン・クーシャン。中国人だ」
 その名前を出した途端、老人以外の注意はわたしから逸れていった。怪訝な顔のわたしを察して、老人は口元に手を添え、したり顔でひっそりとしゃべった。
「ここにいる者は皆、カツアキを慕(した)っているんじゃ。社会を外から眺める同族なんじゃよ。カツアキは馬鹿みたいに人目に脅えるでな」
「カツアキ?」
「克服の克に、日が二つの昌(あきら)か、と書く。それで中国ではクーシャンと読む。克昌は日本に馴染むためにカツアキの名を使っているんじゃ」
 わたしはもう一枚彼に札を握らせた。「こいつはサーヴィスだと思ってくれて構わない」
「何も知らんようじゃの、お主。と言っても、わしらも狂言師じゃあない。金を貰って話すのが商売じゃないんじゃ」
「さっき、爺さんは金の身方だと言った」
「お主のようなカタギの人間の前ではのぅ」指を舐め、金を確かめた。「――夕方動きがあるじゃろう。じゃなかったらもう一度此処へ来なされ」
「今すぐ会いたいんだ」
「知らぬ慣行に首を突っ込むな。此処には此処のルールがある。わしを信じなさい。お主は夕方までぶらぶら酒でも飲んどればいい」
 見えない覇気に気負わされ、わたしはそこを去った。
 ドン・クーシャンのところまで、手を伸ばせば届くところまで来ているという確信はあった。警察も筋者も届かなかった相手だ。どんなものでも、追い越せば引き離すのは早いものかもしれない。
 わたしは町の出口へと向かった。途中で一人の物乞いが両手を差し伸べてきた。百円玉を握らすと、彼は礼を述べてどこかへ消えた。
 彼らは何所へ行くのだろうか。町は少しづつ変わっていると守永は言った。追い出されたその先で、彼らは何を求めるのだろうか。わたしがその時になって、彼らに恵んでやれそうなものは、何一つ見つからなかった。だから、今ぐらい別に小銭をやっても、誰にも咎められる筋合いはない。

 夕方まで、二つのことをして時間を友好に活用することにした。一つは中華街の動向を知るために情報収集をすること。もう一つは丁玲に現状を報告することである。
 すぐに効果が見込めるのか確証はないが、一つ目に当てがあった。

 リャンズ・バーの戸を潜ると、中華街の喧騒が嘘のように遠くへ消えた。わたしのような人間にとって、バーの良いところなどといういうのはそんなものしかないのだが、それが時に代えがたい貴重なものに感じられることもある。
 キーンはわたしの姿を見ると、ガロン瓶の栓が抜けたとでもいうように話し始めた。昼から店を開けたはいいが、余程退屈だったに違いない。昼食にクラブサンドを摂りながら暫く談笑を交わした後、わたしはある頼みごとを切り出した。
「中華街の動向を探ってもらえないかい」
 彼は目を剥いた。
「探偵稼業が儲からないんで株でもはじめたか。いつから鞍替えしたんだ?」
「やっぱり君はマスターには向いてないよ」
「テメェだって人のこと言えねぇぞ」
「あの事件があってから、中華街が慌しくなりはじめているらしいんだ。――慌しくなってから殺人事件が起こったんじゃない、殺人事件が起こってから慌しくなったんだ」
 キーンは、何所を見ているのかも分からないような表情で、ひっきりなしに女々しく唇を噛んでいた。やがて舫(もや)いみたいに硬く唇を結ぶと、目に火が点いた。
「任せとけ。死人のために、できることだ。やってやろう」
 わたしは頷いて、席を立った。
「はやいな、もう行くのか。せっかく店を整理したんだから、ゆっくりていってもらっても構わねぇんだが」
 キーンはグラスを磨く手を休めると煙草に火を点けた。
 わたしは辺りを眺めた。店内は少しづつ調度が整い始めており、スポンジを吐き出していたみすぼらしいスツールも、木製で味のあるものに取って代わっていた。
「煙草、ゴロワーズだったか」と、わたしは言った。「リグウよりはいいな。シガローネというのを知ってるかい」
 わたしの歯切れの悪い態度を愉しんだ後にキーンが言った。
「ああ、それもフランスのだ」
「丁玲はそれを携帯していたな。彼女はあれからここへ来たかい」
「あの中国女か? 毎日のように来てるぞ。今日も朝方にぶらっと来ると一杯引っ掛けて消えちまったよ。相当参ってる様子だったね。ホテルへ帰ってるんじゃないのか」
「そうかい……なかなか彼女に連絡がつかなかなくてね」
「時化(しけ)の予感がするよ。こういう湿っぽい空気のときは時化(しけ)が来るんだ。依頼人の面倒を診てやれよ」
 彼は明朗に笑った。まるでアルファベットの字面が浮かんできそうなデリカシーの無い笑い声だった。
 笑い声を耳に、わたしは時化に備えて店を出た。
 店先で、また丁玲の携帯電話を鳴らした。やはり芳しくなかった。そこで、わたしは直接ホテルへ出向いて彼女の部屋を尋ねてみる事に決めた。
 中華街の路地裏を縫って、日の光り溢れるメインストリートへ出た。やや下校時刻には早すぎるが女子高生達がごった返し、彼女達に中国人の売り子がさかんに試食用の甘栗を押し付けている。良く見ると、売り子の目はそこら辺に売っているタピオカに似ていると思った。
 東門を潜って日本大通りを横浜情報文化センター、法務合同庁舎、開港記念館と歩いた。途中で涼むためにコンビニへ入り、ついでにロード・マップも購入した。そこを出るとき、滑舌が悪い茶髪の店員に、盛夏真っ只中に何をしているのかという嘲笑にも似た視線を浴びせられた。
 確かにその通りで、外は暑かった。そこからは、辛いときにいつも思い出す約百九十の暗示を自分に言い聞かせて、馬車道まで踏ん張った。半分を超えれば残りは直ぐとは言ったもので、確かにその通りだった。
 パシフィックホテルへ着くと、またホールで少し涼んだ。汗はなかなか引かず、いつまでも夏の陽射しがわたしの周囲にまとわりついていた。ベルボーイがやって来たが、昨日と同じ男で、わたしの顔を見るなり巣へ帰った。
 結論から言うと、この作業は無駄足だった。丁玲の部屋をノックしてみたが反応はなく、それ以上ドアと我慢比べをする必要はなさそうだった。わたしが丁玲を狙って撃った二発目の銃弾も外れたのだ。
 ホールへ下りたわたしの目の前を、都合よく通り過ぎたのはあのベルボーイだった。
「君」と、わたしは彼に近づいていった。
「なんでございましょうか?」
 彼は笑顔を面に張り付かせたまま近づいてきて、耳を欹(そばだ)てた。
「昨日の午前中、わたしがここで待ち合わせていた女性を覚えているかい?」
「もちろんでございます」
 正札付きのボーイといった印象の、慇懃(いんぎん)な男だった。彼自身、目一杯謙虚な挙措を振舞っているのだが、それが裏目に出て諂(へつら)っているようにしか見えなかった。
「彼女が今朝、何時ごろホテルを発ったか覚えているかな」
「八時半頃だったと記憶しております」
「それから一度も帰っていない?」
「作用で御座います」
「どこへ行ったのか分かるかな?」
「残念がら、わたくしには分かりかねます」
「昨日、彼女はあれから午後になっても出掛けたりしていたかい?」
「足繁く、いずこかへ通われている御様子でございました」と、彼は迷い無く頷いた。
 だがわたしには、彼女にそんな行くべき場所があるようにも思えなかった。
「失礼ですが」と、ボーイが言った。「誠に恐れ入りますが、お客様はご婦人とどういったご関係で……?」
「ああ、気にしないでくれよ。大丈夫だから」
「大丈夫、と申されましても……」
 彼の眼差しが、自身のボーイ人生の経験を総動員してわたしを疑った。適当に誤魔化しても、いずれまたホテルへは来ることになるので下手に言い訳することも出来なかった。
「調査員なんだ」と、曖昧に答えた。「ちょっとポストモダンなね」
「作用で御座いましたか」と、彼は答えた。「なるほど」
 彼の唇は何度も“ポストモダン”を繰り返したが、それが形になることはなかった。わたしは、ポストモダンなベルボーイをそこへ置き去りにしてクイーンズスクエアのコンコースに戻った。

 四時、ベンチに座りながらロードマップから目を放し、時計を確認するとその時間だった。スクエアは帰宅ラッシュを前にして、ひしゃげた五寸釘のようなしかめ面をしたサラリーマンで賑わい始めていた。夏の太陽はまだ傾くことが気に食わないようだが、時間は夕方ともいえる。
 昨晩は徹夜に近かったためか、眠気の波が押し寄せてきていた。深い眠りへ転げ行く意識を途中で踏ん張らせ、わたしは目を開けた。口の中が乾いて砂漠にいるような気分だった。口の中だけでなく、わたし自身も砂漠にいるのだ。砂漠で一滴の雨を待つ人間のように、わたしは空を向いた。
 だが実際には、スクエアの屋根が空を隠し、空から何が振って来ようが、わたしには届くことがない。
 しかしその代わりに、突然足元で水の流れる音を聞いたような気がした。
 携帯電話が鳴ったのだった。
 急いでディスプレイを確認したが、丁玲ではなく、公衆電話との表示だった。原か、守永か、路辺か、想像のつく相手が全員警官だということに、わたしは愕然としながら通話ボタンを押した。
「コテツさんですか?」
 受話器から出てきたのは、高く張りのある若々しい男の声だった。どこかで聞いたことのあるような声だという気もしたが、気のせいだという感じもする。電話だとこんなものなのだろう。
 わたしは言った。「こちら、コテツ探偵事務所出張所」
「あなたはコテツさんご本人ですか?」
「そうです。出張所でも本人が直接出ます。そちらは?」
「名乗る前に、ニ、三確認させてもらいたいことがあります」
「それは結構。私立探偵を雇うのに下調べは欠かせませんからね。それに、最近は、いくらかこんなやり方をされるのにも慣れっこなものでして」
 探りを入れるつもりも込めて、そんなことも言ってみたが、返ってきたのは単調な答えだった。
「どういう理由にしろ、あなたがドン・クーシャンという男を捜しているのは確かな事実ですか?」
「そういう話題でしたら、先に言ってもらいたかったですね。稼業柄、あまり軽率に口を開くことも出来ません」
「前置きはこの際省きませんか? お互い、その方が損はしないと思うんです」
「お互い、と言われても、わたしはあなたのことを知りませんよ」
「あなたがドン・クーシャンを探していると言う噂を耳にして連絡をした者、ただそれだけです。彼を探していないと言うのであれば、電話は無かったことにして切りますが」
「脅迫者みたいなことを言うんですね。オーケー、あなたの言うとおり、わたしはドンという男を捜しています。何かヒントでもくれるんですか?」
「よかった。安心しましたよ。ずっと捻くれた返事が返って来るのじゃないかと不安になりました」
 わたしは言うことに困って、見えもしない相手に向かって肩をゆすった。
「どうしてあなたは突然連絡を寄越したんです?」と、わたしは訊き返した。
「それはコテツさん。あなた自身が一番よくわかっているんでしょう。あれだけ派手に動き回ったのですからね。その噂が私の耳にも届いたんです」
「あなたは耳が良いんですね」
「もともと性格に暗いところがあるものでして。臆病者は敏感なんですよ」
「なんとなく。あなたがどんな人間なのか理解できて来ました」
「そうですか? それで、あなたは私の知っているコテツさんに間違いはないのですね?」
「あなたの知っているコテツさんが、日がな一日デスクに腰掛けているような暇人で、毎日の食事にも困っているようなコテツさんならわたしだと思いますよ」
「私の知っているコテツさんは、今朝、芸者町でとある老人と話しをしているはずなんです」
「じゃあきっと同一人物ですね」
「でしょうね。コテツなんて、そうある名前ではありませんから」
「あなたが納得できたところで、わたしからもそちらの名前を伺ってもいいですか」
「ドンといいます」と、彼は名乗った。
 電話を握りなおし、わたしは頷いた。「と言うと、どちらのドンさんになりますかね?」
「ドン・クーシャンです」
「董(ドン)家の長男の?」
「はい、そうです」相手は確固たる様子で断言した。
 わたしの想像していたドン・クーシャン像とは似つかわしくなかったこともあり、多少、目の前の現実を受け入れるのにはタイムラグが生じた。意思に反して逸(はや)る口先と気持をなんとか抑えながら、わたしはゆっくりと言った。
「では、わたしがあなたを探していると言う噂を聞きつけて、わざわざ連絡を寄越してくれたのですか?」
「……答えずらいですね。一理あるとだけ言っておきます」
「まさか眠れる獅子と呼ばれる方から直接連絡があるとは思ってもみませんでした」
「その呼び名は好きじゃないんです。血筋から切り離してみれば、私自身はただの日陰者です、そんな風に呼ばないで下さい」
「しかし……どうやってこの番号を?」
「どうも情報の入りどころは自分でも驚くほど多いらしく、情報を売りつけようとしてくる人間が定期的に接触してくるので……それでコテツさんのことを知ったとだけ、明かしておきましょう」
 どこから知れたのか、考えてみた。だが心当たりは多過ぎた。何にせよ、何事もドン・クーシャン本人に会って訊いてみるのが一番の近道である。
「今、どちらにおられますか?」わたしは言った。コンコースに閉じ込められた雑踏のざわめきも、今では耳に入ってこなかった。
「中華街にいます」と、ドン・クーシャンは言った。「それ以上はちょっと」
「中華街? 芸者町ではないのですか?」
「あそこは、どうやら警察に漏れてしまったようなので……ほとぼりが冷めるまで寝かせておきます。私自身にやましいことは無いのですが、今は警察と問答している時間が惜しいのです」
「警察に漏れたのですか?」
「ええ」と、彼は静かに答えた。「ちょっと事態が慌しくなり始めていましてね……。これから一山あるでしょう。もうじき、それもあなたにも知れることですから、あまり気にしないで下さい」
「――わかりました」
「それで、あなたは何故私を探していたのですか?」
「簡単なことです、あなたには訊きたいことが山ほどある。一度お会いしたいと考えていたのです」
「会って話す――単純なことですね。単純だが、一番手っ取り早い。コテツさんの噂はいたる所で耳にしましたが、可笑しな用事ではないだろうということは推測していました。だとしたら、これは丁度良い機会かもしれない。実は、私もコテツさんに用事があって連絡したのです。一度お会いしたかった」
「それは願っても無いことです……」
 彼は深々と息を吸い込んだ。「しかし、私もこういう身の者ですので、コテツさんに直接お会いしてというわけにもいきません。ここは代打を使わせてもらいましょうか」
「代打?」
「信用できる代わりの者を使わせる、と言いたかっただけです」
「方法はそれしか無いのですか……?」
「どうしてです?」
「疑っているというわけじゃないんです。ただ、わたしとしてもあなたに直接お会いしたかった。そうでないならば今この電話で本人を前にして話していたほうが分がよろしいようにも思えます」
「直接会ってというのにも理由があるんです。実は、コテツさんに暫く預かっておいてもらいたいものがありましてね――どこかのコインロッカーに預けて目隠し(・・・)で受け渡そうとも考えたんですが、それではやはりコテツさんに対して失礼だとも考えたんです」
「それは、仕事の依頼ということなのですか?」
「そう取って頂いても構いません。だとしたらインフィールド・フライみたに楽な仕事ですがね。詳しいことは使いの者に支持しておきます。陸(ルゥ)という者です。中華街の東門あたりをうろつかせておきましょう」
「ルゥというのは、大陸酒館のマスターのことですか?」
「詳しくは陸に訊いて下さい。今どちらにいますか?」
「みなとみらいです」
「ではこれから十分後にしましょう。さらに十分待ってもコテツさんが現れなければ、残念ながらこちらも身を隠さなければならなくなります、ご了承下さい。そちらの質問にも、陸(ルゥ)の知る範囲内でですがお答えするように伝えておきます。それではこれで」
 言葉も電話もそこで一方的に切られた。
 腕時計を確認すると、四時十分だった。
 わたしは携帯電話をしまいながら、すぐにクイーンズスクエア連絡口を探した。地下四階のみなとみらい線・みなとみらい駅を目指した。先ほどロード・マップを眺めたときに、この建物の地下四階にはプラットホームがあることを知ったのだった。馬車道駅の次は元町・中華街駅である。根岸線を使うよりも、遥かに時間の短縮になる。わたしは肩で群集を切りながら移動し、連絡口を見つけ出した。
 地下三階まで、一本のエスカレーターが吹き抜けを貫いており、壮観な展望が開けた。
 そこで再び、不意打ちのように携帯電話が悪寒にも似た身震いをはじめた。ディスプレイに映し出された表示は公衆電話でも丁玲の番号でもない、守永希望の名前だった。
「どうしたんだい?」わたしはいぶかしみながら言った。「君のほうから連絡をよこすなんてのは」
 わたしは電話を片手にさらに歩を進めた。近未来型のデザインに造られたチューブ状に伸びるコンコースをやり過ごし、駅まで直結するエスカレーターを駆け下りた。
「コテツ……さんですか……?」と、彼女の切迫したような声が耳に飛び込んできた。地下に入ったせいか、電波の状況が余りよろしくなかった。
「ああ。わたしだが」と、答えて券売機でチケットを購入した。電波は虫の息と言った程度で持っている。
 守永の声が、乱れた電波の隙間で聞こえた。「原先輩と一緒ですか?」
「いや、朝に君と一緒に分かれて以来、声も聞いていない」
 プラットホームまでやって来ると、地下鉄の轟音が、トンネルの内壁を伝って縦横無尽に吹き抜けていった。電光掲示板を見たところ、下り線は丁度発車したばかりらしかった。
「そうでしたか……コテツさんはもう芸者町へは行きましたか?」
「ああ、今朝訪れてみたんだが、余りにも手掛かりが薄すぎて帰ってきたところだ」
「警官のわたしがこんなこと言うのも変ですけど……突然四課が、芸者町に向けて動き出していますのであまり派手に動き回らないよう気をつけてください」
「何かあったのかい?」
「はい――面倒なことになりました」
 彼女が、深く息を吐き出すのが聞こえた。
 わたしは言った。「トラブルに慣れた警官がそう言うんだ。やっかいなことに違い無さそうだ」
「実は――」と、彼女が切り出したところで、向かいの上り線ホームに列車が入って来た。騒音で会話が途切れた。列車が止まるまで待ってから、わたしは訊きなおした。
「すまない、もう一度言ってもらえないかな」
「信じられないかもしれませんが、事実なんです……」
「いや、そうでなくて、本当に列車の音で聞えなかったんだ」
「列車? 今、どこにいるんですか?」
「みなとみらい駅だ。次の下り線を待ってる。それで、何があった?」
 プラットホームのキョウ音が去り、上り列車の発車ベルがけたたましく響きはじめた。下り線にも列車がやってくると、アナウンスが同時に響きはじめ、声が重なりあいながらわたしと守永の間を木霊(こだま)した。が、今度の彼女の声はしっかりと聞きとれた。
「フッキの匿われていたマンションの一室で、屍体が発見されました」
 彼女の声も、自分の声も、景色全体が冷たく固くなっていくのを感じた。わたしはその冷たくなった声で言った。
「殺されたのはフッキかい?」
 無意識に声が大きくなっていたが、上り線を行く列車がわたしの言葉を拡散した。
「いえ……、まだ屍体の身元確認はできていません。身分証明となるような物は携帯していなかったようです。私も立ち会って屍体を見たわけではないので……」
「いつ見つかった?」
「午前十時ごろです。男の声で通報があり、私達と代わった張り番の捜査員が部屋に潜入したところ屍体が見つかりました。死後、間もなかったようです」
「あの部屋で殺人が行われたとなれば、犯人の割り出しにそう苦労することはないだろう」
「恐らく……」
 マンションには常に監視がついていたはずである。出入りした者全員が容疑者となるが、その数は決して多くはないだろう。
 ホームではアナウンスの告げた通りに、下り列車が滑り込んできて、ドアが開き、列車からぱらぱらと乗客が吐き出されていた。すぐにまた発車のベルが響き始めた。わたしはもう少し彼女から詳しい説明を聞きだすために、一本列車を遅らせて次の便に頼ることにした。
「事件のことは、君達専門家に任せるが、どうしてわざわざそのことをわたしに連絡してくれたんだい?」
「それには理由がありまして……。コテツさんの力添えをもらおうと思ったからなんです」
「詳しく説明願いたいね」
「正直なところ、私にも詳しいことは把握できていないのですが……。この事件のせいで、原先輩の動きが漏れて波紋を呼び始めてるんです」
「そういうことかい」
「正確に言えばはじめから漏れていたのですが――原先輩のやり方にはもともと粗がありましたので、それをずっと金沢課長が庇って秘匿していたんです。ですが今回は指揮を執っていたのが四課ということもあり、事実が明るみなって、その保たれていたバランスにひび割れが生じてしまいました」
「どこから四課には漏れたんだい」
「分かりません。あの時、張り番についていたのは私だけのはずなんですが……」
 真っ先に頭に思い浮かんだのは、日ノ出町で擦れ違った白いレクサスだった。もともと四課が原の動きを警戒していたとなれば、そういった動きがあっても当然かもしれない。
「わたしの方に、心当たりはなくもないよ。マンションへ入るところをもし見られていたとすれば、原もわたしも容疑者だ」
「事実、重要参考人として既に原先輩はそのような扱いを受けています。ですが不思議なことに、コテツさんのメンや名前は割れていないんです。いずれにせよ、現在のところ先輩の職権は剥奪されていますが……」
「しかし、四課はどうやって芸者町のことまで知ったんだい? わたし達の会話を聞いていたわけでもないだろう?」
「フッキの部屋に、女性が一緒にいませんでしたか? 彼女が事情聴取の段階で、そのことを口にしました。原先輩の行動も主に彼女からの証言がほとんどです」
「彼女はわたしを知っているはずだが」
「彼女にも何か考えがあるようで、他のことには一切口を噤(つぐ)んでいるんです。彼女は既に一時釈放されています」
 アゲハとは何者なのであろうか、と思わずにはいられなかった。フッキとの関係もシラを切り通したというのだろうか。しかし、そんなことを悠長に考えている暇もなさそうである。守永の言葉尻に混じって、ホームに三度アナウンスが流れはじめた。下り線が続けてやってくるようだった。既にドンから電話があって、五分はゆうに経過している。この一本を見逃せば、約束の時間に間に合わせるにはかなり厳しくなる。
「原はともかく、君の方は無事なのかい」わたしは言った。
「はい。ですが、この捜査からは外されてしまいました……。それで、先ほども言いました通り、頼みがあってコテツさんに連絡したんです」
「どんな頼みだい」
「原先輩に、あれから連絡が付かないんです。事が発覚してからは、金沢課長から自宅謹慎の命令が出ていたはずなんですけど……自宅にもいないんです。そればかりか、他の捜査員達は原先輩が消えたことに気付き始めていて、四課の捜査員に知れれば、かなりマズイことに――」
「――自宅謹慎中の警官が失踪とはよろしくないね。それに、仮にも殺人事件の容疑をかけられている身分なのだから」
「はい……それで、コテツさんなら原先輩の動きに何かしらの心当たりがあるのではないかと思い、連絡したんです。すみません……同僚は頼れませんし、他にも事情を明かせる人も、協力してくれそうな知り合いもいなかったもので……」
「気にしなくていい。君は今、どこにいるんだ?」
「原先輩の自宅前です……コテツさんは、みなとみらいでしたね」
「ああ」
 原の自宅がある反町は、上り線で乗り換えも含め横浜の次である。となると、中華街とは全くの逆方向だった。キーンをドンとの面会に行かせるという手段も考えてみたが、ドンの警戒具合からして受け入れてくれるはずもないだろう。
 守永を取るか、ドンを取るか。同時にそれは、原をとるか、丁玲を取るかということにもなるような気がした。そういった逡巡の間があった。それを彼女に気取られたくはなかったが、そう上手くもいかなかった。
 彼女がおずおずと言った。
「あの……もし、無理なら結構なんです。そもそも良く考えたら、刑事が探偵に頼みごとなんて、こんなにおかしな話はないんですから」
 わたしは彼女の言葉を無視した。「わかった。今からそっちへ行こう」
「でも、コテツさんに他の事情があるのならば、無理強いはできません――」
 そう言われてその通りに足が動けば、自分は私立探偵に相応しい人間なのだろう。
「とくに何も無い」と、わたしは言った。
「なんとなく、わかりました……すみません。今更ですが、迷っているくらいならば、やっぱりそちらへ行ってください」
「君が何かに迷ったり罪悪感を感じたりしているのならば、わたしを雇って見る気は無いかい。依頼人を複数人抱えるのは好きじゃないが、今日だけは好きになろう」
 彼女は、私立探偵以外の誰にも頼ることができないと言ったのだ。わたしの中では、それだけで十分だった。
「コテツさんを……雇うんですか?」
「それだと、わたしも自分自身にも言い訳が利くね」
「……だとしたら、こんなに心強い協力者はいませんが――」
「今すぐに、そちらへ向かうよ」
「――やっぱり待ってください。その気持は大変ありがたいです……でも、こんなときに原先輩が近くにいたのなら、また私ノロミって言われますね……。コテツさんが、“わたしを雇わないか”と言ったのを聞いて思い出しました。私だって端くれですが、警官には変わりないんです――。コテツさんが、私立探偵の立場に立ち続けたのと同じように、私も刑事としての立場に立つことにします」彼女は大きく息を吸い込んで、小さく言った。「警官は、どこまでもいっても警官から逃げられません――。私立探偵を雇う警官なんて、聞いたことありませんよ」
「――君がそう言うのなら、わたしは止めないが」
 一縷(いちる)の迷いも無く、電話が切られた。同時に、轟音を連れてホームへ下り列車が雪崩れ込んできた。
 ゆっくりと停車し、ドアが開いた。
 このまま足を進めれば、何の問題もなかった。乗客が吐き出されてきて、突っ立ったままでいるわたしに、次々とぶつかった。列車の出発ベルが鳴り響いた。わたしは佇んだままで、その音を聞いていた。メロディが尾を引いて途切れ、地上まで伸びる吹き抜けの中に吸い込まれていった。ドアが閉じ、車輪が滑り出し、下り線は中華街方面へと消えた。
 わたしは向かいの上り線ホームで列車を待った。反町までは、それで五分程度だ。

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