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※ルビはカッコ表記です。ご了承ください。
 

THE BLANK TRACK
( correction version )
by
Taki Sara
Copyright © 2007-2010 by
Taki Sara





   13

 ハンドルを繰るとヘッドライトが横薙いで、夏の夜を惜しむかのように街へ繰り出してきた若者達の影を両断した。
 わたしは次々に区画(ブロック)を突き抜け、あるときはビール瓶が、またあるときはジンの瓶が照り返す街明かりをフロントガラス越しに見送っていた。そしてその度に、彼らの短い夏物語の結末を眺めているような気分になるのだった。
 深夜にもかかわらず車道は金曜のアイリッシュ・バーみたいに混雑し、FMラジヲの放送番組は一人浮かれる酔っ払いみたいに話題を振ってくる。
「さて、次のコーナーに参りましょう。隔週でお届けしている『ヨコハマにいる私だけの歌姫・歌王子』のコーナー」と、女性キャスターが謳いあげ、歯切れの良い男性キャスターが後付で説明を加えた。
「はい。このコーナーでは、リスナーの皆様が思い入れのある曲を、その当時のエピソードに添えてリクエストするという内容になっております。懐かしの切ないエピソード、随時募集しております。では早速、曲とエピソードをご紹介していきたいと思います」
「先頭バッターは“青い蛹(さなぎ)のままで”さん――」
 周波に乗った男性キャスターの言葉が、頭上を跨ぐ高速道路(ハイウェイ)によって遮られた。絶え間ない自動車の走行音に混じって、街の底を流れる郷愁の嘆きが聞こえる。
 次に星明りがフロントガラスの上空に見えた時、その街の嘆きにも似たスタンダートジャズをスピーカーが歌いだしていた。
 人生は一人きり――過去に降る麗さ、遠い日のあなたを思い出す。
 ここで眠れば、あの日の夢の続きが見えるだろうか。
 街に居るのは、だからきっと彼らは罪人ではない――
 リスナーのエピソードもさることながら、曲自体を一度も耳にした記憶が無かった。
別にそれが罪だということはないのだが、わたしはまだ街に流れる雑音が恋しくて、ラジヲを切った。
 景色の中では次第に車線が増え、街明かりと共に区画も消えていくと、若者達の物語も去っていった。代わりに夜の中で瞬きはじめたのは、目的地であるパシフィックホテルのネオンである。

 ホテルの一室で、わたしは昨日の顛末を丁玲に告げ終えていた。
 話の中軸は、わたしが董克昌に出会う機会を逃した事実と、黒鉄町で発生した銃殺事件の詳細が大半を占めていた。そのため、原と守永の名が話題の昇った時間はほんの僅かだった。
 あれから、黒鉄町の銃殺事件について、警察の初動捜査が明らかにした真相が少なからず幾つかあった。
 まず第一に、凶器の拳銃はかつて中国本土で大量生産されていたモデルである黒星(ブラックスター)であったこと。第二に、事件は請け負い殺人である事実に疑いの予知が無くなったこと。第三に、犯人は既に国外へ逃亡した可能性が高いということ、である。警察がどういった経緯の捜査でここまでの事実を掴んだのか、私立探偵の知るところではないが、この三つの見解には、ちゃんとした深い因果関係がある。
 警察側の描いた黒鉄町銃殺事件の全貌はこうだった。凶器が使い捨て拳銃の黒星(ブラックスター)であった時点で、犯人は程度の差こそあれ痕跡を残すことを覚悟していたという見識が立ち、請負殺人の線が薄いながらも一つ浮上してくる。警察は組織力と機動力を駆使し、四課のファイル、ライフルマークのデータ、鑑識結果、周辺への聞き込み、所轄の握る情報を徹底して洗い、一層請負殺人としての確信を強めた。請け負い殺人となれば、犯行計画を企てた人物は、仕事(・・)を持ちかけた時点で執行人を国外へと逃亡させるための経路を予め用意していたはずである。そのおかげで、執行人は白昼堂々とフードつきパーカーの一張羅と拳銃一つで犯行が行える――むしろそうした身軽さが、フットワークを軽快にし、上手く事を運べば半日で異国の地へと足を置くことを可能ならしめる。となると、事件から半日以上経過した今、既に執行人は国外へ逃亡した可能性が高い。
 なぜ、それだけ周到な準備のできる事件の首謀者が、標的であるフッキの容姿を執行人に伝え損ない、誤った殺人を行うなどという失策を犯したのか疑問が残るが、一応はこれで殺人前夜から現在までの大雑把な一連の流れに恰好がつく。
 これが事実にしろ事実でないにしろ、こうした因果関係を見つけるのは警察が得意とするところでもある。似たようなか細い確信を幾つも縒(よ)って、黒鉄町銃殺事件が請け負い殺人であり、実行犯は既に海外へ逃亡しているとの見解を警察側は示したといえよう。
 しかしいずれにせよ、遠い異国の地へ旅立った犯人を直接追跡するのは、私立探偵の仕事ではなかった。
 警察が初動捜査によって手に入れたこれらの情報を、わたしはニュースの断片から推測し、守永の言葉から確信を得ていた。
 以上のような昨日を集約したわたしの話を、丁玲はベッドの上で慎重に耳を傾けていた。寝覚めたての状態で朝食の献立を聞かされている貞淑な妻のように平板な調子だったが、一言一言が、彼女の疲れ切った心臓を突き刺していたのは確かだろう。
 真夜中を回って、わたしが話を終えると、丁玲は疲労困憊し、静かにベッドへ横たわり、そのまま寝入ってしまったのだった。

 時刻は午前三時だった。
 わたしはベッドから滑り落ち、洗面所で歯を磨き、自転車用のグリースみたいな味のする歯磨き粉に顔を顰(しか)めて寝室へ戻った。半分ほど残っているタンカレーを化粧台に見つけだして一口いただいた。丁玲の慰み物が、ウィスキーからジンに変わったのだ。
 携帯電話が震え出したせいで、こんな時間に目が覚めたのだった。しかし、再びベッドへ入るまで、そのことに気づかなかった。それほどわたしも疲れ切っていたのだ。
 掃除婦に部屋を追い出されたような気分で、通話ボタンを押しながら廊下へ這い出した。
「こんな時間におまえさん何所におるんだ? 事務所に繋がらなかったぞ」
 相変わらずの、タンクローリーがガソリンスタンドに突っ込んだみたいな抑揚で、路辺が言った。受話器の背後では、バイクの排気音がけたたましく鳴っている。路辺の声もバイクのエンジンもアイドリング状態だ。
「神奈川の警官が、あんまり食(は)み出すと桜田門が黙っちゃいないよ」と、わたしは答えた。「またわたしをペンの暴力でサンドバックにしようってはらじゃないのかい」
 背後の排気音と一緒になって路辺が吼えたが、そればかりで何も聞こえやしなかった。やがて轟音が遠のくと、路辺は不機嫌に陳情しはじめた。
「交通安全課の知人にハイウェイのパーキングへ呼び出されたはいいが、検問の真っ最中でな。引っかかった若造がぶいぶい言って聞かんようなのだ。私のような定年間近の老刑事が他部署にいるなんぞ、若い者との軋轢(あつれき)が生んだ悲劇的な結末だ。殺人現場に居られるのが鬱陶しいもんで、蚊帳の外に放り出されちまったんだ」
「それでわたしに助けてほしいのかい」
「おまえさんが来たところで仕事が増えるだけだ。そして同時に肝心なのは、仕事が増えるだけでなく、複雑にも面倒にもなるということだ」
「わたしの親指は通話切断ボタンの上だぜ」
 狼狽(うろばい)とも考え込んだともつかない嘆息が聞こえてきた。「――いや、その、だな。おまえさんがまだ董道一事件に絡んどるのか、ひとつ訊きたかったんだ……」
「依頼人がいるんだ」
「まだ金の成る木を揺すっとる、というわけか……」
「真面目に畑を耕しているのさ。何もかも依頼人に話して聞かせたばかりだ」
「だが、おまえさんの場合は、混ぜ返しとるの間違いだろう……。中華街を中華鍋の上のチャーハンみたいに混ぜ返しとるんじゃないのか」
「親指は気が短いんだ」
「おまえさん、董道一事件にまだ絡んどるのか?」
「同じ質問に対しては、同じ答えしか返せないよ。尋問のテキストを復習したほうが良い」
「茶化しとるわけじゃないんだ。もし、おまえさんが、まだ董道一事件に喰らいついとるのだとしたら、私の寝覚めが悪いのだ。とても枕を高くしては眠れんぞ。こないだ(・・・・)オマエさんに話した内容に誤謬があったんだ――新事実が発覚してな」
 それをわざわざ連絡して寄越すなんて不気味なこともあるものだ、とは言わなかった。不気味なものが人を魅了するのはフロイト先生が首を賭けて検証済みなのだ。
「また例の場所へ来とくれ」と、彼は言った。「忙しくてこの町を出られんのだ」
「いつ行けばいいんだい」
「今からどうだ? どうせ暇をしとるに違いないんだろう?」
「暇はしていないが構わない。それから、断定しつつ伺うっていうあんたの言い分は良く分からないな」
「そう突っかかるなよ。今日は上映中だから車が多いぞ。迷うなよ」
 珍しく、相手方から電話を切った。
 わたしは部屋へ戻り、横切って、ナイトランプを低く灯しながらメモ用紙を探った。
 急用が出来たことと、可能ならば明朝にリャンズ・バァで待ち合わせたい旨を書き残したメモを化粧台に載せ、タンカレーを重石代わりに置いた。
 卓上に、彼女がいつも大切そうに抱えていた半月型のハンドバックが見当たらなかった。サイドボードの上では、盛りを過ぎて花弁を落としたジャスミンの腕環がしお垂れているのみである。ハンドバッグは丁玲が抱えて眠っているのかもしれない。わたしはそのままホテルを出ることにして、マークⅡのキーをトラウザーズの中で弄(まさぐ)った。

 四十分走ると、ようやく湘南地区の末へ入った。防砂林を割って海が望め、その黒々とうねる絨毯の上で、橙色のナトリウム灯を纏った小さな港が眠っている。パーム椰子並木のドライブウェイは目前に迫っていた。ドライブウェイもハイウェイのパーキング・エリアも、ウィスキー色に染まっている。
 緩やかにカーブしたスロープを上がりきると、今日はシアターのリアゲートが下りていた。ジーンズパンツにプリントシャツのいつかの青年が、わたしを迎えた。
 彼は、なめたナットみたいに締まりなく言った。
「いらっしゃいやせぇ」
「事件屋稼業だ」
 これは、いつか彼がわたしに向かって言った科白だった。
「トラブル・イズ・マイ・ビジネス」と、彼は親指を立てた。「――悪いね、今の時代にハンフリー・ボガードなんかやってたら経営破綻だから。でも嫌いじゃないよ、オレ」
「映画を観たいんじゃない」
「ここはDC(ドライブイン・シアター)だよ、兄ちゃん。日本で最後のDCだ。泣かせるじゃないの、バブル期にゃあんだけ盛況した商売が、今じゃあ……っつうか、あんたアレっぽいね、『勝手にしやがれ』に出演してた、ええと」
「路辺周平なら知ってる」
「げぇ、あんたそういえば……」と、彼は唾を飲み込んだ。それからアスファルトに向かって念仏を唱えながらリアゲート迫り上げた。
 アクセルを踏んでゲートを抜けると「路辺さん、いつも一番奥にいるよぉ!」と声が追いかけてきた。
 わたしは、映画をそっちのけでスポーツカーの車内で絡み合う男女を横目にセルシオを探した。鑑賞スペースでは、スクリーンに映し出された銃弾が無数のフロントガラスに反射してわたしを襲った。
 探し始めもしない内に、マティーニに浮いたオリーブみたいに個性を放つセルシオを見つけた。
 マークⅡを横付けにすると、セルシオの助手席へ乗りこんだ。路辺はセブンスターまみれで、車内はセブンスターいきれがした。
「遅いぞ」彼はお決まりの文句でわたしを歓迎した。
「そのために、この待ち合わせ場所なんだろう」
「映画のことを言っとるのか? こんな深夜のB級キ(・)ネマを食い入るように見とるヤツがどこにおるんだ、全く。辺りを見てみろよ」
 証明しようとするみたいに、路辺は首を巡らせた。街灯をいくつも潜り抜けた先で、ジーパンの青年がスケートボードで華麗に車両間を縫いながらやって来て、車輪を縁石に突っ掛けた。
「何か食いますか?」と、青年は、新品のナットで締め直したように言った。
 路辺は首を振った。何か食べた方が良さそうな首の振り方だったが、そんなことは関係ないのだろう。
 わたしは腹が減っていたのでホットドッグとフライドポテト、それからジンジャーエールを注文した。青年はメモも取らずに闇を漕いで帰っていった。
「上手くいっとるのか」と、路辺は掌の中で弄(もてあそ)ぶ煙草のパッケージへつぶやいた。
「仕事の経過は、依頼人に逐一報告してある。が、反応は薄いんだ。弟が殺されてまだ三日、何を報告しても上の空さ」
 路辺はいつものように大儀そうに頷き、スクリーンへぎょろぎょろと黒目をやった。二丁拳銃のガンマンが悪党共へ向けて引金を引いている。が、何発撃っても銃声は空威張りの虚勢だった。演技はともかく、揉み上げだけは一流の俳優だった。
「腕が悪いんだ」と、わたしは言った。「構えも、狙いどころも明後日だ」
「別に探りを入れようというつもりじゃないんだ」
「だが、あんたはわたしを呼んだ」
「来たのはおまえさんだ、のこのこ現れおって……。まるで無防備だ。あのガンマンみたいに人事不省になっても、私は知らんぞ」
 スクリーン上でガンマンが大の字に寝転んでいた。スタッフロールと共に、THE・ENDの文字(ロゴ)がせり上がってくる。チューナーから垂れ流される砂糖菓子みたいなBGMが、申し訳なさそうに尻すぼんだ。
 路辺は煙草を灰皿に擦り付けると、窓の外に放ろうとして、手を止めた。
「いかん――」と、彼はこぼした。「ここの青年がな、私の安い犯罪を目ざとく見つけて署に報告しようとしとるんだ。クビにさせるつもりなんだ」
「クビね……。あんたは、原が懲戒免職を食らったことを知っているんだな」
「もちろんだ。だが、いつかはそうなると覚悟しとった。教え子がいなくなるというのは寂しいもんだ。一緒に腕立て伏せをした仲なんだ」
「わたしのせいだと考えてるのか」
「なぜそんな風に考えねばならないのか。しかし、つくづく思う」と、路辺は、女学生がはじめて編んだ手編みのマフラーみたいに不恰好なネクタイを荒々しく引っ張って緩めると、肺から空気を押し出した。「刑事というのは、いつまで経っても経験工学なんだ。建築分野と同じだな。パソコンが捜査に導入されて統計で捜査の設計図を描けるようになっても、最後にはどこかで経験と体験から生まれた勘を頼りに仕事をする必要がある。理屈では語れない、数値の根拠は存在しない、そんな捜査ができるヤツが稀におる。あれはそんな男だったように思う」
 わたしは、スクリーンで踊るバニーガール眺めていた。
「夕刊を見たか?」と、彼はどんみりと零した。
「いや」と、わたしは首を振った。
 バニーガールは何かのCMのようだった。長い脚を惜しげもなく見せ付けて、色気と微笑を振りまいているだけで、何のCMなのかは分からない。
「下着泥二十件以上で機動隊巡査部長逮捕・懲戒免職。酒気帯び運転で巡査長が懲戒免職と、その監督責任者の署長を厳重注意――それだけで、原の記事はなかったよ」
「原のが一番節操がある」
「上手くまとめるわりには、どうも一罰百戒とはいかん……」と、路辺は顎に梅干をつくって、気に入らないといった様子で何度もそれを拳骨で殴った。「帽子姫も不相応な懲戒を食らったもんだ……」
「帽子姫? 守永のことか?」
「彼女、あれから署へ挨拶に顔を出したらしいが、その時には赤い帽子を被とったらしいじゃないか」
「姫ってよりも田舎娘さ。帽子田舎娘だ」
 ノックが聞こえた。ウィンドガラスを巻き下ろすと、先程の青年が侘びと礼を言いながら、やんわりと料金を請求した。わたしは千円札と引き換えにして紙袋を受け取った。
 路辺が、スケートボードで闇の中を漕ぎ進む青年を目で追いながら、新しい煙草に火を点けなおし、パッケージをトラウザーズに潰し入れた。
「本題に入ろう――二点あるぞ。一つは董道一青年について、もう一つはフッキについて」
 わたしがどういうことかと聞き返そうとすると、煙草を挟んだ指先で路辺は制した。「いいんだ、フッキについては過保護な老人の戯言だと思っといてくれ」
 それ以上牽制しあうのを避けるため、代わりにホットッドックを口で畳んで塞いでおいた。
「まず一点目。警察(こちら)側で事件が流れたこの際だから、判明した事実を洗いざらい話しておこうと思う――もちろんこんなことは規則で禁じられているんだがな」
 ホットドッグを飲み込むと同時に、彼が喋りはじめた。
「董道一の殺害現場はわれている。本牧埠頭B突堤の造船ドッグだ。交代番の作業員が早朝出勤してくると、血痕だらけの現場を見つけて通報した。鑑識の結果、董道一事件の殺害犯行現場だと判明した。死亡推定時刻は深夜零時から三時といったところで、死因は以前述べたとおり殴打の末だ。凶器は発見されとらん――恐らく今頃は運河の底で泥濘に塗(まみ)れたか、潮に流されて大陸棚で引っ掛かっとるだろう」
「私立探偵にとっては扱いに困る情報だが、聞いておいて損は無い」
「それから、はじめて董道一事件について話し合った日、董道一青年が最後に足跡を残したのが中国東方航空の旅客機だと私は言った。覚えとるか?」
「覚えている。しかしそれも、わたしにはあまり役に立ちそうになかった」
「そう聞いて安心したよ。なにせガセだったんだからな。董青年の身柄を介抱した客室乗務員の証言が虚言だった。便の乗客リストにも、入国監査時のチェックにも董道一青年らしき人物の照合に引っかかる者が無かった。もちろんデータの改ざんなんてことは有り得ん。こいつの発覚が遅れたのは、屍体が身元不明だったせいもあるが、捜査員が早急にカタをつけたがったせいもある。実際、外国の航空会社が所有する旅客機内でのごたごたとなると、その本国が全ての保有権を所持する。本部も多少証言があやふやなのには目を瞑ろうという気になったのかもしれん」
「それで」と、わたしはポテトフライを摘まんだ。「解かる事実は?」
 路辺は一瞬だけ眉間に皺を寄せたが、一服すると活力を取り戻して素直に語り始めた。
「客室乗務員は、嘘の証言をするよう金を握らされた。あっちのお国柄ならではさ。――で、誰が彼女に金を握らせたのかという話になる」
「誰が、何のために、そんなことをしたのか」
「現状をよく観察すればいい」と、彼は咳払いした。「董道一青年の本当の(・・・)入国手段は不明だが、少なくとも客室乗務員と日中の捜査の間に生じる齟齬を利用して、彼の入国手段を旅客機による正規なものだとでっち上げたかった者がいる。それプラス、屍体から出た偽装パスポートときたら、一つしかない」
「不正入国、か。それもかなり手の込んだものだ」
「蛇頭のような密入国管理組織が、中国本土で手配を行い、董道一青年を正式な入国に見せ掛けるように仕向けた」
「辻褄はあうようだ。筋書きも悪くない」
「しかしな――問題がないわけじゃない。問題の一つに、董道一青年の戸籍が存在しないことがある。蛇頭による密入国ならば日本に謄本がないのは頷ける。だが、中国本国に問い合わせても何も出ないのが不思議じゃろう。中国の戸籍謄本は社会主義の構造上優秀なんだ。戸籍のある場所にしか人は住めないような仕組で、彼らにゃ移住の自由がない。上海や北京で、発展途上国にありがちなスラムが存在しないのにはそうした背景があるんだ」
「つまり、まだ何か隠れているんだな」
「そうかもしれんが、全く別の可能性もある」
 わたしは首を横に振り、紙ナプキンで手を拭った。
 路辺がジンジャーエールへ手を伸ばすと、さも自然な様子で中身を啜り、その生姜臭と、咽喉元にひっかかる事件の疑問点とに顔をしかめた。
 スクリーンでは馬が走っていた。跨っているのは揉み上げが立派な二丁拳銃のガンマンである。昔ながらの劇場のように、こうして繰り返し同じ題目が放映されているようだった。ガンマンは荒縄を振り回しながら、荒野で地平線を追い駆けている。
 路辺は言った。「董青年が一流の逃亡者ならガンマンみたいなものだ。町から町へ、国から国へ渡り歩いて、何所にも属さない渡り鳥だった」
 わたしは路辺の手からジンジャーエールを奪い返したが、生姜と煙草の混じったひどい臭いがしたので手はつけなかった。
「二点目だ」と、路辺は窓を開けて空気を入れ替えた。紫煙が潮風に、まるで達磨(だるま)落しみたいに取って代わった。「董道一青年の件はそれで充分だろう?」
 わたしは充分だと礼を言い、車外にジンジャーエールと共に董道一に関する話題を流して、紙袋にゴミを纏めた。
「友人に頼んで、フッキについては古い資料を掘り返してもらったわい」と、路辺はその友人を顎で使ってやったと言わんばかりに、ハンドルへ顎を乗せた。「何年か前――私があの辺りで仕事をしていた頃には、フッキの名前が貧乏草みたいに中華街に蔓延しておった。事件がでかい時には必ずどこかでその名が耳に入る。にも関わらず、どれも噂が噂の域を出なかったせいか、奴さんに関する警察資料で目ぼしいものはとんと残っとらんかった。せいぜい出国間際の置き土産くらいなものだ」
 口外するなと念を押すように身を乗り出した路辺に、わたしは頷いた。すると彼も決心したように頷き返した。
「あの男は、十年前の秋――十一月に、本土にいる一人娘を養うために、出稼ぎ目的で蛇頭の手を借りて密入国した。しかし、二年としない内に事実が明るみになって、本土へ強制送還された前科(まえ)がある」
「だが、今はわたしの事務所にだって出入りしている」
「どういう理由だか、就労ビザが下りとる。七年前の、これまた秋――十月だ。強制送還されてから、一年程度で来日しておる」
「他に前科は?」
「無いな。警察関係の資料以外の情報は、誰も口を割らん。当時、そんな風潮だった。言いふらす輩(やから)は埠頭の向こうへの片道切符を買いたいと叫んどるようなもんだった。撃たれて死ぬのが自然死ってのを本当にやっちまいそうなんだ」
「遺体が出なければ殺人ではない。十年前のスラム街のルールさ」
「十年前といえばだな……忘れるところだった」と、彼は懐をさぐり、長三版の茶封筒を取り出して中身を広げた。車内灯に照らされたのは、まだ捜査用カメラがフィルム主体だった時代に撮られた、色の褪(あ)せたスナップ写真とも記録写真とも解釈できる代物だった。
 そこではサングラスを掛けた坊主頭の男が身体を引き摺っていた。それがフッキだということに疑いはなかったが、みすぼらしさは一級品だった。体重は現在の半分で、頬は出涸らしみたいに扱け、身形はもう一度鏡を見て確認した方が良さそうだ。
「十年前はカタカナだけで会話しとったような男だ」と、路辺は言った。「これはその頃――つまり強制送還される前の写真だと思うがな。まだ私らは、お互い奴さんの面通しをしとらんかった」
「わたしの知っているフッキくんに間違いはないが、随分と印象が違う」
「そいつは良かった」と、路辺は写真を手抜かりなく収った。「こいつでオマエさんもその男に近づかないのが賢明だとハッキリしたんだからな」
 路辺は咥え煙草でイグニッション・キーを回した。そして束の間、ジンジャーエールに手を伸ばそうか迷った末、既に棄てられていたのに気がつくと、腹癒せのようにわたしを追い出しにかかった。
「最後に一つ、いいかい」
 わたしが言うと、路辺は目顔で先を促した。
「彼の本名が知りたい。フッキ、フーシー、白痴、馬面。誰も本名を知らないんだ。董道一と出会い損ねて、どこから事件に手を突っ込んでいいのか迷っている。些細なものでもヒントが欲しい」
「ちょっとまて」と、彼は資料をトラウザースから手繰り、室内灯に照らした。「韋代英(ウェイ・ダイイン)だ。んで、さっき話題に上った家族ってのが、嫁さんの瀾(ラン)に、一人娘の小鈴(シャオラン)だ。嫁さんは娘を産むのと同時に亡くなっとるな……。計算上だと娘は今年で十四歳だ。こりゃヒントにならんな」
「想像よりずっと紳士じゃないか、フッキ君は」
「……確かに、自分が助かるために子を売っちまうような親は、今の日本にだって棚に並べれば恰好がつくほどいる。だが、ヤツにはなるたけ関わるなよ」
「あんたは余生を娘とゆっくり過ごせばいいんだ」
「引退土産に、捜査の基本を教えてやろう。一つの線が薄くなったのなら、別のアプローチが必要だ。董克昌とは別の線でいくことだ」
 わたしは礼を言って、ゴミを持って車を下りた。たいした誼(よしみ)もないのに、この老人はわたしのやり方を甚(いた)く気にってくれている。その割りには、一度もアラブ人よろしく袖の口などを要求したことは無かった。
「そうだ。私からもひとつだけ、最後に約束してくれんか」
 ウィンドガラスが下りて、胡麻塩頭が突き出した。
「なんだ?」
「どうしても、あの男と関わりが避けられんというのならば、せめて危険を感じたら一報してくれんか。私でも、無理なら帽子姫にでもいい。これだけは、約束しとくれ。私は後悔したくないんだ」
「わかったよ」
 わたしがマークⅡに乗り込むと、路辺は軽くパッシングし、セルシオを出口へ向けた。スクリーンでは二丁拳銃のガンマンが口笛を吹いて見送った。

 マークⅡがゲートへ差し掛かった時、スケートボードの青年と見知らぬ男が揉めているのが視界に入った。思わず、ブレーキペダルを踏んでしまったのが失敗だった。見知らぬ男は、ジャンクフードだけで育ったようなアメリカナイズされたチンピラだった。青年が、まるで漂白剤でも飲んだみたいに白い顔をしていた。車を下りて、彼らの方へ近寄った。
「どうしたんだ」
 ジャンクフード野朗がわたしへ視線を放り投げてきた。生涯大切に育ててきた弛(たる)んだ腹を摩(さす)っている。髪はスティック菓子の束で、唇はジェリィビーンズで、眸はピーナッツだ。赤色一号で着色したに違いない真っ赤なナイロンのスポーツウェアを羽織っている。
「なんだテメェ」と、男が皺んだ煙草を地面に吐き捨てると火花が散った。そうして毎日、プライドも一緒に吐き棄てているに違いない。「なんだテメェ、なんだテメェ。やんのか、ちくしょう。おい、コルァ」
「いや、やりはしないよ」と、わたしは答えた。「だが君はどんな乱暴をするか判らない。しかも酒をしこたま飲んでいて、絡んできたのは君のほうだ。ここはDC(ドライブインシアター)で、間違いがあっても誰もわたし達を見ちゃいない。わかったかね」
「何を言ってやがんだ、この野朗」
「ここで何が起こっても君が悪いことになるんだと言っているんだ。わかったかね」
「はっきり言えよ。俺ははっきりしたのが好きなんだ」
「君の頭は一回天日干しにした方が良いと言ったんだ。わかったかね」
「はっ! はっ! 気にいらねぇ」と、男は鈍感そうに目を光らせて詰め寄ってきた。「テメェは何も関係ねぇんだろ!?」
「ソッチの坊主には用事がある」
 男は両腕をポケットに突っ込み、首振り人形のように何度も顎をしゃくった。「関係ねぇんなら来んなよ。なぁ、どっか行けよ、ちくしょう、おい。てめぇ今関係ねぇっつったろボケェ」
 わたしはスケートボードの青年に向き直った。彼はジャンクフード野朗の視線にびくびくしながら答えた。
「女の人に逃げられたのが、ウチの映画のせいだって――」
 その言い分には一パーセントだけ正論が含まれているかもしれないが、残りの九十九パーセントは言い掛かりだろうと思った。
「だったら、どうしたら許してもらえるのか、分かってんのじゃねぇのかぁ? おい」
 ジャンクフード野朗は事実を露呈され、そこまで言うと肩で息をするようになった。
「はっきりしたんだよ」と、わたしは言った。「君がそんなに息を切らしてたんじゃあ、自意識過剰の女学生でなくたって、理由もなく通報したくもなる。だからはっきりした態度をとったのさ。君の好きなはっきりしたのだ」
 彼はこれが気に入らなかった。女の目線を引き合いに出されると、それだけで顔が斑(まだら)模様になる人間がいる。相手は鼻白んで、眸の中に一層の燃料をくべると、浮腫(むく)んだ手でわたしの胸倉を掴んだ。
 ネイヴィと筋者に比べればまだマシだった。わたしは彼の腕を掴み返した。
「止した方がいい、堅気に集(たか)ろうざなんて、安く見られる。わたしはこれでも堅気一辺倒なんだ」
 ピーナッツみたな眸が細まり、ジェリィビーンズが罅割れて不吉にひん曲がった。右手の中でバタフライナイフが光った。
「何がしたい」わたしは言った。
「別に何だっていいや、何だって。無性に腹が立つんだよちくしょう。てめぇみたいな無価値な野朗は見てるだけで腹が立つんだ」
「だからわたしを切り刻みたいのか?」
「そうそう、そうだよ。そうに決まってんだろ。あんたみたいなちくしょうは無価値なんだから、死んだって意味がねぇよ。だから死ね」
「無価値な命なのかも知れないが、こんなところで投げ捨てる気にはなれ――」
 言い終わる前に、男の右手が煌いた。わたしは左手でその手首を掴んで動きを抑えた。男の肩越しに、スケートボードの青年の不安そうな眸と視線が交差した。
 胸倉を掴む腕に力が篭ってきた。わたしは左手を離し、両手でその腕を捻り上げた。一瞬視界に閃光が瞬いた。が、前のめりに男が倒れこんできたので、足をはらい、そのまま縺(もつ)れ合いながら腕を捕って固めた。
 終わりの合図を示すように、絡みついた松の枯れ草が頭から降ってきた。
「すまないな」と、わたしは青年に言った。「路辺を呼んでくれないか」
 携帯電話を取り出す彼を眺めていると、わたしは顔に違和感を覚えた。
 生暖かいものが左頬を伝っている。艶かしい女の舌のように顎を撫でていった。鉄のにおいが鼻をつき、それが自分の血液だと気付くのに、そう時間はかからなかった。滴った血液が、男の赤いスポーツウェアに見えない染みをつくった。痛みはなかった、血も見えはしなかった。だが、確かにそこに傷はあるはずだった。

 それから警官達は、他に仕事が無いのかと思わせるほどすぐにやって来た。
 細かな事情聴取や被害報告書の作成は、路辺の取り計らいもあり、端折(はしょ)らせてもらうことになった。調書の体裁を整えるために、供述をいくつくか工夫し、事実は歪曲して簡単にまとめた。交番に缶詰めにされる役柄も、青年が担ってくれるようだった。わたしの怪我の状況も救護班が必要な程ではなかった。
 青年が、PCの後部座席から顔を突き出し、別れ際に言った。
「見直した。リカルド・コルテスなんかよりよっぽどサマになってら。コレ、あんたにやるよ」と、彼は懐からぴしゃんとチケットのようなものを引っ張り出してきた。「お隣のプール場とホテルの優待券なんだけど――こんなもんしかお礼できなくて」
「気を遣わないでくれ」
「いいんだ、貰ってくれよ。あんたはオレを助けてくれた。受け取ってもらわないとオレの気が済まない」
 それ以上断る必要も無かった。わたしは、チケットを受け取り、プリントされた水着姿の女性を気恥ずかしく思ながら、隠すように手帳に挟むとシャツに収まった。
「あんたの依頼人が悪女(ファム・ファタール)じゃないことをオレは祈ってるから――」
 青年は不器用に白い歯を剥き出すと、PCに揺られてドライブウェイを下って行った。
 既にDCは閑散としており、残ったPCも一台きりだった。その最後のPCの助手席に、路辺が自分の体を押し込め終わったところだった。フロントガラス越しに彼が、良い教訓だと言わんばかりの険しい視線をわたしに向けると、PCが動き出した。何かあったらPS(警察署)に連絡してくれと彼は最後に言葉を残した。
 客も自動車も、警官でさえもいなくなった。
 ハイウェイの煽り風と、その向こうから吹く潮風の混じった夜気が、わたしの痛む頬を慰めるように舐めていた。
 わたしはマークⅡに乗り込み、薄暗がりの車内でバックミラーを捻って自分の顔を覗き込んだ。
 傷口に触れると痛みが走った。左目と平行に、涙袋の辺りを隈(くま)を描くようにして五センチほど肉が裂けている。もう出血はしていないが、肉の奥で白い筋のようなものが脈打っていた。あと数センチ上だったならば、わたしは左目を失っていたかもしれない。
 殺し屋だけが人殺しをするわけではない。むしろ、こんな新聞記事に並んだありきたりの動機の殺人が大半を占めている。
 わたしはDCを後に、横濱へ帰る途を辿った。
 今時(いまどき)のDC(ドライブインシアター)であっても、ハードボイルドなことが起こらないとは限らない。
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