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THE BLANK TRACK
( correction version )

by
Taki Sara
Copyright © 2007-2010 by
Taki Sara





   14

 ダンプカーの夜間休息所となったパーキングエリアで、わたしは一夜を明かした。
 速度規制を大幅に越えて走行する車輌が静寂を掻き乱すのとともに、目下の砂浜からはカイツブリ達が飛び起きて細やかな鳴き声で飛び立っていく。熱を持った朝焼けが山間には広がっており、彼らはそこに楽園があると信じてでもいるように、一心不乱に翼で風を掴もうとしていた。
 一方で、わたしが折れた翼で掴もうとしているのは、事件の足懸りである。別のアプローチという路辺の箴言を背負って、携帯電話を取り出し、リダイヤルを呼び出した。
 五回目のコールが途切れて相手が出ると、送話口に挨拶をそっと送り込んだ。若干のインターバルの後に答えがあった。
「うん、おはよう。でもまだ日が昇りきっていない時間だわ」と、相変わらずの孔雀を髣髴(ほうふつ)させる調子で、アゲハが欠伸交じりの不平を言った。「昨夜のアルコールだって抜けない時間よ」
「訊きそびれた質問が消化不良で胃がもたれそうなんだ」
「アルコールが抜けないって言ったけど、本当にそんな気分」声の背後で、カーテンの開かれる音がした。「実は、あたしもあんたと話し足りなかったの」
 昼前には丁玲にリャンズ・バァで会いたいと書き残している。わたしはこれから会えるかと訊いた。
 アゲハは答えた。「でも、どこで警察に見られているか分からないんだよ? 若い衆なんて初めて都会に出て来た田舎娘みたいに行動が控えめだし」
「偶然会えればいい。誰も文句を言えまい」
「偶然ね」と、ちょっと考える間があった。「そう、偶然なら仕方が無いわね。ねぇあんた、横濱は詳しいの?」
 ここ二三日は歩き倒しだったが、それでも所詮、水割りがハイボールになった程度だった。
「いや」と、わたしが言い渋ると、彼女が遮った。
「あたし、これから飲みに行くつもり。午前十時に看板を下ろす店なの」
 わたしは、気の向くままに足を向けてみようと仄(ほの)めかし、店までの道則を御教授願った。

 JR関内駅から馬車道まで目を凝らして歩くと、横濱開港当時からの老舗(しにせ)が陽の光から隠れるようにして点在しているのを見ることができる。ブルゥ・プーパというジャズ・バァも、同じように街衢(がいく)の翳に隠れてシャッターを上げ下げしていた。ビルの重さに耐えかねたような狭い階段を下った先に、こぢんまりとした青いネオン看板を掲げている。
 アスファルトみたいな分厚い革張りのドアを引くと、ジャズの音色が聞こえてきた。同じドアをもう一枚引くと、女性ヴォーカルの歌声が顔面にぶつかってきて、次いでピアノソロが耳朶(じだ)を弾いた。
 店内には、ワックスの染みこんだ木の香りと、一夜を明かしたアルコールの饐えた臭いが充満していた。
 ステージを放射状に囲った卓子(テーブル)席とは別にブース席があり、アゲハはそこで、ジャン・フィリップ・トゥーサンの『浴室』に耽っていた。目の前の卓子には、シュワプスとコネタブルのオイルサーディン・トマトが載っている。
 わたしが掛けると、アゲハは三流芸術家が偶然という題目で創作した仮面のような顔を、読みさしの本から持ち上げた。仮面の中に、カリフォルニアのグレープフルーツみたいな微笑が浮かんだ。
「ひどい怪我ね。そんなに大変なヤマを踏んでいるの?」
 睫(まつげ)が触れ合うほどに眸が近づき、心地よい息が吹きかかった。彼女の眸は、数字よりも人間の文化や歴史に精通していそうな知的な色合いがある。一人の人間を、エディプスコンプレックスやら構造主義だのと一括りにしたがる女学生と同じ輝きだ。
 わたしは答えた。「止してくれ、殴られて成り立つ稼業なんだ」
「顔の形が変わっていればいるほど、優秀な私立探偵ってわけね」
 店員(ウェイター)がやって来て、コースターとチェイサーをそっと卓に載せた。彼の愛想の良さと店内の雰囲気おされて、わたしはどんな酒があるのかと訊ねた。
「ピニャ・カラーダやロングアイランドアイスティーが毎日飛ぶように売れますよ」と、店員はタンゴの踊り子の腰みたいに眉をくねらせた。「でも、そんなのが売れる季節なんです。外へ出て見てください。まるで南国ですよ」
 ではビールが飲みたいと、わたしは言った。
「ええ。そいつが良いです。気分と雰囲気だけは南国なのに、シエスタもやらないでキリキリ働きつめるってんだから……」
 彼は、リンゴを射り損ねたウィリアム・テルみたいに肩を竦めると、メニューを下げるてカウンターの向こうへ消えた。
 ほとんど同時に、ステージ脇で雑踏と区別が付かぬような溜息が湧き上がった。ラメで目が眩むほど煌く羽衣(はごろも)を纏った女性ヴォーカルが、四人編成のジャム・バンドの楽曲に、裸足で刻んだステップと、艶のある歌声をのせている。
「彼女、この界隈ではそこそこ名の売れたシンガーなのよ」と、アゲハは口元を覆って出し抜けに囁いた。「知ってる?」
 わたしはステージの女性を盗み見て、相手もわたし達を意識しているような錯覚に陥った。
「ジャズはスタンダード以外によく知らないんだ。酒だって詳しいわけじゃない。煙草も吸わない。そんな私立探偵がいたら不味いかね」
「声の出ない歌姫よりは、ずっとマシかな」
 彼女が何故そこで声を低くしたのか、わたしには分からなかった。泣きそうな顔になった時、店員(ウェイター)がやって来てビールグラスを掲げたのが救いだった。
 わたしはグラスを受け取り、厚い縁からビールの泡を舐めた。「ある男が、遠く離れた女性へ一年間にわたって毎日ラブレターを送っていた。数年後、その女性は結婚することになった。相手は、手紙を渡し続けた郵便屋だった」
 アゲハはいつもの笑みに戻り、少しぎこちなく髪を梳いた。
「その話知ってるわ。想いは直接目の前で伝えた人間に強く跳ね返る、というお話ね。また、事件についての熱意をうったえようってわけ?」
「そう、童話の再現さ」
「フッキが話してくれたジャスミンの童話にも、似たような一説があったわ。手紙を受け取るのがジャスミンの少女で、差出人が育ちの良い少年、そして郵便役がジプシーの少年」
 彼女は眉根を寄せて、小難しく左頭上のこめかみを睨んだ。椅子を引き直し、ジンジャーエールを一口含むと、両肘を卓子について続けた。
「上手くいえないけど、あたし達の状況って、共通している部分が沢山あるよ。互いが互いの協力を必要としていて、それでいて協力できる」
 わたしが彼女に求めるのは、小幡谷運輸物流協同組合の動向についての情報だった。原を追って守永に助力する過程で、フッキを匿っている組織が小幡谷運輸物流協同組合である事実は突き止めている。しかも彼女は、その組織で頂点に座する者の愛人という肩書きを持っている。
「君に訊きたいことの整理はついているよ」と、わたしは言った。「でも、君の方がわたしに何を求めているのか、見当がつかない」
「あなたの方は、組織について知りたいの?」
 疑問に返された疑問に、わたしは頷いた。「小幡谷運輸とフッキは繋がっているからね。そのフッキは董道一にも董克昌にも繋がっている。董道一と董克昌はわたしの依頼人にも繋がっている。この構図の何所かに県警が横槍を入れている」
「わかった。あたしの頼みは後回しにしましょう。何でも片付けられることから先にやる方が気が楽な性質なの」
 畳んで載せてあった文庫本の上で、聖書に誓う時と同様に手を重ねた。そして包み隠さず全てを話すと心の中で約束したのかもしれない、手の平をひっくり返した。わたしが童話のように目の前で熱意を込めて語った効果もあったのだろうか、彼女の言葉は、その重量の割には澱みなく発せられた。
「小幡谷は……とても計算高い男よ」卓子の角を見つめる眸が、厭な過去に突付かれでもしたように痙攣した。「優れた貫目(かんめ)で成長株を見つけて、抜擢すると幾らでも投資する。趣味にも、仕事にも、人生全体に共通している処世術なの。だから彼が善意でフッキを匿いるなんてのは嘘じゃないかしら」
「正味のところは?」
「儲け話があるって持ちかけて来たのはフッキだったの。中国人を信用していない社長は彼を門前払い。でも数日後、社長からフッキへ連絡をとるようになった」
「利益が跳ね上がったか、それとも状況が一変したのか」
「両方なのよ、両方。一つよりも二つ。そして三つ目に、きっと仕事の裏がとれたのね。投資するなら裏づけは多くなくちゃ」
「その仕事の中身が肝心なところだ」
「探している品を見つけるのよ。そうすると、董財閥に絡んだ莫大な謝礼が手に入る。仕事の成功には、彼の身も保護する必要があるの。もぐりの高利貸や、盗品と市場の仲介なんかもしていた男の割には、ちょっと防衛手段がなってないわね」
 わたしは例の品のことを考えたが、暗中模索に変わりはなかった。
「探しものってのを、君は知っているのかい」
「いいえ」と、嬉しそうに彼女が目尻に皺を寄せたものだから、わたしは彼女の心を遠くに感じた。その疑惑の芽を、彼女は咄嗟に摘んだ。
「勘違いしないで。あたしだけが、フッキの探し物を知らないのが厭だっただけだから」
「余程の物なのだろう」と、わたしは首を捻って、疑問を口にした。「中華街の筋者達による恨みを、董家の傘下で免れていたフッキだ。そんな男を、易々と匿う気にさせてくるれる品物ということになる。もしくは、その品以外にも彼らを繋ぐ何かがあるのだろか」
「仕事に踏み切った理由には、フッキが克昌に棄てられたものと目論んだというのがありそうね。中華街から離れたウチの組織ならば、白を切り通せると睨んだ。小幡谷にはケツモチもいないし、こうなると広域(・・)同士の潰しあいじゃなくて、腹の探り合いでどう下請けに回らず相手を丸め込むかの下克上ね。組織も、不況の影響で、最近は東南アジアに表(・)の仕事が流れているから、余計に利害関係が一致したのだわ」
「持ちかけられた仕事自体は単純でもあり、漕ぎ出しやすい」
「人員のある組織なら、ローラー作戦で簡単に終わらせる仕事かもしれないわね」
「簡単な仕事だとは言ってないよ、単純だと言っただけだ。どちらかと言えば、当てもなく何かを探すのは難しい仕事だ」
「董財閥の名が出てくれば尚更って付け加えた方がいいわよ。誰もかもが、その名前には後光を感じて、踊らされてる」
 わたしはビールの泡を眺めた。財閥、筋者、県警がいて、大きなうねりが押し寄せているというのならば、わたしはさながらそのビールの泡一つに似た存在だった。アルコールは人を酔わせるが、わたしに人を酔わせる力は無いかった。泡はグラスの中で膨らむだけ膨らむと弾け、互いを取り込み、一つになってゆく。
 わたしは言った。「こうして中国と日本の筋者達が協力し合うのは珍しい。お互いを結びつける第三者はいないだろうか」
 アゲハは首を傾げた。「会社(・・)に中国人との繋がりは無いわ。表(・)の仕事も輸入・輸出を取り仕切ってはいるけど量は少ないし、搬送作業も国内の会社相手で、出荷先も国内のみよ」
「となると、小幡谷とフッキの繋がりを支えるのはやはり例の品一本か」
 話が一周し、二人のグラスが空になり、今度はそろそろアゲハが手札を明かす番といった雰囲気になった。わたし達がそれぞれ二杯目を注文すると、より一層そんなことを意識するようになった。彼女は計算高そうに腕を組み、また卓子の角を睨んだ。
「あたしが協力して欲しいってのは、そのフッキについて。前にも言ったかもしれないけど、あたし、あの男の力になってやりたい。もうこっちの世界では、昔みたいに“色の濃い華は枯れ易い”っていう一風変わった人生を送ることだってできやしないの。邪道なやり方じゃないと生きていけない人間が溢れてる」
「なぜ、そうやってフッキの力になりたい?」
 彼女はジンジャーエールをひとくち含んだ。「あの男を、別に愛しているわけじゃない。人と人を繋ぐ理由には最低限、愛が必要だなんて規制があったら、寂しすぎるじゃない」
 わたしは何も言わなかった。
「あたしは、あの男に不思議な感情を抱いてる。多分だけど――同じ過去を共有したような、言い難い感情。同じ種類の人間。分かり合えないとはっきりしていながら、それでも孤独を恐れて寄り添うことを求めいている」
「言わんとしていることは解からなくもない」
「あの男の探し物、見つけてあげられない? じゃなかったら、救ってあげられない?」
「わたしはあの男に散々殴られた」
「あたし、事情聴取であんたの名前を出さなかったわ」と、彼女の語り口が、腐敗した床板でも踏もうとしているみたいに慎重になった。四足の形をした嫌な予感が、背中を這っていった。「原を探している際に手を貸してあげたこと、それから今回も――」
 わたしは黙ったまま、手でその先を遮った。
 折を見たように、ステージで曲目が変わった。閉店時間から逆算すれば、まだはねる(・・・)には早かった。次の曲のイントロが、どよめく客席をするりと抜けてわたし達のもとへも届いてきた。“人生は一人きり”と、ステージの女は唄った。技術的な伴奏に、情緒的な歌声が絡みつく。歌詞はそれ以上無く、後はスキャットが繰り返された。
「じゃあ、分かったわ」と、アゲハは、スポットライトのように明るい眼差しをわたしへ注いだ。「少しだけ、あたしの話を聞いて? それで決めて」
 アゲハは、ちらりとステージに視線を奔らせた。日照る海岸線みたいに眩しいステージだった。渚のヴィーナスが、熱唱の影で蜃気楼のように歪んでみえる。
「この曲、どう思う?」と、アゲハは唐突に明後日の質問をぶつけてきた。「なぜそんなことを訊く、なんて言わないで。感想だけを聞かせてよ」
「歌詞があれば、悪くは無い」と、わたしは素人臭い自分の意見に辟易しながら答えた。
「あたしの曲なのよ、これ。本当にあたしの作った曲なの。オリジナルで十年以上唄ったメロディ。演奏するたびに音色を捏ねながら、誰も聴いてくれなくても死ぬまでになんとか表現してみせようと取り組んでいた曲。あたし、昔はジャズを唄って暮らしていたの。この店でも歓迎されていたわ」
 しかし、今の彼女の声は、何十年も砂漠に放り出されたままで忘れ去られた活け花みたいに枯れ果てていた。
 彼女は続けた。「百年に一度の歌姫になるのが夢だった。町の新聞にも載ったことがあったし、ひと夏の間中(あいだじゅう)一メートルのあたしの笑顔が店頭に張り出されていたことだってあった。アゲハって名前も、この店の名前を宣伝するためにリクエストされたわ」
 それから彼女は、当時の話を一鎖語って聞かせたが、締めくくりに、結局のところそんなことはどうでもいいことばかりだと付け加えた。
「私は運命に責任を持って生きてきたつもり」と、彼女は胸に手を添えた。「何が起きても、それは自分の責任だって。でも、それだけじゃあ納得のいかない日もあるわ……」
 わたしは頷いた。「その声かい」
「当時、あたしにとって生きるってことは、夜と無く昼と無く穴蔵みたいなナイトクラブの地下で歌い続けることだけだった。何でも歌ったし、踊ったりもしたわ。ミュージシャンはタダで酒が飲めるけど、ギャラはキャッシュでしかも端(はした)金だから、夕食はアルコールだなんてのが日常だった。そんな時に姿を見せた小幡谷って男が、随分計算高いものだと思ったわ。当時一身に面倒を見ていた女を見捨ててまで、あたしを投資対象に選んだのよ、あの男は。しかも、その棄てられた女ってのが、今ステージで唄っているあの娘(こ)なのだから、驚くよりも呆れるわね」
 振り仰ぐと、剥き出しの演奏が続くステージから、鎖のような視線が伸びてきた。だが、敵意や殺意があるわけではない。終わりの無い悪夢のように混じり気の無い眼光だった。赤い口紅だけが印象的な女だった。
 アゲハはその眼差しを、真っ直ぐ受け止めていた。筋者の愛人だって、煙草と口紅はきちんと指の間で挟めるがそれ以外の物は触れるのも嫌だと喚くような女だけではないのだ。
「小幡谷のことを愛してたのよ、あの娘」と、彼女はバーの喧騒に掻き消えそうな声で囁いた。「あの娘の小間使いに、あたしは咽喉を刺されたの。声帯の筋肉が七割もってかれたわ。現場に偶然通りかかった常連の客があたしを助けてくれたけど、もしそうじゃなかったら……。そして、次の日から、ステージに立つとあの娘はあたしの歌を唄うようになった。あたしは、自分の歌声と自分の唄を同時に失った。それからは、小幡谷に子犬みたいに拾われて、安逸に暮らしている……」
 彼女は首元にそっと触った。だが、そこに覆い隠すほどの傷跡は見られなかった。蚕豆大の声帯など、一歩間違えば失っていたかもしれないわたしの眼球と同様に、切れ味の鋭いナイフ一本あれば、傷跡もほとんど残らずに削ぎ落とされるのだろう。唯一、耳に届く唄だけが、彼女の過去の証明であり、存在意義のようだった。
「この唄が他人の口から聴こえた時、あたしは自分の人生を他人に奪われ悲しみを感じた」
「人生は奪えないさ」
「でも、あたしの幼かった日にある故郷での記憶――春には霧が立ちこめて、夏には草原を風が走り、秋にはススキ畑がさんざめき、冬にはしんしんと雪が積もっていく――そうした些細なことが自分にとってのサウンドだった日々が……遠くなっていった」
 そのせいか、ステージで奏でられるメロディには湿ったところがあった。
「あなたは自分と人生に何を求めている? お金、安らぎ、異性、権力、その全て? でも、あたしにとってジャズは、そんな計算高い社会の仕組みに対抗する唯一無二の武器だった。即興で、創造の瞬間が常に連続しているから、そんな連中には理解できない。だからあたしは、ジャズが好きで、自分の武器に選んだ」
 わたしは彼女の熱意を湛える笑顔を返した。「そうさ、君やわたしのような人間が生きていくには、ちょっとした武器が必要になる。君の場合は唄声だった」
「そして、あなたの場合は、その笑みなのね」
「武器だから、使い方が難しい」
「なぜ、あたしがこんなこと話したか解かる?」
「待ち合わせに、この店を選んだのも君の方だ」
「鼻の短い象、皮の無いバナナ、人生哲学がない私立探偵、それからあたし。そんなヤツラにも明日は来る……。やってくる明日ってのは、案外残酷な日もあって、あたしに歌うことを強要したりもする。もう二度と唄わないと決めていたのに、ついこの間唄わされたのよ――。誰かというとフッキにね」
 ガサッとした触り心地の悪い声が、砂漠の風のようにわたしに吹きつけた。彼女はまるで、自分自身が落魄していくように言い募るのだった。
「あいつも、自分のこと話してくれた」と、黄砂みたいに荒涼とした呟きだった。「娘が一人いるって」
「小耳には挟んでいる」
「一度目に日本へやって来たときは、娘を養うため、不法滞在だった。すぐに捕まって、強制送還された」
「それも聞いている」
「その時の密航費用のカタとして、一人娘が売春組織に抑えられたわ」
「それは聞いていない」
 彼女の言葉が詰まった。人生は一人きりと、嘲るような歌声がステージで膨らんでいた。
「蛇頭の手を借りた密航費用は、日本円にして合計で四百万」と、彼女が唄を遮った。「本土で半額先払い、日本で残額を後払うシステム。その時に、稼いだ資金は地下銀行を通って本土に残こされた家族のもとへ振り込まれる。そして、その家族が蛇頭に費用を支払う役割を担うの。でもフッキは短い滞在期間で高利貸に借金を返済できなかった。そして娘がカタになった――」
 わたしは答えず、グラスに口をつけた。二杯目も既に中身は空で、麦芽の香りがグラスの中で舞踏しただけだった。
 頃合をみていたのか、このタイミングで給仕(ボーイ)が小盆にメッセージカードを載せてやって来た。ステージの方からですと言い、読むことを促した。
 “地下駐車場にて待つ。当方、この手紙を持参”
 ステージで照明が踊って、惨忍なほどアゲハの顔貌を照らし出した。彼女はメッセージカードを摘み上げると席を立った。
「呼び出しが掛かったみたいね。舞台のお姫様からよ。これ以上あたしから何を巻き上げよってのかしら」
「話が途中だ。付き添おう」
「いいえ、結構よ」
 アゲハは給仕(ボーイ)とわたしの二人を片手だけで一辺にあしらった。
 しかし、このまま彼女を黙って見送るのでは私立探偵の名に恥じる。
 わたしは、アゲハの背中が楽屋裏へ消えるのを待ってから席を立ち、勘定(チェック)を済ませながら給仕に地下駐車場への進路を訊ねた。身振り交じりの案内を頭に入れ、つり銭を受け取ると走った。
 ブルゥ・プーパの借用する駐車場は、ビル全体の共同利用施設で、地下二階と地下三階に拓けていた。地下二階の広間へ足を踏み入れると、頭上から降る生演奏をバックミュージックに、女たちの姦(かしま)しい錯綜する木霊が響いてきた。避難通路を示す蒼白い灯が導き、その先に非常口を報せる薄緑色の一郭がある。アゲハと女はそこにいた。
「今更なんの用事かと思ったら、そんなことなの? 無駄なお節介じゃない」と、クラッシュアイス顔負けの冷たくざらざらした態度で、アゲハが言い捨てた。
「そういう言い草が鼻に突くって、自分でわかっていないのかしら」
 相手の女が唇を噛んだ。ここからでは見えないが、あれだけ強く食い縛れば、歯に紅が流れたに違いない。
「あたしだって、こうしていつまでも小幡谷の世話になっているつもりはないよ」
「だったら今すぐに彼の部屋から出て行きなさい。誇大妄想に染まった自分の過去にいつまでもしがみついてないでね」
「言われなくたって……」アゲハは俯きつつも言い渋った。
 畳み掛けるように、女が矢次はやに吐き出した。「あんた、小幡谷がどんな人間なのか知らないのよ。嫌な女だわ」
「別にあたしには、関係ない」
「小幡谷って普段は難しい表情しているけど、稀にすごく無邪気に微笑むのよ。あんたになんかには一生見せない笑みよ」
「あいつって、いつも無邪気に微笑んでるようだけど……」
「だからアンタって女は鼻につくのよ!」
 誰かに肩を叩かれた。用心して振り返ると、そこにウィリアムテルみたいな顔があった。
「盗み聞きとは卑しいですね」
「卑しい稼業の人間なんでね」
「よろしいですか」と、ウィリアムテルは、さりげない調子で親指を外へ向けた。「表へ出ましょう」
「生憎酒なら今飲んできたところだ」
「四方山(よもやま)話をしたくて声をかけたわけではありません」と、彼は不敵に微笑んだ。「話がしたいならホストクラブっていうそれ専門の店がある。僕は、アゲハさんが珍しく心を開いている男を見つけたんで、話を持ちかけることにしたんです」
「結構」わたしは、なるべくゆっくりと威厳ある態度で爪先を突き合わせた。「彼女に何かあったら承知しないぜ」
 突然、彼は気弱そうにうろたえはじめた。「違いますよ。僕は彼女の身方なんです。着いて来てくれればわかりますよ……」
 思わず謝りかけたが、まだそうするには早かった。わたし達は無言のままでバァの外へ出て、階段を上がった。それから暫くは、真夏を抱きしめたまま港へ向けて、ぶっきらぼうな散歩を愉しんだ。

「どこまで行く気だい」
 日本大通りを越えると、流石にわたしはそう訊かずにはいられなかった。
「すぐそこですよ。僕が仕事場に戻る頃には、丁度中休みが終わっているでしょう」
 欧風な佇まいを見せる並木道(ブールヴァール)を横断し、産業貿易センタービルの脇をぬけ、開港百五十周年記念の前夜祭に沸く山下公園へ入った。アメリカノウゼンカズラの木陰になった、手頃なベンチに腰を落ち着けた彼は、わたしが何も言わない内に、自分に酔ってでもいるように喋りだした。
「アゲハさんね。恵まれないたちのシンガーだったんです……。ウリは様式美なのに、いつも決まって耳に心地よくて肌触りが柔かいだけの曲ばかり歌わされる。業界が商業主義だったことにも、アゲハさんが自分の持ち唄にばかりに拘泥していたことにも、原因はありますけど」
「なんだか知らないが、料簡がないなら帰らせてもらう」
 慌てて飛び上がると、彼は両手を広げて遮った。「やだなぁ、そういう言い草って。やくざ者に呼び出された私立探偵みたいな言い回しじゃないですか」
「まさにそんな状況じゃないか」
「僕がやくざ者に見えますか? あなただって、とても私立探偵には見えない」
「わたしは傷つきやすい人間なんだ」
「よくわからないな……」
 会話を茶化すように、消波ブロックの上空を旋回していた鴎が鳴いた。園内の芝生は陽射しとちちくりあい、海岸通りでは潮風とポルシェがカーチェイスを繰り広げていた。
「なぜ、わたしを連れ出したんだ」
 しかし、その疑問は空中に投げ出されたままになった。彼は自動人形のようにてきぱきと、四つ折り畳んであった二枚の広告(ビラ)を手渡してきた。
 一枚目は、古ぼけて折れ目が裂け、写真も色褪せた、FMラジヲの広告だった。写真が四つのコマ割りで掲載され、収録室でパーソナリティの女性とアゲハが談笑する風景が映し出されている。
「ブルゥ・プーパで配布したビラです」と、ウィリアムテルは言った。「何でも女流に美形とくれば、地方紙や市の広報課、それからマスコミが取り立てはやしたりもするものです。女流に美形が二人となれば尚更ですよ。さっき、ステージで歌っていた女性。彼女も当時から名の売れたシンガーなんです。人気だけで比べれば、アゲハさんよりも上でした」
「そうなのか」と、わたしは海を眺めながら適当にぼやいた。
「そうなんですよ」
 興味のない風を装ったのにも関わらず、彼は自分の色眼鏡を通じて、わたしの言葉をそのままの意味に汲みとった。
 そこから先の下世話な長広舌は、ほとんど耳から抜けていた。黒人兵だらけのアーミーキャンプの中で白っぽく歌うアゲハの姿は印象的だったとか、まるで海軍将校クラブ(オフィサーズ)時代のような話の断片が微かに耳のどこかに引っ掛かる程度のものだった。
 わたしは、広告(ビラ)を繰って、もう一枚を眺めてみた。ジャムバンドが斜め撮りされた脇に、ライブスケジュールが記載されている。全て今日より先の日付だった。
 ウィリアムテルはまだ両手を握り締めて喋っていた。
「そのバンドのマネージャーから猛烈なプッシュがあって、アゲハさんを伴奏のメンバーに迎え入れたいから勧誘してこいって、大仕事を任されちゃったんです」
「こだわるね」
「ある日ステージに立つ彼女に罵声が飛んだです。“おまえは神様のために歌っていやしない、自分のためだけに歌ってやがるんだ”って。僕はピンときましたよ。かのクインシー・ジョーンズですら、自叙伝の中でそんな野次を飛ばされたって書いてあるんです」
「彼女に訊くんだ。わたしに言うことじゃない」
「アゲハさんには、断られました。でも、彼女はまだ古い時代の檻の中に捕らわれているんですよ。彼女の人生は、あの輝かしかった数年間に閉じ込められている。そして皮肉なことに、彼女の唄を宣伝する時のラジオのフレーズはいつだってこうでした――」
「――彼女はの歌声は心色をチューンする」と、背後からする女の声が続きを代弁した。「ノイズだらけのラジオをチューンして音を合わせるように、都会の喧騒の中に埋れたモノクロームな人生を、もっとずっと色彩豊かで鮮明なものにチューンしてくれる。どんな孤独な過去からもサルヴェージしてくれる――」
 ウィリアムテルはふと言葉を押し殺して、悲しみを放り出すように眦(まなじりを)を下げた。「アゲハさん……」
 アゲハがアメリカノウゼンカズラの咲き乱れる公園の遊歩道をやって来た。「やるならもっと上手く、あたしの見えないところでやって」
 わたしは広告をウィリアムテルに押し返した。「そういうことさ」
 何の前触れも無く、ウィリアムテルはわっと泣き出すようして逃げ出した。生垣を跨いで、鮮やかなアメリカノウゼンカズラを踏み倒していってしまった。
 わたしは言った。「話は済んだのかい」
「あたしがここにいるってことで分からない?」
「ご機嫌斜めだね」
「話し、途中だったでしょ?」
 自分を抱きしめるように腕を組んで、心細そうに、彼女は俯いた。彼女は腕をどこにも伸ばしてなどいなかった。輝かしかった数年間の過去の檻の中から、腕など伸ばしているようには見えなかった。ただ、親もとを離れようとする小鳥が飛翔に失敗して墜落したときと同様に、身を縮めているだけのようだった。

 ブルゥ・プーパから程近い駐車場からマークⅡを発進させた。空調までもが、ご機嫌斜めだった。いくらアクセルを踏んでもウィンドガラスから入り込む潮風は不快で、ハンドルも熱く握れたものではないし、針の筵(むしろ)の中で炙られているような印象だった。
 アゲハは助手席で、触れれば刺さりそうなピンヒールみたいに話し始めた。
「まぁ聞いて、何年か前、遼寧省で日本でも話題に上るほどのスキャンダルがあったのよ」
 話題は丸々ブルゥ・プーパでの流れを引き継ぎ、フッキに関することだった。
 彼女は続けた。「現職警官幹部、公安局長、行政機関職員が、暴力団の薬物密売を通じて癒着していた。中国の地方では、こんな風に暴力団の裏に政府が構えているシステムが根付いているのを誰もが知っている。フッキが渡航した舞台背景も、こんな状態だったわ。カタにされている一人娘を取り戻すために、頼れるものは己自身だけだった」
「君は唄うことと引き換えにそれだけ聞き出したのかい」
「そんな大袈裟なことじゃないよ。どちらからとも無く、退屈しのぎに自己紹介がてら話し始めた。最初に、彼がわたしの本名を知りたがって、その代わりにあたしが彼の探し物を知りたがると、彼はあたしの声が枯れていると笑ったわ。あたしが彼のサングラスを指摘すると、今度は彼があたしの生い立ちを知りたがって、あたしは彼の本名を訊きたくなった」
 興味をそそるものが一つあった。フッキとアゲハは、それぞれの本名と過去について話し合った。アゲハは自分の枯れた声について話した。フッキは自分のサングラスについて話した――。
「サングラスが、何だって?」と、無意識にわたしは訊き返した。
「サングラスよ。あんた、気付いてないの?」と、アゲハはいつになく慎重な眼差しでわたしを覗き込んだ。「あの男はほとんど目が見えていないのよ」
「まさか」
 月並みのわたしの科白は、他人の声のようにぼんやりとした響きで遠くに聞こえた。
「発病する次期には個人差がある先天性の症状って診断結果みたいね。まるであたしと彼、二人合わせてレニートリスターノよ」
「レニートリスターノ?」
「盲目のジャズピアニストよ」
 わたしは密かに動揺を押し隠した。それから、意識してゆっくりと抑圧するように喋りだした。
「いや、わたしは全くそんなことを感じなかったな」
 彼女が普段、わたしをどう思っているのかは知らないが、この時だけは酷く哀れまれた。
「別に全く見えてないってわけじゃないんでしょう。少しは見えてるの。ただ明りに弱いんだと思う。だからいつもサングラス、かけてるんじゃない」
 だから、わたしの事務所に彼が現れたときには自分の車でなくタクシーで来たとは言い過ぎだろう。わたしの事務所で絵に、黒鉄町のマンションで帽子に、唾を吐きかけたが命中しなかったのはそのせいだと言われても、そうだという気もしなくはない。だったら、原のパンチを避けようともしなかったのは、避けなかったのではなく、ただ見えていなかっただけなのだろうか。彼が、いつも決まって何か物を掴もうとするとき、例えば黒鉄町のマンションで煙草を手に取ろうとしたとき、卓上を見ようともせずに手探りだけで弄っていたのはそのせいだったのだろうか。思い返せば心当たりはいくらでもあるが、そうしたところで、真実がはっきりするわけではなかった。だが、事務所ではじめてフッキの眼窩に埋まった眸を覗き込んだとき、それが慢性的な絶望によって覆われているような輝きであったのを覚えている。
「気になって、直接訊いたのよ」と、アゲハはウィンドガラスを巻き上げた。彼女の住むマンションが近づいていた。「そしたら話してくれた」
 わたしは頷いた。モアイ像みたいな頷き方だったに違いない。「だから十年以上も前からサングラスをかけていたわけだ」
「眩しい光の中であっても瞳孔が閉じない、日中だと眩しくて何も見えない散瞳って症状。実際には薬物によって引き起こされるものならしいけど、あいつの場合は、副交感神経系と交感神経系を調整するホルモンが、染色体の異常で機能していない。診断したのは信頼できる軍医だって」
「となると、娘も同じ症状だろう。治せるのかい」
 彼女は顔の半分を片手で覆い、見える側の半分で落ち着きを示した。「彼の探し物が見つかれば」
「財閥如何ってことかい」
 アゲハはフロントガラスからわたしの横顔へ視線を滑らせた。背後に景色が流れた。「あの男、あたしの唄を聴いて、なんて言ったと思う……? こんな声で歌った唄よ」
「良い声だと言ってくれたのかい」
「いいえ」と、彼女は、誰のためにでもない慈しみの微笑を浮かべた。「下手糞だって言われたわ。故郷の村娘の方がよっぽど上手いって。――だけど最後に、また聴かせてくれって。でも、歌いたくないのよ」
 それが、彼女の出来る、自分の過去へのささやかな抵抗だとでもいうように、妙な頑なさがあった。
「あの歌にだって、本当は終りまで歌詞があるんだから、あなたがリクエストしたように」
 どんな歌詞だったと訊けば、余計にどつぼに嵌っていくだろう。そしていよいよ耐えかねたように、問題はふりだしへ帰ってきたのだった。
「フッキの探し物、見つけてやれないかしら。報酬を出してもいいわ」
 彼女は、あてこするように言うと、その表情のまま冷ややかな空気を瀰漫(びまん)してみせた。はじめてそこから、極道が匂った。
 わたしは柄にも無く参った。昨日に董克昌よりも守永を選んでしまったという自分の捜査方法を悔いたわけではないが、自分の性格を海に流してしまいほど呪った。再び、同じ選択を迫られている。
「自分が譲れないことなんてない、分かり合えないことなんてない、そう思ってわたしは私立探偵をやってる。答えは……善処することを検討させてもらう」
「可笑しな誤魔化し方ね」と、彼女は、分かっていたというように微笑んだ。そこから、もう極道は匂わなかった。「泥のように眠りながら、それでも夢を見ようと足掻いてるみたいね、あんたって。真実だとか、ありもしないものを、存在しないと分かりながら探しているみたいよ」
 わたしは自動車を止めた。停車はなめらかにとはいかなかった。下車間際の彼女に言った。
「そういえば、黒鉄町のマンションで事件が起きたとき、君は何所にいたんだい」
「ここの自宅に帰っていたわよ。フッキに一度帰るように強要されたんだもん」
「彼が今何所にいるか知らないか」
「知らないわ」と、彼女は脚を投げ、肩に掛けた長い髪を揺すった。「知っていたら、とっくに周りの連中が報復に向かっているでしょうし、あたしだって彼を説得しに出かけてる」
「戻れない世界に首までどっぷり浸かった人間だ。君が言ったようにもぐりの高利貸で、盗品の仲介をして、人を殺した男だ」
「だから何よ?」
「彼の本名を知らないかい」
「ダイイン。韋代英(ウェイ・ダイイン)よ」と、ウィンドガラスに漢字を並べた。
 韋代英(ウェイ・ダイイン)という名に、二人の証人が出来たが、特に意味は見出せなかった。意味など、とうに見出せなくなっているのだ。この事件の輪郭も、わたしの捜査方法も、気化したアルコールのようにあやふやでしかなくなっていた。アゲハの後姿も、同じようにマンションホールへと消えていった。わたしはその痩せた背中に、彼女が自分で自分を抱きしめる過酷な日々を垣間見たような気がした。
 それから五分としないうちに丁玲から連絡があり、足が整然と約束のリャンズ・バァへ向いたということは、わたしはアゲハの檻の中よりも董道一事件に興味があったということなのだろう。変わらない未来と変えられる過去、どちらに興味があるかと訊かれれば、わたしはそのどちらにも興味は無いと答える。
と答える。

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