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THE BLANK TRACK
( correction version )
by
Taki Sara
Copyright © 2007-2010 by
Taki Sara





   15

 低く垂れ込める午後の喧騒から裏路地へ逃れると、“LIANG’S BAR”という新しいネオン看板が眼を誘った。店の外装は、几帳面が過ぎる神経症の掃除婦が磨いたみたいに小奇麗になって見える。
 考えてみればおかしなことだった。ただ梁道一が会話の中でそれとなく持ち出しただけの約束の場所に過ぎないのに、この店はそれ以上の印象をもって、わたし達の心に翳を落としている。その上、肝心のその本人は、もうずっと昔に梁道一という名を棄てていたのだから。だったら、ここにある一つの単語の響きには一体どんな意味があるのだろうか。
 ドアを引くと、湿気にくぐもった空気と薄暗い照明が流れてきた。客が一人掛けていれば、それだけで奥には進めないような店内である。わたしは帽子も脱がずに腰を掛けた。
 カウンターの向こうではキーンが、手前では丁玲が、まどろみの淵で彷徨ようにうたた寝ていた。キーンの目が薄く開き、左目の下を指先がなぞった。わたしに顔を顰める以外にどうしろうといのだろうか。
「主役のおでましね」隣でも、丁玲の乾いた瞼が持ち上がった。
 ダイキリと胡葱(エシャロット)がカウンターに載せてあり、ついでに肘も載せて、酔いの波に身を任せて気だるそうな物言いだった。
 わたしは言った。「大根(・・)ですよ。主役の器じゃない」
 彼女は息一つしないままダイキリに口をつけ、喉元を転がすと、汗ばんで乱れた髪を丁寧に額へと撫で付けた。口元には、烏龍茶の葉みたいに螺旋(ねじ)くれた苦笑いが浮かんだ。
「道一は帰って来たの?」
「いまなんと、言いましたか?」
「理不尽なのよ。家から飛び出して行ったと思ったら、次に名前を聞かされた時には死んでいただなんて。絶望していく暇だってありはしないじゃないの」
 突然の悲痛で切実な響きに、わたしは返答をひかえた。
「別れを告げることだってできない。理不尽さと決着をつけるための猶予もないままに、抱えきれないほど沢山のものが無理矢理押し付けられたわ」
「他人に気を遣いながら、大切なものを守りながら、それでも生きていかなければならないと嘆くが、同時に死とも面と向き合っていく必要があると思います」
 彼女がどうしてもそうしたいと望むのならば、警察へ赴いた上で何処かの大学病院にある遺体安置所(モルグ)へ行けば、別れの顔を拝むことぐらいはできるかもしれない。が、そんな対面を勧めたところでただの皮肉にしかならないだろう。
 わたしと彼女がはじめてこのバァで出会ったとき、彼女は董道一に後ろ暗い背景があることをはっきりと肯定したのだ。そして、その事実が表沙汰にならぬように、私立探偵などといった与太者を雇って、水面下での捜査を進めると決断した経緯がある。
 穏やかな昼時の陽射しが戸口の隙間から忍び込み、丁玲の悲しみに満ちた顔を両断している。彼女が振り返ると、顔から翳が去った。何かを告げようとしたが、わたしの顔を見て言葉を落としたようだった。その軌跡を視線で追うみたいにグラスへ俯き、やがて闇のような睫(まつげ)の下から朱い唇が別の言葉を拾い上げた。
「どうしたのよ、その傷……」
「やんちゃな坊やが、どうしても豚箱を社会科見学したいと言うので」
「傷は深いの?」答えを黙殺して、彼女は繰り返した。
「マリアナ海溝よりは浅いですね」
「そうね、だったら良かったじゃない。あなたは針の上に立たされていたけど、たまたま悪くない方向に倒れた。でも、道一はたまたま悪い方向に倒れた」
「あなたらしくもないな」
 わたしの厳しい語調に、彼女は戸惑ったような、ラムに酩酊した逃げ腰の微笑を見せた。
 彼女を庇うように、キーンの注文を伺う声が遮った。酒は飲んだばかりなので、アイスコーヒーを淹れてもらうことにした。ふんだんに汗をかいたグラスが、すぐにカウンターに差し出された。
「今朝、コテツがホテルの部屋から出たときには目が覚めかけていたのよ」と、丁玲は伏目がちに硬い仕草でグラスを指先で叩いた。「すぐにメモを読んだわ。どこへ出かけていたの、私に黙って」
 その言葉をそっくり彼女へ投げ返してみたくもあったが、ライトに照らされた蜜色の眸があまりにも責め立てていたので、呑み込んでしまうことにした。
 彼女にとって何杯目かのダイキリが、既に手馴れてしまった感じの持成しで捧げられた。ラムがダブルの、砂糖を抜いたフローズン・ダイキリだった。
 わたしは答えた。「たった今まで、事件の関係者に会いに行っていたのです」
「昨夜、聞かされた黒鉄町の事件のことね。――それで、どうなの?」
 酒のせいか、随分と粗忽な物言いで、どこか墓石を投げるようなところがあった。
「確かなことが分かると、違う箇所で噛み合わなくなる。そこが整理されると、また別に問題が生じる。でも、それは別にわたしの捜査方法が悪いせいじゃないんです」
「さしあたって、目の前の問題は何?」
「その質問には、いくらか答え辛いところがありますね」
 この瞬間、依頼人に捜査状況を出し渋ったことで、行くも引き返すもどっちつかずの佳境へ追い詰められていることに、わたしははじめて気がついた。路辺との一件以来、董道一についての不可解な点が、依頼人と私立探偵という見栄えほどに彼女を信用させてはくれない。疑問点は集約されているくせに、どこかそこから目を背けたい気持があった。わたしは現実に背を押され、いよいよ肝心な質問を投げかける必要に迫られている。
「あなたが知っていることを、そろそろ全て話してもらいたいというのが本音です」と、わたしは切り出した。「わたしの言っている意味がわかりますね」
 彼女は失望したようにグラスの縁を指先でゆっくりとなぞると、いとおしそうに雫をすくった。それをだらしなく口先に持っていき舌先で舐めた。意味の無い仕草をし続ければ、わたしの質問も意味を持たなくなる、とでもいったように。
「私、道一について知っていることは全て話させてもらったつもりよ。話していないのは、この事件とは何の関係も持たない些細なことだけ。挙げればきりがないわ」
「中華街の混沌は、全て董道一を中心に巡っていますよ。董道一から事件がはじまり、董家とフッキに結びつき、さらにそこから四課と筋者も引っ張り出せる。複雑とまでは言えないが、多方面からの思惑が道一を目掛けて錯綜しています。全ての鍵を握るのが道一だとしても、あなたは黙っているつもりですか」
 彼女は、汕頭(スワトウ)レースのハンカチーフで指先を拭うと、屁理屈は聞きたくないと言わんばかりにハンカチを払った。わたしは構わずに続けた。
「肝心なのは、はじめてわたしとあなたが出会ったとき、道一に後ろ暗い過去があるとあなたが認めている点です」
 丁玲の豊麗な顔貌に、心の中で生まれたやり場の無い動揺がふつふつと湧き上がった。わたしは彼女の背中をさらにもう一押しすることにした。
「我々が“大きなうねりの中にいる”と言ったのはフッキでした。そのフッキが探し求めている品は、董道一が持っていた品に違いありません――。その品は、多額の現金と引き換えが可能な代物だと調べがついています。ここから先は、董道一知らずして、真相に近づくのは難しい。確かに、彼の容姿や人物像といった浅薄な知識はありますが、しかしそれ以外のことは何一つ分かっていないのです。これが失踪人調査だったのなら、もうとっくに本人を見つけていたでしょう」
 わたしは長広舌を披露しながらも、彼女を無理に責め立てないように注意は払っていた。
「調べがついているんじゃない」と、彼女は眉毛をぞっとしたようにしならせた。「それで充分よ。それ以上、私に何を話させようっていうの?」
「彼は何を隠し持っていたのですか」
「大したものじゃないわ。人によっては、お金になるもの」
「事件の解決以上に優先すべき事柄があって、口を噤んでいるのですか」
「どうかしらね……」
 のらりくらりとした穏やかな口調だが、対照的に人差し指はカウンターをリズム良く弾き、邪推だと訴えていた。
「もはや尻込みする必要はないように思われます」
 わたしの訴えに対し首を横に振ったが、それも力無いもので、反論を予期して諦めたようなところが微かに匂いはじめていた。
 彼女は迷いとも拒絶ともつかぬ表情でわたしを見つめている。
「あなたを信じきれないわ。私の立場に立って、よく考えて。弟を追って日本へやって来たけれども、そこで突然彼が殺されたと聞かされた。さらに私立探偵だと名乗る素性の知れない男が真相を探るために自分を雇ってくれと迫ってきた」
 彼女の言い分には八割以上真っ当なところがあった。わたし自身が、彼女との会話に難色を示しているのだから、この彼女の意見を否定することは野暮である。わたしの鬱積とした心を彼女は見透かしている。季節外れの雨みたいに冷たい眼差しが、わたしを打ちつけていた。
「――ねぇコテツ……私は本当にあなたを信じていいのかしら。私たちは、お互いに信じられる間柄なのかしら。そして、何を知っても私の身方でいてくれるのかしら。それでもはっきり言うわ、私はあなたを信じたい」
「わたしは卑陋(ひろう)でちっぽけで一人ぼっちだが、私立探偵の一番の売り物を忘れたわけじゃありません」
「誰も、頼れないの……」
「わたしに出来ることがあるとすれば、あなたがわたしを信じてくれるのを待つことだけです。一言言わせて貰うとすれば、もはやこの事件はあなただけのものではないということです」
 彼女の眸の中で、バァを暴き出すような眩しい光がパッと弾けた。目の前に座る私立探偵をではなく、その私立探偵を突き動かしている衝動を、彼女は見止めたようだった。
「あなたが事件を追っているのは、私のためだけじゃない。あなた自身のためでもあるのね? いえ、もっと言えば――」
 彼女は力強くダイキりを呷った。グラスをカウンターに下ろすと、後には、長く氷河のように深い沈黙が続いた。だが、言うなれば、今までにわたし達が共有した関わりそのものが沈黙であったのかもしれない。ダイキリのフローズンが溶けるように、時間の価値までもが溶けていくような幕間(まくあい)だった。わたしは自分の言葉の通りに、只管(ひたすら)に待ち続けた。やがて時が尽きるほどに流れきると、わたし達の歩みは同じ方角へと向きはじめた。この場合最悪の展開は、互いに信頼を棄ててしまうことだったが、なんとかその航路からは反れることができたようである。
「遺言状があるのよ」と、彼女はゆっくりと静謐(せいひつ)を中和した。今まで暗く輪郭すら覚束なかった領域に、白い絵の具がこぼれ出て染み広がっていくように、過去が露呈してゆく。
「それが、コテツにはずっと伏せてきた秘密よ。以前、あなたに私達の父親について話したのを覚えているかしら」
「水はけの悪い脳みそですが、良く覚えています。あなたが、董家についてはじめて説明してくれた時に、話題に上りました」
「今はもう意識も朧な父が遺した財貨と資産、その遺贈内容を示した遺言状があるの」
 彼女は淡々とした調子で、補足を加えていった。例えば、中国やアメリカのような広大な土地を個人が所有できる国家の場合、莫大(ばくだい)な規模の取引が頻繁に行われるために、動産不動産及び預貯金の相続制度は日本のそれよりもずっと進歩しているものだ、というのが主旨だった。財閥となれば、そのような配慮はあって当然だと最後に銘打った。
 一旦言葉を置くと、彼女はハンドバッグを抱きしめ直し、口調を格式ばったものに改めた。
「膨大な金額や土地が動かされるから、相続書は結婚と同時に人民共和国司法部の公証人と弁護人の嘱託(しょくたく)のもと、親族が立ち会って署名押印されるの。かつての頭領であった爺様と婆様、現頭領の父様、それから他界した母様、さらに兄弟達全員が、その半ば儀式化された作業を見守るわ。そして、もう直ぐ、その時に書き記された紙切れが使命を果たす時がやってくる。それが今日でも、明日でも、何も不思議なことはない。新聞に訃報が載れば、利権屋が動き出して血筋は分断される。私だって、こう見えるけど、一族がばらばらにならぬよう懸命に努力しているの」
「その相続書を兼ねる遺言状を、道一は持ち逃げした、というのですか」
 彼女の息遣いは緊張し、顔色は上海の光化学スモッグみたいで冴えなかった。
「父様の療養所は蘇州にあるの」と、彼女は言った。「それほど大きくはない施設で、私、陸(ルー)、そして道一の三人で、この夏は父様の傍にいようと決めていた。陸というのは、あなたが知っての通り、以前のこの店――大陸酒館のマスターよ。彼女は療養所の女中でもあるし、日本ではバァを商(あきな)ってもいた。度々日中を往復して生活を営んでいたの」
 陸という人物を、わたしはすっかり男だと思い込んでいた。しかし思い返してみると、確かに誰にしたって、陸という人物のことを一度も“彼”とは呼ばなかった。
「最初は陸が、父様の身の回りの世話をしている際に、金庫の蓋が開け放されているのに気が着いたわ。療養所の施設自体はそれほど広くないから、ひっくり返すように調べたの。でも、何も出てこなかった。蘇州市公安局に捜査を要請した時には、既に道一が療養所から姿を消していたわ」
「なぜ、彼が日本へ来ると推測されたのです?」
「道一の頼る当てなんて、克昌兄さんくらいしかないもの。まさか一人で生き永らえるような子じゃないわ。兄さん達が頼れないなら、彼は行き場所を失くしてきっと大陸酒間に迷いこむしかなくなる」
「なぜ彼はそんな面倒ごとをしでかしたのでしょうか」
「分からないわ」と、彼女は持ち前の科白でわたしを拒んだ。「わたしが昨日、ホテルを離れていた理由も、遺言状を探しに中華街の知り合いを尋ね回っていたからなのよ……」
 存在の消えた董道一を中心に、この事件は、まるで永久機関のように稼動している。そして、その永久機関の歯車のひとつに、董財閥の遺言状があるのだろうか。この遺言状というものが、おそらくフッキの探している品物であることにも間違いはないだろう。しかし、腑に落ちない点もある。わたしはどうにも怪しいその領域に、生身のまま飛び込んでみることにした。
「血縁でない者でも、遺言状を所持していれば財産を継げますか?」
 もしそうならば、第三者のフッキにも莫大な金をせしめられる蓋然性が高まる。
 丁玲が答えた。「遺贈である以上、条件を満たしていれば血が繋がっていなくても財産を受け取れる可能性はなくもないわ。例えば養子――だから道一にもその権利はある」
「他の場合はどうです? 数値的な話ではなく、現実に赤の他人が相続できる成算は成り立ちますか」
「ちょっと厳しいわ。遺言状は紙面のみじゃなくて、符牒も必要になってくるから、遺書丸裸だけでは何の機能もしないし」
 詳説しながら、彼女は今までずっと大切そうに抱えていた半月型のハンドバッグを、わたしに依頼料を支払って以来はじめて広げた。弄(まさぐ)っていた腕がそこから静かに抜き出されると、カウンターの上で掌が開き、ホープダイアモンドでも包まれていそうな群青色の小箱が姿をあらわした。フェルトに覆われた上蓋をそっと持ち上げると、燦然(さんぜん)と輝くいびつな正八面体が、バァの照明をかき集めて浮かび上がった。一面一面には精巧な彫り細工が施されている。
「これがその符牒よ」と、彼女は出し惜しむように蓋を閉ざした。「ある一定の規則に従って転がすと、符牒となっている紋様を描き出せるわ。二つに分かれて存在する遺言状を揃えて、符牒を割り印して、それで完成。その時になってはじめて、董家の遺産は無事遺言状に則(のっと)って、家柄の者に分配されることになる。符牒と遺言状とそれから董家との繋がり、この三つが揃ってはじめて遺産の一部が継げるわ」
 となると、フッキが遺産を相続できる可能性はゼロに等しくなる。推測は、そもそもフッキの探し物が董家の遺言状なのかというところまで後退してしまう。
「では、もしもその三つが揃わなかった場合はどうなりますか?」
「頭領の死から三ヶ月以内に揃わなければ、土地や建物といった形ある共有財産は換金され、現金と一緒に全てどこかの環境保全団体に寄付されるわ」
 わたしは、フッキのことと、その複雑な仕組みとに、二重の意味で首を捻りたくなった。
「なぜそんな仕組みに?」
「もともと歴代の家系全体に設けられた規則ということになってるわ。監査役がいるわけじゃないけど、便利な制度だから代々引き継がれているようね。加えて、私と克昌の仲違いが決め手だったのよ。二人とも父様の寵愛を与ったのに、それとは正反対に仲が悪かった。せめて死に際ぐらい家族全員に看取られたいと感じて、それぞれ私と克昌に託し、仲違いを解消させようとしたのね」
「しかし、あなたに分配された分である遺言状の一枚は、董道一が殺されたことによってどこかへ消えてしまった……。警察に遺留品として押収された品は、パスポートとわたしの名刺だけだった」
 ここで気になることがまた一つ湧いてくる。丁玲とわたしが出会って以来、彼女はまだ一度も遺留品について質問をしていないのだ。遺言状を探しているにもかかわらず、遺留品として何が回収されたかすらも、訊こうとしていない。
「なぜ、質問しなかったのでしょうか」と、わたしは切り出した。「遺言状を探しているにもかかわらず、遺体の遺留品について」
 丁玲の肩が、不意に冷たい手で触れられたとでもいうように、ぴくんと弾けた。
「質問したくなかったからよ」
「それは、質問する必要が無かったという意味ですか。それとも、質問すると不都合なことがあったという意味ですか」
「ただ、質問したくなかっただけ」
「道一が不正入国者だということに、関係がありますか?」
 彼女は、ほつれの目立つ鬢(びん)に手を添えると、動揺に蓋でもして閉じ込めるかのように力を込めた。
「知っていたの?」
 わたしの言った浅薄な疑惑と生齧りの事実にも、彼女は機敏に反応した。
「被害者を調査するという事くらい、どんな無能な警官だってやります」と、わたしは言った。「それこそ無能な私立探偵だって。これが事件解決には特効薬なんです」
「もし、あなたがそれ以上道一個人について詮索するというのならば、私はあなたを解雇させてもらうわ」
 彼女は唇を白くするまで引き結び、大きく頭を振った。それは神経症患者が治療を抵抗(ヴィーダー・シュタント)でもする時ように、彼女自身が抵抗を抵抗だと認識していないような振る舞いに見えた。事件の解決を願うのならば、抵抗しても無意味なことに彼女は抵抗しているのだ。道一自身の問題となると、彼女は途端に口を噤みたがる。
「あなたは、わたし無しでもやっていけると、やっていけない素振りで主張する。どっちなのか分からない」
「どっちでもないわ」
 確かに、どちらでもないのかもしれない。ただ親愛なる想いを一心に注いできた対象を失った不安が彼女を饒舌にさせただけに過ぎないのだ。
 その現実が、再び鼻っ面を引っ叩いたとでもいうように、彼女は顔を背け、目尻を拭った。視線が帰って来たとき、女の眸には恐怖に似た光りが射していた。だがそれは、泪(なみだ)にぼやけた化粧みたいにはっきりとしない慄(おのの)きだった。
「私、駄目なのよ」と、死人へ囁くように彼女は唇を震わせた。「思ったより駄目みたいなの。自分の心と現実に、折り合いがつけられなくなってきているのよ」
 景徳鎮の陶磁器のような複雑で繊細な蔦模様を残して彼女の血の気が失せていった。真珠のような小さな爪が光っている。並べられた言葉で表現される以上の生生しさで心情が吐露されていくようだった。
 それ以上、わたしの感情は言葉の形にはならなかった。なったとしても、ただ刺々しいだけのもので、喉と彼女を痛めつける以外に何の役にも立ちそうに無い。
 丁玲はダイキリに手を伸ばしたが、グラスの中で揺らめくクラッシュ・アイスが神聖に光りでもしたのか、その手を引っ込めた。
 昼下がりの静閑が、ふらふらとわたし達の間を彷徨っていった。その静閑と共に、現実からか、それともわたしからか、彼女も逃げるようにしてバァから出て行ってしまった。不可視の死の圧力に耐えかねたのか、わたしがただ手綱を手放してしまっただけなのか、それすらも分からなかった。
 どうやら、このまま暫く疑問を引きずって歩くことになるようである。喪章を腰に巻いて、棺桶をその先に結びつけたまま、走るような捜査を続けるのだ。目を瞑り、この事件を初めから手探りしてみても、手に残るのは、ざらざらした触感だけである。それでも事件のはじめから今まで、脇腹をつつき続けるものがある。だがそれは、暗くてよく見えない。
 注意力が散っていたせいか、キーンが隣の止まり木(スツール)にへたり込んだことに、彼が缶ビールのプルタブを剥き上げるまで気付かなかった。
「クビか?」と、彼はギネス缶をビールグラスへ傾けた。グラスの中に生まれた宵色の小さな渚で、人魚姫が溶けたみたいな泡が踊った。
「中にはそう思いたがる人間もいる」むきになったような響きを訂正することが出来ないかと思案しながら、わたしは答えた。「だが、カクテルだってステアしなきゃ分離したままさ。私立探偵と依頼人の間柄もそんなものでね」
「私立探偵の基本を忘れているぞ。質問をするんだ、質問を。ジュニアスクールの学生だって積極的に手を上げるのに、私立探偵がそれでどうする」
「何度も言ったが、三流さ。訊いても、訊き出せない。その上、わたしの方から彼女に仕事をもちかけたんだ。ぶん殴ったり、金を積んだりすれば話が罷(まかり)り通る商談じゃない」
 おひやらかすように、まるで何も聞こえなかった様子でキーンは美味そうに飲み物を喉へ流し込んだ。
「この酒は良いね」と、彼はごつごつした手でグラスをひねくり回して唸った。「オレにアイルランドの血を思い出させてくれるよ。ニューヨークじゃあ、だいたいアイルランド系の人間ってのは警官か消防士になるって相場が決まってる。オレもネイヴィだから似たようなもんだがね、とにかく、そんな血を思い出させて敬虔な気持にさせてくれるのさ。血脈ってのはよ、世界中何所へ行っても、争いやら、いわくやら、歪(いびつな)な矜持みたいなものを生むもんじゃねぇのか?」
「この件もそういうことだと?」
 わたしの手の中には、未だにアイスコーヒーのグラスが残っていた。照明に透けて、まるで血溜まりみたいにどろどろとした真紅の澱みが踊っていた。
「彼女の話はやや突拍子すぎるところもある」と、わたしは言った。「だが、嘘にも思えない」
「少なくとも、酔っ払ってクルーザーでカジキ釣りに専念するにわか成金の夢語りじゃないだろう。成金と富豪は別物だ。あの女には、ロールスロイスの後部座席に乗ってビヴァリーヒルズを徘徊するような富豪らしさが確かにある。街中を訊いてまわってみると、それが良く分かる」
「どういうことだ」
「中華街を探(さぐ)ってくれとオレを抜擢(ばってき)した張本人が何をほざいてやがる」
 それでわたしは催眠術から醒めるようにして記憶を取り戻した。
 わたしは言った。「謝礼は出そう」
「ここでは人もそうだが、街も自己主張が強い」と、不貞腐れながら、丁玲が積んで残したエシャロットを彼は齧った。「その割には誰もが妙にふてぶてしくして、しかもよそよそしい。同族意識が強い分、排他的で、観光客でない人間は塵芥(ちりあくた)も同然だった。だからオレも自己主張をしよう」
「触込みはそれで充分だ」
「こっちは一日中端から直談判で拝み倒しだってのに……」と、彼はなおも俗物根性を引っ張り出した。「慣れない仕事で手本もなけりゃ助言もない。五はだしてもらわないと」
「何が五も必要なんだ」
「五万円さ。五万ドルでも、ロールスロイス五台でもいい」
 わたしは丁玲の報酬の内から必要経費として彼に五万円を手渡した。
「さ、話してくれ」
 何所で覚えたのか知らないが、もみ手の真似事のような仕草で彼は話しだした。
「自己主張が強い以外はなんだって世間並の街だ。物は過剰気味で、立派な面構えの店が並び、裏通りには筋物もちゃんといる。骨董品屋、雑貨屋、惣菜屋、呉服店、食堂、宿場。どこにしたって、それを中国人が中国人なりに商んでいるだけだ」
「殺人犯が殺人犯なりに罪を犯して、筋者が筋者なりに拳銃の引金を引くのかい」
「その辺りの事情には、この街は顔を背けてるね。例えば、驚いたことに、あの中国女の特徴を聞いて心当たりがないと応える中国人はこの街になかなかいないんだ。だが、朱雀門通りや黒鉄町の事件の話題をもちかけると既に忘れかけている者もいる。事件は中華街を中心にしてるんだが、中華街の方は我関せずって顔色だな。ここは衆人環視のある観光街に違いはねぇんだ。暗黒街じゃない。女が一人で歩けるし、表通りに出れば、男が女のために椰子の実にストローを刺すのに躍起になっている。小さな犯罪に目を瞑れば、そりゃあ平和ってもんだ」
「しかし、道一、丁玲、フッキ、守永、他にも大勢の人間が、煽り風に曝された」
「小幡谷って組織の名をもう耳にしているか」
「偶然ね」
「端くれだが探偵には違いねぇって言えよ、別にそこまで否定するつもりはないんだぜ」
「どうして君が小幡谷の名を耳にできた?」
「ネイヴィの肩書きが利いたのさ、国賓級の待遇だぜ。昔の米兵と中国人の関係がどんな残滓(ざんし)を生んだかなんてのは知ったことじゃないんだがね」と、彼は憮然と言い募った。「ここ最近、でかい面をしているのは、元から中華街を縄張にしていた連中じゃなかったんだそうだ」
「余所者ってことかい」
「オレやあんたみたいな余所者が、中華街へ殴りこんできた――それも中国人じゃない、なけなしの脳味噌を担いだ日本人だ。そのせいで、この街全体が歪(ひず)み、諸所で悲鳴を上げるようになった。結果、この店にまでトラブルが及んだ」
 舌鼓(したづつみ)と合わせて、厚底のジョッキを叩きつけるようにして置くと、彼は、金鑢(やすり)みたいな溜息を吐き出して続けた。
「新参の日本人達が、その辺のゴロ付きのチャイニーズに小遣いを手の平に押し込んで何かを探させてる。オレの店を襲ったのはそんな連中の一グループだ。中華街はあくまで被害者なんだ、いつのまにか戦場(リング)になっちまった」
「わたし達も、いつの間にかリング上で戦わされている」
「それも目隠しをしてだ」
 入り口のドアは開け放したままになっていた。熱気と街のさんざめきが流れ込んできて、彼はそのなかの不特定多数の人間に向かって、怒鳴っているようだった。
 わたしは言った。「新しくこの街へやって来たその日本人連中達についての詳しい情報はないのかい」
「さっきも言ったが、小幡谷運輸物流共同組合ってとこが鍵だ。表向きは、本牧の港で船舶の積荷やコンテナを動かしている小さな会社でね。今に良く見る全国規模の広域暴力団とは属性が違う。頭の良い組員に株をやらせたり、シノギのシステムを構築して効率化したりなんてことはしない。代紋を使わないで仕事が出来る今風のヤクザとは違う。裏では、表の仕事を活かしてヤク販路の確保や、ヤバイ物を沈めるための海域への案内などもしている。だが、中華街へやってきて小幡谷の組織連中は品物よりもある人物を探して人手を割きはじめた」
「追われている男は、中華街の一匹狼だな」
「俺より一回りもでかい大男のフッキって野朗さ。そいつは殺しもするだなんて悪い冗談を耳にした途端、黒鉄町で事件が起こって、被害者が小幡谷の組員だったときた――」
 わたしは黙って耳を澄ませて、街の律動の隙間から彼の言葉を聞き分けていた。黒鉄町事件の真相を話して聞かせるには気分が重すぎた。
「やっかいな問題だ。組織と殺し屋一匹が争おうってんだからな。それもしみったれた情緒もナシでだ」
 ひとしきり、彼は無言のままで背を丸めていた。
「派手な騒ぎになったものだ」と、わたしは言った。
「どうなった思う?」
「何がだ」
「殴り合いがあった。昨夜――真夜中さ。フッキって野朗は大人しく連れて行かれたそうだ。ちょっと変わった筋物が、この世からいなくなるかもしれないぜ」
 仰ぐと染みだらけの天井が見えた。染みだらけの衣服に、染みだらけの人生と家族を背負った、染みだらけの人情をもつ十年前の男を思い出した。わたしはカウンターに札を一枚、それから小銭を積んで立ち上がった。
「出かけるよ」と、わたしは歯の隙間から吐き出した。
 まだ遺言状が一枚も見つかっていないのが気に入らなかった。遺言状を持っていた董道一と董克昌に最も深く関わっていたのがフッキだということも気に入らなかった。そもそも彼の探し物が遺言状なのかはっきりしていない事も気に入らなかった。確認しなければならないことが山積みだった。
 わたしはドアを開けて街へ踏み込んだ。人は何か起こってから動いているようでは半人前だと日常的に自覚しつつも、補えない死を目の前にした時、実際のところはいつだって何をするにも遅すぎると発見するのだ。

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