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THE BLANK TRACK
( correction version )
by
Taki Sara
Copyright © 2007-2010 by
Taki Sara





   16

 “危険を察したら一報してくれんか、私でも、無理なら帽子姫にでもいい”“希望(のぞみ)を、この事件の最後まで連れて行ってやってくれないか”
 路辺の訴えと原の嘆願、この二つにとり憑かれ、わたしは守永に一報するべきかと沈思黙考に没していた。
 そうこうする間に、傾きかけた太陽と競うように走るマークⅡは伊勢佐木町を回った。ビルと高架橋の隙間に生まれた数十センチの黄昏から、橙色の光線が道標のように暮れ泥(なず)む街を射っている。
 なぜリャンズ・バァを飛びしたのか、そこも頭を悩ます一つの種だった。事件解決の兆しを捕らえたのか、それともアゲハと丁玲が心に刻みつけた補えきれない喪失という問題が背中を押すのか、まだはっきりしない。小幡谷運輸物流協同組合の本部が陣取るマンションの玄関口で、マークⅡを横付けにした後、わたしはその答えを見つけ出そうとでもするかのように、暖色の壁を凝視していた。
 守永と共に原を追ったときには、この場所は筋者と四課の連中で溢れかえっていた。しかし、今現在となると、前庭(ポーチ)のデッキチェアでは老人がブランデーグラスを啜り、吹き抜けに広がる中庭(パチオ)にいたっては、無邪気に子供達が戯れていた。街道に植えられた月桂樹(ローレル)や糸蘭(ユッカ)が、その風景を絵画のように彩っている。
 港湾暴力団組織の香りなど微塵もしないのだった。するのは、夏草と、潮風と、微かな花火の火薬と、それから強い香水の臭いだけだである。尤も、大抵の住民が、自分が暴力団組織と屋根を同じにしていることなど、煙草の葉一枚ほどにも知りはしないはずなのだ。平和であることに何ら異常なことはない、といった類の理想論を信じたい。
 わたしは車を横付けにしたまま、ホールに出入りする人々を窺った。営業職風の中年がセキュリティチェックに手を焼き、徒労を踏んでいる。
 車を降りて、集合ポストで小幡運輸物流協同組合の所在だけでも確認してみた。八○四号室と八○五号室の二部屋が間借りされ、その両隣は空室である。集合ポストの脇にはレセプションカウンターが張り出し、警備員が防犯カメラの映像と睨み合っている。
 ノックすると、そのうらぶれた初老の男が、赤らんだ鼻を突き出した。
「こりゃどうも」と、彼は実直そうに背筋をしゃんと伸ばした。「お疲れ様です。何か御用ですか」
 別に酒を飲んでいるといった風では無かった。年中血の気のあるだろう、生真面目で精悍な目が、真っ直ぐに見返している。その落ち着き払った挙動は、引退後の職にあぶれた元警官といった印象である。
 それでも物は試しに、わたしは福沢諭吉の肖像を掌のなかで扇ぎながら、駆け引きしてみた。
「中に入りたいんだ。理由に興味を持ってもらう必要は無い。急ぎでね」
 物珍しげに男はわたしをいぶかしんだ。「言うとおりにすると、そいつがこっちに招じ入って、さらには退職後まで面倒を見てくれる手筈ですか」
 目尻に皺は寄ったが、眸の方は僅かにも金に揺さぶられなかった。好奇の対象は、ひたとわたしに据えられている。
 わたしは言った。「その通りさ。ついでにコイツが受け取れないようなら、墓場まで案内したっていい」
 この過ぎた文句が悪く作用した。
「筋金入りに固いのが売りの商売ですから。何者だか知らないが、あんただって変わらんでしょう? 賄賂(わいろ)だなんて、ご免ですね」
「今の言葉は忘れてくれ。実際のところは、そんなに大袈裟なものじゃないんだ、チップだよ。人を探している。サマースーツに坊主気味のヘアースタイル、大柄で、サングラスを掛けている」
「似たような人なら、強面風の男二人に挟まれて一時間くらい前に建物の中へ連れて行かれたが……。たしか、曇り硝子(スモークドグラス)にされたSクラスのベンツに乗っけられてたっけかな」
 わたしは彼と如才なく握手を交わして、無理矢理掌の中へ壱万円札を押し込んだ。これでもう二人は親友だった。手を握ったままでわたしは持ちかけた。
「じゃあ、中に入れてもらおうか」
 掌の中に乾いた紙幣の感触が戻ってきた。仮初(かりそめ)の友情は儚いものだった。
「それだけは勘弁してもらいたいですよ。どうしてもってんなら警察を呼ばせてもらいますが……」
 一瞬、それは一考に値する案なのではないのかという閃きが脳裡を過ぎったが、無論、落ち着いて思案してみればそんな事態は逆効果である。中庭(パチオ)からは、良くぞその事実に気がついたと讃えてでもいるような歓声が湧き上がった。
「とにかく、このお金も受け取れませんし、あなたを建物に入れることもできませんよ」
 御念の入った売り文句が、嫌な物でもあるかのように押し付けられて、スライドドアが鼻先でぴしゃりと閉まった。
 彼の身柄が小幡谷の手先に思えてきたので、わたしは大人しく引き下がり、自動車のドアに持たれかかった。
 空を見上げると、雲が帰り支度をはじめるように、闇の中へ流れていった。わたしも雲に倣(なら)って帰るのは造作もなかった。だが、それではこの場所に沢山の取り返しのつかないものを置き去りしにしていくことになる。
 再び原や路辺の言葉を思い出し、わたしは携帯電話を何度も取り出しては収まった。
 散々迷った挙句、結局は、携帯電話ではなく助手席のドアを開いた。ダースで買い溜めしてある発炎筒を四本だけグローブボックスから手挟(たばさ)み、気概良くまた前庭(ポーチ)に敷かれた踏み石の上に立った。幽閉された王妃を救出するのには何とも心許ない装備、といったところである。
 隔てているのは、部外者には反応しない仕掛けになった自動硝子扉一枚きりである。パスカードを所持しているか、もしくは住民と懇(ねんご)ろでないと建物には入れない。
 わたしは、人が出てくるのを待つことにした。
 十分が経ち、姿を見せたのは中庭(パチオ)にいた子供達の一グループだった。彼らと入れ違うようにして、自動硝子扉を潜ってみた。顛末はひどく呆気なくまた粗略なものだった。住民の誰もがわたしのことを鉢植えだとでも思っているらしく、相手にしてくれない。エレベーターは一階でわたしを迎えてくれたし、ちゃんと支持通り八階で降ろしてくれた。
 窓の無い中廊下が内縁を周るように伸びていた。中庭(パチオ)から昇って来た子供達の足音が、地響きのように吹き抜けている。玄関を開けて怒鳴り散らす者が一人としていないのは、民度の高さの表れなのかもしれない。
 わたしはまず、八○四号室の様子を窺うことにした。
 ドア口には暴力団事務所といった雰囲気は無く、比較的飾り気が無いことを除けば、生真面目な独身の女性公務員が住んでいたとしても不思議ではない。小幡谷運輸物流協同組合だという代紋を誇示するような立て札や看板も目に付かない。
 隣の八○五号室に目を移した時、また地鳴りが床を駆け抜けた。しかしそれだけで、この部屋もやはり静謐という布を纏ったように粛々としている。
 自分のこれまでの行動が、銃口に息を吹きかけるガンマンの自己満足みたいに思えてきた。
 散々二部屋の玄関先を間誤付(まごつ)いた末、わたしは引き返してエレベーターの昇降釦(ぼたん)を螺子くりまわし、次の捜査へ向かう目処を立て始めた。
 だが、この無作為な仕草が案外効いた。
 六階のランプが灯った時、頬に突風が吹き付けるようにして、また深く腹を抉る地響きがわたしを打った。錯覚ではなかった。先刻から続いている地鳴りは、空室のはずである八○六号室から轟いていたのだ。わたしは駆け戻り、ドアに耳を押し当て、同時にその厚さと構造も触診した。ドアは分厚く頑丈だが、形だけでも新聞受けが設けられているぶん、銀行の金庫よりは私立探偵に良心的なのだ。
 わたしは善良な八階の住民全員のために祈ると、発炎筒を三本並べ、擦り合わせて焚いた。一本だけが、消費期限切れで葉巻のような煙しか上がらなかった。だが、源泉のように湧き出す白煙は、案外すぐに閉めきったフロアを満たし始めた。
 壁に背をつけて、固唾を飲んで見守っている間、消火栓の在り処にも目当てをつけておいた。
 やがて、長い中廊下に白煙が缶詰になると、最後の一本になった発炎筒を着火させるべく握りなおした。この一本が、消費期限に嫌われれば、計画もお釈迦になる。が、幸いそんなことはなく、紅い閃光と共に白煙が迸(ほとばし)った。その噴射口を、先程確認した空室のはずである八○六号室の新聞受けに挿しこんだ。
 消火栓を作動させるまでもなく、煙感知器が働いて、火災警報ベルが鳴った。演出を盛り上げるつもりで、わたしはさらに消火器を引っ提(さ)げると、栓を抜いて八○六号室の廊下へ向けてレバーを引いた。白桃色をした粉末の波濤が白煙と鬩(せめぎ)ぎ合って、幾層も積乱雲のような気流を生んでいく。
 フロアの各所では、燻り出されたように人々が巣穴から出てきて、ざわめきが起こり始めた。
 八○六号室のドアが開くのと、スプリンクラーが回りはじめるのが同時だった。その御蔭で、発炎筒の存在が隠匿できた。
「冷めてぇぞ、何の騒ぎだ。おい」
 煮え湯を飲まされたような驚嘆が、伸びたまま戻らないバネみたいに尾を引いた。さらに複数の足音が部屋から出てきた。哄笑と動揺が入り混じった奇妙な空気が白煙をゆらめかせている。笑いは疑惑になり、疑惑がうろたえを帯びはじめ、うろたえが慎重さを生んだ。
「一人ここに残せ」と、頭(かしら)格らしき濁声が周囲の状況とは対照的に静かに伝えた。「俺達は下の様子を見てくる」
 靴音がさんざめいた。すぐ傍らの階段を、二人分の慌しい足運びが蹂躙(じゅうりん)していく。
 即席の計画にしては上出来だったが、やはり即席であることに変わりはなかった。それでも残った一人の扱いに手を拱いている暇はないだろう。わたしは誘蛾灯(ゆうがとう)に飛び込む羽虫みたいにして、八○六号室の玄関先を目指して走った。人影が見えた。男の死角から体当たりし、鼻に一発見舞おうと勇(いさん)だところで、矢庭に脚を止めた。
 男はすでに、蝶ネクタイみたいに首を捻って、壁に背を持たせながら白目を剥いていた。グローブを着けた右掌に、血が滲んだブラックジャックをぶら下げている。
 わたしはドアを開けて、部屋の中を窺った。まだ煙は薄く、状況は充分に見て取れた。
 框(かまち)の壁には代紋入りの額が飾ってあり、その下にはホワイトボードが掛けられている。霞んだ奥の部屋には、パソコン、応接セット、観葉植物があり、床にはそこからわたしの位置まで点々と朴訥(ぼくとつ)に血が滴っている。どう穿っても、ここが空き室であることを否定していた。
 ホワイトボードには妙な告げ言が殴り書きされている。“ワイルドベリーの年代物ロールスロイスを目撃したら必ず声をかけろ”
 わたしは見切りをつけて、ドアを閉めると振り返った。白煙の向こうで気配が揺らいだ。圧搾空気が放たれでもしたように、鼻先で気流が撒いた。五分の二秒考え、五分の三秒目で逃げ出そうとしたとき、拳が目の前に現れて止まった。煙の隙間で男の声がした。
「コテツさんじゃないですかい?」と、煙を割って姿を見せたのは、フッキだった。「まさか、この騒ぎはコテツさんの仕業ってわけじゃありますまい」
 サングラスの左レンズが粗(ざら)目上にひび割れ、奥に覘ける瞼が小豆色に腫れている。唯一無傷とも言える右目を限界まで見開いて、素足で体を庇いながら這うようにして近寄ってきた。呼吸の底には安堵と懐疑が交流している。
「どっちでも良い。自分の置かれている状況を理解できているのかい」
 彼がうな垂れるみたいにして頷くと、耳の穴から血が流れ出して床を汚した。そのまま昏倒してしまいそうだった。肩を担ぐと、より一層に顔を顰(しか)めた。その隣を、荒い息遣いの女が駆けていった。何かに蹴躓いて転げると、また彼女の足に蹴躓く人間がいる。
 煙だけで火は出ていないと彼女らに囁き、わたし達は往生したまま、視界のほとんど利かない廊下の両側を窺った。階段とエレベーター、帰り道を選ばねばなるまい。
「ヤツら、火の元が無いと判ったら、不審がって二手に分かれて昇って来やすぜ。階段で一人、エレベーターで一人だ」
「都合がいい。階段から行こう。二対一ならなんとかやれるだろう」
「体がこんなでなければ、十人だってなんとかなりますよ」
 わたしが先立って、壁沿いに廊下を移動した。
 階段をたった二フロア下りただけで、煙はほとんど無くなった。だが、その分人影は濃くなっていた。
 五階へ着く前に、下から慌しい靴音が昇ってきた。わたし一人ならば、広間の影に身を潜めてやり過ごせるが、二倍の体重があるフッキを覆い隠すには、市立図書館ほどの面積と障害物が必要だと思われる。
 わたしは踊り場の壁に背を着けて、相手が来るのを待った。
 頭が現れた瞬間、足払いを仕掛けた。バランスを崩したその男は、黒鉄町のマンションで原といがみあったレイバンを掛けた用心棒だった。
「テメェ! 探偵!」
 柄物のジャケットが捲くれると、筋肉を縛りつけているようなタトゥが透けた。猛(たけ)る用心棒のレイバンがずり落ちて、睫の屈曲した円(つぶ)らな眸が覗けた。まるで赤いスクーターに乗ったターザンだ、などと思ったのが失敗だった。いきなり試合終了を報せるけたたましいゴングが目と鼻の間で爆(は)ぜた。背中に衝撃が来て、尻餅をついた。キラリと光るナックルを嵌めた拳が振り落とされてくる。見えただけで、どうしようもなかった。地味だが骨に刺さるような嫌な音がどこかで鳴った。
 痛みは無かった。その上、視界も暗かった。しかし、気を失ったわけではない、フッキが覆い被さりわたしを庇ったのだ。彼が倒れこむと、その肩越しにレイバンが嗤った。
「事務所へ来い!」と、男は居丈高に手で招いた。「こんなところで血を流させるわけにゃいかねえ!」
 答えるより早く、言葉とは裏腹に拳が飛んできた。繁華街の化粧が崩れた女みたいに飾った拳だ。そんな女にやられるほど零落(おちぶ)れてはいない。
 瞬(まばた)き一つ、拳の軌道を追った。焔が首筋を焦がすのを感じた。懐へ飛び込んだ。羽交い絞め、縺(もつ)れ合ったまま階段を転げ落ちた。天地が還ってきたときには、馬乗りで咽喉を扼(やく)されていた。痙攣した唇の間から男が何か言う。若けぇの――、その雄叫びと同時に灼(や)けた光が襲いかかってきた。僅かな時間差で、中身の詰まったガロン瓶が砕けるにも紛(まご)うほどの破裂音が鼓膜を劈(つんざ)いた。
 終りはいつだって呆気ないものと相場が決まっている。レイバンのサングラスが弾け飛んで宙を舞っていた。フッキが、わたしの上で馬乗りになったままで気絶している男の首根っこを掴んで引き摺り下ろした。
「行くぞ」
「何が起こった?」戦慄く膝を、蠢(うごめ)く臓腑を、なんとか捌(さば)きながらわたしは喘いだ。
「別に、走って殴っただけですよ。相変わらず惚けたことを」
「コートジボワール人みたいな身体能力だ」
「ダンナはフランス人みたいに小言が多い」
「どっちもフランス語圏だ。馬が合いそうじゃないか」
 サングラスを掬(すく)い上げ、フッキは出口へ顎をしゃくった。わたしは足を運ぶ前に、脳裡に掠めた疑問を一つ確かめておきたかった。
「目は、見えているのか」
 フッキは顎を引き、その質問を投げかけているのが確かにコテツという人物なのかと疑うように、凝っと現実を見定めた。
「右目は。随分と眩しいもんですが」半ば身体を引き摺る様にして歩き出した彼に、特別な感情は見えなかった。
 一階のホールを抜けた頃、PCと消防車輌のサイレンが街並みを越えてきた。わたし達は野次馬を掻き分けながら、横付けにしてあったマークⅡへと直進した。車に乗り込んでからは、クラクションを鳴らしっぱなしで人海を掃いた。
 これでようやく筋者と警察の二勢力から逃げ出せるのだ。わたし達は、まるでゴングに救われたヘビー級ボクサーと、打つ手を失い憔悴しきったそのセコンドだった。

 尾行に気が付いたのは、中華街を過ぎて山下埠頭の向こうに海が臨めた頃だった。日が落ちて、ヘッドライトの洪水の中にいながらにして尾行に気がつけた理由の一つに、相手の車が突拍子も無い代物だったことが一つ作用した。つい先日、わたしが乗ったアゲハのキャデラックだったのだ。信号待ちの時間を利用して、バックミラーに映る人影を確認すると、わたしは構わずに本牧埠頭まで車を走らせることにした。
「ダンナ」と、フッキが助手席で苦痛に身体を躍らせた。
 なんだという返事を、わたしはフロントガラスに映る彼へと投げかけた。
「なぜ俺なんかに救いの手を? 誰かに雇われでもしましたかい。まさか、小幡谷に弓引こうってわけじゃありますまい」
「雇われてから行動をはじめるようじゃ二流の私立探偵だ。三流だって、時には背伸びもしたくなる」
「それにしちゃあ素手喧嘩(ステゴロ)が頼りねぇや」
 わたしは何も答えなかった。喧騒は遠いのに、エンジン音はやけにうるさい。
「なぜ助けたんですかい」と、彼は同じ質問でつっかかってきた。「アゲハに頼まれましたかい。いや、そうなんでしょう」
「そもそも君が小幡谷に狙われたの不味かったんだ」
「黒鉄町事件で俺が何をしでかしたか知らないわけじゃないでしょう。それで、ダンナはどうして俺を助けたんですかい」
「しつこいね。自分でもはっきりしないんだ」
「アゲハを迷惑だと感じているようなら、一つ頭の片隅にお願いします。あいつは、思い出の中にいる自分ほどのスターじゃなかったはずだ。未だに自分の亡霊に縋っている。大目に見てやってください」
「構わないが、なぜ彼女が自分の過去を理想化していると決め付けられる?」
「俺は目が上手く利かない。発育環境上耳が冴えてるのさ。たとえ枯れた唄でも、聞けば素質はわかるさ。そこは信じてもらいらいですね」
 わたしは軽く聞き流した。それ以上、食い下がってはこなかった。
 フッキは体を探って煙草を探したが、どうやら見つからぬようである。しかし、わたしは煙草を差し出さなかった。
「俺は、ダンナに礼を言わなきゃなんねぇな……」と、声は疼痛に震えていた。「俺はまだ死ねねえんだ。やらなきゃならねぇことがあるからよ」
「本当にそう思っているのか」
「俺はまだ死ねねぇよ」
「そっちじゃない。本当にわたしに礼を言ってくれる気があるのかということさ」
「ありますよ。俺には組織が無いから、派手な礼でなければ」
 運河の臭いが瀰漫(びまん)しはじめた。山手の裾野を迂回し、本牧埠頭A・B・C突堤をやり過ごし、D突堤の信号を左折して、コンテナヤードから海へとハンドルを回した。景色の両脇では、まるで煉瓦造りのごとく積まれたコンテナ郡が長城を築いている。バックミラーの景色の中では、キャデラックのヘッドライトがまだ踊っていた。
 突堤の先端で、わたしは車を駐めてヘッドライトを落とした。
 そこは貨物と上屋ばかりの一区画で、巨大なコンテナ船と一般貨物船が、波止場の面積をほとんど埋めていた。
 ドアを開けて車を降りると、キャディラックも少し離れた敷地で駐まった。幌を上げて、フロントガラスに腰掛けたのはアゲハである。免許証を持っていなくても、運転の出来る人間は大勢いるのだ。彼女は海を眺めたままで、こちらに歩み寄って来ようとはしなかった。
「さて」と、フッキが突堤の縁に立った。「俺をこんな場所に連れて来てどうしようってんですか」
 わたしは返事を勿体ぶりながら、堤防の縁に並び、もう何十年も波を忘れた静かな海を眺めた。
 水面(みなも)に浮いているのは、街に産み落とされた人々の孤独の数ではない。ただの街明かりなのだ。誰かが泣くように、ベイブリッジの橋上で車のエンジンを響かせると、悲しみを分かち合う恋人達のように、港の中で遊覧船がネオンを瞬かせて応えた。ふいにそれが何かに似ていると思ったが、それは形を成さずに喉の奥で支(つか)えて消えた。
 わたしは、路辺の話を思い出していた。
 深夜のB突堤、この近辺の造船所が、董道一殺害現場だったはずである。場所によっては人気がないのものの、遥か上空から神に挑むように降り注ぐ照明のせいで、下手に雲がある日中などよりはよっぽど明るく、むしろ眩しいくらいだ。だが、わたし達の立つ瀬はどこまで行っても暗がりであるかのように思えた。
「聞かせて欲しいことがある」と、わたしはビットに足を乗せ、鼻で潮の香りを貪った。「礼を言うつもりがあるのなら、聞かせて欲しい」
 フッキはポケットに両手を忍ばせたまま、わたしに爪先を向けた。「構わねぇですよ。だが、可笑しな質問をして、俺を悲しませないでくだせぇ」
「知っていることを、全て聞かせてくれないか。董道一について。それから彼が持っていたもの――君の探し物について。彼を殺した人物――事件の全貌について。董克昌という財閥の長男について」
「それだけの事実を丸々明かさなきゃならねぇとなると、長くなりやすね。外国航路船の警笛みたいに長く、のんびりした話しになっちまいやすよ」
「夜は今日一日だけで終わるわけじゃない。さ、話そうじゃないか」
「まるで酒でも誘うような科白だ。結構」と、不服そうに彼は俯いたが、反比例でもするように、言葉を拾い集める態度には慎重さが増していった。
「どこから、話せば良いのか……。ダンナがどこまで、何を知っているのか。それとも、ただ今の今まで探偵ごっこをしていただけなのか――まずは、そこんところを教えてくだせぇ」
 言いながら懐を探っている彼に、今度は、わたしは煙草を差し出した。キャメルが生憎品切れで、いつか丁玲から取り上げたシガローネを抜き預けた。
 フッキは煙草を受けると、穿つようにその一本を手の中で繁々と観察した。眸の中で何かが弾けたのを見逃さなかったが、まだそれを問い質すには頃合が早すぎた。
 わたしは彼の言うとおり、これまでの捜査の触りを話すことにした。
「董道一が、第二次大戦後の租借権で儲けたアメリカ資本と華僑の稼ぎでのし上った董財閥の養子だったという事実は知っている。そして、その財閥の頭領が遺した相続書を、日本へ持ち出してきたらしいという噂もだ。道一が日本へ着いて、路頭に迷い、頼ったのがわたしだった。わたしが彼を横浜の中華街まで送り届けると、次の日、屍体が発見された。――大まかな流れで判明しているのは、ここまでだ」
 いざ情報にしてみると、何とも矮小なものである。
「董道一が日本へやってきた日、俺も中華街に呼び出されていやした」と、彼は唇に垂れ下がった煙草に火を翳した。「董克昌(クーシャン)から、料理店へ来てくれと、直々の呼び出しがかかったんです。なんてことはない世間話を、二人でメシを突付きながら交わしました。仲は睦まじかったですからね。今まで、克昌は俺に色々と裏の仕事(ゴト)を斡旋してくれていたんです。店の仕事と、店じゃない仕事。――誰それを事故に見せかけて黙らせて欲しいだとか、そういう後ろ暗い話は、大概メシを突付きあいながらするのが俺達の慣わしでした」
 大して喫ってもいない煙草が、紅い放物線を描いて、闇を映す海に棄てられた。波の上で揺曳する紅い焔が、必要以上に執念深く燃えていたが、やがて小さくなっていった。彼の眸はその明かりを追って、まるで灯篭(とうろう)でも眺めているかのように、水面(みなも)のごとく揺らめいていた。そして、灯篭の描く軌跡を説明するかのようにして虚空へ呟いた。
「その日の深夜、俺は克昌の使者から託(ことづけ)を賜(たまわ)りました。――董道一が、大陸本土から董家の財産を狙って克昌を殺しにやって来た、殺(や)られる前に、やつの身元が割れないような細工を施して、始末してくれ――。他ならぬ克昌の頼みを断るわけにはいかねぇですよ。現場はここから十分と歩かねぇとこにある造船ドッグです。もう割れているとは思いますが……」
 流れる灯篭が生む残像は、その告白によって唐突に終わった。彼は目をしばたたかせながら締めくくった。
「俺こそが、そこで、董道一を殺した張本人です」真実を知る者のみが抱える激情を背景にして、彼の声は僅かに震えていた。「手こずりましたがね、手こずりましたが、終わるときはいつだってあっけないもんなんです。座らせて、金属バッドを肩へ振り落とす。それで訊くわけですよ、どうして日本へやって来たってね。相手は口を塞がれ、麻袋で全身を覆われているから喋れない。にも関わらず、意味も無くそんな質問をする。答えが無い、だからもう一発叩かなきゃならなくなるんです。でも相手は答えられない。だからまた――」
「よせよ。わたしが知りたいには真相だけだ」
「コテツさん。あんたは、俺が道一を殺したのだと薄々勘付いていた。じゃなきゃ、こんな場所に連れてくるはずがないんです」
「気付いていたんじゃない。正味のところを確かめようとしていたんだ。だが、ロシアンルーレットだってもっと味気のあるアタリを引かせてくれるぜ」
「信じないのなら、俺は別に知ったことじゃない。ダンナがどうしても人殺しらしい看板文句を必要としているのなら、述べて差し上げますが。――こんな話を知ってますか。六年前、就学生の身分としてやって来た中国人の若造が殺し屋として捕まったんです。そいつは生きるために人殺しになった。殺人ってのは、案外善悪よりも、命を見つめた衝動の結果と捉えることもできる」
 フッキの表情までも、命を見つめるているといったように変わらなかった。
「凶器はどうした」と、わたしは少しでも裏づけをとろうという想いで訊いた。
「棄てましたよ。夜光虫が湧いている夜だったんで、海に棄てるとやけに周囲が明るくなったのを覚えています。多分、その辺に沈んでますよ……。警察(サツ)が浚っても出てこなかったってなら、潮がどこかへ運んじまったんでしょう」
「どのくらいの時間を要した?」
「さあ……十分か二十分か、二時間や三時間かもしれない。覚えてねぇです。ただ、全てが終わった時にもまだ夜は明けていませんでした」
「道一は、最期に何か言わなかったか。例えば、姉に対してだとか……」
「耳に残るような文句は何も記憶しちゃいません、ヤツの口は塞がれていたんですから」
 犯行時刻、現場、死因、それと無く述懐(じゅっかい)しているが、どれをとっても路辺の情報とフッキの証言は少しもずれていない。殺人を示す具体的な言葉を聞いた瞬間、さすがにそれは現実となってわたしを襲ってきていた。しかし、わたし以上に痛嘆な外貌をしていたのはフッキなのだった。
「“人を審判する場合。それは自分に、しかばねを、神を、感じているときだ”」と、フッキは言った。「これが克昌に口癖でね。太宰治の引用ですよ」
 わたしは歳をとりはじめてから、時々気まぐれに自分の最後を考えるようになった。彼がもし本当に人殺しだというのならば、そんなわたしよりもずっと命という存在に近いところにいるはずである。そんなことを、何か言わねばならぬような気がした。すると、ど真ん中に直球が肺から上ってきた。
「愛するものを失うというのはどんな気持だか解かるか」と、わたしは言った。声には自然と力が宿った。
 フッキは、蝋燭でも吹き消すみたいに笑った。「俺の捉えるコテツさんの像とはまるで似つかわしく質問が出てきたもんだ」
「答えるんだ」
「変な話かもしれないですが、俺は、屍の上を歩いてきたような人生でした。物心ついたとき、故郷は飢饉に襲われていたんです。こんな時代に飢饉が、なんて思われるかもしませんが、三十年前の母国の経済事情じゃあ、確かにあった事態でした。一日五元で児童が労働目的に売買されるような国なんです。餓鬼が整列されて、ハクサイって名で野菜みたいに売られている。商品はラストランを終えると、屍体集積所に積まれて、やがて石灰を敷き詰めた深い穴に埋められる。石灰ってのは、屍体の腐敗を促して臭いを消す作用があるんすよ。だから街の諸所で蓄えられているんです。俺は、色んな人間が死ぬのを見てきた。愛する者が死ぬのも見てきた。もちろん、死に対してはただ見ているだけしかできないこともよく知っている」
「だが、君は董道一を殺した」
「ひまし油を飲ませるようなことはしていない。克昌が望まなかったら、俺だってやりたかありませんでした。でも、俺には金が必要なんです。殺しとは完全に相反することですが、守るべき人間がいるんです。そうです、今、旦那が思ったとおり、可笑しなことなんですよ。だが、董道一、あいつを殺したのは、それでも確かに俺に間違いねぇんですよ。旦那」
 彼は、大きな手を握り締めた。人を締め上げるためだけに鋳造されたようなでかく硬い手だ。それなのに、表情は目まぐるしく人情味を湛えた光で濡れていた。
「だが、案外殺しを厭わないって噂は、この世界じゃあ悪いもんでもない。いつ弾かれるか、いつもってかれるか分からないが、稼ぎは人一倍だ」
「その仕事で報酬が弾むのはわかった。君に守りたい者がいるのも分かった。だが、どうして克昌にそうまでして肩を入れる」
「克昌が雲隠れしている今となってはもう過去の話ですがね。あいつは不思議な男でした。昼行灯(ひるあんどん)で、そんな魅力があるから自然と人が寄り付く。今度機会があったら、俺がどれだけあいつに世話んなったか、聞かせて差し上げますよ。いつか、ダンナには話す時が来る、そんな気がしますから」
「本当に、そこは克昌の人間味に絆(ほだ)されただけなのか。娘の小鈴(シャオラン)に関わることが、繋がりに一本筋を通すのじゃないのか」
 その問いかけに、フッキの目はドヤ街の空気のように濁って応えた。
「小鈴(シャオラン)のこと、依頼人の丁玲(ジンリン)に聞いたんですか」
「どうして彼女が依頼人だと思う。そもそも君は彼女と面識があったのか」
「あの女の愛煙している煙草がシガローネだと知っている程度には、顔は合わせてますよ」と、彼は煙草の浮いた海を睨んだ。「中華街にいりゃあ誰だって知っている克昌んとこの妹だ」
 わたしは煙草のパッケージを掴み出し、握り潰して、もう一度懐へしまった。
「だが、君の娘のことは丁玲から聞かされたわけじゃないんだ」アゲハのことは、そっとしておこうと決めていた。「そっち方面に長けた情報網を持っている知り合いがいる」
「俺は少しづつ旦那を見直してきました」
「まだ娘は、福建に捕らわれたままなのか」
「――そう、俺は確かに福建のコロンスって島で生活を営んでいたこともあります。だが、娘と越した先は蘇州でした。水の多い都でね、どこを見ても池、沼、湖、それから運河だ。さらには蓮の葉っぱと葦しかない。ジャスミンが良く咲く地方だが、人間は腐ってる。観光客の同情を買うために、わざと自分の身を切り落として金をせびっている連中が大勢いるような都(みやこ)だったんです」
「そんなことは訊いてない。小鈴を助け出すために、もう克昌と手を組まないのか?」
「この世界で一人の人間に掛かりきりになると言うのは身の破滅を意味しやす。ここ最近で、あいつからは何の音沙汰も無くなっちまいました……。裏切られたんです。俺達にとっちゃあ、克昌を筆頭に、救いの主は毛沢東でも鄧小平でもなかった」
「だから君は、小鈴を助け出す次の手段のために何かを探しはじめた――金目のものか、金そのものか。あるいは、それは董財閥の遺言状じゃないのか」
「旦那、丁玲には何も聞かされていないんですね」
「どういうことだ」
「なんでもねぇですよ」と、彼は悄然と首を振った。「ダンナが、俺の探し物を持っていないと言い張るのが、納得できただけです。――俺はもう行ってもいいですかい。どうしても行かなきゃならねぇところがまだ幾つもあります」
 わたしは少し気を抜くふりをしてみせた。だが、今すぐ彼を解放する気は微塵も無かった。
「まだ夜は明けちゃいないんだ」と、わたしは峻厳に言葉を放った。「酒なら半分も酔っちゃいない時間さ。しっかり礼を、最期までしてもらおう」
「こいつは魂消(たまげ)ましたな……。探偵(シャマス)・コテツ――」
「端的に訊く。董財閥の遺言状の片割れを、君は所持しているのか?」
「所持していません。血族以外には無縁の品でしょう」
「わたし未だに、この事件が一体どういった仕組みになっているのか把握できていないんだ。警察、董財閥、小幡谷、ピースはあるが、どう絡んで、どう合致するのかさっぱりだ」
「三つ巴ですよ」と、フッキは得意げに鼻翼を広げた。「警察は、中華街が慌しくなっているのを嗅ぎつけて、これを契機に小幡谷を含めた筋者達を一網打尽にしようと目を光らせているんです。きっかけは、董道一事件じゃねぇですよ。もっと以前から中華街は慌しくなっていましたからね。董の総帥が死にかけて、莫大な金が血脈を通じ動こうとしている、そしてそのお零れに預かろうって輩どもがいる。上手くやれば、四課は根こそぎ筋者達を持っていけるかもしれない」
「だが、小幡谷を含む筋者達もそれほど頓馬(とんま)じゃないだろう」
「その通りです。だから、小幡谷の狙いってのは、直接持っていかれる(・・・・・・・)心配の無い、どこかに消えちまった遺産相続書を見つけ出して董財閥とのコネクションを作ろうってハラなんです。ヤツらも、警察のお縄が足元に仕掛けられている事を見抜いているのに暴れまわるような知恵足らずじゃない。動けば黒鉄町の事件に絡めて何もかも罪を一身に被せられちまう可能性だってある」
 彼は掌を眺め、そこに自分の神経がしっかり通っているのを確かめるようにして動かすと、続けた。
「じゃあ董財閥は何をしているのか? やつら、一番面倒くさいのは日本の警察に介入されるってことなんです。ブラック・マネーを含めて董財閥が身代を預ける秘密口座はスイスのプライベートバンクにあるんだが、銀行側は二度の世界大戦でも個人情報を保持し続けた妙な矜持があるのか、警察や軍隊が介入してくるに匹敵するいざこざを嫌うんですよ。だから、董財閥は金の力を利かせて警察の上層部へ圧力を掛け、この騒ぎには深く介入しないように情報統制を敷かせた。下っ端の刑事や警官どもには、何も知らせずに董道一事件を追わせて、体裁を保っているってわけだ。管轄で動き回っていた刑事の原なんかが良い例っすね。だが一方で、董財閥側も遺言状が一向に見つからないのは芳(かんば)しくない。名前はあるが人脈は薄い日本の土地で、遺言書探しは、やらなきゃならない仕事だが、相当に骨に折れる作業でもある。となると、頼もしい存在に思えてくるのが、小幡谷運輸物流共同組合ってことになります」
「それで三つ巴、か」
「警察は董財閥の牽制を窺っている、筋者は警察の出方を窺っている、董財閥は筋者の度胸を窺っている、ってわけだ。その膠着状態がいつまで続くのかは神のみぞ、ってことです」
 フッキは暗闇の中で白い歯を見せた。次の質問を訊きあぐねるわたしの表情を、潮風がべたべたした手で触っていく。
「そんなに難しい顔をして……」と、彼はまるで身体に似つかわしくない慎ましやかな声で囁いた。「俺を、警察へ突き出そうとでもしているんですかい」
「よせよ。私立探偵が殺人を自供した男を一人見つける度に警察へ行ったんじゃ、物笑いの種だ」
「論及したいことがあるなら、はっきり言ってくだせぇ。じゃなかったら、俺はもう暇乞(いとまご)いをさせてもらいやす」
「色々聞かせてもらったが、君はそんなやり方ばかりしていると、本当に一人になるな」
「随分と搦め手から来たもんだ」と、惨憺(さんたん)たる翳が彼の表情を掠めた。「俺みたいな卑しい人間にだって、自分で自分に課したルールくらいあるんです。一人でやっていくに値する理由がある……」彼の態度は、どこか堤防の縁を危ういバランスで歩くようだった。「日本で中国マフィアと一括りにされている連中ってのは、本国へ帰ればマフィアじゃない。やつらは生活苦から悪さをする喰いつめ者の寄せ集め、素ッカタギの組織に過ぎません。大陸妹(ダールーメイ)みたいにケチ連中と、組む気にはなれねぇんです。中国にはちゃんとマフィアとは根本的に違う、独自の幇(パン)って組織があって、そういった秘密結社の歴史は、それこそ董財閥と同様に清の時代にまで遡れる強大な塊なんです」
 その言い草は、いかにも鷹揚に構えられた彼の身体を巡って放たれたといった威勢を含んでいた。
「上海、北京、福建、旧香港、台湾。その中でも、政府の後ろ盾があるグループとないグループ、軍部の意向を受けているグループ、在日中国人の資金源のバックアップのあるグループ。俺みたいな殺人者と、どのグループが馴れ合おうってんですかい。総じて一人が向いているってのが、辿り着いた結論なんです。はじめから俺は一人でやってきた。振り返ると身方は誰もいやしないのは自明の理です。だから、振り返れない。振り返りたくない。振り返れば、何かもが遠ざかっていくでしょう」
 彼は身を翻すと、後ろ手に別れを告げる仕草で歩きはじめた。
「名前ぐらい訊いても良いだろう」わたしは彼の背中に呼びかけた。
「韋代英(ウェイ・ダイイン)って言いやす。別に今のままフッキって呼んでくだせえよ。結構気に入ってんです」
 焦慮に駆られるような後姿が、アゲハの乗るキャデラックの脇に差し掛かった。アゲハの視線はフッキを追っているが、その軌道から察するところ、恐らくフッキの方はアゲハを僅かにも眼中に捉えていない。二人の間柄は、他人行儀よりも性質(たち)が悪くなっていた。アゲハの煌びやかな容貌に、睫から下へと、報われない悲しみが深い翳を奔らせた。
 フッキの姿が夜に消えると、代わりにアゲハがわたしのもとへ駆けて来た。片手を腰に据えて、憤怒を撒き散らしているが、心に帯びた愁嘆は自分自身にも欺ききれないといった風である。
「本部に忍び込むのなら、次からはもっと上手くやることね、探偵さん」と、彼女は常夏の微笑をした猿芝居で悲哀を繕った。「監視カメラに、間抜け面が映っていたわよ。あたしが誤魔化しといてあげたんだから」
 彼女は湿った潮風に絡みつく長髪を梳(くしけず)り、その先にぶら下っている悲壮感を振り解くように手を払った。
「免許は無いんじゃなかったのか」と、わたしはさりげなく言った。「そういう運転には見えなかったな」
「ないわよ。でも運転ができないわけじゃないわ」
「運転もできないと君は言った」
「あの時できると答えていたら、あなたはキャディラックの入手経路を知りたがったでしょ?」
「頭(ボス)に強請(ねだ)ったんじゃないのかね」
「冗談? そんなこと、あたしは墓に入ったってしたくないよ。昔、唄っていた頃の客にもらったの。外国産の自動車ディーラーだった客がいたんだから。もちろん正規のね」
「もう唄わないのか。せっかくのお座敷も、ふいにしちまうのかい」
「言ったでしょ」と、焼け焦げるように利己的な眸がわたしを見返した。「フッキもあたしに同じことを訊いたって。フッキが娘を慕うように、あたしも自分の唄のことを大切に想っているの。だから、余計に唄いたくないんだよ」
 舌を出しかねない勢いで捲くし立てる彼女は、まるで自分とフッキの無実を証明しようと証言台に立つ娘のように見えた。
「フッキは、娘のためならば人を殺(あや)めたりするのだろうか」と、わたしは寄る辺も無く質問を口にしてみた。「君の目にはどう映っている」
 彼女は寂しそうに、身に降りかかる悲劇を受け入れる瞬間の人間に似た微笑を見せた。
「我侭(わがまま)なのは、あたしだけじゃないのよ。もし、フッキにそんなことをしないで欲しいというような願望や同情が有るのだったら、さっさと古雑誌の間に挟んで資源再生ゴミとして回収してもらうことをお勧めするわ。ただ棄てるには、ちょっと惜しいからね。じゃなかったら、あんたは彼を、あの世界から助け出せる?」
「いや……」
「あんた、フッキの探し物を見つけてやることはできないって言った。だったら、救ってやるだけでいいのよ。――あのままだと、あいつ自身が先に駄目になる。人の命自体を軽く捉えなければ生きてこれなかった、他人の命も、自分の命もよ。探偵なら、あたしの唄のことを心配している暇があったら、あいつを救ってやって」
「あの男は、自分で何か活路を見出しているような節もある」
「そんなことない」と、ココナッツのような甘い香りが鼻先を擽(くすぐ)った。彼女が頭(かぶり)をふったのだ。「あいつのこと調べたの。中華街ではもっと堅実なやり方してた癖に、此処最近、風前の灯火みたいに何かを探して暴れまわってる」
「それは、わたしだって感じている」
「言ったでしょ、あたし達似てるって。歌えなくなる直前のあたしも、あんな風に周りが見えていなかった。あいつ、人生が一人きりなんていう、あたしの唄の陳腐な歌詞みたいな生き様してんのよ」
 フッキとアゲハが似ているか否か、判断の裁量がわたしに委ねられているわけではない。
「今の君も周りが見えてないな」と、わたしはポケットからプールの優待券を取り出した。「これで頭でも冷やした方がいい」
「ふざけないで!」
 彼女の手の平が優待券を叩き落とした。風に吹かれるより先に、わたしはその紙切れを拾い上げた。アゲハは唇を引き結んで震えていた。
「あたし、マンションの一室で、目の前で捕らわれていたフッキを助け出せなかったわ。それからもずっと、傍にいたのに……助けられなかった。あたし、小幡谷に歯向かうのが怖かったの。あそこにいたのは下っ端の連中のみだけれど、それでも、怖かったの……」
「怖いのは、小幡谷か、それとも彼の下を離れて生身のまま世間の風に吹かれることか」
 残念ながら気の利いた科白は思い浮かばず、ただ現実を突きつけることしかできなかった。だが、何か言ってやらなければならなかったのも確かだったのだ。
「そう――あんたも、結局はそっち側の人間なのよ……」と、彼女は焦点を暗い海に結んだ。「あたしがフッキのことも忘れて、ジャズ・バァで安いメロディを安穏と弾いて暮らしているのがお似合いだっていうんでしょ? それが無理なら一人の女に戻れって。それで解決の緒につくってのかしら? 分かったわ、だったら、あたし達の関係は、これで終りなのよ。あんたとあたしとフッキの関係は……これで終りじゃない――」
「そうまで言ったつもりはないがね」
「もう聞きたくない。So long amigo...」
 大きな感情のぶつかりあいも、湿った挨拶も無い、案外こういった別れが一番人々の記憶に残り、心の傷を抉るものである。ただその分一入(ひとしお)に覆(くつがえ)らない別れというものが確固たるものになる。
 わたしは、彼女を一人突堤に佇ませたまま、マークⅡの運転席へ腰を滑らせた。ヘッドライトを上げると、光の中で、アゲハが羽ばたいたように見えた。一瞬、わたしは自分がフッキの視覚のなかに迷い込んだような錯覚に捕らわれた。眩しい光に幻惑されて、影だけが線画のように世界を浮かび上がらせている。
 彼女の金糸のような髪が潮風に広がり、風が止むと繭のように身体を優しく包み込んだ。まるで逆行する時間の流れの中で、唄声を取り戻すために幼生へ還ろうとでもしているかのようだった。街の喧騒という名の土壌に、彼女は還ろうとしているのかもしれない。
 わたしも同様だった。ここ数日、ほとんど眠ってはいない。蛹(さなぎ)と同じように、私立探偵にも眠りが必要なのだ。事件が人々の手を離れ、彷徨いはじめた今とならば、尚更のことだった。

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