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※ルビはカッコ表記です。ご了承ください。
 

THE BLANK TRACK
( correction version )
by
Taki Sara
Copyright © 2007-2010 by
Taki Sara





   17

 青写真そっくりに発達した入道雲がにょきにょきと顔を出し、寝惚け眼のわたしをせせら笑っているようだった。灼熱の早朝の陽射しは、フロントガラスを突き抜けて問いかけるように見つめてくる。
 大桟橋客船ターミナルに駐めたままのマークⅡの車中で一晩を明かしたのだ、いくら大らかな太陽といたって、いぶかしみたくもなる。
 昨晩アゲハと別れてから、丁玲の泊まるパシフィック・ホテルを頼りにしたのが一つ目の失敗だった。彼女は昨晩、既にホテルを引き払っていたのだ。こんな行楽シーズンに、安上がりの二流宿泊施設に当たりをつけたのが二つ目の失敗だった。ホテルを三軒回って、ようやく四軒目のシティホテルに投宿しようとした頃、時刻は既に午前三時を回っていた。チェックアウトが午前九時だと聞かされたわたしは、宿泊代をそのまま酒に継ぎ込み、夕暮れのジャスミン畑に迷い込むようにしてマークⅡの座席に蹲(うずくま)ってしまった。
 それでも眠りは一瞬だった。夢と現(うつつ)の境目で、わたしは飛び込み台からプールへ跳躍し、水飛沫を上げると、次に水面から顔を出した時には、既に惨忍な朝がやって来ていた。
 スーツはマドラスチェックみたいに皺くちゃで、頭髪は帽子型に鋳造され、身体はカルーア・ミルクみたいにべたべたしていたが、案外脳味噌は真空管の中のように澄んでいる。アゲハとフッキが生んだ互いの慕情はわたしの腕から逃れ、ここ数日苛んでいた董道一事件も隙なくめかしこんでしまったせいかもしれない。そもそも、この一連の事件は、昨晩を以って知らず知らずの内に、ある意味では終結してしまったとも言える。
 どうもはっきりしないこの状況を打破するために、わたしは一先ず自分に食事をする許可を与えた。陽だまりの運転席でイグニッションキーを回そうとすると、携帯電話が鳴って出鼻を挫いた。
「おはようございます、私です」
 リラの花びらみたいに純真な声が電話機から零れ出てきた。先方は、中華街署の警官だと名乗った。警官という単語を、これほど混じり気なく発音できる人間を、わたしは守永希望以外に知らない。
「ひどく久しぶりな気がする」と、わたしは言った。「今日からまた現場かい」
「たった今、昨日中に溜まった供覧文書を処理し、決裁が済んだところなんです。それより朝刊をご覧になられましたか?」
 否、とわたしは答えた。彼女の息遣いは、わたしとは対照的に、佳境が見えてきたというように勇んでいた。
「捜査に進展があったんです。全て隠秘(かくひ)扱いの情報ばかりなんですが、コテツさんにだけは私個人が相談しておきたい進捗状況があるんです。これから会えませんか」
「食事がまだなんだ。何があっても、これだけは譲れそうにない」
「暫くの間は単身行動が認可されているので平気です。では九時に青木橋で落ち合いましょう」
「結構」電話を切ってポケットへ落としかけ、わたしはふと閃いた考えを言い加えた。
「そうだ。横浜の広報を調べたいんだ――。役所の広報課に何年分か保存していないだろうか。そいつを、君の権力でちょいと拝借してきてもらえないかね」
「いいですけど……。どのくらいの期間分が必要なんですか?」
「五年分くらいをお願いしたい。嵩張(かさば)るかい」
「嵩張っても、ミニには積める分量です」
 礼を言って、今度こそ電話を収うと、わたしは車を出さずに海岸通りを遡り始めた。
 往来は既に観光客達で賑わいを増していた。キャフェやブティックの店員達が仕入れのために螺旋階段をせかせかと上下し、その脇をクライスラーのコンバーティブルが水着姿の若者達を担いで市街地へと消えた。海水浴場が近辺に無くたって水着姿になりたくもなる。そんな陽気の、誰もが必ず一度は経験する、ある夏の平凡な一日が始まろうとしていた。
 並木道(ブールヴァール)へ出ると、S.V.Pと旗(バナー)を掲げたフランス風のキャフェを、わたしは見つけた。ボーイをギャルソンと呼び、メニューはムニュと、朝食にはプチ・デジュネとルビが綴られているような店だった。セルヴィス・ア・プチ・デジュネを注文した後、わたしはテラスに腰掛け、別にジャーナルとは札が掛けられていない朝刊を手に取って紙面を流し読んだ。どれも徹夜明けの保安官のように精彩の無い記事だが、一つだけ気になる見出しを地方欄に見つけた。
 “黒鉄町白昼の銃殺事件終息へ”
 紙面上に踊った文字は、警察による報道記者会見の模様を伝えている。約するところ、どうやら昨晩の間に、黒鉄町事件には解決の判が押されたようである。国外へ逃亡したであろうと憶測される真犯人については言及されず、暴力団同士の抗争として事件は締めくくられ、容疑者が発表されている。だが、そこから先は一切合切が線引きされており詳細は露でない。掲載されているのは容疑者の氏名、年齢、職業、それから国籍のみである。李陽明、七十ニ歳、飲食店経営、中華人民共和国、端から並べるとこの通りだった。
 他の記事も舐めるように浚ってみたが、気を惹いたのは、物珍しい濃霧注意報くらいなものである。錯綜する疑惑と推理と空腹の中で、朝食に向かった。アンチョビソースをかけたカナッペは美味かったが、コーヒーは甘すぎた。
 わたしは、守永の言った進展とは黒鉄町事件に関することだったに違いないと合点し、店を出た。
 外の陽光はまるで南スペインだった。空気は北アルプスで、湿度は南アメリカで、気温は西スーダンだ。わたしはマークⅡを大桟橋客船ターミナル駐車場に置き去りにしたまま、馬車道駅からみなとみらい線で横浜へと上り、青木橋を目指した。

 刹那の瞬きを見せるこの盛夏の中、真っ青に塗りたくられた青木橋では、守永がわたしを既に待ち侘びていた。
 こう日差しの強い日には、帽子があるのも悪く無い。帽子姿の守永は風見鶏のようで、これも悪くない。こんな日にはコロナ・ビールを飲んでも悪くないが、誰にも勧められないのでは飲む機会も断るきっかけも無いのだ。
 風に揺れる新緑のように彼女がわたしへ手を振るのと、足下で列車が駆け抜けるのが同時だった。陽炎が、その姿を印象派の絵画のようにぼんやりと魅せている。彼女の傍らにはブリティッシュグリーンのローバー・ミニが子犬のように鎮座していた。
「随分と久しい気がします」彼女は眩しそうに微笑んだ。明るい目は、今日の空模様に負けず澄み渡っていた。
「原はどうしてる?」
「建前(たてまえ)上では、今までの刑事生活で足りなかった睡眠を補っているそうです……」
 要するに惰眠を貪っているだけなのだ、などという悪態は、彼女の優しい唇には相応しくなかった。わたしはそれ以上訊き返さなかった。
「次の仕事の斡旋はおこなってもらえる予定なので、それほど心配なさらないで下さいね」焼きプディングみたいに香ばしいはにかみ方だった。
「その通りだ」と、わたしは頷き返した。「わたしは心配する余裕も無いくらいに忙しい」
 彼女の眸の焦点が、前髪の先端に結ばれた。「そうだったんですか……だったら、偶(たま)には思い出してあげてください……」
 頓珍漢(とんちんかん)なその物言いも、今日の陽射しの前では逃げ水のように霞んで聞こえる。列車が通るたびに、熱風が頬を叩いていた。
「犯人が捕まったんです」ふと、守永の溜息めいた小さな呟きのために、わざわざ風が止んだ。すると余計に排気ガスとアスファルトが臭いたった。「黒鉄町事件の容疑者です」
 わたし達は不審と憤懣の混じったやる方ない感情を剥き出しにして頷きあった。
「朝刊で読ませてもらった。ピストルを持った、元気な爺さんだ。気に入らないよ。まとまりすぎてるのさ。誰かの意思が働いたみたいにね」
「あの李と名乗った老人は、昨夜突然自首してきたんです」と、彼女は敢然(かんぜん)と明かしはじめた。「まるで警察を嘲笑うみたいに、凶器の自動式拳銃を携えて、交番ではなく署に出頭してきました」
「老獪で、強(したた)かで、しかも年の功のある人間に違いない。いくら物的証拠と状況証拠が揃わないと検挙(あ)げられない日本の国柄とあっても、暫くは李老人に踊らされるのじゃないかね」
 新聞紙面で招じられた李老人は、まず真犯人の身代わりに違いなかった。別に警察が保身のために仕立て上げたのではないだろう。自首した李老人の眸には、老い先の短い人生と引き換えに故郷の孫の身柄を安心して預けられる後ろ盾が、至極魅力的に映ったのかもしれない。わたしはその考えを守永へと伝えた。
「許せません……」と、彼女は真っ直ぐに感情を口にした。「もしかしたら、李老人の後ろ盾とは董財閥なのではないしょうか。黒鉄町事件のどこかで財閥の人間が疚(やま)しい関係を築いていたせいで、その事実を隠匿しようとして――」
「こう暑い日にこそ落ち着こうじゃないか。この事件は、そこまで浅薄なものじゃない。後ろ盾は財閥かもしれないし、小幡谷運輸物流共同組合かもしれないし、案外一個人の第三者かもしれない」
「いずれにせよ、事件は確実に終息の過程を辿っているように私は感じます。今回の件で世間は、董道一事件も黒鉄町事件も咳(しわぶき)一つ残さずに忘れていくでしょう……」
「刑事の勘かい」
「刑事と女の勘です」彼女は毅然と自分の胸を叩いた。
「確かに裏打ちされた勘だよ。警察側も容疑者の自首ということでこれから徐々に活動範囲を狭め、最終的に捜査を打ち切れば、その傾向は顕著になるだろう」
「もはや現在、警察と一連の事件を繋ぎとめる鎖は、四課からの異例の引継ぎで結成された特捜だけで、これもいずれは解散します。でもだからと言って、油断しないで欲しいんです。このまま事件が収束してくれるとは限りません。何かが呼び水となり新たな事件を誘発する可能性もゼロじゃないんです」
「それに、まだ肝心なことだってわからないままだ」
「コテツさん。無茶をしないと、ひとつ約束しませんか? 小幡谷運輸物流協同組合の本部が陣取るマンションで、昨日、小火(ぼや)騒ぎがありました。コテツさんが関係していないはずがないんです」
 わたしは苦笑した。
 案外、彼女がわたしに最も伝えたかったのは、この忠告だったのかもしれない。黒鉄町事件が本当は何も解決していないという事実よりも、凶器の拳銃が見つかったという進展状況よりも、原の刑事を辞めたその後の生活よりも、彼女は一回り大きくなって警官らしく注意を呼びかけるために、わたしをここへ呼び出したのかもしれない。
 守永は欄干に背を持たせ、そっと目を閉じた。
「今、董道一事件の本筋は、警察の食指から逃れようとしています。もはや私も、董道一事件に携わる刑事という肩書きは消滅するでしょう。しかし、視点が変わることで、事件の様相も新たな面を呈するかもしれません。原先輩の目を通じて見るこの街と、私の目を通じて見るこの街が、随分と違って見えたのと同じように。だから、私は捜査本部の刑事としての立場でなくても、真犯人を捕まえることを諦めるつもりはありません」
 どこかで水しぶきが上がったみたいに、彼女は目を細めた。そして一枚の写真をポケットから引っ張り出して、欄干から翳すと、風にはためかせた。赫杓(かくしゃく)と降り注ぐ陽光を反射した写真の中で、赤嶺愛美と原が笑っていた。守永がその写真を躊躇い無く引き裂くと、蒼穹に舞う紙片が、誰かの旅立ちを祝うみたいに、橋下を流れる夏の空気の中へ舞い落ちていった。
「この写真は一枚あればいいんです」海辺の貝殻のように静かな声だった。「原先輩の部屋に、一枚だけあれば充分なんです。あの引き出しに眠る写真が色褪せた時、何かが変わっていることを、私は祈っています――」
 これは、彼女なりの過去との決別の証であったのかもしれない。
 わたしはこの出来事のせいで、まだ守永のためにも、ましてや丁玲のためにも、何もしてやれていない無力感を覚えた。だが、目下わたしはどうして良いのか分かっていなかった。
 行方の知れない丁玲。董道一殺しを自供したフッキ。絶縁したもののそれでもフッキを慕っているだろうアゲハ。一方で、真相を追う守永。その彼女の活躍を見守っているだろう原。
 一連の事件を暴かねば傷つく人間は大勢いるが、同時に、真相に光を照らすことで、きっとアゲハとフッキは立ち直れない。二人の関係をもう幾許(いくばく)か見守ってみるのか、守永と原の関係に報われた瞬間を用意してやるべきなのか。わたしの行動次第で、どうとでもなってしまう。フッキの自供によって、董道一事件は多少の疑問を残してはいるものの、体裁だけで判断するならば解決したと見ることだってできる。しかし、その割には、事件の深層部が見えず、芯がどうにもはっきりしない。董道一事件は、まさに支えを失った振り子だった。完成しない、パズルの一ピースだった。
「広報を読ませてくれないか」わたしには、足りないものがありすぎて、それを補う必要があった。「少しの間、貸してもらいたいんだ」
 守永は、ローバーのトランクからダンボールを一箱担いできた。
「五年分で約百二十部です」と、彼女は天蓋を撫で、隔週で発行された部数を指折り数えて見せた。「約束です。無茶はしないと誓ってくださるのなら、資料をお渡しします」
 わたしは二度目の苦笑をして、頷いた。「わかった。約束しよう」
 彼女の差し出す資料と、礼と励ましの挨拶を交換し、わたしは横浜駅へ帰った。小脇に抱えたダンボール箱はどうにも人目を引くが、不恰好には慣れっこなのだった。

 帰りの列車と、駐車したマークⅡの車内で、広報は粗方(あらかた)閲(けみ)することができた。丁度四年前と三年六ヶ月前の刊行冊子に、アゲハの記事は載っていた。だが、彼女が咽喉を痛めるきっかけとなった傷害事件についての記述や、小幡谷運輸物流協同組合といった単語は皆無である。四年前の記事も三年前の記事も、どちらも格別とまではいかないものの、彼女のためにしっかりと紙面が割かれていた。四角く切り取られたモノクロームの窓枠の中で、アゲハはインタビュー付きで伸びのある歌声を披露している。
 わたしは運転席で広報を折りたたむと、これで一体何が分かったのかと考えてみた。
 何も分かってなどいなかった。
 わたしには分かり易い情報と、有能な秘書と、二日酔いのしない脳味噌が必要だった。しかし、わたしにあるものは、借りた金と、マークⅡと、革の手帳だけだった。手帳を広げてみた。いつかパシフィックホテルで書き記したまま忘れていた、丁玲に訊いた董克昌邸の住所が目に飛び込んできた。わたしは、義務であり、いわばやり残した流れ作業の一環を完遂するために、靴底を減らすべきだと判断した。
 だが、もうこのとき、自分自身が鏡の迷宮に迷い込んだ犬も同然であることを自覚していた。

 董克昌邸は、外人墓地からフェリス女学院までも山手の丘を登りきらない中腹にあった。豪奢な外観の広々とした庭は、一旦入れば出口を見失いそうである。同様に、わたしはこの事件の出口も見失っている。
 この邸にも結局収穫を見出せなかった。
 わたしは手掛かりを求めて、縋(すが)るように中華街まで下っていった。そこで董克昌の経営する華貴楼を見かけると、吸い込まれるようにして暖簾を潜った。
 案内された席でジャスミンティーを啜りながら、慌しい店内で、かつてその風景の中にフッキが溶け込んでいたこと思い浮かべた。
 そもそも何故、フッキは董克昌と繋がりを持てたのだろうか。丁玲は、董克昌がフッキを労働力として利用できたからだと言った。その労働には、表の仕事だけでなく、裏の仕事もこなせることが要求されていた。二人は互いの関係をどんなきっかけで築き、需要と供給を一致させたのだろうか。
 店を出て、物思いに耽りながら中華街を放浪した。
 中華街大通りのど真ん中で、脚が止まった。裏返しになったズボンみたいに不器用に動く、蝟集した人垣が路地を塞いでいたのだ。PCと病院車のサイレンが、街の出入口へ滑り込んだところだった。わたしは自分の心に、鳥の羽根のように小さな感情が触れるのを感じた。群衆の中に、アゲハの姿を垣間見たのだ。
 紳士ならば、ここで彼女に声を掛けるのが定石なのだが、わたしは紳士ではあったが、紳士である以前に私立探偵だった。寸時、彼女の挙動を視線で追ったところで、不意に腕を捕られた。奈落に引き擦り込むような力に牽引され、裏路地へ転げた。頭から使い古した胡麻油の臭いが降って来て、足元ではコカ・コーラとビール瓶が弾け回った。
「あまり音を立てないでくだせぇ。それからじっとしててくだせぇ」
 日陰の底で、野太い男の声が言った。だが余りに弱弱しい響きだったので、カツアゲをしようと試みたが逆に怖気(おじけ)づいた高校生かと思ったくらいだ。
「ゆで卵の殻を剥くのはかまわんかね」わたしは言った。
「頑丈なところを一発殴らせてもらいましょうか?」
「よしてくれ、フッキ君。わたしら堅気一方の友達じゃないか」
「あそこへ近づくと面倒なことになりやすぜ。小幡谷のやつらもいる」
「何かあったのは察しはつく。察しはつくが、正確なところじゃない。どこかで小休止と洒落こもうじゃないか」
「この街じゃあ、俺を入れてくれる店なんてねぇですよ」
「近くに知り合いの営業(や)っているバァがある」
 ゆっくり頷いた彼の顎は、壊れた錻力(ブリキ)人形のようにぶらぶら揺れて、今にも外れてしまいそうだった。小豆色だった瞼は潰れ、そこから血の混じった膿(うみ)が垂れ流れている。平生を装ってはいるが、どう庇(かば)たって骨の一本や二本が役に立たなくなっている事は隠しようが無かった。しかし外傷から比べれば、その程度で済んだのが幸運だったと言うべきかもしれない。
 わたしは今度こそ正真正銘に彼の肩を担がなければならなかった。密着した彼の巨躯は、永遠に終わらないさむけに晒(さら)されてでもいるかのように震えていた。暫く何を質問しても、頷くだけで、真っ当な返事などありはしなかった。

 リャンズ・バァの戸を押し開けた頃、わたしの体は鉛を呑んだように重くなっていた。先客の見知らぬ男が、わたし達の姿に目を側(そば)めると、食パンみたいに白い顔になって店を飛び出した。当然、キーンの表情は失笑に生歪んだ。
 わたしは、フッキの腰を止まり木(スツール)に据えさせ、上体はカウンターに載せてやった。自分も腰を掛け、スカッチを一杯頼み、彼が自発的に話しだすのを待った。
「世の中に液体は二種類だけでいい」と、フッキは声を胃酸みたいに絞り出した。「水と酒、これだけでいい。バーボンだ、バーボンをくれ」
「三つだ。血が足りてない」
 キーンが身じろぎもしないで訊いた。「飲み方は?」
「ボトルごとくれりゃあいい。少し休んだら、そいつを連れて出て行くつもりだ。酒場での酒の飲み方なんざ、とうの昔に忘れちまった」
「そいつってのは?」わたしは訊ねた。
「酒のことさ、私立探偵のことじゃない。俺の相棒はいつだって酒だったんだ」
「わたしはあの現場に偶然通りかかったんだ。さあ、今度は君の話す番だぜ。あそこで何があったのか教えてくれ」
「強引な理屈ですね」
 酒の入ったグラスとグランダッドのボトルが乱暴に置かれて、狭い店内を揺らした。中華街の一匹狼とネイヴィが揃えばネイム・バリューだけで店はいっぱいなのに、その上二人が大柄ときたら、そこはもう公衆便所の掃除用具入れのようなものだ。
「殺人事件じゃねぇですよ。ただの昨日の続きみたいなもんだ」と、フッキがボトルに直接口をつけて、口元を拭った。「世の中には俺のようなケチな男がいる。そんな俺よりももっとケチな野朗がいる。そいつらが俺を本気で消そうとしたら、衆人環視があろうと無かろうと関係ねぇってことです。今回はなんとか逃げ果(おお)せましたがね」
「誰なんだ、その連中ってのは」
「人情は押し付けるもんでも見せつけるもんでもない、ただそこにありさえすればいいのさ。ダンナもアゲハも、ボストン生まれのアイヴィ・リーガーみたいに、お節介が好物なんですな」
「好物はウィスキーだけさ」
「頓知(とんち)は止してくだせぇ」
「君だって気取ること無いじゃないか。誰に狙われているのか、話してくれよ」
「誰でも良いですよ。今まで俺のやって来たことってのは、どこで恨みを買ってきてもおかしくないようなもんばかりだった。俺をただ殴れりゃ満足って輩が、寄って集って、丸裸になった俺の状態を愉しんでるってだけです」
「小幡谷だけじゃないんだな」
「むしろ小幡谷は関係ないですね」と、彼はボトルを握り締めた。「俺の探し物を持っていると言い張るやつらがごまんといる。しかもそれが全部嘘だって確率はゼロじゃねぇんです」
「君の頭はゼロかもしれないぜ」
「頭の悪ぃ筋者崩れにゃ違いねぇ。でも、今の状況じゃ、どんなに頭の良い大学のクラブの連中だって、俺と大した違いも無い行動をとるはずだ」
「それはどうかな」
「言っときますがね、俺は人殺しです。こいつだけはどう転んでも覆しようが無い。人殺しってのは、唯(ただ)のはみ出し野朗と無法者に過ぎません。そんな人間を助けなきゃならねぇ義理や任侠なんてものは、黄砂の一粒ほどにだってありもしねぇってことを、忘れちゃならねぇですよ。はじめて会ったときに言いやしたが、ダンナはまるで私立探偵に相応しくない」
 狷介(けんかい)に捲くし立て、ボトルを鷲掴むと彼は立ち上がった。両の足だけで踏ん張れただけでも、一万の奇跡があったとしか思えなかった。
「そんなに急いでどこへ行こうってんだい」わたしは言った。
「言いましたよ。はじめてダンナに会ったときから、ずっと言い続けてる。俺には探し物がある、探さなきゃならねぇものがある」
「だが、ずっと見つけられていない」
「ダンナは、俺が何を探しているのかもう勘付いている。俺が何者なのかも、大凡(おおよそ)の見当がついている」
「大凡はね」
「俺は屍体になるにも、犬ころになるにも、まだ早すぎるんです」と、まるで現実全てを否定でもしているみたいだった。「俺の娘はね、ジャスミンの童話の少女みたいにそりゃあかわいいもんでしたよ。空をぷかぷか浮いてる逸(はぐ)れた入道雲みたいに、夕暮れのジャスミン畑をころころ走り回ってました。俺みたいな人殺しは、父親にはなる資格はないかもしれないが、人柱ぐらいの役目なら、関帝廟の関聖帝君だって目を瞑ってくれるはずさ――」
 すでに蕩尽した人間の物憂い仕草で、紙幣をカウンターに載せると、フッキは床と自分の体を軋ませて出入り口のドアに手をかけた。
 突然その手を何かが掠めた。光る物が、床へ爆ぜてシャンデリアのように飛散した。カウンターに置いたロックグラスが無くなっていた。キーンがフッキに向かってグラスを投げつけたのだった。
「二度と来るな」と、キーンの刺々しい声が、フッキの背中を貫いた。「慣れないな。俺は死人の山を跨いできた。それでも慣れないんだ、死臭ってやつに。テメェからは、漂い過ぎているのさ。俺と同じ臭いが、漂い過ぎている」
「確かな鼻だ」と、フッキは言った。「それだけ確かなら、人間ってのが静かな場所を求めているのを知っているはずだ。この上なく静かな場所を探している。だが、ここはちょっと煩すぎる――」
 ドアが閉まった。それから暫くは、キーンの舌打ちで時が刻めるような間が続いた。

 わたしがリャンズ・バァから出た頃になると、何所吹く風を装って野次馬は街から消えていた。だが、アゲハはまだそこにいた。中華街の空気にもつれた長髪を鬱陶しそうに払いのけ、擦れ違う人間に何かを訊いて回っているのだ。その姿は、春の訪れを待つ冬枯れの木立みたいに街から孤立して見えた。群集の中で溺れたように息を乱すアゲハに、わたしから声を掛けた。
「フッキを探しているのか」
「別に探してないわよ。探してなんかない。あんたなんか知らない」
「さっきまで、あの男と話していた」
 言葉の意味を咀嚼するするみたいに眉根を寄せ、彼女はそのまま老婆の彫像のように固まった。
「探し物はまだ見つからない」と、わたしは教えてやった。「小幡谷の連中以外にも狙われている。追われながら、追いかけているようだった」
 アゲハは唇を噛み締め、拳を握り締めると、振るえながら一人囁いた。「あたし、人を一目見ればどんな人間か分かるのが特技なんて言ったけど、その割りには鏡を覗き込んだって、自分のことが何もわからないのよ……」振り返った眸が、雨に濡れそぼるカメラのレンズのように曇っていた。「ウチの若い下っ端連中が――中華街でフッキの姿を見かけたっていうから、何人も事務所から飛び出していって――」
「いつの話しだ」
「たった今よ。ねぇあんた――」
 そこから先の訴えは、さすがに過去の経緯(いきさつから)躊躇(ためら)いがあった。彼女はわたしへ腕を伸ばしたが、すぐに怖気づくとその手を胸元で引き結んだ。自分の迷いがどのように聞こえるのか試しているようであった。彼女を突き動かしているものが、動揺なのか情熱なのか、もはやわたしには解からなかった。
 アゲハが言った。「ウチの若い連中は、フッキに虚仮(こけ)にされたと思ってる。多額の報酬なんて、繊細に仕組まれた真っ赤な嘘だったんじゃないかって……」
「だから何だって言うんだ。君は何を戸惑っている。何を望んでいるのだ」
「黒鉄町の事件があって以来、あたし、ボスからもう二度とフッキには関わるなって忠告されてるのよ……」
「どうするつもりだ?」
「フッキに会わなくちゃ」
「覚悟があるのか」
「何の覚悟よ」
「小幡谷から去る覚悟さ」
「別に去る必要なんてないわ」
「君にその気は無くても、フッキを追う以上、そういうことになる」
「いやよ……。どうして片方に肩入れしただけで、もう片方とは対立しなきゃならないの」
「じゃあ、またわたしに頼る気か、なぜフッキを慕うのか、もう一度考え、決断するべきじゃないのかね」
 彼女は息を呑むと、フッキとはじめて出会って以来どれだけ自分の環境を変えてきたか、見えない目の前のスクリーンに時の流れを描きだすように、喋りだした。
「あたし、歌うの大嫌いだった――」まるで幼い頃から、ずっとフッキと自分は繋がっていたとでも喚くような力強さで、眸が瞬いた。「脅えながら歌っていた。でも、あたしは運に恵まれていた……。実力相応に認めてくれるマネージャーがいて、才能を見言いでしてくれた母親がいて、海外への留学を勧めてくれた小幡谷がいて、辛辣な意見をくれる客がいて、そして良きライヴァルがいた」彼女の言葉には、次第に決意に裏づけされた熱意が帯び始めていた。「あたしの人生の分岐点には、必ずかけがえの無い人がいてくれた。あたしは歌うことによって、沢山の人との繋がりを知った。沢山の人たちがあたしを支えてくれていることを知った。なのにフッキは一人で生きていこうとしている。チンケなあたしの歌みたいな生き方してる。でも、今度は、あたしが今まで大勢の人たちから教えられた人との繋がりの大切さを、伝えてあげたい」
 彼女は焦燥に駆られるように、背後へ振り返った。わたしは、そこになにがあるのかを見て取った。通りの向こうに恰幅の良い小男がいる。遠めに見れば見間違えたかもしれないが、フッキではなかった。男の姿に、アゲハの表情は白く沈黙していた。
 わたしは言った。「ずっと疑問だった。何が君をそうまでさせるのか。君は確かにフッキと似た生い立ちかもしれない、だが、それだけじゃないだろう?」
「あたし、歌う以外に人の励まし方を知らないの……。歌うことを止めちゃったから、人と寄り添ったり、励ましたりすること、もうできないのかな。確かめたいの、もう一度、何ができるかって……確かめたい。あいつを夢から覚めさせてあげられるのは、真実に気がついているあたしだけだから――」
「夢から――」わたしは鸚鵡返しに訊いた。彼女の訴える真実とは、何なのか。アゲハは、わたしの気付かない彼の秘密を握っているのだ。三流私立探偵には遠く及ばない玄人裸足の観察眼が、何かを暴き出したに違いない。
「小鈴ちゃんのことよ」と、アゲハは言った。その声は、死人を弔うような響きを持っていた。
「君はフッキの娘を見たことがあるのか」
 わたしを見る目が、わたし個人ではなく、私立探偵を見る目に変わり、彼女は頷いた。
「写真で見せてもらったわ。――可愛い、子羊みたいな小さな女の子だった。ジャスミン畑で撮った写真よ――だから、あたし、覚悟を決める」と、彼女は力強く明言した。「その結果が、たとえ小幡谷に追われる身になるようなことであっても、あいつを夢から覚まさせてあげなくちゃ。それができるのは、きっとあたしだけ」
 アゲハはわたしを指差した。「小幡谷に、世話になったと伝えて頂戴。過去なんか勝手にしやがれ、よ。あたしはもう歌えないのよ。壊れた銃じゃ、たたかえないんだから」
 アゲハが傍らを走り抜けた。
 天上では、コンパスの針のような太陽が回っていた。右にも左にも、人波があった。足下は油で濡れたアスファルトがじゅうじゅう音を立て、顔を背ければそこには照り返した陽射ししかなく、耳を欹(そばだ)てれば蝉が鳴くのさえ許さぬような喧騒がどこまでも棚引いている。中華街は何かを隠すには理想的だが、何かを探すには一番向いていない街だった。
 それを知った途端、景色が遠くに感じられはじめた。しかも急速に、全てを連れて遠くへ去ってしまった。わたしの視界の中に、ただ小幡谷という巨大な存在だけを残して。

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