■トップページ  ■小説置き場  ■当サイトについて  ■細々日記 「地下室のたき」  ■リンク   ≫メールを送る



※ルビはカッコ表記です。ご了承ください。
 

THE BLANK TRACK
( correction version )
by
Taki Sara
Copyright © 2007-2010 by
Taki Sara





   18

 筋者達の酷烈な視線が、八方から振り注ぎ、金網のように被さっていた。どれも数分前まではアゲハを捕捉していたに違いないのだが、半分以上がわたしに擦り付けられたようである。その視線が群集を払い除けて、一人の人間を喧騒から浮かび上がらせた。
 その男は、まるで鉄塊から削りだされたとでもいうように、一縷の温かみも無い、年齢を煙に巻いたような容貌を備えていた。利己的で怜悧な色合いの目と、研磨剤で磨いたような肌が中国人を連想させる。頭髪はオールバックに固められられ、まるで凹凸がなく、この体裁と空気の鋭利さがどことなく金属を匂わせているのだ。毛沢東の肖像以外では滅多にお目にかかれないマオカラー・スーツに身を包んでいるが、それでもこの暑さの中、睫一本震わせようともしなかった。
 一見するところ、仙人のような物腰で、男は押し黙ったまま風化するまでそこを動きそうにない。だが、一度(ひとたび)息を吐くと、過ぎた時を取り戻そうとするみたいに忙しなく眸が回りだした。
 五感が危険を察知していた。関わりを持たぬのでいられるのならば、そうするべき相手だったのだ。不意を打ったつもりで踵を返したが、相手の方が上手だった。
「コテツくん、なんでしょう」
 的外れに甲高い声が、耳元で鼓膜を引っ掻いた。わたしは叩(はた)かれるようにして振り返った。いつの間にか鼻先がぶつかる程間近に男はいた。歳は、案外若かった。
「小幡谷さんですね。はじめまして」
「僕にどんな返事を期待しているのさ」
「ちょっと距離が近すぎやしませんか。二重の意味で」と、わたしの声は、ゆで卵(ボイルド・エッグ)の殻みたいにかさかさと響いた。
 土鳩みたいな含み笑いが聞こえたのに、ただそれだけで、辺りに笑っている者など一人もいなかった。小幡谷はわたしの肩に肩を摺り寄せたまま、耳元で蛇のように囁き続けた。
「中華街(チャイナタウン)なんだよ。噂が広まるのがはやい。知ってるよね」
「知られて疚(やま)しいことはしない主義なんです」
「そうやって慎重な男ほど、歳をとってから悔やむもんだからね」
「じゃあ、貴方も気をつけたほうがいい。いや、既に悔やみっぱなしの人生を送っているのかもしれない」
 また含み笑いが聞こえた。お互いに顔を見せない分、そうした些細な癖を掻き集めようとわたしは懸命になっていた。
「友情を分かち合うタイミングを逃し続けているように思えるね」と、彼は肩を落とした。反して、わたしの肩は上ずりっぱなしだった。
「そういうのは丁重にお断りすることにしているんです」と、わたしは答えた。「とくにそうとも捉えかねる間柄の時は、友情とは呼ばないようにしているって意味ですよ」
「深読みし過ぎだよ。僕は別に金を払ったり、拳も払ったりしようってわけじゃないんだ。どうだい、一緒に食事でも」
「生憎人に見せ付けるほどの胃袋じゃないんです」
 憤ったような嘆息が耳元で鳴ると、むすっとした空気が脇腹から這い上がってきた。
「街中でひっそりと互いの懐を刺し合う落ち武者とはぐれ者ってところかな」彼は得意気に言葉を継いだ。
「何がです」
「僕たちのことに決まってるじゃないか、他のどこへ関心が向くっていうんだい。この群衆の中で、どれだけの人間が僕たちのことを注視していると思う? この世界の中で、どれだけの人間が自分のことに気を患ってくれていると思う? 君は変な男だけど、僕もそんなに真っ当な人間じゃない」
「真っ当なら、こんな稼業で生き永(なが)らえることはできない」
「最も。君は弧賢しい。僕がこうして真っ直ぐ言い放っているってのに、甲羅の中に閉じこもっている。でもね、どうせ何もかも知っているんだろう? 僕たちだって、君の事を知ってる。まだ命が惜しい癖に、ほんとに弧賢しい小心者だって聞いてる」
「プロレタリアですよ。理由も知らずに耕すだけです」
「嘘だけは止そうよ、嘘だけはね。それと、謙遜もよくない。君の口の鍵を握っているのは誰? 丁玲? フッキ? 克昌? それとも道一?」
「わたしだけです」
 触れ合っていた小幡谷の肩から力が抜けた。抜けた分だけ、鼻と口から深い溜息が溢れた。
「今度は随分と大きくでたもんだな……。嫌になるよ、ほんとに。君のお察しの通り、僕はフッキを口説きに来た。でもね、決して悪い意味じゃない。ついさっき、話し合ったが、互いに納得できなかった。それだけさ」
「あなたみたいに大物になれば、人一人の存在を消すことくらい、取るに足らない。そういう意味ですか」
「そうじゃない。僕はあの男にちゃんと注視しているし、気も患ってる。長い付き合いなんだ。なのにフッキときたら――。それはともかくだね、僕とフッキの間柄をよく思ってない下(・)のがいるんだ。彼らが破天荒に振舞ってるせいだよ。それでこんなに苦労しているんだから」
 この組織というのは、どうやら案外一貫して足並みを揃えられていない様子である。様々な思惑を持った人間が大勢忍び寄り、中華街は野心で溢れかえっているのだ。
「では」と、わたしは言った。「アゲハはどうです?」
「どうです? どうですってのは? 気に掛けているのかという意味ならもちろん気に掛けてる」
「でも、彼女はそろそろ自分の足だか羽だかで、目の前に立ち塞がった壁を越えようとしています」
「ははあ、君のここ(・・)の回り方がようやく読めた」と、彼はこめかみを指し示しながら顎を突き出した。「つまりこうでしょ? フッキの傍で朽ちていく彼女は見るに耐えない」
「ようやく読めてくれましたか」
 ちょっと眉が波打ったが、彼は聞こえなかったことにしてくれた。
「理由はともかく、アゲハには何の責任も無いさ。組織に居座れと強要なんて誰もしていない。それこそ彼女自身が脅えていただけなのさ、僕たちにも、現実にも、自分の過去にもね。好きにすればいいさ」
 瑞々(みずみず)しくつるりとした男の頬に笑窪ができた。心の箍(たが)の締め付けを少しもきつくせずに、仲間を切り捨てられる微笑だった。わたしはその曲がった唇に、今放った言葉を復唱させてやりたくなった。
「アゲハにはもうちょっかいを出さないと、誓えますね」
「そりゃ誓ってもいい。花は咲かなきゃ売り物にならないでしょう。でも、やっぱりフッキとなると話しは別だよ。あいつはまるで聞く耳を持たないけど、僕は連れて帰りたい」
「フッキとなると、どう話が別なんです?」
「僕はもともと大陸出身で、こちらにきて改名したクチなんだけど、その折、克昌(クーシャン)には随分良くしてもらったのさ。道一とも二十年来の友情だよ。となると、やっぱりフッキは手放せない」
「あなたが克昌と道一に世話を焼いてもらったからといって、そこにフッキを保護したがる理由は見当たらないですね」
「なんだか噂よりずっと探偵らしいじゃないの。それにしても、そんな質問をするなんて、君、知らないの?」
 こう言われて素直に首肯するようでは相手の手中で踊らされるようになる。
「別に、世話になったのはその際だけだったのか、という意味で言ったのですよ」と、わたしは即妙に切り替えした。これは全くの誤魔化しを交えたあてずっぽうだったが、藪が目の前にある以上、突付かない手もないのだ。
「資金洗浄(マネー・ローンダリング)のこと、知ってるの?」と、彼は平板な調子で答えだした。「本土の財閥となると、結構な大金が動くんだよね、日本(こっち)の猫かぶりとは違って。それもプライベート・バンク使ってるからさ、洗浄(ローンダリング)し易いんだよ。上海の国内外のマーケットをつなぐ蘇州と、香港(タックス・へイヴン)にまで分家があるって、僕らから見ればまさにそのための家柄みたいなものじゃないか。まあ、君が何所まで何を知っているのかは訊かないけど。この関係って、僕と道一の間柄だったからできたことだよね」
「旧知の仲のようですね」
「さっきも言ったけど、二十年来の友情だよ。僕たち、黒核子(ヘイハイズ)として瓦礫の山を築き上げた仲だ。――さ、そろそろ酣(たけなわ)かな。話が核心から遠のいた」気配が霧のようにしっとりと離れた。「それにしても、克昌が見つからないな……。ワイルドベリーのロールスロイス、どこいったかな――」
 夢遊病者も同然に呟く最期の言葉が耳に届いた頃、その発話者は背中越しに随分と遠くに感じた。振り返り、しがみつくくらいしてやろうと勇むと、脇腹に鋭い痛みが奔った。
「余計なアクセサリーを腹からぶら提げたくなきゃそのままでいることだ」
 小幡谷ではない、別の男の声が背中で忠告した。中華街中の群集が丸ごと圧し掛かってたとでもいうような圧力である。たっぷり二十秒、わたしはその突き抜けるような脇腹の痛みと圧迫感を耐え忍んだ。
「頑固な馬面の野朗なら、関帝廟にいるぜ」と、背中の声が気をもんだように捨て台詞を言い放った。「姐さんもお揃いだ。ありがたいと思ったら、そのままの姿勢で、声を出して十数えてみせな」
 金属の折り畳まる音がして、痛みが去った。同時に気配も遠退いていった。わたしは腹癒せに三つしか数えないで後ろを振り返ってやったが、そこには群集しかいなかった。
 まるで全てが白昼夢のような一瞬だった。確かに言葉を交わしたはずなのに、小幡谷の声調だけでなく輪郭すらも思い出せず、自分の影が消えていないか不安になったほどだった。アスファルトに注意をやると、そこにはちゃんと西日に背伸びした影があった。影には、顎から滴った冷や汗が載っていた。わたしは関帝廟を目指して走り出した。

 宵が急速に、巨大な中華鍋のような形をして街を覆いはじめていた。闇は人を不安にさせるという巷の流行台詞が、道すがら得意顔でわたしと擦れ違った。観光客の甲高いざわめきも、一際(ひときわ)抑揚の激しい中国語の波も、何枚も時間の層を挟んだように遠い。
 香港路の角を折れると、門扉の手前に佇むアゲハの姿が覗(のぞ)けた。牌楼を掠めた弱弱しい陽射しが、彼女の表情を真っ二つに割って陰影を刻んでいる。
 アゲハの視線が射る先は、霊廟の境内だった。
 夕日に染められた雲龍石を両脇に、牌楼を見上げたフッキが立ちはだかっている。祀(まつ)られた関聖帝君と同じように、人を殺害して故郷を後にした大柄な男である。香炉の煙を浴びて、殺人者である自分と神とを世界の両極にでも見た立てているように仁王立ちしていた。だが、祀られた関聖帝君とは違い、彼には巡りあう運命の友がいなかった。
 フッキは階段を踏みしめながら、ゆっくりと下ってきた。
「自分でも分かっているのさ」と、アゲハに物言わせぬ調子で、彼は吐き捨てた。「今更祈ったところでどうにもならねぇだろうって……」
 背後には、堅牢な檻のように、観音石龍柱の並んだ回廊が見える。さながらフッキは脱獄者だった。
「あんたのやってることじゃ、罪は償えないわ。現実を見つめるべきね」一方では切実であり、一方では突き放すようなアゲハの訴えは、喉もとでいがらんで、言葉尻は喧騒に持っていかれた。
「構わねぇのさ。構いやしねぇ」
 やけに調子外れな甲高い声だった。その可笑しな抑揚に、ようやく、わたしはフッキの様子が尋常でないことに気がついた。挙動は妙によそよそしく、中華スープに浮いたゴキブリめいた動きで、足下は泳ぐようだった。割れたサングラスの向こうに見える眸の中に、わたし達は今まで以上にまるで映っていないのだ。
「あたしがわからないの?」
 篝火(かがりび)のようなアゲハの呼びかけが、彼の足に絡み付いて歩調を鈍らせた。しかし、顔面の神経を抜き取ったとでもいうように、フッキの面相はぴくりともしない。
 様子がおかしいことは承知の上で、表情を穿鑿(せんさく)してみた。承知が蒸発していくのを感じた。どこまで追っても焦点の交わらない眸を震わせながら、僅かな正気だけが、彼の唇をわななかせているのだ。暗がりで、潰れていない方の眸が、サングラスの裂け目からちらりと舐めるよりも妖しく動て、わたしを捕らえた。唇の隙間から何かが聞こえる。
「やつら……汚ねぇ手を使いやがったのさ……。煙草には気をつけねぇと、ありゃ、煙草じゃねぇ……」
 アゲハが駆け出して、サングラスを毟(むし)り取った。やや遠目にも、彼の眼窩の底で散瞳した黒目が脅えたように震えているのが、さらにはっきりと分かった。
「麻薬煙草だわ――」と、アゲハはサングラスをシャツに手挟み、問い返した。「誰に吸わされたの?」
「小鈴を、助けなきゃならねぇんだ……蛇頭どもめ……」
 身体だけでなく、言葉にすら重力を感じていた。その癖、蝋燭の火を消さぬようにそっとうわ言で妄想に語りかけているみたいな調子で囁いている。随分遠いところから、彼は繰り返しているのだ。
 アゲハがフッキの袖を捲くり上げ、腕を手触りながら確かめると、身の毛がよだつような声を絞り出して歯を食いしばった。
「煙草だけじゃない……何か打たれてる……」
 フッキは意識を失ったも同然の様子でがくんと項垂れた。その口からは、ぶつ切りにされた魚の粗みたいな単語が出てきた。
「俺は、平気だ。そこにいるのは、なんだ、アゲハ……か……? ちょいとアスピリンを飲みすぎちまっただけさ」
 わたしは二人のもとへ駆け寄った。アゲハは驚愕に労いの態度すらも忘れていた。
「わたしが分かるか?」
 フッキの眸は、わたしを飛び越えて夕日を凝視した。空の隙間から血みどろの記憶を透かして眺めるような、赤く染まった太陽だった。
「コテツさんじゃないですか」と、彼は呻いた。「丁度良かった。いやほんとうに丁度良かった。俺を埠頭まで乗っけていってもらえませんかい」
「行くのは埠頭じゃない、病院さ」
「弱ったな、ダンナにそんなこと言われたんじゃ。――俺は、埠頭に行かなきゃならねぇんです。呼び出されたんですよ、アンチョビみてぇな脳味噌しかねぇ若造どもに。でも、そこまで行けば、ずっと捜していた代物が手に入るってわけでさ。いやあ、長かった。そいつがあれば……小鈴が帰ってくるんですよ。蹴鞠みてぇに、またジャスミン畑を走り回る姿が……」そこでむせ返ったが、それでも彼は喋り続けた。「あいつも、俺と同じで、昼間は目が利かねぇんです……。だからいつも、日が落ちて暗くなるまで家でじっとしている――学校なんかない片田舎なんですよ。小鈴は、目が利く夕方になると、ジャスミン畑を一人で眺めにいくんです。ジャスミン畑が、世の中で一番綺麗なもんだと思っている娘なんです……」
 幻想的な童話の世界に迷い込んだみたいな語り口に対し、唇は独立した意識を持って戸惑い震えていた。事実、彼はそんな未知の領域に片足を突っ込んでいるのだ。
 わたしは、何故こんなにも急に彼が述懐し始めたのか呑み込めず、唖然としていた。
「俺は、小鈴に見せてやりてぇんです。世界には、ジャスミン畑なんかよりも綺麗な景色があるんだってことを。あんな片田舎のちっぽけな花畑で一生終えようってんじゃあ、不遇すぎると思いやしやせんかい。……さあ、小鈴が待ってんです。行きましょう」
 魂を入れなおしたとでもいうように、彼は重い腰に鞭を入れた。しかし、急ごしらえで付け焼刃の魂では、彼の信念を支えるには役不足なのだろう。歩調は整合性を持たぬまま際限なく風に吹かれる帆船(セールボート)も同然に流されてゆく。
 ただ、その彼の信念ともいうべきものに、童話の中にいるジャスミンの少女が微笑んだ気がした。
「また随分な根性を拾ってきたもんだな……」と、わたしはフッキの前にしゃがみこんだ。
 彼は、しどけなく両腕をわたしの肩に載せ、まんじりと見据えてきた。
「俺は、董財閥の遺言状をいただきに行かなくちゃならない。もし、邪魔するってのなら、遠慮はしません」
 ようやくこの時はっきりと、彼は自分の口からずっと探し続けてきた代物の正体を明かしたのだった。その請(こ)い縋(すが)る無様ともいえるフッキの姿は、まるで他人の夢を見たいとせがんでいる幼子のようにも見えた。
 わたしは静かに頷いたが、そこを退きはしなかった。彼の探し物が、董財閥の遺言状だったという事実に納得して頷いたのだ。
「董財閥の遺言状が、やはり君の狙いの物なのか」と、わたしは糾問した。
「ちげぇねぇ」
「あれは血縁以外が持っていたって、何の役にも立たない代物だというのは承知なんだな」
 彼はわたしを見定め、全てを見透かしたように高笑ってみせた。その哄笑(こうしょう)は、狂人のそれではなく、間違いなく強者の満悦であった。
「どいて下せぇコテツさん、それからアゲハもだ。事実如何(いかん)に関わらず、俺は行かなくちゃならねえ。弟を殺して以来、まるで朱雀門がダンテの潜った地獄の門みてえに見えますよ。まぁ、世の中にはそんな門よりもずっと壮大な門があるだなんて言って自殺した作家もいやしたがね。そうだ、克昌の御贔屓(ひいき)にしていた太宰治だ――」
 彼は身体を持ち上げ、何度力を入れなおしても折れてしまう片膝と悶着しながら、自分の不甲斐なさをぶつぶつと罵った。だがゆっくりと、わたし達の脇を通り越していく。
「あたし、このまま誰にも、何も、伝えられなきゃ、一人ぼっちよ」と、ふいにアゲハが、長髪をゆらめかした。「歌えなくなって、誰もがあたしを見捨てるのは構わないけど、あたしが誰かを励ますこともできないなんて……そんなのヤダ……」
 擦れ違いざま、フッキは足を止めた。「どんなに気取っても、高いもん身に付けても、娘への愛が深くたって、奇麗事言ったって、俺は人殺しだ。この街じゃあ誰もが俺の首を取りたがっている。人殺しが抱きかかえても崩れ落ちない温もりが、この世の中のどこにあるってんだ――」
 遠ざかる背中が言葉以上の拒絶を示していた。それでもアゲハは振り替えり、華奢(きゃしゃ)な腕でがっちりとフッキの背中にしがみついた。
「あんた、死ぬわよ」禍々しいほどに、無表情なアゲハの面持ちは悲しみを潜めていた。「ほんとに死ぬわ。確かに死人がでている事実、忘れたわけじゃないでしょう」
 うっとうしそうにフッキは煙草を取り出すと、一本咥えた。火を点ける指が震え、炎があちこちへ彷徨い、やがて臨界点に達したとでもいうようにオイルライターの蓋を閉じた。
「離れろよ」と、彼は言った。「火が点けられん」
「あんたばかみたいよ。あたしの唄が好きだって言ってくれたときには、あんなに冷めてたのに、今度は途端にこんなふやけたティッシュみたいになっちゃうんだから」
「オメェの唄は悪かねぇ」と、彼は敏活に首を振って、はっきりと自分の思考が正常に戻りつつあると暗に訴えた。「村娘より下手だが、悪かねぇ。俺がはじめて日本のバァで聴いた歌声に似ている。ただ、それとこれとは関係ねぇ。俺は行かなきゃならねぇ……」
「殺されるわ」
 口先だけで互いを納得させられるわけがないのは明瞭だった。フッキは力づくでアゲハを振りほどきにかかった。しかし、今の彼にはそれすらも儘(まま)ならなかった。足に釘を打ったといった風に、顔面を歪めたきり硬直してしまった。アゲハの抱きしめた両腕が、より強く碇のように、フッキを繋ぎとめた。
「今のあたしは、確かに歌えない、何もできない女だわ……。それに、組織からも抜けた。でも、だからこそ、もう……あんたを庇えないのよ」
「死ぬのは構わんのさ。その先の孤独が、人間を竦(すく)み上がらせているだけさ」
「だったらあなたの場合、その死の先に、孤独が無いの? 何も怖くないの?」
「今が、恐ろしいんだ。特に、おまえといるときが……」
 夜風が二人を煽った。街路樹がざわめき、烏が群れをなして飛び去っていった。その後にやってきた清閑が、二人の声無き会話に耳を傾けた。中華街の、こんな表情は珍しい。通りの両翼から、切れかかった街灯が明滅を投げかけて、二人を舞台に上げたり下ろしたりしているみたいだった。
「どうしておなじ場所にいろと言ってくれないの。それが無理なら、中途半端に突き放したりなんかしないでよ……。余計に苦しくなるわ……」
「これがきっと、最期になる。それでも、オマエはそれで満足か」
 誰の口からも、嘆きの言葉すら出てこなかった。アゲハはその沈黙を余程嫌悪したようで、吐き棄てるように囁いた。
「ガセも宝物の化粧をする。世の習とは言ったものね」
 フッキの口調が、いがらんでざらついた。「董財閥の遺言状は幻なんかじゃない。正真正銘の血判状だ。今だって、どこぞの潮風に吹かれているに違いない」
「だから何よ。あなたにとって、相続書が結局のところ何の価値も無い宝物だってことなら、御伽話(おとぎばなし)もいいところじゃない」
「だからこそさ」と、彼は煙草を口からもぎ取り、それが過去の忌まわしい記憶でもあるかのように握り潰した。「俺に必要なのは、御伽話にも紛うほどの希望なのさ。おまえなら、この気持も、わかるはずだ――」
「どういう意味よ」
「もう一度、平穏だった、輝かしかった過去に戻りたいと思ったことはないのか」
「あたし、とっくに唄なんか歌えなくなってるってのに……。歌うの諦めたってのに、今更なんだってのよ」
「一人きり――、そんな詩だったな……」と、フッキは意味深長に天を仰いだ。まるでその先に娘を見定めているようだった。「諦めたってなら今すぐに、ここで歌ってみせてくれないか」
「どうしてよ。歌えないって言ってるじゃない」
「無様(ぶざま)でも歌えないことはない。だが、おまえは自分の唄が大切で、棄てきれずにいるからそんな声じゃ歌いたくないだけだ。自分の唄を、他人に奪われるのが我慢ならないのさ。自分の唄を、他人のほうが相応しく歌うのが気に入らない。諦めたふりして、一人で過去を抱き締めているだけなんじゃないのか」
 これは彼女の痛いところを突き刺したに違いない。表情はなし崩しに、ぼろぼろと乾いた泥のように崩れて心中を露呈しはじめた。
「わかったふりして……なによ……」
「歌ってみせてくれ。ここでおまえが歌えば、俺は埠頭に行かないと、誓ってやる。……だが、おまえは歌えない。自分の唄を抱きしめている限り、おまえは歌えない」
 アゲハがそっと嘲笑うと、もうずっと誰も立ち入らなかった過去に張った頑丈な蜘蛛の巣のように、悲しみがその顔中に張り付いた。
「いやよ、こんな声じゃ、下手っぴな唄しか歌えっこないじゃない。誰が歌うっていうのよ……」
「袖を分かつ時が来たのさ」と、フッキが捨て鉢に言いきった。「腕を解いてもらおうか」
「どうして……」
「結局、おまえも俺も、過去を棄てきれんでいるのさ――」
「あたしは歌わないのじゃない、歌えないのよ。勘違いしないで」
「歌いたくないだけさ。誤魔化すなよ」
 蔦のように絡みついたアゲハの細い腕が、そっと滑り落ちて解かれた。
「……良く聞いて、あたしの声。そして、今、その耳に焼き付けて。それが済んだら、もう二度とあたしに歌えなんて言わないで」
「言わねぇさ。言わねぇのは、それだけじゃなくなっても、勘弁してくれや」
「他人の歌声を聴いて、一観客の中に取り残されたあたしの気持を……あんたに何が分かるってのよ……」
「お互い様だ」
「確かめたかった……確かめたかったのよ……。今の、歌えなくなったあたしに何ができるのか……ただ何もできないことだけが、はっきりしたってわけね……」
 太陽の向きが入れ違った二つの影のように、アゲハとフッキはすれ違った。二人の間には同じ色、同じ香り、同じ強さの風が吹いていたが、風向きだけが違っていた。港の中の潮風は、いつだって巻いているのだ。
 二人は振り返りもせずに、互いの関係が迎える最後の瞬間を、及ばない自分たちの力のために、思いつく中で最も虚しい方法で終わらせようとしていた。さようならを言えば、それが何を意味するのかを二人は知っていた。
 わたしはフッキの姿を目で追い続けた。その歩調で進めば、埠頭まで何日かかるかも知れないような足取りで、夢のように薄い地面を踏みしめていく。砂の台地に伸びる微かな空っぽの轍(わだち)探るように、彼は足で自分の居場所を模索しているのだ。その轍の先に、わたしは人影があるのを見てとった。人影は、茫洋とするジャスミン畑に埋れた少女のようなかたちをしていたが、良く目を凝らすと、それは少女ではなく、一人の立派な女性だった。
 月明かりが射すが如く、うっすらと、牌楼の先に広がる暗がりに、女がいた。
 時折、車のヘッドライトが、彼女の背後でちらちらと注意を誘う。その光芒に浮かび上がるのは、丁玲だった。うら侘しげな眼差しが、全てを見透かしたように景色を映し、また痛ましいほどに力強かった。
 彼女がヒールを鳴らすと、闇が水のように舞った。その音に反応し、フッキは丁玲を振り仰いだ。彼の眸に宿った不退転の意思が戦慄(わなな)くのを、わたしは見て取った。同時に、わたしとアゲハが介入する余地は、この一瞬にして完全に埋め立てられてしまったのだった。
「もう止めましょう」と、丁玲は言った。「兄さん」
 再び夜風が吹いた。
「全て、実らないことばかりだわ。兄さんがあの日、家を出て行った時と、何も変わらない――」
 彼女が歩み寄ってくると、その姿は霊廟のぼんやりとした灯火に浮かび上がった。
 わたしはこの時を待っていたのかもしれない。何かをきっかけとして、これまでのフッキの行動を裏付けてくれる事実が露呈するのを。
 たとえフッキが、丁玲の愛煙している煙草の銘柄を知っていたとしても、何ら不思議なことではなかったのだ。
 遺産を引き継げる確信があったからこそ、フッキはわたしとはじめて出遭ったときから、董財閥の相続書を探し続けてきたのだ。
 この数年間決定的な理由も無くフッキを匿い続けてきた董克昌の心理にも、裏には血筋という並々ならぬ事情があったのだ。
 この一連の事件には、断線した箇所がいくつかあったが、明かりは少しづつ灯り始めている。
 しかしそれでもまだ、フッキの過去に伸びた暗いトンネルの向こう側は見えない。明かりを照らす人手が足りないのだ。しかもこの男は、わたしなどよりも遥かに真相に近く深いところにいる。暖炉の火にあたるみたいにして、ずっと真相の傍らでその移ろいゆく形を眺めつづけている。
「今更兄さんは無ぇだろう」と、フッキは半ば呆れたように額に手をやり嘆いた。「十年もほっぽらかしといて、今更なんだって……」
「出て行ったのは、兄さんの方からだわ。色々あったのは耳に届いているわよ。小鈴は元気なのね?」
 かつての日々の思い出を目の前に並べて端から倒してでもいくように、丁玲は穏やかかつ悲しげな口調だった。だが、そこに悲哀に暮れていただけの仮面は無く、今までに一度も見せたことが無い、朗らかで寂しげな素顔が広がっている。
 フッキは頷いた。「小鈴は今でも目が利かない。夏の明るい陽射しだとあいつの目は利かない。だからいつも、夕方と夜にだけ外へ出かけていたのを覚えているだろう。小さな世界に住んでいるのさ。俺達の小さな世界は、誰にも触れさせんぞ」
「董家へ帰って来なさい」彼女の声は透通っていたが、どこか朧げに頼りなくもあった。「お金ならいくらでもあるわ。相続書を手に入れるよりも手っ取り早く、兄さんと小鈴が助かるのよ」
「後何回、何を今更って科白を吐かせる気だ。それに、なぜ日本語で話す。俺たちゃ中国人だ、忘れたのか」
「ここが日本だから日本語を使うのよ。他にどんな理由が必要かしら」
「確かに、俺が小鈴を救うのに理由が必要ないように、手前がどこで何語を話そうが知ったことじゃない」
「本気で小鈴を救いたいのなら、帰ってきなさい。兄さんに何かあったら、悲しむのは小鈴なのだから」
 笑うことが自分にできる最後の抵抗だとでもいうかのように、フッキは声を立てて笑った。懐かしさと背中合わせの悲しみが、顔じゅうに彫り込まれていく。
「今更どの面下げて、俺が董財閥に戻れるってんだ。そっちは何の恩義があって俺に手を差し伸べようってんだ。救世(ぐせ)気取りか」
「そうね。董家から逃げといて、それでも財産だけは手に入れようとしている兄さんに、下げる面は予備だって残されていないわね。だけど――」
「俺は相手が女子供でも、自分の両親でも、兄弟でも躊躇しないぜ。皮肉を言っている暇があったら、そのヒールを放り出して逃げるのが得策だ」言いながらも思うざまに足を運び、威圧するかのごとく丁玲へにじり寄った。「俺はな、この仕組みは爺さんが俺にふっかけた挑戦状なんじゃないかって思っている。遺言状が二つに割られている。二つ揃えれば、一度でも過去に董家へ迎えられていた者は、財産の何分(なんぶ)かを頂ける。まさに俺のための仕組みだ」
「思いあがりよ。全ては私と克昌が生んだ禍の種でしかないのに……」
「運が俺に味方したのさ。だから、この同属争いに俺は参加した」
「やめて、そんな空っぽな勘違いは!」
「すげないことを言うなよ。どっちにしたって、俺は譲れねぇ」
 丁玲が声を震わせた。「陸(ルー)ですら、この十年間、あなたのことを覚えていたっていうのに、薄情なものなのね」
「俺よりあの召使の娘の方がよっぽど跡継ぎには相応しいかもしれんな」
「悪びれる気は無いけど……、どうやらわたしは、あなたの為に流す涙なんか一滴も持ちあわせていないようだわ」
 語調には追い詰められた人間がよく見せる自暴自棄な憤懣が潜んでいた。彼女はその感情を暴露しようとでもいうかのように、ハンドバッグから小さな光るものを持ち出した。
「道一と一緒ね。どうしても、何もかもが、私の腕の中からこぼれ落ちていくというのなら――」白い腕に、白い指先、そして白い切っ先が月夜に瞬いた。刃物の柄で、流れ損なった涙みたいに魔除けの翡翠がつるりと覗いた。「それならば、いっそ私が……」
「丁玲、お前に何ができる。息子一人育て損なったおまえに、俺の何を責められる。お前が、一体、俺に何を求められる」
 二人の会話は、これまで彼らと世界を共有して生きてきた者にしか分からない領域にまで侵食しはじめている。わたしとアゲハには、やはり立ち入る隙が無い。
「黙りなさい!」切っ先がフッキの眉間と寸でのところで睨みあった。「あなたに道一と私の何が分かるっていうの……。あなたは黙って家へ帰ってくればいいだけのことじゃない……」
 唇を引き結び、言葉尻を金きりながら絞りだす、涙を堪える姿はさめざめとしている。だが、わたしには二人の悲劇を理解することもできず、ただ目の当たりにすることしかできない。
「私は、あなたを死なせないわ……」
 その彼女の言い分と態度には、全く矛盾するところがある。意図するところは同じなのに、きっかけが一つ違うだけで、肉体と言葉が独立した手段を採ることで、こうまで違う過程を辿るところに、わたしはこの董道一事件から続く一連の悲劇に似た真髄のようなものを感じ取った。
 上を見ると、星々が空の高みにかかっていた。良いのは天気だけだった。
「そんな小さなナイフとお前の力じゃあ、蚊蜻蛉一匹たりとも殺せんよ。めでたい女だ――」
 フッキはナイフを木の葉を払うように躱(かわ)し、ゆっくりと街の出口へ差し掛かった。
「あなたも――私を見捨てようというのね……」
 丁玲は瞬きもせずに、悔恨の念を虚空に練り上げた。
「嘘だと言って……、兄さんがいなくなったことも……父さまが死んでしまうことも……道一が死んでしまったことも……。どれか一つでいいから、嘘であって……」
 フッキの姿が、牌楼の向こうへ霞んでいく。その人影の脇へ、突然、ワイルドベリーの年代物ロールスロイスが滑り込んできた。すぐにその単語は、記憶の中を駆け巡って表層意識へと上ってきた。小幡谷運輸物流共同組合のホワイトボード、それから先程、小幡谷の口から出た単語である。スモークド・グラスのために、運転席は覗けない。まるで迎えられたように、フッキは悠然と助手席に身体を潜り込ませた。
「……克昌(クーシャン)――」そう口にして呆然とする丁玲に、わたしは眼をやった。彼女は腰を折って、口元を覆ったまま地面に座り込んだところだった。「――克昌の、ロールスロイスだわ……」
 ロールスロイスのタイヤは地面を蹴って、闇を貪るように走り出した。
「追って!」と、機転を利かせたアゲハが、車の鍵(キー)を投げて寄越した。「キャデラック、朱雀門の辺りに駐めてあるわ! あたしはこの女の人を介抱するから!」
 わたしは代わりにマークⅡの鍵をアゲハへ抛った。「マークⅡは大桟橋客船のターミナルに駐めてある。何かあったら使いたまえ」
 言い終える前に朱雀門へ走り出した――梁道一に別れを告げた朱雀門だ。それなのに、中華街は妙に澄ました顔でわたしを見送った。

→NEXT
←BACK


INDEX  ■トップページ  ■小説置き場  ■当サイトについて  ■細々日記 「地下室のたき」  ■リンク   ≫メールを送る