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THE BLANK TRACK
( correction version )
by
Taki Sara
Copyright © 2007-2010 by
Taki Sara





   19

 キャデラックはいつぞやと同じように渓谷のコンドルのように疾走した。小糠雨にはじまった夕立が勢いを増し、日中の暑さに痛んで蚯蚓(みみず)腫れた白線を打ち付けている。ヘッドライトが水飛沫を掻き分けると、B突堤への案内板が頭上を過ぎ去っていった。
 韋代英(ウェイ・ダイイン)、かつての名を董代英(ドン・ダイイン)という名の男を探すというよりも、殺人犯を救うための大義名分を模索しているようなものだった。アゲハの言葉が知らぬ内にわたしの心へ投錨でもしていたのだろうか。十年以上も昔から愛娘を救うために中華街で佇むフッキの姿が、異物のように心情の水面で揺蕩(たゆた)っている。
 B突堤の甘いセキュリティチェックを掻い潜ると、煌々と雨粒が照り晒らされる貨物車両用の車道へ入った。ガントリークレーンがタンカーを抱きしめ、漣(さざなみ)が子守唄を歌い、埠頭はさながら闇夜の洪水に浮かぶ光の方舟である。
 突堤の先端で、わたしはキャディラックを乗り捨てた。
 不気味なほど、雨はすぐに上がった。雨雲が去りきりもしないのに、油っぽく浮いた満月が顔を覗かせている。
 わたしは、道標となりそうなこれまでのフッキの言動を思い出し、闇取引の一等地である倉庫街を真っ直ぐに目指すことにした。
 造船ドッグから毀れる明かりを頼りに、湿ったパレットに蹴躓(けつまづ)かないように注意を払いながら、賽(さい)の目状に切り分けられたコンテナ・ターミナルへと歩を進めていく。露の滴る工場への引込み線を跨ぎ、増水しつつある運河を辿り、滑りやすくなったスロープを転げ下りた。C突堤のかもめ町へ入ると、フォークリフトやトレーラーがナトリウム灯の下で眠っていた。たわわな蔦(つた)の絡まる老朽した数々の倉庫が、解体される時を待ちわびている。
 この膨大な障害物を抱える倉庫街で、男一人を探し出す作業は当然困難を極めるだろう。
 どの扉も部外者を拒絶するように固く閉ざされ、濡れて鏡の如く景色を照り返している。湿気た風が吹けば錆た鉄門が嘶(いなな)き、風が止めばこの世界は時間の概念を失ってしまった。
 わたしは倉庫街を彷徨った。
 他に打つ手は無かった。北へ上がっては西へ折れ、南に下っては東へ曲がり、行く先々で水溜りを蹴散らした。時間もまた同様に迷走しているにもかかわらず、この繰り返す景色は時の流れを感じさせない。
 腕時計を眺めると、蛍光塗装をされた長針と短針が手を取り合っていた。まるで十二時を過ぎて魔法が解けたとでもいうように、不意に時間の歯車が音をたてて回り始めた。
 エンジン音が三つ、それから靴音の波が、倉庫街の闇の中で一筋派手な軌跡を描いた。間も無く、銃声にも紛(まご)う程のけたたましい開錠の合図が続いたと思うと、ヘッドライトがサーチライトの如く闇をかき回した。無数の靴音がD埠頭側の巨大な倉庫へと吸い込まれていく。
 わたしは、その動乱の後を追った。
 最東端に位置する問題の倉庫の門扉は開いたままだった。重機械が出入りできるように三車線の舗装道路(ペーブメント)が入り口へ伸びている。ヘッドライトの光線が、倉庫の中から伸びて水溜りを染めていた。門扉の両端には二人、コンテナターミナルからの通用口にも三人の男が配備されている。夜目にだって、筋者であることは明らかだった。
 倉庫までは、道が続き、闇が続き、沈黙が続き、迷いが続いていた。
 やがてヘッドライトの明かりが落とされると、また波が堤防に触(さわ)るばかりの時間がやって来た。何を待っているのか自分でも分からないままに待ち続けていた。フッキが現れるのを待っているのか、筋者達が一悶着を起こしはじめるのを待っているのか、それとも朝が来るのを待っているのか。
 何がしかを待ちながら、肝心な約束をすっぽかしているような気がしていた。それを思い出した時、わたしは携帯電話を握り締めて、積載された材木と潅木帯の物翳に身体を押し込んでいた。照明が漏れないように注意を払い、守永へと繋げた。呼び出し音は聞こえなかった。
「広報から何か割れましたか?」
 声調には眠っていた気配が全く無く、ビューラーで反りすぎた睫みたいにぱっちりとしている。
「そっちは外れだった。それより君と路辺それから原との約束を思い出した。どうやら疑を要れられないくらいの一大事が起こりそうでね。本牧埠頭のD突堤にある倉庫街が面倒なことになっている」
 言葉尻に緊張を感じ取って、彼女は息を呑んだようだった。ささくれ立った、緊急事態を歓迎する警官特有の声になった。
「そこは、董道一殺害現場のすぐ近くですね……」
「最東端の倉庫にわたしはいる。君のローヴァーを飛ばせば十分もあれば着くだろう」
「事件の真相までもそう遠くはないと、言ってもらいたいのもです」
「和紙一枚ってところさ」
「所轄に応援を要請しましょう」
「事情が込み入ってる。一人身で来て欲しい。詳細は合流してからにしよう」
「諒解」
 電話が切れるのと同時に、また明かりが射しはじめた。門扉からではなく、倉庫内を抜けた先にある、二階建ての簡素なバラック小屋の連なる小窓からだった。ぼこぼこに凹んだ全面反射のサインボードには、東地区管理事務所とプリントされている。
 暫く眺めていたが、窓には人影も横切らず、灯りは単調に震え、白夜の月も同然に忘れ去られているようだった。
 守永を待つ間、倉庫をもう一周りして辺りの俯瞰図を頭に入れた。
 倉庫は入り口が北を向き、南には小窓が散りばめられ、東側は潮風に晒されて錆びている。ドラム缶や枕木の山が、質素な装飾品のように周囲を取り巻いていた。物翳に戻ってくるなり、余った時間を窓辺の監視にあてながら、書物庫に眠る古典全集のごとくじっとしていた。
 携帯電話機が着信の合図をしたとき、わたしは生欠伸を一つ堪(こら)えたところだった。
「ものものしい雰囲気ですね」守永の囁き声が、受話器のノイズの中に華を生んだ。
「重要参考人がもうすぐ姿を現すはずだ」わたしは答えた。
「予想を上回る緊迫状況です。彼らが立てこもるような事態になれば、特殊犯捜査係(SIT)にまで話が膨らむかもしれません」
「そうさせないためにここにいるんだ。まだ自宅にいるわけじゃないだろう?」
「もちろん倉庫街です。D突堤の海釣り公園にミニを駐めました。明かりの点いたバラック小屋が、ここから二区画(ブロック)ほど先に見えてます」
「良い間合いだ。序(ついで)にヤツらにお縄をかけちまっても文句は言わないことにする」
 電話の向こうで肩を竦めたかもしれない彼女に、合流するまでの道順を告げた。短い承諾の返答があって、電話は切れた。
 彼女とわたしとの間には倉庫を挟んで四区画(ブロック)あったが、夕立のせいで靄(もや)が立ち込め、漠然とした距離にしか感じられない。
 互いに距離を詰めていくと、やがて舗装道路(ペープメント)のずっと遠くで、霞んだ赤い点が胎動した。その力強い色彩は、闇と靄(もや)を裂いて二区画目まで来ると、ようやく守永だとはっきりした。守永自身よりも、赤い帽子が先に目に付くのだ。わたしは携帯電話の照明をモールス信号代わりに手招いた。彼女は、冷凍倉庫から排出される温風によたつきながら、わたしの傍らまで来ると腰を折って膝まづいた。
 わたしは言った。「手短に済ませよう」
「お願いします」と、言った彼女の口元で、乱れた呼吸が白く渦を巻いた。
 その気流に促されてふと視線を巡らせると、辺り一面が、忍び寄る夜霧に封されはじめていた。海面と大気の隙間に生まれた鬱蒼とした白い影が、シンボルタワーの示すF文字の点滅信号を瞬く間に覆っていく。熱帯夜のせいで空気が冷めず、潮の影響で海が冷えたせいだろう。昼間のカフェで眺めた朝刊で目に止めた濃霧警報を思い出した。
 守永の凛とした面持ちには、三日前には常だった戸惑いが混じっていた。立ち込めた霧が眸を曇らせたとでもいうように、彼女は目を擦った。
「無茶をする前の御一報、感謝します」と、彼女は言った。「この状況、やはり董道一事件と一連の関係があると見込んでよろしいのですね?」
 わたしは管理事務所の窓を振り仰いだ。「フッキが誘(おび)き出された。報復が刃傷沙汰にまで及べば、董道一事件に関する犠牲者が増える」
「この事件、はじまりと終りがどこまでも明確に捉えきれません。これ以上、一体どういった理由で何が起こるというのでしょう」
「今までも、そしてこれからも、董財閥の遺言状が絡むのは確かだ。フッキも、その遺言状を探し続けてきた一人なんだ」と、わたしはポケットの中でシガローネを握り締めた。さらに部分的に省略しながら説明を続けることにした。「十年以上も昔、フッキは中国本土の董財閥に属する人間だった。その事実があるだけで、遺言状を所持していれば董財閥の遺産を受け継げる可能性がある」
「フッキの狙いは、董財閥の遺産なのですか……」
「あの男は、愛娘を人質として蛇頭に捕らわれている。保護するには膨大な金額を掛けなければならないのだが、金を無心するための寄る辺は無く、一人でもがき苦しんでいる。そこに遺言状さ」
 わたしは自分の考えをまとめる意味でも、これまでのフッキの生い立ちを述べた。
「十年以上も昔、妻の瀾(ラン)と一緒になるために董家を飛び出したフッキは、娘が誕生し、妻と死別して以後、文無しだったに違いない。その弱みを、恐らく野盗や蛇頭どもに垂らしこまれたってのがシナリオだろう。日本への密航を余儀なくされたフッキは、短い滞在期間に返済しきれなかった密航費用のカタとして娘を抑えられた。彼女を救い出すために、今彼は、血眼になって董財閥の遺言状を追っている」
「では、この倉庫街での騒動も、遺言状争奪の成れの果てというわけですか……?」
「そうだとも限らない。これまでフッキに恨み抱えてきた中華街の筋者達だけによる報復の可能性が高い。中華街を偽の情報で蓋をして、遺言状をネタにフッキを誘き出し、寄って集って袋叩きにしようってハラだ」
「でも、それは……フッキの自業自得なのでは……」
「そのあたりの判断には、君の中で折り合いをつけたまえ」
 守永の視線がわたしの顔中で彷徨った。そこに、自分と他人の捕らえる外界の間に生まれた差異を埋めてくれる何かを見つけ出そうとでもしているかのようだった。
「だが少なくとも、わたしはこれから彼を助け出さなければならない。仕事なんだ」
 探るような沈黙が続いた。だが既にこの時、彼女に探られる対象はわたしではなく、フッキであった。
「わかりました」と、守永は胸に手を当て、唇を噛み締めた。「協力します。密入国や自己防衛に欠ける意識などに目がいきがちですが、それを責めることは誰にだってできるんです。そんな誰にだってできることを、私がする必要はありません」
 甘さにも似た彼女の優しさに再び触れられたことが、わたしは心地よかった。同時に、この小さな理想主義者の発言が、なぜ独裁的にもならぬものかと不思議にも感じた。だからこそか、わたしはもう一つ先の事実を開陳し、彼女の決意に釘を打っておくことに決めた。
「だが、それだけの理由で君を呼び付けたわけじゃない」
「どういう意味ですか」
 彼女の目の端から警戒の色が滲んできて、優しさを塗りつぶした。
「四日前の本牧埠頭B突堤の造船ドッグに話は遡る」と、わたしは自分でも驚くほど滞りなく言葉を積み上げた。「あの日の深夜、フッキ――即ち韋代英(ウェイ・ダイイン)は、董道一殺害現場にいたんだ。それは偶然でもなく、彼を陥れようとした誰かの陰謀のせいでもなかった」
 わたしが何を言わんとしているのか咄嗟に察して、彼女は膝まづいた脚を置き換え、膝小僧を掌で払った。顎をつたった汗が滴って、その膝小僧を濡らした。
「かつての兄であり、雇用者でもあり、後ろ盾でもある男――董克昌からの依頼だった。フッキは、董道一を殺害した事実をわたしに自供した。つい先日の話しだ」
 警官ならば、この展開は喜ぶべきものだった。事実、彼女にとっても待望の真相であったはずである。しかし、感情の迷走ぶりに困惑したような表情が垣間見えただけだった。
「誰かを庇うための虚言ではないのですか」
 これはもはや弁護といっても過言でないほどの主張である。
「その線は薄そうだ」と、わたしは答えた。「犯行時間から場所、それから手段、他の細かい状況に至るまで、彼は隈なく述べてみせた。その時の心理、身体の動き、周囲の些細な物音、そんなことまで告白してみせたんだ」
「それが事実だというならば、董克昌が董道一を密殺するように命じた動機を、フッキは述べましたか?」
「フッキの口からは聞けなかった。請負人のみという役柄だった彼に、そんな余計な情報を吹き込む必要はなかったのだろう。だがそれでも、この一連の事件の根源には、董家の遺言状が絡んでいると予測しても、もはや危険は少ないだろう」
「董克昌を捜査資料で洗っても、殺人を教唆するような人物には思えませんでした……」
「だが、真っ白ってわけでもないはずさ」
「しかしそれにしても、どうして今頃になって、フッキはそれほどの事実をコテツさんに……?」
「これ以上詳しくはまた後日、正式な形で行わないかい」と、わたしは管理事務所の窓辺を見上げた。灯りが、いつの間にか消えていたのだ。「こっちが優先だ」
 いよいよ風が凪いで、夜光虫がびらびらと照らす夜が霞み、早足に霧が覆いかぶさってきていた。どこからか、中心のない月明かりが降り注いでいる。
 守永は黙って問題の方角を注視すると、まだ胃の腑で蟠(わだかま)る質問を、全て一時的に飲み込むことに妥協したようである。
「君はどうする? わたしは潜入を試みてみる」
「このままコテツさんに付き合います」と、彼女は唇を引き結んだ。「フッキの自供にしても、コテツさんの情報提供にしても、裏づけがなさ過ぎます。どうやら聞き分けの無い原先輩のような眠れる刑事魂が、このままでは沈静しそうにないんです」
 わたしは特に頷くこともせずに、忍び足でコンテナの外壁を手探りながら倉庫の入り口へと移動した。背後には微かな守永の気配がついて来た。
 暗がりの中では、まだ二人の筋者達が、倉庫の門扉で頑張っていた。
 男達の匂い、微かな煙草の匂い、港の匂い、あらわせばきりのない情景が、突然の金切り音で真っ二つに引き裂かれた。ドラム缶を叩き割ったような破裂音が倉庫内から何度か繰り返され、ほとんど同時に、裏手の管理事務所にまた明かりが灯った。その黄ばんだ光は、誰かに助けを求めているように明滅した。咄嗟のことだったが、わたしはこの時、築き上げてきたものが一瞬にして崩落していくような焦燥を味わった。
「とんだヘマをやらかしたかもしれない」
 朽ちた非常用階段の影に身を押し込んで、守永の腕を捕った。身を寄せた彼女の息が、わたしの頬にかかった。
「どうやらフッキの方が一枚上手だったようだ」
「どういうことです?」
「筋者の連中は取引の時間よりも早く来て身を隠し、フッキを待ち伏せているつもりになっていた。だが、フッキにはお見通しだった」
「フッキが逆に彼らを待ち伏せていた、ということですか?」
 守永は身を引いて訊ねた。
「ご名答。フッキだって、そう何度も偽(がせ)の餌(ネタ)に釣られるほどの頓馬じゃない。のこのこと姿を現せば、約束の品を受け取る前に袋叩きにされる。だから予(あらかじ)め身を潜めて隙を伺い、頭(かしら)クラスを人質にでもとった……」
「フッキからすれば、それで董財閥の遺言状と引き換えにできれば御の字です」
「だが、連中は董財閥の遺言状など初手(はな)から持っていない。交渉は暗礁に乗り上げるに決まっているんだ」
 守永は、裏手の管理事務所と筋者の構える入り口を忙しなく見比べた。
「私の出番ではないでしょうか」と、彼女は心の住人に確かめるように訊いた。「入り口の二人、任せてもらえないでしょうか?」
 わたしにそれを止める理由は無かった。決意めいた語気が、顎を押してきた。
「彼らを誘導しますので、コテツさんはその隙に倉庫の中へ」
「女刑事が一人でやって来たなんて特殊な触込みは、倉庫内の者の注意も惹く。入り口の二人だけを上手く誘き出せるだろうか」
「やってみます」
「気をつけて――」
 潜入劇のはじまりとでも括ろうか、わたしの労いと同時に守永は疾走し、外灯の明かりの降り注ぐ拓けた路上に身を晒した。その靴音と人影に、筋者達が目を剥いて振り返った。立ち居振る舞いは日本人のものだった。
 霧の塊が横切って、束の間三人の姿を覆い隠した。潮風が横薙(な)ぐと霧は拓け、守永が警察手帳をぶつけるように突きつける情景が広がった。
「そこの二人、よろしいですか?」
 こんな辺鄙(へんぴ)な土地で職務質問とは珍妙な光景である。ダブル前のスーツを着用した男達が、訊き返したとも相槌ともとれる唸り声を発した。
「女かぁ?」と、男が油を撫で付けた頭に月明かりを照り返しながら赤らんだ鼻腔を広げた。
「中華街署刑事課の守永といいます」と、手帳をヒップポケットに捻じ込んだ。「こんな時間、こんな場所で申し訳ありませんが、お時間頂けないでしょうか」
「おいおい! なんだよ! ワケわからんって! 一体なんだってんだい!?」
 人を喰ったような態度で、男はわざとらしく倉庫内に届くような大声で喚きたてた。しかし、目だけは刺すように守永に向けられている。
「騒がないで! それ以上大声を出すと、署に同行願いますよ」
「いきなり何だってんだ! 強迫じゃねぇか! そもそもオメェさん本物かよ?」
「署に行きますか? 警告はしました」厳しく恫喝した守永が帯革を弾くと、暗闇の中で、連なった獣の眸のような手錠が垂れ下がった。
「なんだってんだい――わかった、わかったって……。落ち着きましょうや……よう判らんが穏便に済ませましょう」
「では、時間が惜しいでの埠頭を出ましょう。車を出します、付いてきて下さい」
「いきなり任意同行!?」と、男が目を剥いた。「ワケわからんて!」
「何か不都合がありますか?」
「不都合って……わかってんのと違いますか? 俺らだって、用件あってここにいるんです。明日にしましょうや、明日に。そう焦ったって碌なことありませんぜ。別に逃げたりしません。待ってろ言われりゃ明朝まで一歩も動かずにいます。だが、今晩限りはここから一歩も退けません」
「この建物の中で起こっている出来事には目を瞑ろうと、遠まわしに述べていることすらも解からないわけじゃないでしょう」
 守永が素早く腕を振り下ろすと、特殊警棒が空を切って嘶(いなな)いた。すぐに畳み直し、もう一度帯革へ収めた。
「こうして独立する倉庫は、スポットの盗品取引などの場になりやすい。最近ではノビ師よりも外国人グループが盗み出した現物を確認しながら日本人組織が買い取り、後で指定講座に現金が振り込まれる方法が主流なようです」
「何が言いたいんですか」筋者が忌々しそうに吐き出した。
「そこまで言わせたいんですか?」
 舌鼓が返って来た。「職質にしてくだせぇよ、職質に。窃盗団にされちゃたまんねぇ。別に阿漕(あこぎ)なことするつもりはねぇんですから」
「あなたたちが、礼状なんてなくても強制捜査に踏み切れる場所にいるってことを、忘れない方がいい。さぁ、時間が無い」
「勘弁してくだせぇ。任意同行じゃあ記録が残っちまう」男達の顔から血の気が徐々に薄れていく。
「記録には残らないように配慮します。交換条件といきましょう」
 極道にとっての素質が義侠精神よりも金の流れる場所を見極める勘だというこのご時世なのだ。腕力よりも知能を、度胸よりも機器察知能力を、組織よりも自分を大切に考えたとしても不思議なことじゃない。ここにいるのは、バブル期の義侠精神に溢れたやくざ者でもなければ、異国の地で外敵に備えて連帯したマフィアでもない、崩壊の途を辿っているような小さな港湾暴力団の構成員にすぎないのだ。
「一人にしてくだせぇ」と、男が両手を広げて嘆願した。「俺だけが行ます。もう一人はここに残させましょう」
 相手の言い分が入り込む余地も無いほど頑(かたく)なに首を横に振ると、守永が歩き出した。
「せめて、中の奴らに一報しましょうや、な」
 靴音だけが答えた。目配せあった筋者達だったが、諦めると二人三脚で揃って守永の背中を追った。三人分の足音が、巻くように彼方此方(あちこち)へ反響しながら、夜霧に溶けていった。
 わたしは倉庫の門扉まで駆け抜け、両腕で抉(こじ)開けた。扉を割って、埃っぽい煤けた空気が、汗に湿った前髪を吹き上げてくる。
 暗く高い天上だった。朽ちた木製のパレットが山積まれて両脇でそそり立ち、まるでスノコの霊園にでもやって来たようである。奥には、蛆(うじ)が湧いて腐敗臭を放つ漁業組合の船曳網や、定置網の束、さらには使命を終えてようやく眠ることを許された小さな曳船(タグボート)が収納されていた。
 わたしは鼻を摘まみ、裾(すそ)と袖を汚しながら、管理事務所へと通じる裏口を捜した。
 闇の中に、車が三台放置されていた。メルセデスが二台に、董克昌のロールスロイスが一台である。察するところ、ナンバーを千三百番台に統一した二台のメルセデスは同じ組織の所有物だろう。急いでペンライトで車内を調べたが、小物一つ見当たらなかったため、三台のナンバーだけは手帳に書き留めておいた。まだ調べ足りなかったが、フッキが気がかりだった。ペンライトの明かりを消し、わたしは奥へと進んだ。
 とっつきには、ステンレス製の梯子が下ろされていた。もはや他に道は見当たらず、わたしは梯子に手を掛けた。粟立つような、ぬらりとしたグリスのような液体が指に付着した。確かめるまでも無く、それは血液だった。
 わたしは、念のために手帳の一頁(ページ)を破き、それで血液を採取すると、折りたたんでポケットに保管した。
 それから、尻込みを堪えながら梯子を上りきった。フロアを見下ろす形で回廊が奔り、防火扉が目の前でそそり立っている。その扉を潜ると、管理事務所の二階へ出た。
 管理事務所といっても、鉄骨と外壁は剥き出しで、造りは先程の倉庫とほとんど変わらず、荒涼と拓けていた。
 足音を忍ばせて階段を下り、一階のモルタルを踏むと、声が反響してきた。
「コイツはなかなか怖いもの知らずじゃないか」
 芯の抜けたトイレットペーパーみたいな声だった。階段の下に部屋があり、声はそこから響いていた。
「なんでも故郷の村が飢饉に襲われたときに、殺しをしたらしい」
 ドゥイドゥイという相槌が答えた。何か中国語の説明らしき科白が付け加えられた。
「董克昌にとって都合の良い存在だったそうだ」と、また日本語だった。「人を殺すのに他人を使えば、それだけで弱みを一つ作ることになる。だが、董克昌にとって、この男は自分でもなければ他人でもない。董道一を片付けるのには一番打ってつけの存在だったと、この中国人は言っている」
 ふうんという眠たげな嘆息が聞こえた。
 会話から察せられる内容は、この部屋にはフッキがいる一方で、董克昌はいないということだった。わたしは一旦、さらに奥を探ってみることにした。
 もう一つ部屋があった。埃がドレープを作った、完全に機能していない排気装置があって、ドア枠から漏れる明かりを遮っていたのだった。その部屋からも、人の気配が伝わってきたが、会話は聞こえなかった。
 わたしは路辺の箴言にしたがって、ここ数日、董克昌とは別のアプローチを模索してきた。だが、今扉一枚を隔ててその向こうで息を潜めているのは、かつて接触を図って来たその董克昌だと名乗る男だという気がする。ベテラン刑事の忠告は強(あなが)ち御座なりにできないのだ。
 手前か奥か、どちらかの扉を選ばねばなるまい。
 順当に考えれば、奥の扉を開くべきだった。真相はいつだって、待ってはくれないのだ。
 しかしドアノブに手を掛けたとき、階段下の部屋から、金切るような破裂音がした。倉庫の外で耳にした音と相違なかった。そして、また声が聞こえた。
「このままだと死ぬな。噂どおり、暗がりにするだけで随分と大人しくなるもんだから、仕事が楽に運んだよ」
「人を殺しても、事件にさせない方法ってのはあるんだって。しかもな、俺よりもコイツの方が詳しいんだ。そうなんじゃないのかよ、え?」
 複数の卑屈な笑いが諂(へつら)うように連なった。ドラム缶が裂けるような破裂音が、また起こった。
「オマエ」と、声が言った。「今までどうやって密殺なんて上手いことやってきたのか、吐いてみせろよ」
「そこへ行きたいのか」と、今度はフッキの声だった。「そこに行って、わざわざ俺の手間省いてくれようってのか」
 声の数からして、部屋に詰めているのはせいぜい四人といったところだろう。日本人が二人に、中国人が一人、それからフッキである。
「小癪(こしゃく)なチャイニーズだな! おい!」と、まだ幼さの残る声が叫んだ。
 フッキがそれに答えた。「工業地域(コンビナート)の一画にある産業廃棄物処理場さ。阿鼻地獄みてぇに底の見えない、この世の果てまで続いていそうな深い廃棄物処理施設の穴がある。遺体なんぞ、そこへ放り投げちまえば、まず見つからんな。他にもやり方はある」
「くだらねぇ、もっと簡単な方法だってあるんだよ。俺たちゃ潮目も航路も影響しない海域を知ってるんだぜ。まず屍体は浮いてこねぇんだ」
「オマエを黙らすには、もっと簡単な方法だってある」
 空気が震えて、怒鳴り声が耳を打った。一方的な暴行ではなく、互角の殴り合いがはじまったと五感で察した。
 わたしは階段下の扉へと身体ごとぶつかって、部屋の内へと転がり込んだ。一人目は、それで怯んだ。開けたドアの角に鼻柱を打ちつけて、液体塗料の溜まる床で呻きながら転がっていた。
 室内は、かつて船舶の塗装に使われていた錆び止めと塗料(ペンキ)の一斗(ガロン)缶が堆く積まれ、そのいくつかが床へ中身を吐き出していた。そこに転げる若者を含めて、やはりフッキの他に三人の男がいたが、蛍光灯の明かりが眩しくて顔は判別できない。部屋の片隅で、両腕に手錠をぶら下げたフッキが壁に背を持たせている。有機溶剤の臭いが、鼻を突き抜けて脳内で暴れまわった。
「なんだぁコイツ!」
 木刀。喉に伸びてくる木目を、わたしは転がって避けた。塗料があたりに飛び散る。驚くよりも先に手が出る、相手もさすがにその辺りは百戦錬磨の筋者らしく振舞った。
 立ち上がると、目の前にサングラスを掛けていない腫れたフッキの面があった。
「逃げるぞ」
「まだだ。遺言状を手に入れていない」と、火の消えてしまった葉巻みたいに、深く窪んだ虚ろな表情で彼が遮った。
 わたしは彼の手を取った。「そんなものは、こんなところにありはしないんだ」
 言い終わらない内に、背中に衝撃が来た。前のめりになったわたしの両腕は、地面を受け止めずに塗料の上を滑った。顎が弾み、反動で天上を見上げた。誰かの崩した一斗缶の雨が降ってくる。避けるために、塗料の海を溺れるように這った。
「そのまま立ち上がるな!」
 フッキの声が横薙(よこなぎ)に聞こえた。直後、頭上を越えて中国人らしき筋者が一斗缶の山に突っ込み、人事不省に陥った。束の間だが立ち上がる余裕が生まれた。膝を伸ばすと、まだ年嵩の日本人が蛍光灯の下で薄ら笑いを浮かべていた。
 鼻柱をドアに打ちつけた若造も立ち会った。一見しただけで極道と判る時代遅れのやくざ者達だった。年嵩の男は、呑んだ匕首(ヤッパ)を抜き身にすると蛍光灯の光に晒した。アーモンドみたいにずんぐりした体型だった。一方、木刀を握った若造は枯れ枝みたにやせぎすで、握り締めた獲物は腕の延長みたいだった。
 わたしの肩にフッキの肩が触れた。彼の眸は、目の前に散らばる情報の扱いに手を拱いていた。
「見えん。目の前に的(まと)を置いてくれ、それで充分だ」
 わたしは前に出て、手の平で塗料を掬(すく)うと、身形(みなり)に金を掛けていそうな年嵩の男にぶちまけた。スーツの汚れを気にするような命のやり取りなど在りはしない。それにも関わらず、二人とも身を翻(ひるがえ)して、執拗に顔を顰(しか)めた。靴を諦め、若いのを先陣に切り込んできた。塗料に足をとられた隙を逃さずに、一斗缶を抱えて栓を抜いた。木刀が振りあがる音と同時に、一斗缶を頭上に翳(かざ)す。金切るような不協和音が部屋を割き、有機溶剤(トルエン)を含む塗料が血液よりも生々しく吐き出て若造の頭上に降りかかった。瞼の塗料を拭おうと躍起になった隙に、足を絡ませて、フッキへ預けるように突き飛ばした。息つく暇もなく、脇腹がカッと熱くなった。その熱が体中を駆け巡って脳内を沸騰させる。無意識に膝が折れた。刃物が脇腹を掠めたのだ。立ち上がり、背中をフッキに預けた。若者は既に片付けられていた。
「電気を消せ」と、突然訛(なま)りの強くて聞き取り難い日本語が聞こえた。中国人の筋者が、もう意識を取り戻していた。「これでフッキは役立たずだ。この野朗、暗がりじゃないと目が利かないくせに、暗がりになると途端に何もできないはずだ」
「承知してる」と、草臥れた声で年嵩の男が答えた。
 電気が消され、有機溶剤(トルエン)が溶け込んだような闇がやって来た。
「おい」と、男が闇の中で言った。「てめぇは何者だ?」
 誰も何も答えなかったので、「わたしのことか」と、訊きかえした。
「他に誰がいる」
「君がいる。寝転んだ君の仲間もいる」
「いちいち癇に障ることを言う野朗だ」
「それ以外のやり方を知らないんだ。いつも同じやり方ばかりするもんで、散々呆(あき)れられている」
「フッキを寄越せ。テメェは見逃してやってもいい」
「ロールスロイスの持ち主に会わせてくれたら考えてやってもいい」
「フッキを寄越すのなら考えてやってもいい」
「脅し文句にしては気が利かないな」
「ハリウッド風に、入れ歯まで吐き出させてやろうか、とでも言えば満足か」
 微かに笑いを含んだ言い草だった。それも自己満足の笑いだった。わたしも意味の無い冷笑を返した。
「やっぱり、テメェが何者か知りたくなった」と、彼は言った。「下手に広域(・・)の人間には手を出したくはないからな」
「心配するな。わたしは一人身だ。わたしを殺したって、警察ですらまともに捜査をしてくれるのか怪しいものだ」
「自分の身をそう追い込むなよ」
「君もそう自分を安く見せようと必死になるなよ」
 水の爆ぜる音が近づいてきた。右に左に身体を動かして、目が再び闇に慣れるまで、的を絞られぬようにした。すぐ傍らで、一斗缶が転げ落ちる音がした。間合いが悪い、その上相手にのまれていた。振り出しに戻そうと駆け出したとき、左肩に熱い切っ先が突き抜けていくのを感じた。逃げ出した。音が追ってきた。蹴躓(つまづ)いた。上から重く角ばったものが降ってくる。が、そのおかげで追い討ちをやり過ごせた。
 少しづつ、目が慣れてきている。曇った視界の中で、近づいて来る男と、別の男がフッキの喉元に刃物を突きつけている濁った情景が広がった。
 相手もわたしの姿を見定めている。匕首(ヤッパ)の握り具合を確かめると、諦めたように投げ捨てた。男の手は血か塗料に染まっていて、そのせいで匕首(ヤッパ)を扱い損ねることを危惧したのかもしれない。
 わたしは脇腹と左肩を触った。流れ出ているのが、血液なのか塗料なのか、判断はつかなかった。有機溶剤(トルエン)の刺激臭のせいで、もうとっくに頭は伸びきったバネだった。疲れ切った心臓に鞭を入れ、立ち上がると、吐き気がした。これも血圧が下がったせいなのか有機溶剤(トルエン)の幻覚作用のせいなのか判らない。ただ確かに言えることは、相手も同じようにこの環境に苛まれていることだった。その上、相手は武器を棄てたのだ。わたしは心の武器を握り直した。飛ぶように走った。そのつもりだったが、わたしは紐のついた蠅(はえ)だった。拳に頬骨を砕かれた。皮肉を言われた美女の微笑のように固いパンチだった。わたしの身体は深い井戸に落ちていくようだった。雨の日のアスファルトに投げ出されたようだった。井戸の底には有機溶剤(トルエン)の地下水脈があり、雨ですらも一滴づつが有機溶剤(トルエン)だった。壁が床になり、床が壁になって、天上も壁になった。わたしが横たわったまま壁を歩くと、壁が倒れて、隣の部屋へ転がった。隣の部屋には深い穴が開いていた。空のような、深い穴だった。そこへ落ちれば、何もかもが終わると本能が告げていた。しかし、わたしはそこへ落ちていった。予想通り、穴はどこまでも続いていた。終りがやってくる。終わりがやってくることで、はじめてわたしは、この事件のはじまりを意識した――。

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