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THE BLANK TRACK
by
Taki Sara
Copyright © 2007-2014
 by
Taki Sara



   22


 浦東(プートン)国際空港の入国審査係員は、衝立の僅かな隙間からパスポートを滑らせて寄越すと、早口に何事かを繰り、問題ないというような手振りを見せた。
 深夜にもかかわらず、旅客機からそぞろ降りた乗客たちは、荷物を受取るターンテーブルへと、ターミナルを足取り軽やかに進んでいく。
 わたしは、手荷物だけを整えるとその隊列から逃れ、到着ロビーで二人を待った。
 空港内ではまるで扇風機代わりに空調機が容赦なく風を送っており、ひび割れるような塩気だけを残して、頬から火照りと水気を盗み去っていく。
 時折、回転式の自動扉に外から強風が吹きつけたかと思うと隙間風が入り、湿気と同時に香辛料の匂いがピリッと鼻先に触れるのだった。
 どこを見渡しても東洋人ばかりが目に付くが、日本人も中国人も服装を除けば区別がつかない。東南アジア系の肌の色も見えるが、それが香港の人間だと言われれば合点しただろう。
 珍しくブロンド髪が三人続いて、そのすぐ後方から赤い野球帽がやってきた。
「伏儀の姿がまだ見えない」と、わたしは野球帽の庇の向こうでしなだれているだろう泣きっ面に声をかけた。
「あの体躯じゃコインロッカーよりも目立つんだ。まだ着いていないのかもしれない」
 庇が鼻面を弾いた。すると、相変わらずのからりとした初夏を思わせる眼差しが眼窩のなかでくるりと円を描いて見上げてきた。
「夕食、どうしましょう」
 彼女らしい、海を跨いでの第一声だった。
「董財閥の療養所につくまでに済ませておきたい。車内でいいかね。運転は伏儀の連れにまかせておける」
 わたし達は、所持している少ない人民元で中華千巻と龍井茶を買い込んで、各人のトランクケースとバックパックに詰めた。
 到着ロビーの出入り口にまで戻ってくると、伏儀が待っていた。静脈が張り巡らさたように蒼白なフロアに、無配慮な塩梅で真紅の看板が並べられており、待ちくたびれたと言わんばかりの様子でそこへ背を持たせていた。看板に“小心地滑”と記され、それがわたしには皮肉に思えるのだった。
「自慢の愛車を用意させてもらいましたよ」と、伏儀はもったいぶった調子で掌を持ち上げ、中国メーカーのエンブレムが貼り付けられた鍵を指に吊るして示した。
「トランスピットに乗ってもらって、上海で待ち合わせのが早いが、この国が初めての御二人へ、それだとあんまりにも失礼が過ぎるじゃありませんかい」
 そういう本人の印象は、日本にいたときと少しも変わらず目立つことこの上なかった。それが、あんまりにも失礼が過ぎるとは、わたしも守永も言わなかった。
「日本に長く居すぎて、君が逆に驚かされたのを隠す必要はないんだぜ」
「乗り方ぐらい知ってまさぁ。俺は生粋の中国人ですからね」
 言いながら、守永に向けて坊主頭が会釈した。足りないのは、甚兵衛(じんべえ)と草履だけだった。
「中国人の心得は?」
「寿司と富士山さ」と、伏羲はサングラスが浮くほどに眉間に皺を寄せた。
「白状しますよ。どうせレンタカーだ。道則だって、運転手任せだ」
 わたし達はターミナルから表へ出た。
 中国の空気は湿っぽかった。スモッグだか、香辛料だかの刺激が、呼吸器に突き刺さり肺を締め上げる。胸の中で悶絶する間もなく、目の前を巡るロータリーへ、年代物のヂーゼルエンジンを積んででもいるような震えるワゴンが一台、路上駐車の列に割り込んできた。それは二人掛け席に尻を押し込む三人目という構図に他ならなかった。
 運転席では、砂色のサファリジャケットを着けた、四十がらみの歳の男がハンドルを握っていた。日焼けはしているが、腹まわりについた余計な肉はシートベルトを喰い、馬油を撫でつけ過ぎた頭髪は四川料理の残り皿みたいに光った。うらびれた外見から判断するところ、現地ツアー添乗員が副業がてらに商っているハイヤーの運転手でも、伏儀は雇ったらしかった。
 わたし達は荷物をトランクに積み、収まりきらなかった一部を天板の荷台に括り付けると、埃っぽい後部座席に尻を滑らせた。伏儀が助手席で、フロントガラスよりもずっと遠くにある何かを指差し、案内人の肩を叩くと、景色が流れ始めた。
 わたし達は、蘇州を越えた先にあるという董財閥の療養所に向かいハイウェイを走りはじめた。

  車は速度を増しながら深夜のハイウェイに二環の明かりを投げていた。道路幅がだらしない程に広かった。ヘッドライトの明かりの輪に、路肩の白線が収まりきらないだけでなく、それが四車線もあるのだった。街路灯は手ぬかりなく整備されており、臍の緒が横たわるがごとく、ドーム状に広がる上海の街明りへと、光の帯が伸びていた。そしてその臍の緒は、確かに光の集まる場所まで届いているのだった。
 光の色だけは、どこへ来ても、どこまで行っても、同じだった。
「蘇州までは半日ですが、療養所までは一日がかりを覚悟しておくべきですね」と、伏儀が口蓋で欠伸ともつれた。
「このまま運河に沿ってあの明かりを越えます。そうすると郊外ですよ。あとは、渋滞はあってもサービスエリアなんてものはねぇので、上海で支度をぬかってはいかんですね」
「道中、何があるかなんて分からない。その全てに備えていたんじゃあ一生を終えてしまう」
「お嬢ちゃんも、いいのか」
 街路のナトリウム灯を映すサングラスが、僅かに紅らんだように染まった。
「平気ですよ」と、守永は微動だにせずに夜の景色へ呟いた。
「ただ、そろそろ話してもらえればなって、思っているんです」
 言いぐさには、空港での食事を巡るやり取りなどとうに忘れたとでも言うような頑なさがあり、それが女性特有のものなのか、刑事特有のものかは区別がつかない。ただ今度の明言は、わたしに向けられた示談の合図でもあった。
「梁道一事件の真相を掴むためだというのは承知しています」と、彼女は続けた。
「しかしなぜ、いいえ、何を追って、この場所へやって来たのでしょうか」
「“梁道一事件”か……コテツの旦那。お嬢ちゃんには、どこまで聞かせてあるっていうんですか」
 守永と伏儀が諍いを起こそうという姿勢がないのを確かめ、わたしは口を割った。原永の一件がある以上、そして二人が刑事と殺人者という関係である以上、慎重でありすぎる必要はない。
「僕がこれから話す二つの出来事以外は、君たち二人が知っている情報に大差はないだろう。本牧埠頭の一件で、全てが明るみに出た」
 伏儀が道一を殺めた事実に、守永は原流の捜査方法を持ち込むことで、自分の心との決着をつけている。わたしにとって憂いがあるとするならば、中国に滞在している間、二人の関係が悪化することに他ならない。
 二人は沈黙でもって先を促した。
「ではその二つの事実のうちの一つ目だ」と、わたしは続けた。
「丁玲が帰った。伏儀とアゲハが騒ぎを起こしてから、中華街が俄かに混乱し始めたのは知っているだろう。その原因に帰するのが、董克昌と伏儀の失踪だ。伏儀の隠れ蓑に覆われていたはずの眠れる獅子が、伏儀の離反だけでなく失踪後になっても依然と眠り続けている。董克昌は確かに引きこもっていたが、常に何らかの形で人との関わりは保ち続けていたはずだ。ところがそれも絶たれた。完全に雲隠れした董克昌を、警察は梁道一事件の重要参考人としていよいよ指名手配をかけた」
「状況証拠の線からですね。同僚たちから、非公式に聞きました」
「同時に、道一と克昌を結びつけていた、警察も小幡谷運輸物流共同組合も知らない、最も事情を知るわたしの依頼人は、火の粉を振り払うつもりか、ホテルの宿泊者名簿から名前を消した。最後に会ったのは中華街で、その時は伏羲もアゲハもいた。董克昌のロールスロイスが姿を見せた晩だ」
「なぜ、彼女が董財閥の療養所にいると?」
「その質問を裏付けるに足りるような十分な証拠を、実はわたしは持ち合わせていない。しかし、丁玲と最後に出会った晩、彼女は道一の死を受け入れはじめ、伏儀の生き様を知ったのをきっかけに、まだ訪れてもいない頭領の死を思い煩うのを止め、現実から何かを得ようと抗い始めたように見えた。そして自分にできることが、死に床に伏せる頭領の傍に寄り添うことなのだと、覚悟を決めたようだった」
「精神医学的に言えば、丁玲の心理は順当な運びを見せていますな」
「伏儀の言うとおりだ――」
 そこでわたしは言葉を詰まらせた。いらぬ言葉が、心の虚を衝いて飛び出し、場の間柄を切り刻まぬよう、丁寧に言葉を探した。
「丁玲は僕の依頼人だが、未だに秘密主義者遊び(ごっこ)に興じている。遺書の件にしかり、そのほか一切のことも知っていてなお、何も語ろうとしない。彼女の常套句はこうだ。“事件には関係がないから”」
 伏儀はうつむいたとも頷いたともとれるように首を下げ、額から後頭部にかけて撫でまわした。
「丁玲のする判断じゃあ確かにそうなのかもしれねぇですが、事実を決めるのは誰でもねぇんだ……」
「では、僕たちが中国へ来た二つ目の理由を話してもいいかい」
「頼む」
「“梁道一”君から、招待状が届いた」
「悪い冗談が過ぎるんじゃねぇですか」
「僕の事務所のポストに、君が帰国して間もなく、二百人の福沢諭吉を侍らせて投函されていた。二百万では、人生を賭けたにしては拍子抜けするほどの少額だが、一晩の報酬と考えれば身に余るものだ」
「手紙はどういう類のものだったんですかい」
「僕宛に、梁道一から、日本語で書かれていた。それも、上等の便箋と万年筆を使って。直筆の署名まであった。ただし、財閥の遺書はなかった。どれ程信頼に足りるかは分からない」
「道一のヤツ、いつの間にそんなもの書いてやがったんだ……。今更届いた理由も解せねえじゃないですか」
「直接ポストに何者かが投函したんだ、当然消印はない。道一が手紙を書けたのは、僕が中華街に彼を送り届けてから、翌日に遺体が発見されるまで」
 わたしは事務所を離れて以来、旅客機の手荷物検査を潜り抜けたものの、懐中で汗ばんでしなびている便箋を、存在が希薄してしまったのではいかと疑いながら掴んだ。
「上等な紙質やインク、丁寧な筆跡から推測するところ、心理的にも物理的にも整った状態が垣間見える。道一をそれだけ穏やかにさせた場所だが、ただし、一文無しでも滞在が許される場所でなければ、彼は居られない」
 伏儀は、もはやわたし達の目前に迫りつつある眩しく霞がかる上海の街並みへ、視線を持ち上げた。その先では、瘴気に見疑うようなスモッグの束が、東方明珠電視塔(オリエンタルパールタワー)の澄んだ七色のネオンの腹を切開していた。
「董克昌の邸では……?」と、守永は囁いた。
「わたしが捜査から外される前に、資料で見ました」
「あの晩中華街で要件を済ませた道一は、兄である董克昌の家を訪ね、そこで手紙をわたし宛に記し、現金と共に届けるよう、何者かに託した。あり得る話だろう。しかし、このあり得る話が曲者だ。そんなものは、幾らでも揃えられるのだからね」
「で、どうするつもりですかい」と、今度は伏儀だった。
「道一の手紙に何が書いてあったのかなんて知りませんが、そっくりそのまま、まさか招待されたなんてことはありますめぇ。道一から手紙が届いただけじゃあ、俺たちがここにいる理由にはならねぇんですからね」
「もちろん手紙には訪中を期待するような記述など一切なかった。しかし、僕には丁玲による手紙の解釈と、道一の育った土地を知らずして、手紙の理解には到底及びそうもないんだ」
「どこにあるんでさぁ。手紙は」
「君におびえて、出てこない。少なくとも、脂汗に湿気ている」
「ここまで呼んでおいてですか」と、守永からも序列乱さない懇望が続いた。
 しかし、こんな車内でバットコップとグッドコップを演じられたからといって、そしていくら二人を無作法に呼びつけたからといっても、個人の手記を説示するようなことは憚られる行為に違いないのだ。
「丁玲と、董財閥の頭領に会う。今、言えるのはそれだけだ」と、わたしは断った。
 車内はまるで、ゆりかごのように静かになった。車窓の外はホテルとレストランばかりで、観光客たちが群れなす中を、車はすり足でもするように慎重に進んだ。
 上海の瞬きは、真夏だというのに暑苦しさがなく、むしろ異国の地でこれから迎える時間の壁を前に佇んでいるわたしの胸の中に、温かみにも似た手触りで心の懐かしい部分にそっと触れた。それはネオンの蛍光管が現役で溢れている景色から、わたしの懐古主義が触発されただけに過ぎないのかもしれない。
「交通事情次第だが、夜明け前には蘇州に入れますよ」と、伏儀は言った。
 その声は、喧騒を名残惜しむかのように、サイドガラスからぽとりと車外へ落ちた。

 渋滞に絡まれ、列車の駅を幾つか眺め、山間の荒野を二つ数えた。その後はずっと、背丈のある葦ばかりが生い茂る湿地帯だった。
 伏儀のタバコは一箱消え、食事も水も底を尽きた。
 やってくる景色にも、荷物の中身にも、わたし達の心中にも、それきり変化は一切起こり得なかった。
 わたしは浅い眠りを繰り返しながら、その行為がだんだんと絵画の中に収まるように、他人ごとになっているのを感じていた。
 そろそろ夜明けだった。サイドガラスをハンドルで巻き下ろし、外の空気を探ると、湿気てはいるが涼しく、のどかな水際の香りが漂ってくる。
 案内人は舌打ちし、空調機に無茶を言わせた。
 わたしはサイドガラスを閉めることにした。巻き上げると、もの問いたげな表情がガラスの中で見返してきた。
 そこで突然、車が徐行しはじめたかと思うと、ついには停車した。
 その一帯は、邸どころか家屋一つとしてなく、車もわたし達の一台きりで、若草色に染まった四方には、空のかけらで紙ふぶきでもしたみたいに、池が空を映してまだらを描いているのみであった。
 胸を突き抜ける景色に反して、誰一人として長旅の終わりだと歓喜するものはいなかった。
 案内人が甲高い声で何事かを早口にまくし立て、ドアを蹴り上げて飛び出していくと、バンパーともみ合った。バンパーの方が強かったが、彼はなんとか相手を去なすと、中の配線をひっかきまわしはじめた。しかし、それは敗北に限りなく等しい相打ちの様相を呈していた。
 伏儀が、身体と座席とを軋ませてドアハンドルを手探りしながらぼやいた。
「端から端まで電車で結ばれている国とは、一緒に考えてほしくないですね」
 たとえその意思がなかったとしても、この場では、風邪すら満足に治療できない医者の言い訳よりも、言い訳らしく聞こえた。
「携帯は」と、守永がリネンシャツの裾の上からデニムのポケットを弄っていた。わたしは、彼女の電話が空港で食料と共に鞄の中に仕舞われ、それきり出された様子がないのを覚えていたが、何も言わなかった。
「僕のは海外仕様の手続きに一週間待たされると言われた。一週間あれば、ここと日本を何往復もできる」
「俺のは使えますよ」と、伏儀が携帯電話も狼煙も大した違いはないとでもいった様子で、車の天板に括り付けられた荷物をはぎ取り始めた。
「使えたからってどうするつもりなんですかね。知人が近くにいるわけでもない、上海の旅行会社に迎えを寄越させるつもりですかい。こんなところで一日待ちぼうけながら」
 降ろした荷物に、守永が飛びついた。
「じゃあ、どうしようっていうんですか」
「少なくとも、このポンコツはもう御釈迦だろう。車は案内人に任せて、俺たちは董の療養所を目指す。歩くしかない」
 わたしはトランクケースを左手にした。
「幸い道はあるし、一本か」
 それに振り返れば三人分の足跡がある。
 守永が、バックパックを背負い込んだ。それから野花を摘み、花びらを一枚一枚ちぎり始めた。
「帰れる、帰れない。帰れる、帰れない。帰れる、帰れ――」
「野盗と毒蛇にだけは気を付けろよ、お嬢ちゃん」と、伏儀がボストンバッグを肩に担いで、守永の手に二つ目の野花を握らせた。
「蘇州をもう出る程のところまでは来ていますからね。療養所までは、あと村を一つ、さらに丘陵地帯を十キロも行けば着くに違いねぇ。途中、農家で水を頂きましょうや。それに、さすがに観光客はこの辺りまで足を伸ばしませんが、労働者が引き返していく道則にはなっているはずです」
「出会ったら、礼を述べよう。砂漠に駱駝だ」
「ゴー・ウェスト」
 わたし達は、ただ西へ向けて歩き始めた。
 道に沿って運河が流れ、その淵ではジャスミンの白い花が粉を撒いたように咲き始めつつあった。柳の葉が風に吹かれて、掃き掃除でもしているように白い花弁を撫で集めていた。
 荷台に大勢の労働者達を積んだ二トン車が、慎重に轍を選りながら後方からやって来たのは、もはやショットグラスひとつ持ち上げるのですら億劫に感じられる程の疲労感に見舞われた頃だった。
 慌てた伏儀が、駱駝色に汚れてしまった洒落たチーフを振った。トラックが停車すると、荷台が俄かに騒々しくなった。伏儀が運転手と交渉し、薄紅色の毛沢東を一枚握らせると、荷台にある昇降台の電源ランプが点った。わたし達三人は荷台に上がり、そこで鮨詰めになった。
 出会ったら礼を述べようなどとは、気安い気持ちで言うものではないのだ。
 守永がわたしに耳打ちした。
「これなら歩かずに、車の中で待っていれば良かったですね」
 伏儀が、大の男達に挟まれながらわたしを見た。
「ツイてますよ、俺達は」
 やがて、行く末の景色に石畳の車道が見えてきた。トラックがその手前の低温アスファルトに乗り上げると、荷台が大きく傾き、労働者たちは唸った。
 木造家屋の並んだ漁村に入った。過疎化が進んでいるようには見えなかった。二トン車がぶっきらぼうに停められると、労働者たちは解放され、蜘蛛の子散らすように消えた。下水が匂い、運河とは別に水の流れる音がした。村の建物のあちこちから、水が漏れていた。幹線道路はすべて水に浸かり、そこから低い場所へ向けて乳白色の小川が流れ、所々で洗濯をしている者もいた。
 わたし達は、その村で川メバルのコース料理を食べ、身支度を済まし、借用できそうな車を求めて彷徨った。
 しかし生憎、乗用車はほとんどが水害の餌食となっていた。そうなると、もはや村に用はなく、早々に発つことにし、残り約十キロを、わたし達は歩くことで合意形成した。
 村を少し離れると、ジャスミンの敷かれた一帯が広がっており、丘を越えるたびに丘がやって来た。
「騙し絵ですね」
 守永が額の汗を拭った。赤い帽子の淵から頂上にかけて染みが昇っている。
「丁度、僕も同じことを考えていた」
「こうなると、なんとかして頭領に会わないと釈然としません」
「車はない、僕の足は棒になる、君の動きはブリキ人形だ。ジャスミンは咲きっぱなし、景色は繰り返し、おまけに一番詳しい男はムッツリか」
「療養所まではこんな調子ですよ」と、伏儀が言った。「昔から、ずっと昔から、ここはこうだった。道一が、はじめてここへやって来た時だって、同じだったはずですよ」
「どこまで知っているんですか。梁道一、いえ董道一のこと」
「刑事が過ぎるぜ、お嬢ちゃん」
 昨夜からの疲労が、分厚いマットみたいに落ちてきて、二人に被さったように見えた。
 わたしも二人にそれ以上注意を払えなくなり、ジャスミンの花々に安らぎを求めていた。
 良く見ていくと、丘の数か所には大きく掘り返された跡が、あばたのごとく醜く黒ずみ地肌を露出していた。それを見ると、また質問をしたい衝動に駆られた。
「埋蔵文化財でも眠っているのか」
 伏儀は坦々と先導役として歩を進めたまま黙っていた。
「それとも下水管の工事か。村の漏水と関係があるのだろうか」
「それも昔からですよ。噂がずっと昔からあった」と、ようやくわたしの質問の意図を理解したようだった。
「地下資源、不発弾、汚染度。この市街地を離れた一角には、そういったものが眠っているんじゃないかって。どっかの民間企業が、思い出したように昔は時々掘り返していましたよ」
「このジャスミンの咲く丘は、療養所まで続いているのか」
「療養所は山間で開けていますがね」
「療養所が掘り返されていないか不安になってきた」
「頭領の存命中はいらぬ心配でしょう」
「僕は頭領を知らない」
「手にしている資産を手放すような男じゃないですね。それに、ほら――」
「近いのか?」
「そうじゃない。昔から買い換えてないんじゃねぇですかな。ありゃ董家の送迎車だ」
 周囲の丘と比較すれば急な勾配の丘の頂で、一際巨大なジャスミンが花を結んだような光景だった。風が一帯を薙いで、花々が純白の波を送ると、その古めかしくも荘厳な真珠色のバンは、僅かにゆれるのだった。
「予約なしじゃ相手にしてもらえないような車だ」とわたしは言い、バンが走り出さぬうちにと二人を促した。
 フロントガラスと運転席を除いて、窓ガラスは全て白く塗られていた。真っ白な霊柩車のような作りであった。
 運転席にも助手席にも人はおらず、座席には医療用酸素ボンベとジュラルミンのドクターバッグが鎮座している。
 運転席のサイドガラスに映るわたしの背後に、人影が立った。
「シェンマ?」
 男か女かも区別のつかぬ声だった。わたしはガラスに映る人物の視線を探した。しかし、頭から顎まですっぽりと包んだ白いストールの内で、亀の甲羅みたいに大きなサングラスが表情を覆い隠していた。そのレンズと車のサイドガラスに挟まれた幾層もの風景の中で、ストールの人物とわたしは厳重に何度も閉じ込められているようだった。
 わたしは振り返り、ストールの人となりを見た。微かに覗ける地肌は日焼けし乾いており、声に反してやや老いた印象を与える。さらに鼻先に向けて束を落とす白髪を見ると、もはや到底わたしにはこの人物を理解できかねるのであった。
 ストールの中で何かを囁き、白い手袋つけた軟な手で、その言葉を握りつぶすような女らしい仕草をした。よく見ると、頬以外の地肌は露出していなかった。じっと見合ったあと、素早くドアを引いて衝立代わりに開いた。
 伏儀がストールの人物に声をかけると、視線がわたしと伏儀を何度も交互に往復した。それから穴蔵に隠れでもするように、運転席へと尻をひっこめた。
 死角になっていた後部座席から、鉱物みたいに固く嗄れた声がした。それが石の擦れる音でなく、人の声だと判別がついたということは、わたしの耳はまだ正常らしかった。
 運転席に座るストールの人物は黙ったままで、嗄れ声と伏儀が、互いの状況と意図を説明しあったようだった。
 話が済むと、伏儀がわたしの肩もとで静かに言った。
「道一、丁玲、克昌の名を出しました。二十年以上会っていないからか、俺が韋代英だとは気が付いていない様子です。俺のことは、だだのハイヤーの運転手って扱いで願います」
「僕や守永のことは?」
「先に釘を刺しておきますが、後部座席にいるのは頭領ですよ。ついでに言うと、頭領の妻は日本人で、頭領は日本語がわかる。旦那とお嬢ちゃんは、日本から来た探偵とその助手で、丁玲が何かの目的で雇ったのだということにしてあります」
 わたしは声を低くして礼を述べた。
「暫くは、旦那は俺の目で、俺は旦那の耳と口だ」
 わたしの傍らで耳をそばだてていた守永が、小さく手のひらで遮った。
「運転手が怪しんでいます。詳しくはまた後にしましょう。乗りませんか」
 伏儀が、ハンドルを握るストールの運転手に視線を落とした。運転手はやはり黙っていた。
「乗りなさい」
 後部座席から日本語が聞こえた。小さな鉱石が弧を描いてわたしの額にこつんと当たったような弱い調子だった。
「道中、さぞ苦労されたに違いない。申し上げてもらえれば、迎えをやった」
 わたしは待っていた。待っているのが、次の言葉なのか、ドアが開くのをなのか、自分でも分からないでいた。
 伏儀がわたしを見た後、後部座席のドアノブに手をかけ、開いた。
 しかし、開いてもそこには誰もいなかった。シートの後ろで、マジックミラーが荷台を覆っていた。中では充分に人が寝そべる程の広さがあるだろう。わたし達三人が身体をシートに預けても、まだ車内でテーブルテニスを禁ずることができない程の広さだった。
「今日乗った車の中では最高だな」と、伏儀が言った。
 確かにその通りだったが、最も心が窮するのも今であった。
 流れ出した車窓の景色は申し分がなかった。日没が迫り、一面が洋酒漬にされたように琥珀色に染まっていた。ジャスミンの香りは噎せ返るように強く、鼻孔の奥にべたりと貼りついた。
 それでも、いつまでも同じような景色を繰り返した。それはまるで、部外者を締め出す罠だった。丘を越えると、また丘がやってくる。次には療養所に着くに違いないという淡い期待は、丘を越える都度裏切られた。
「まさか、あなた方のような知人が、儂のこども達にいるとは知らなかった」と、頭領の声が背後からした。
「先ほどの疑うような態度を免じていただきたい」
 そうだったのかと、わたしが伏儀へ訊くと、彼はそうでしたよと言った。
「ただ生憎、家には丁玲しかいない。克昌の無礼をお赦し願いたい」
「道一はどうしたのですか?」
 わたしはなんとか頭領の様子が見えないかと半身になり、マジックミラーに目を凝らした。
「儂は知らんよ。あっちには指一本触れとらん。丁玲と克昌は、どうも儂を困らせたがっているようじゃな」
「どういった意味ですか」
「こども達は、仲違いをしている。いや、こんなことを客人に話すのは気が引ける。それもよりによって、そのこども達の知人なのだからな。こんな愚かな話もない」
 言葉が末尾にいくにつれ、声調は次第に苦しげになった。しかし、老人は希少な機会を逃すまいとでもするようにつづけた。
「死とは、寂しいものだと思うか」
「捉え方によるかと」
 わたし以外、応える者はいなかった。マジックミラーの向こうで、人工呼吸器が穏やかな調べを刻んでいる。
「ただじっと黙って、痛みが過ぎ去るのを待っている。こうして話せる相手を寄越してくれたのは、いったい誰だというのだ」
 ガタリと音がした。言葉は半ばうわ言であった。しかし、数珠繋がりにあふれるひとつひとつの単語は、使命を持っているように重く耳に届いた。言葉の銃弾は、この機会を逃すまいとして五月雨式に降って来た。
「丁玲と克昌には、おもての感情がひとつ。それともうひとつ」
「どんなものですか」
「心の奥底では、和解の時がやってくると信じている。しかし、そのために用意された時間は無限ではない。いずれ永遠にその機会は失われる」
「和解へのきっかけが必要だと思われたわけですか」
「遺書のことを、二人から聞いたのだな。機会と時期は、小さなものでも多くあった方がよい。それで、二人はなんと?」
「丁玲は探していました」
「遺書をか。克昌をか」
「わかりかねますね」
「儂の顔が見えないのが不満なのかな」
「顔を見せない人間が多すぎる」
「客人殿。儂はあなた達を歓迎するつもりでいる。争いを好むように思われているのは癪に障る。ただ、腹は立てても争いはせん。しかし、この言葉がまた新たな争いを生んでいく。儂はもう何も言えんよ」
「あなたを中傷したように聞こえてしまったのなら、大変失礼しました。ただ、断りを入れておきますが、わたしはお茶をしに来たわけではいのです」
「探偵がお茶をしてはならない決まりごとはない。一つ提案がある。儂は賑やかさに飢えている。暫く邸に床を敷きなさい」
「何が飛び出してくるか見極めて、それから決めますよ」
「疲れてきた。疲れてきたぞ。もう一度、邸についてから儂の頭がはっきりしている時に、話をしよう。儂が何を言ったのか、しっかり覚えておくのだぞ」
「次は僕からも質問させてもらいます。それも忘れないでいます」
「好きにしなさい」
 老人の言葉が電池切れでもしたように小さくなりながら、眠りに吸い込まれていった。
 同時に、車のヘッドライトが点灯した。道と識別できる場所には、舗装が隅々まで行き届いていたので、老人は静かに眠りを堪能できそうであった。気遣いが車内に満ちていた。ジャスミンはもう香っていなかった。
 代わりに明かりの斑点が、草原と夜空の境を漂いはじめた。風に吹かれる蝋燭の炎よりも不安定だが、膨大な数が続いていた。
 車は、その明かりの溜まり場へ潜るように走り続けた。フロントガラスに三匹の虫がへばりついた。ワイパーで、二匹が払い落とされた。残った一匹は、ワイパーの届かぬ隙間でじっとしており、そこでは風も届かぬと知ったのか、ぽたぽたと液垂れでもするかのように、身体から光を溢れさせた。さらにその先で、光る虫の群れの中に、一際はっきりとした暖色の人工的な明かりが見えてきた。
 それは家屋で、まだ形のはっきり見えてこないうちに、車は石造りの門を潜った。急な下り斜面が続いた。谷底を目指し、その先に邸があった。邸から裏手へ遊歩道が伸びている。邸よりも手前一帯の谷底には、平野が広がっていた。スポットライトよりも眩しい月明りに照らされる枯れかけのジャスミンと蛍の光とが、パウダーグリーンに平野を装飾していた。
「素敵なところですね」と、守永がうら侘しく言った。
「それに、なんだか思ったよりも小さくて可愛らしいですね」
 短く返事をした伏儀も、過去の叱責に耐えかねたように暗く沈んでいた。
「でも、療養所なんですよね……」
「ホスピスじゃねぇ。そう考え込むな。着いたら食事と寝床を提供してもらおう」
「今更ですが、受け入れてくれるでしょうか」
「そう言うな、本心では、俺だって合わす顔がないんだぜ。ただ、それこそ今更だが、頭領の具合から察するところ、悪戯に騒ぎを大きくしたり、余計なことを話そうなんて思うやつはいないだろう」
「わたし達、図々しくないですか」
「気にするな。もう家から出ている」
 大きな起伏に乗り上げ車が跳ねた。ヘッドライトが力一杯に闇を断つとはっきり邸が見えた。朱色の唐草模様が剥げかかったバルコニーの先で、大きな窓ガラスが明かりを投げ返してきた。
「誰かいますな」と、伏儀が言った。
「それも外にだ」
 その声に訝るところは少しもなく、言葉とは裏腹に人影の見当がついているようなところがあった。
「何をしているんだ」
 わたしはサイドガラスを下げた。
 すぐに誰であるかは判別がついたが、何をしているのかは分からなかった。わたしより先に、伏儀がドアを開けて飛び出した。
 女は、邸から伸びる遊歩道を覚束ない足取りで、暗く拓けた場所へと進んでいた。向かう先には、腰高の転落防止柵があり、破られて欠損した絵画のようにその先は真っ暗闇だった。
 月明かりの落ちる草原へ飛び出していった伏儀の後を、わたしも追おうとした。車道の路肩を出たあたりで、伏儀が泥濘に足をとられているのが見えた。彼は車道から遊歩道へ迂回する道順を指示した。わたしはそれに従い、車道に引き返した。闇に眼を凝らすよりも前に、車のハイビームが遊歩道の先端までの案内役を買って出た。わたしは長く伸びる自分の影を追いながら、守永に礼の合図を送った。
 女の背中ごしに、柵で切り取られた断片が正体を現した。湖畔だった。さざ波の音も耳に届いた。
 女の髪が、風に流されていた。風は強くないが、髪は夜霧よりも軽いように見えた。そしてそうならば、湖面と水平に梳るはずなのに、いつの間にか湖面と垂直になり鋭く空へ向いた。
 それも一瞬であった。湖面に人が落ちるような音が、耳の中一杯に響いた。わたしも、彼女と一緒になって水面を叩いた。
 どれくらい落ちたのかも、どれ程沈んだのかも、彼女がどこにいるのかも、分からなかった。水は生ぬるかった。身体には、縄のようなものが水中で絡みついた。
 浮上するのを待って、水面に顔を突き出した。とうもろこしのような匂が鼻先に触れたが、それは香ばしさとは決して似つかわない別の意味で胃を刺激する青臭いものだった。
 視界の四面を、ゴムボートみたいに大きな蓮が塞いでいた。絡みついたのは、蓮の根だった。根を蹴って歩けば、溺れることはない。身体を沈ませることだってできはしない。成人が入水自殺をするのには万に一つも不可能に違いない。
 耳抜きをすると遠くで声がしていた。近くでも、人の気配があった。何かの頼りを探して、上を見上げた。伸びた蓮の蕾の隙間に星空が見えただけだった。
 わたしは、すぐ近くに感じる人の気配の方へ根を蹴って進んだ。枯れ枝や、落ち葉といった浮遊物に紛れて、魚の遺体のような白く細い腕が浮いていた。手首をとって、その先に繋がる身体を手繰り寄せた。呼吸も、意識もあるようだった。
 伏儀と守永の声が、星空から降っていた。二人を連れてきたのは正解だった。わたしと伏儀がはじめて出会ったとき、彼はわたしを助けるような思いやりのある男ではなかった。わたしと守永がはじめて出会ったとき、彼女はわたしを助けるような勇気を持ち合わせた女ではなかった。二人だけでなく、梁道一事件を通じて、アゲハも変わり、原永も変わった。
 事件を通じて、変わっていない人間がいた。どうやらそれは、わたしの依頼人のようだった。
 懐に忍ばせてある道一の手紙が心配だった。
 わたしは声を上げて、陸上にいる二人を呼び、蓮の根に絡んだ依頼人の長い髪を解きはじめた。
 わたしの手にかかれば、どんな安易な謎だって、解きにくいには違いないのだが。


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