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THE BLANK TRACK
by
Taki Sara
Copyright © 2007-2010 by
Taki Sara





   4

 わたしは、彼女がバーに入ってくると、学生時代に読んだ物語を思い出した。それは題名すらも耳にしたことがないような童話だったのだが、何かがスイッチとなって表層意識へ昇ってきた。
 夏場の上海シャンハイ郊外、主人公は名も無い少女だった。少女はいつも大通りから外れた裏路地で、花売りジプシー達に混じりながら花環を売っている。父は零落し、母親は病弱というありがちな舞台背景も嫌いではなかった。その少女が売っている花環は花売りジプシー達のものよりも良く売れた。なぜなら、他の花売りジプシー達の売る一輪の花が何の取り得の無いものであるのに比べ、少女はいつも耶悉茗ジャスミンの花を選別していたからであった。腕環は針金で束ねただけの質素なものであるが、耶悉茗ジャスミンの性質上、蒸し暑い夜の空気に触れると一斉に開花し、濃厚に甘く香る。そういうことから、少女は夕刻にのみ町へ姿を現し、沢山の房状のつぼみを連ねた耶悉茗ジャスミンの花環を売るのにいそしんだ。客が買うと、その瞬間からつぼみが開花し、強く香る。そして数時間もすれば、腕環の花は枯れてゆく。
 印象に残ったのはこのシーンのみだったので、いくつかあった話の断片も既に忘れてしまっていた。結末も覚えてはいない。
 だが、何故かこの物語の一部はわたしの心に強く根を張り、後にも耶悉茗ジャスミンの香りが鼻を掠める度に、意識の水面上へぷかりと白昼夢の花を咲かせるのだった。
 記憶が浮上するきっかけとなったのは、この時も香りだった。
 酒場に現れた女の腕の中で、その童話にあらわれた耶悉茗ジャスミンの花環が真夜中を前にして、最期の煌きのように香っていたのである。
 彼女は慣れた様子で店へ入ってくると、迷い無く眸を動かし、すぐにわたしのグラスに注がれていた酒に注意を向けた。
「あなたは、道一ダオイーをご存知なのね?」蓮っ葉な仕草で止まり木スツールに掛け、すばやくわたしに視線を走らせた。「そのお酒を見れば分かるのよ」
 わたしはグラスに口をつけて頷いた。「有名な銘柄ですね」
「このお店でタリスカーを飲むのは道一ダオイーしかいなかったわ」
 自身を滲ませた表情で語りかけてきた。日本語は発音の抑揚が激しく荒削りな印象で、外国に慣れ過ぎた日本人が話すような日本語だった。
「あなたは、あの青年の恋人か何かですか?」
 なるべく解かりやすい日本語で話しかけたつもりだった。
 彼女は黙って首を横に振った。答えはなかったが、そのまま探るような眼差しでわたしを眺めている。
「彼がこの店を紹介してくれたんです」
「ここは、身内しか知らない店よ。顔見知りでない人に出くわしたのははじめて。ルゥという、道一ダオイーの友人が趣味でやっていたような店なのよ」
「そうだとすると、わたしがここに居てはいけませんか」
道一ダオイーが、ここへ来いと言ったのね? でなきゃ人がここへ来るはずないわ」
「彼に来いと言われましたね」
 その返事を聞くと、彼女の張り詰めた唇から力が抜け、表情が和らいだ。
 彼女とわたしの間に、梁道一リャン・ダオイーの残してくれた見えない信頼関係が紡がれつつあった。たいした関係ではないが、何もせずに手放してしまうには惜しい繋がりのような気がした。死人の意思が、こうしてわたし達を巡り合せてくれたのだ。
 だが突然、気の利かないマスターの横槍が水を差した。
「待ってくれよ。すまないが、先に失礼させてもらおうか、コテツ。ちょいと聞きたいんだが、この娘は中国人じゃないのか?」
 わたしはマスターを見やった。昨日の出来事になかなかご執心なようで、彼女が中国人だということは看過できないといった様子である。
「そうだけど? なにか?」女は挑むように応えた。
 瑪瑙めのうのシガレットホールダーが、射るようにマスターへ向いていた。
「オメェさん、昨日はどこにいた?」
 マスターの方も、まるで強制収容所ラーゲリ搬送を目的としたような言い草だった。
「さぁ、時間にもよるわね。でも、概ね上海シャンハイの実家にいたかしら。それがどうしたというの?」
「どうやってこの店を知ったんだ?」
「どうやってって……それはさっき言ったように、ずっと前から知っていたとしか答えようが無いわね。私から見れば、あなたがこの場にいる方が不自然なのよ」
 わたしが思っていたよりも、彼女はずっと日本語が得意なのかもしれない。マスターは余計にやりきれないといったように、口の中で舌を打った。
「オレは昨日、この店でろくでもない出来事を経験しちまったんだ」
「それがなにか?」
「どうってことは無い、中国人が絡んでた。そこへあんたがやって来た。こういう状況に鉢合わせたら、あんたを疑いたくなるのはオレだけじゃないと思うんだが」
「あなたって何かと理由をつけないと女に話しかけられないタイプの人みたいだわ」
「このアマ――」掌の中に煩いの種を見つけ出したとでもいうように、マスターは海軍譲りの拳を握り締めた。「そういう反抗的な態度を見せられたんじゃあ、疑わしいってもんじゃないのかい!?」
 わたしはこの時、はじめて犬猿の仲というヤツを目の前にしたのだということに気がついた。こうまで効率良くいざこざを起こせるのだったら、どんなならず者だって脱帽だ。
「よろしくないよ」見かねてわたしは口を挟んだ。「まず疑う理由が関心しないね。中華街ここは彼女達の街なんだってことを忘れない方がいい」
 勢いよく、鼻息がカウンターを撫でた。
「ああ、もちろんわかってるよ。よくわかってる。余所者よそものはオレ達の方だからな。――でもよ、腹の虫が収まりそうも無いじゃねぇか。このまま泣き寝入り癖がついちまったら、いつか痛い目をみるぜ。オレはそんな人間を今まで何人も見てきたんだ」
「中国人が疑わしいと思うのなら、あなたはこれからもそうやって十三億人を敵に回し続けるといいわ」
「いけすかねぇ女だ。オレは良くも悪くも女性権解放論支持者フェミニストでね、都合の悪いときだけ女面されても許す気はねぇぞ。今すぐ警官を呼んだっていい。オヴァーステイか身売りか、叩きゃあ何か埃が出てくるだろう?」
「好きにすればいいじゃないの。私は清廉潔白の身だから」
「落ち着けよ」わたしは言った。「マスターも、まずは状況を説明するのが先じゃないのか」
「そうするべきよ。感情的なフェミニストさん」
 彼女は何かと一言多いタイプの女のようだった。
 マスターは苦虫を噛み潰した上に良く味わったような面になると、それからまた、似合わない思慮深げな表情をして不承不承話し始めた。
 いざこざの顛末を説明した彼の演説は、わたしへ述べた内容と大きな違いは無かったが、理不尽さに対する憎しみか、損害を誇張気味に仕立てていた。
 しかし、説明する方も面倒くさいが、聞くほうも面倒くさいといった調子である。女は欠伸あくびを噛み殺し、話が終わると、全然知らないとだけ言い捨てた。
 結局マスターは、彼女の返答を聞いて尾を引く様子で肩を落とし、消沈した。
「そう簡単に何もかも解決したのならば探偵稼業が成り立たないと思うね」わたしは言った。
「この女の言うことにだって、証拠があるわけじゃないがな」
 マスターは杜撰ずさんな捨て台詞を吐いた。
 わたしは彼の粘り強さに、床屋の有平アルヘイ棒でも眺めているときのようなどうどう巡りの気分にさせられた。
 女は凝っと、わたし達のやり取りを見ている。
 彼女の左腕では未だに花が咲いていた。この花環は日本では手に入らない。多少枯れ始めているが、まだ咲いているということは彼女が日本に着いたばかりだということになるだろう。そういったことは、マスターの求めている証拠にもなるかもしれない。わざわざ蜻蛉とんぼ返りでたった数ユエンの花環を買いにいく人間がどこにいるというのか。しかし、そんなことをいちいち説明する気にもなれなかった。
 わたし達はいつまでも話し出さなかった。そういうことに我慢できない性質なのか、マスターがカウンターの下から英語版のニューズウィークを引っ張り出してきて、表情を隠した。紙面ではアメリカ大統領が高らかに演説をしていたが、その姿は余りにもマスターとは対照的だった。
 わたしは仕切りなおしのために、一つ咳払いをした。そして、彼女もその仕切りなおしにならった。
道一ダオイーについて話をきかせてくださらない」彼女は切り出した。やはりそれが彼女にとって望んでいた話題のようだった。
「どこから手をつけて良いのか、正直難しい話題です」
「どうしてかしら。なら、ルゥはどう? 彼も見つからないようだから」
 彼女の反応を見ていれば、恐らく誰もが思うことなのだろうが、どうやら梁道一だと思われる屍体が発見されたことを知らないようだった。だが、それも考えてみれば無理も無い。警察側では遺体は身元不明として処理されているのだ。
 わたしは言った。「そのルゥというのは、さっき話題に出た、前のマスターだったという人間のことですか」
「そうよ」
「一昨日ほど前に、大陸酒館というのは閉めたらしいですが……」
 発音を忘れたので、邦読みで言った。特に問題は無く通じた。そして彼女は静かに首を振った。
「状況があまり芳しくないみたいね。もう少し、詳しく教えて頂けない?」
「わたしも昨日董道一にこの店を紹介されて、先ほどここへ初めてやって来たばかりです。知っていることは、あなたとほとんど変わりがない」
 “董道一ドン・ダオイー”と、相手が呼んだ以上、わたしも今は“リャン”と呼ぶことを避けることにした。
「でも、あなたは大陸酒館が店を閉めたことを知っていたわ。私は知らなかった」
「そのことも、今マスターから聞かされたばかりです」
 彼女は思い出したように軽く手を打った。
「まだ、あなたが何者なのか訊いていなかったわね。あなたと道一の関係も、そういうことを抜きに話はできないわね」
「そうですね」わたしは頷いて、名刺を進呈した。
 彼女は口の中だけで名刺を読んだ。
「私立探偵なの?」と、彼女は言った。それは私立探偵を始めて見る人間が良く見せる反応だった。
「全然そうは見えないわ」と、さらにさらりと駄目を押した。
 ニューズウィークの向こう側から、微かに頑迷な含み笑いが聞こえたような気がした。
「みんなそう言うんです。一度調査で、畑のキャベツ泥棒の正体を暴こうとしたことがあったのですが、その時は何度も案山子かかしに間違われました」
 彼女はむき出しの細い肩を窮屈そうにすくめた。
「コテツって、ちょっと間抜けな響きなのね、名前がよ。そんなカタナの名前を聞いたことがあるわ」
「懐に忍ばせておいても損はしないかもしれませんね」
「おもしろい言い回しね」
「本当にそう思いますか?」
「さあ?」
「もしそう思われるのなら、わたしを雇ってみる気はありませんか?」
 そういう言葉が自然と出たということは、わたしの願望が見事なまでに理路整としていた証なのかもしれない。
 彼女は、手持ち無沙汰に煙草を指したままのシガレットホールダーをくるくると回して眺め、息を吐いた。
「どうして私があなたを雇わなくちゃいけないのか、納得がいかないわ……」
「あなたが以前から董道一と親しかったご様子なのでね」
「それってどういう意味? なぜそれだけで探偵を雇わなくてはならないの?」
「あなたは一体何者なのか教えていただけませんか」
「そうね、コテツは自己紹介を済ませたのに、私はまだ名乗ってなかったわね。私、董丁玲ドン・ジンリンって言うわ。道一ダオイーの姉なの……」
 彼女の真紅の唇は淡白に動いた。白くあでやかな指先が、カウンターの上で“董丁玲”となめらかに滑ってゆく。
 わたしは言葉を失い、丁度手に取ろうとしていたグラスを握りそこなった。
「それは困りましたね」
 思わず本音が口を衝いて出た。
「私、弟が家を出たと聞いたから追ってきたのよ。――自分の弟が、今どうしているのかすら分からないどうしようもない姉だけど」
 彼女はカウンターに肘をついて、額を支えた。
 わたしはタリスカーを脇へ退けて、その分だけ彼女の方へ体を乗り出した。そのせいで、はかない腕環が香り、わたしはくらくらしたが、それは先程にマスターから貰った痛手のせいなのかもしれなかった。
 彼女は、シガレット・ホールダーで奇妙なリズムを執っていた。心臓の鼓動を二倍のスピードにしたようなテンポだった。わたしには、それが焦燥のリズムのように感じられた。彼女は、梁道一リャン・ダオイーだと思われる屍体が発見されたことを知らない。その未知なる結果が焦燥を生んでいるといったように。
 なぜ、わたしがこの事実を彼女へ伝えなければならないか。何気なく梁道一リャン・ダオイーと握手を交わしてしまったからなのだろうか。そうだというのならば仕方が無い。だが、そうやって、これは決して理不尽なことではないと割り切りつつも、どこかで納得のいかない自分がいた。損な役回りだとは思わずにはいられなかった。
「今、言われたことに、嘘はありませんか」わたしは言った。
「パスポートを見せれば信じてくれるのかしら? それとも大枚を積めばいいの?」
「そういうことじゃないんです」と、なだめるように言った。
「どういうことなのかしら?」
「わたしも、彼について調べているんですよ。董道一ドン・ダオイーについて。それで、もしかしたら、あなたが貴重な情報源になるかもしれない。こうして、手掛かりの方からやって来るというのは、非常に珍しいケースですからね」
「私は道一を調べてるのじゃなくて、探しているの。そんな勘違いはよしてちょうだい。弟を調べているだなんて、人聞きが悪いわ」
「場合によっては、それは似たようなことになりますね。調べていることも、探していることも。場合によってはね」
 微笑が彼女の顔から逃げていった。言外の気配を感じ取ったのか、眉を寄せ合ったままの表情で、ホールダーから床へと煙草を落とし、金の刺繍が施されたパンプスでなじるように踏んづけた。
「あなたの弟、董道一ドン・ダオイーは、昨日、わたしを雇いました」
 わたしは言った。しかし、その先の言葉はなかなか出てこなかった。もしかしたら、わたしには直接彼女に事実を告げる勇気がないだけなのかもしれなかった。
 先を続けた。「そしてその後、今朝がた彼のパスポートを持った屍体が発見されています」
 彼女は悲しそうに笑ったきり、何も言わなかった。眸もただ乾いたままだった。
 わたしは続けた。「ですが、何が起こったのか、犯人も、まだ明らかにされていません」
 続けながら、やはりなぜわたしが彼女にこんなことを告げなければならないのかと思った。彼女だって、わたし以外の人間から聞かされたほうがまだ傷が浅くて済むかもしれない。
 答えは無く、彼女はただ、タリスカーの注がれたグラスに反射したわたしを眺めていた。
「わたしは――」と、言い加えようとしたところで、遮られた。
「いいのよ」割合いにしっかりした声だった。「最悪の事態を覚悟をしておけば、どんなに悲劇的な出来事が起こっても、苦痛や悲しみは少なくて済むものだわ。そんな風に教えられて育ってきたの」
 それでも言葉尻は、舌先が覚束おぼつかなくなったようにうやむやになっていった。理屈では、彼女の言うとおりだったが、理屈だけでは取り繕えないほどに綻びは広がっていた。兄弟もしくは姉妹の死というものは、両親の死よりも遥かに心の傷を深く抉るのだ、という話を聞いたことがある。
「鈍い女にだけは、なりたくないの」と彼女は言った。「でも、そういうことって、意識すればするほど大抵上手くいかないものよね」
「あなたは賢明な女性だと思いますよ」
「なぜ、私が日本へ来たかわかるかしら?」と、彼女は呟いた。
董道一ドン・ダオイーを追ってきたからです」
「良くご存知ね」
「さっき、ご自分でそう言われたばかりです」
 彼女のしのばれる想いが、眉間に深い溝を刻んだ。
道一ダオイーは殺されたのよね。だからあなたは真相を知りたいのよね?」
「そうだと思いますよ」
「自殺でなくて、救われたのかもしれない……」
 その言葉を言い終えて、リズムをとっていたホールダーは凪のようにピタリと止んだ。わたしは、彼女の細い手首の内で鋭く打つ静脈を見ていた。
 バーの中は急速に静かになっていた。外から、子供達の民謡が聞こえてくる。もっと耳を澄ませば、老人達のトランプをめくる音でさえも鼓膜を揺すったのかもしれない。
 丁玲の眸は石のように、微かにわたしの鼻先で焦点を結んでいた。
「殺人は、ある意味では中華街チャイナタウン全体が目撃者です」わたしは言った。
 ホールダーが、彼女の指先でまたリズムを刻み、その慈悲も無いような揺れだけがわたしに応えてくれているような気がした。まるで時間を先送りにして死期を早めようとするメトロノームのように、奇妙に揺れている。だが少なくともそれは、彼女の焦燥に終焉をもたらす以外に何の役に立つことはないだろう。
「もういいわ」と、彼女は言った。
 デッサンが微妙に狂った肖像画のように、肝心なものを失った表情だった。そしてその奇妙な肖像画は、震える指先で枯れかけた花環を握りしめている。
「あまり強く握ると、壊れてしまいますよ」わたしは言った。
「私は、道一ダオイーにも、同じことしてしまったのよ」
 それがどういう意味なのか、訊くことはやめておいた。今のわたし達の信頼関係は耶悉茗ジャスミンの花環のように脆くなっている。
 わたしは小銭をカウンターに積んで、立ち上った。
「もし何かあれば、事務所に電話をください。携帯でもいい」
 誰かがこの事件の解決を願おうとしなければ、わたしはこの事件に携われない。資金も無いが、何より依頼人のいない私立探偵など丸裸も同然である。それも殺人事件に関わろうなどというのだから、警官やチンピラたちに良いように小突き回されるのが関の山だろう。
 わたしには依頼人という後ろ盾が必要だった。そして、その依頼人に相応しい人物がいるとすれば、彼女以外にはあり得ない、と考えていた。死者の意思を継ぐ、彼女こそが適任だという気がする。
「待って」彼女がわたしに声を掛けた。「私、この事件の真相を知らないままとても国へ帰れないわ。いいえ、それだけじゃなくて、何が起こっているのか知りたいの」
「わたしを、雇う気になってくれたのですか」
「でも、私はあなたのことを詳しく知らないわ。信じていいのか解からない。警察は何もしていないの?」
「それもやはり、道一ダオイーについて良く知っているあなたならば、もう何か勘付いているのではないですか。彼には何か、特別なことがあったはずです」
「そう……」
 わたしは立ったままで、彼女が話し出すのを待った。しかし、いつまで経っても彼女は何も言わなかった。
「見てもらいたいものがあるんです」と、わたしから切り出した。「もし、そうしたくなければご覧にならなくても結構ですが……わたしもあまりこういうものには慣れていないので」
 わたしはポケットに手を突っ込み、路辺から預かった遺体の証拠写真を引っ張り出して、カウンターに広げた。カウンターの上を滑らすと、丁玲ジンリンではなく、マスターが先にひったくった。そして、いらだたしげに紙を広げ、その掌の中に囁いた。 
「良くも悪くも、オレは女性権解放論支持者フェミニストだ。見る権利があるんだ」と、自分に意味も無い暗示をかけた。「オレの周りじゃあ、しょっちゅう人が死ぬんだ。朝起きて、誰かが死んだと聞く。飯を食って、寝て、起きるとまた誰か死んだと連絡が入る。日本人の有名な作家が言ったよ、人間はしょっちゅう死ぬんだってことを、簡単に忘れるんだってな」
 そんなことを言いながら、マスターは顔をしかめた。
「でも、それは因果なものだ」わたしは言った。
「因果応報がどんな結末を吹っ掛けたのか、見せてくださらない?」丁玲ジンリンが言った。
「ヒデェもんだ」マスターは悪夢を振り払うように頭を振り、用紙を広げたままでカウンターに乗せた。
 丁玲ジンリンはそれをちらりと見ただけで、十分納得がいったようだった。
「この男に見覚えはあるかい」
 丁玲ジンリンにではなく、すっかり血の気が引いたマスターにわたしは訊いた。
 彼は器用に写真からは顔を背けつつ、質問には答えた。
「そんなこと言ったって、顔がまるで分からないぞ」
「わたしには」と、丁玲ジンリンは言った。「可笑しな言い方だけど、親しみの持てる屍体だわ」
 親しみの持てる屍体、という響きがわたしの頭に残った。
 丁玲ジンリンが顔を上げた。
「いいわ、コテツ。あなたを雇わせてもらうことにする」
 梁道一リャン・ダオイーのように蒼白な表情だった。彼女の年齢は分からないが、反応の仕方を観察していると、梁道一リャン・ダオイーと同様に見た目よりもずっと年をとっているのかもしれないと思わされる。彼女の胸元では、ミラーグラスが決意の表れのように煌いていた。
「あなたを雇う条件は?」彼女は言った。
「日雇いで概ね三万円、他に必要経費をいくらか実費で頂きます。しかし、人民元に換算すればそれほど安いものではありません。もし、ご都合が悪ければ――」
「構わないわ」彼女は半月型のハンドバックを広げ、中から大枚を掴み出し、カウンターに並べた。「これで、暫くは足りるわね」
 五十万と、わたしはその金額を見積もった。
「そんなに必要ありません」
「余ったら返してくれればいいの」
 目には譲ろうとする気配が無かった。わたしは有無も言わずに受け取るしかなかった。
「決まりですね」と、わたしは言った。「これからあなたのために働きます。董道一ドン・ダオイー事件の真相に、出来るだけ近づけるように――」

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