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※ルビはカッコ表記です。ご了承ください。
 

THE BLANK TRACK
( correction version )
by
Taki Sara
Copyright © 2007-2010 by
Taki Sara





   5

 車のフロントガラス越しに空を見上げると、傷を負った魚がのた打ち回ったような、夕日に染められた鱗雲の層が棚引いていた。わたしは口笛を吹きながら、事務所のある港区へと自動車のハンドルを握っていた。
 事件の解決を願うならば、何かしらの行動を起こすべきだった。こうして依頼人が生まれ足下が固まり、腰を据えた姿勢となってみると分かることだか、出来ることは少ないように見えて思いのほか多い。だが、唐突に何かを始める時にはいつだってリスクを伴うものなのだ。
 丁玲の協力なくして先へ進むことは不可能である。しかし、ひところに多くの事実を知った彼女の精神状態を無視してまで強引な調査を続けることは、私立探偵としての沽券に関わるだろうという気がした。そこで結局、みなとみらいのパシフィックホテルへ彼女を送り届けると、わたし達は明朝落ち合う約束をして別れたのだった。
 旧海岸沿いで月極契約駐車場にマークⅡを寝かせ、事務所のある三階まで雑居ビルを上がった頃になって、ようやく、梁道一(リャン・ダオイー)だと思われる男の屍体発見現場を覗き忘れていたことに気が付いた。それくらいのことならば、依頼人の協力など無くしてもできることだった。フロアから階段へ、階段からフロアへ、わたしは行ったり来たりした。現場検証の済んだその地へ赴いて何ができるのか、自分自身にもよく分かっていなかった。わたしには、もっと別のやり方が向いているのかもしれない。
 事務所のドアの向こう側で、電話のベルが鳴りはじめ、わたしを現実へ引き戻した。
 ドアを開けた先の待合室は、ただ一つのことを除いては普段通りだったが、しかし何よりもその一つの事柄が肝心なようだった。
「随分待ったせてもらいましたよ」と、腐ったバナナみたいにぐにゃぐにゃした男の声が行く手を遮った。
 ドアを後ろ手に閉めたその一寸先で、大柄な男が立ち塞がっていた。わたしの視界を覆ったシャドウストライプのシャツの襟元から、分厚い胸板が圧し掛かってきた。胸板とドアとで、わたしの顔はプレスサンドのようになった。
「アンタがコテツさんなんでしょう」と、電話の呼び鈴を相殺するような大きな声をわたしに被せた。
 坊主頭に団子鼻、掛けたサングラスの陰では鈍感そうな切れ長の目がどんよりと濡れている。肌は陽に焼けて浅黒く、顔は馬面(うまづら)で口が広いために、ニヤけた馬の面を被った拷問官のように見えた。アジア系の人種であることに違いは無いが、日本人でないことも確かだった。
「コテツさんでない人間には用がねぇんですよ」と、男は付けたりに言った。チューインガムを噛んでいるせいで、声に締まりがないようだった。
「またこんな展開かい」わたしはやり切れなくなった。「そうだ。君の言うとおりだ。何だって君の言う通りなんだ。そういうやり方を変えない限り、いつまでも何だって君の言う通りにしかならないぜ」
「別にあんたがコテツさんじゃなくたって、殴りゃあしませんよ」
「わたしも随分と有名になったみたいじゃないか――だがその前に、そちらから名乗ってもらったのならもっと気分が良かった」
 男はサングラスを通じてわたしを凝視し、それから満足そうに唇の間から粒よりの歯を覗かせた。
「そういうやり方を思いつかなかったのはなぜなんでしょうな。俺はフッキって呼ばれてましてね。誰だってそう呼ぶもんで、本名なんて忘れちまいましたよ」
「警官ってわけじゃなさそうだね。どちらにせよ事務所(ここ)へやって来る人間ってのはいつもご機嫌斜めには変わりがないんだ」
「言ってみれば警官も依頼人も俺のような人間も似たようなもんじゃないですか。どいつもただの馬鹿野朗だ」
 彼の視線は、万力で固定されたように動かずにじりじりとわたしを締め上げていた。
 わたしはそれを避けるために、視線を下へ落とした。
 靴はクロコダイルレザーのイタリー製で、スラックスは皺一つ無い割には足首でダボついている。どれもこれも、やり方ですらも型にはめられたように筋者だった。その癖、部下を侍(はべ)らせもせずにいるのだ。わたしには、この男が何者なのか分からなかった。
「電話に出たいんだ」と、わたしは言った。「そこをどいてもらえないかな」
 男は何も言わなかった。
 うんざりして、わたしは少しずつ体を脇へずらし、胸元からの脱出を試みた。が、いきなり死角から何かが飛んできて、顎の外れるような衝撃が脳天にまで電線した。ドアと胸板の間で、わたしの頭はパチンコになった。飛んできたのはボーリングの玉みたいな男の拳だった。
「どこに行こうってんですかい?」と、フッキは凄味を効かせて言った。「話はまだ済んじゃいないんですぜ」
 暖かいものが鼻の内側を伝った。それが滴り出る前に、ハンケチで鼻を押さえた。
「電話が鳴っているんだ」と、鼻声のままでわたしは答えた。「誰かが呼んでいるというだけで、そこへ行こうとするための理由は十分にあるんじゃないのかい」
「こっちにも都合ってもんがありましてね、コテツさん。電話なんてまた掛かってきますぜ。話が済んでからにしましょうや」
「君は何者で、何が目的だい。浄水器の販売なら結構だ、マルチ勧誘はお断りだ」
「生憎日本は長いんもんでね。それにもう自己紹介も済んでるんですよ。電話は諦めましょうや」
 その電話を寄越しているのは誰であろうかと、わたしは考えた。新しい依頼人という可能性は一番少ないので最後に残しておいても良かった。路辺か、丁玲か、中華街署の警官というのが妥当な線なのかもしれない。董道一事件を本気で追おうとする今となっては、その誰ともコンタクトをとっておいても損はなさそうである。
 わたしはハンケチでもう一度鼻を拭い、ポケットへ戻すと、今度は可能な限り素早くサイド・ステップを踏んだ。が、しかしまたボーリングの玉がスペアスコアを狙って飛んできた。なんとかそれを顎ではなくこめかみに避けた。
 頭の中で鳴る電話のベルが、警報機のように次第にけたたましくなりはじめた。
「おもしろい方っすねコテツさんは」彼は引きつったような笑みに、哀れみなのような視線を織り交ぜた。「こんなのが本当に探偵だってのは奇妙な話しですよ、こういうの、世も末だって言うのかな。俺には何度も同じ餌に釣られる魚にしか見えませんが……」
「生き物であるだけまだマシかな。案山子じゃないんだ」
「無駄口をたたいていると、電話が止んじまいますぜ」
「無駄口は君の専門分野さ。電話に出るのは受付嬢の仕事だよ。わたしはデスクで座っていればいいんだ」
「じゃあ、そっちにまかせときましょうや」
「残念ながら、秘書はいないんだ」と、わたしは肩を竦めた。
「おかしなハッタリを言いやすね」
「それで? 電話に出ようとすると、その分だけまた頭がパチンコになるって仕組みかい――弱い者いじめが過ぎるよ」
 彼は一息吐き出すと、聞こえよがしに音を立てて、チューンガムとわたしの言葉を一色たに噛み殺した。
 何故かこんな時に、わたしはまたジャスミンの少女の童話を思い出したのだった。ただ一人で花環を売り続ける主人公の少女が、他の花売り(ジプシー)達に妬まれていく一節だった。彼女は、花環を編んでは壊され、また編んでは壊される。わたしの境遇と少しばかり似ていたので、思い出したのかもしれなかった。だが電話に出ることは、花環を売ることよりもずっと簡単なことだと思った。
 わたしは言った。「料簡を言ってくれないかい。それが一番の近道のようだ」
 しかし、この言葉が諦めの響きとして届いたのか、電話はそこで鳴り止んでしまった。何かしようと思い立ったときに限って、現実の方から逃げていくのだ。
「はじめからそう言えばいいじゃないですか、コテツさん。電話なんて必要ねぇんだ」
「探偵に曲芸でもさせたいのかと思ったよ。何も解からずに殴られ続けたんじゃあ、しんどいね」
「コッチはそうやって育ってきたもんでしてね。ついこっちのやり方を押し付けるような真似をしちまって、迷惑でしたかね」
「君は電話の無い生活だったのかい」
 男の顎が、錆び付いた動力耕運機(テーラー)のように激しく回った。「おもしろくないですね、そいう言い草ってのは。好きになれねぇですよ」
「分かってるよ。君の日本語を聞いていれば、育った環境ぐらいは想像がつく」
 フッキは腰を落とし、視線をわたしに揃えると、サングラス越しに覗き込んできた。彼も、わたしの境遇を炙り出そうとでもしているのかもしれない。随分長いこと視線が纏わり付いたままだった。
 しかし、逆にわたしも彼の眸を覗き返すことになった。まるで水槽から逃げることを諦めた金魚のような、やる気の無い目だった。不自然に白く濁り、慢性的な絶望が自己主張の成長を阻んでいるといったようである。
 暫くそんな間が続いた後、フッキは満足したのか、急にわたしから興味を失ったように背を向けて、革張りのソファにどすんと腰を落とした。
 その拍子に、壁に掛けてあった風景画が床へ落ちて、鋭い音をたてた。フッキは絵に向かって唾を吐いたが、命中はしなかった。
「言葉があるだろう。そんなボディラングエジは遠慮願いたいな」
「肝心な時に、言葉は役に立たないもんですよ。今がまさにそんな状況じゃないですか。二人とも言い張るだけで、ちっとも話が進んじゃいない」
「わたしだって人並みには忙しいんだ。さっさと本題に入ろうじゃないか」
「せっかちですな。コテツさんはトビウオよりもせっかちな魚みてぇですよ。でも俺だって、そんなせっかちに付き合いたい気持にもなる。――董道一(ドン・ダオイー)からの預かり物、そろそろ渡してもらいましょうか」
「君の口からその名前が出てくるって事は、君も同じ穴の狢(むじな)ってわけかい」
 まなじりを歪めて、彼は無言で返した。わたしは暫く考えてから答えた。
「しかし残念ながら、そんな預かり物には心当たりが無いな」
「思い出せないのなら、思い出させる方法は色々ありますぜ」
 彼は爪を眺め、パチパチと指を弾いた。その仕草に、一体どんな意味があるのかは分からなかった。
 わたしに出来ることは、ただ肩を竦めることだけだった。それは、彼の言い分に従って心境を体現してみたということなのだが、相手はそれでも無言だった。渋々わたしはデスクまで行き、引き出しを開けて、タリスカーの酒瓶を引っ張り出してきた。そして静かにそれを彼の腿の上に乗せてやった。
「これは何の冗談ですかい。まさか祝杯をあげようってわけじゃありますまい」
 苛立ちそうにボトルを持ち上げると、彼は栓を抜き、中身を口に含んだ。
「道一からの唯一の預かり物でね。これしか心当たりが無いんだ」
 わたしがそう言うと、甲高い笑い声が室内に響いた。その狂ったような響きは、深夜の病院車のサイレンのようにいつまでも気色悪く事務所の中で這いずり回った。
「とんだ無能探偵ですな」と、彼は笑い声の最後を締め括った。「見た目だけじゃなくて、中身まで探偵には不向きみたいだ」
「聞き飽きたんだ。そいう科白は」
「そろそろ本当のことを言いましょうや。言ったほうがいい。まさか本当に何も知らないわけじゃあないでしょう」
「惜しむらくはね」
「三つ数えやしょうか――。その後のコテツさんの有様は、俺の知ったことじゃない」
 一、二、三、とリズムが刻まれた。想定していたよりもリズムはずっと早かった。わたしは何も言えずに時間を終えた。
 最初に飛んできたのはタリスカーのボトルだった。状態を反らすと、背後でヴェネチアンブラインドとボトルが戯れるのが聞こえた。気を取られている隙に、チューンガムが頭にへばり着いてきた。触ると髪に絡まった。頭の天辺からウィスキー臭が降ってきた。
 男は眉一つ動かさずに続けた。「董道一(ドン・ダオイー)が、日本に来てから出会ったのはクーシャンとコテツさんの二人だけなんですよ。つまり実質的にはアンタ一人だけってわけだ」
「わたしだけじゃない」と、わたしは答えた。「クーシャンがいるよ」
 彼は大きく目を剥いた。「クーシャンを知っているのか!?」
「君が知っているのだろう? わたしは知らないよ。二人いると言ったのが誰なのか良く思い出すんだね」
「減らず口ってやつですかい、馬鹿馬鹿しい……そう強がった態度を取りたがる理由がわからないな――。私立探偵ってのはどいつもこんな感じなんすかね。どうやって吐き出させてやりましょうか」
「ケチャップの中身を搾り出している方が君にはよく似合っているよ」
「何もおもしろくないですよ」
「別に君を楽しませようとしているわけじゃないんだ」
「いつまでそういった軽口が叩けると思いやすか?」
「わかったよ。何を探しているのか教えてくれないか。でないと、話にならない」
 がっかりしたように、彼は目を伏せた。視線の先には、毛むくじゃらな豪腕に巻かれた腕時計があった。文字盤とバゼルに宝石を散りばめ、ほの暗い事務所の明かりを集めて絢爛に輝いている。
「コテツさんは幾ら稼ぐんですかい、こんなケチな商売で?」彼は最初(はな)から蔑(さげす)んでいた態度をよりいっそうなものにして言った。
「それは君のご承知の通りさ。食べていくだけで精一杯だよ」と、本当のことを答えた。
「そりゃそうですな」と、フッキは坊主頭を回した。何にしても、一挙措一投足が動力系の機械の暴走を連想させる男だった。
「それに何の関係があるんだい」
「本当に何も預かっていねぇんですね?」
「酒瓶一本きりさ」
「だったら、そんなケチな野朗には尚更教えることは出来ねぇんですよ」
「なぜ」
「そりゃ私立探偵の常套句ってやつですかい。なぜだとか、どうしてだとか。自分で考えましょうや」
 わたしはポケットから煙草ケース引っ張り出して一本抜き、彼に放った。こんな物で買収できるとは思ってはいなかったが、とりあえず形だけでも諂っておく必要がありそうだった。
 フッキは硝子卓子からライターを拾いあげ、火先を煙草に近づけた。その炎がゆらゆらと舌先を伸ばし、紙巻に引火した。煙草の穂先が、赤く燃え広がった。わたし達以外の誰かの声が割って入った。
「ヒントが少なすぎるべ」
 その声は、背後から聞こえていた。フッキのライターを持つ腕は止まった。さらに、その声が矢次はやに質問を繰り出した。
「中華街で何が起こっていて、発端が何か。そんで誰が関係してるのか。アンタの狙いも聞かせてもらおうか」
 振り返ると、男が一人、女が一人、揃って出口を塞いでいた。
 警官には二種類あるものだ。同業者(・・・)から一目見てそれと判る者と、本人から名乗り出てこられてもそうだと信用できない者と。路辺は前者にあたり、事務所に現れた男の方も同類だった。女の方は、恐らく後者である。二人ともラフな私服だったが、警官には違いがないのだ。
「県警のモンなんだけどな――」言いながら、男が事務所の中へ足を踏み入れてきた。「原っていうんだ。原永(はら ひさし)ね。おっきい方のアンタ。任意同行いいべ?」
 原と名乗った男の目には、フッキしか映っていないようだった。
 しかし、声はフッキに届いてはいなかった。ガラステーブルへ視線を戻すと、既にそこには誰もおらず、抜き出されたままの煙草が床へ転げて落ちていくだけだった。
 素早い動作で事務所内を縫ったフッキは、原の脇を擦りぬけて女の目前に差し掛かっていた。
「守永!」原が出口に立ちふさがる女警官に呼びかけた。
 答えるように、彼女が軽やかにフッキ腕を捕った。手錠が彼女の腰元で黒光りし、重い金擦れを発した。が、彼女の背丈(タッパ)はフッキの半分ほどである。火の粉を振り払うよりも容易く女は飛ばされて柱に背を打ちつけた。そして、もう二度と開かなくなるのではないかと思わせるほど勢い良くドアが閉められ、踊り場まで十五段ある階段は、たった三歩の足音で制圧された。
 わたしは急いで鍵を開けて奥の仕事部屋へ入り、窓に張り付いて表を確認した。
 タクシーが一台だけ、椰子並木の海岸通りで夕日の中を疾走している。シルエットは小さくなりつつあり、ナンバーなどはとても読めたものではなかった。だが、読めたところで大した意味も無いのだった。
 諦めて窓辺を離れると、待合室から原と名乗った男の叱咤が聞こえた。連れの女の悄然とした謝罪文句も聞こえていた。
 わたしは、二人のやり取りを耳に洗面所へ入り、髪に絡まったガムと悶着した。結局、洗い流すことは諦め、鋏で切り落とした。
 暫くして、カラスの声が聞こえる程度に事務所が静まると。原と名乗った男が仕事部屋に顔を覗かせた。
「賑やかにして申し訳ない。県警のモンなんだけどさ――」と、原は改めて同じことを繰り返した。「色々伺わせて貰いわせてもらわくちゃらないようなんだべ」
 梁道一と同じ頃合の年齢であるが、刑事としての風格は備わっているようである。鷹の嘴(くちばし)のように長いツバの付いた真っ赤な野球帽をあみだに被り、貪婪(どんらん)な好奇心に眸はギラギラしている。いでたちはライム色のカットソーにジーパンという軽装である。帽子は良く見るとボロが酷くて黒ずんでおり、あまり彼には似合っていなかった。わたしには、コーディネイトを無理矢理失敗させたいがためにそうしているようにしか見えなかった。
「髪型がひどいことになってるぞ」と、原は言った。わたしに言っているのだった。「それとも、そういう断崖絶壁とかナイアガラみたいな名前のヘアースタイルなのかい。最近の流行には疎くてね……」
「気にすることはない。流行に流される警官なんてのは誰も見たくない」
「そいう意味じゃなかったんだが……」
「相棒のこと、忘れてるんじゃないのかい?」と、わたしも返してやった。
「守永のこと言ってんだべ? ほっといて平気だ。もうすぐ一年にもなんのにあんなザマでよ。ドジな上に巡り合わせが悪くてね、買った花瓶を家に帰る頃には割って、そいつを片している最中に財布をドブに落っことすような女さ」
「手帳を拝見させてもらおうか」
 帽子のつばが大きな弧を描いて、鋭い彼の顎が肯定の意味合いで頷いた。「手帳にそんなことは書いてないぜ」
 そこへ間が悪く、先ほどの守永と呼ばれた女が、タリスカーの瓶を抱えながら腰を低くして入ってきた。
「どうも……」と、彼女はちらりとわたしを見上げ、栓の抜けたボトルを差し出した。「中華街署の者ですけれども、お話しを伺わせていただきたいのです――」
 わたしはボトルを受け取りデスクへ載せると、いつだって君達は同じ事を繰り返し訊き過ぎる、と言った。
 彼女は内省するように黙り込んだ。それは警官にはあるまじき幼い仕草だった。着ている草色のクロップドパンツにはレースがあしらわれ、ブラウスの襟元にはリボンが止まり、それらが余計に彼女の容姿を若くというよりも幼く見せているのだ。
 彼女も原に習って、茄子環でベルトに留めた警察手帳を引っ張り出そうとした。原の手帳は直ぐに出てきた。彼女の手帳はポケットの底で眠っていた。引っ張り出すと、ボールペンと備忘録まで一緒になって飛び出してきた。床から拾い上げると、ようやく二人揃って掌の中で手帳を開陳した。
 写真に納まった制服姿の二人は、どこか今よりも締まって見えた。神奈川県警中華街署刑事課所属。男は原永、女は守永希望(もりなが のぞみ)という姓名であった。
 守永の手帳は、まだ割合擦り切れが少なかった。
「君はまだ手帳が綺麗だ」と、わたしは何気ない会話で口火を切って、相手の仕事を一つ減らした。
「余計なことを書いたり貼ったりしては、いけない決まりなんです。プリクラを張って懲戒を頂いた人もいまいつかいましたね」
 守永のにこやかな応対と、懇切丁寧な説明が返ってきた。
 原が耳に小指を突っ込みながら呆れたように天を仰いでいた。「無駄口叩いてるんじゃねぇぞ。いつまでパトロール気分でやってんだ」
「申し訳ありません――」
「ったく。よくそんなんで警察学校(おおふな)が卒業できたもんだ」
「珍しいコンビだ」わたしは二人へ言った。「刑事ってのは、普通はもっとベテランと新米が組むものじゃないのかい。しかし、二人ともまだ若い――」
「そう言ったって、ベテラン役はこっちが買ってんべ?」
 原はひょうひょうと事務所の中を横切って、勝手にソファへ腰を下ろした。些細な挙措から言外の雰囲気までも、そうしたした不躾(ぶしつけ)なところがあるようだった。どんな場所も、自分の寝室だと思って行動しているに違いない。比べて守永の方は、刑事としての貫禄は欠片も感じられない。刑事よりもパトロール、パトロールよりもクレープを売っている方が向いている、といった風貌だった。こういった警官を見たのははじめてだった。
 その彼女が言った。「私は二十二歳です。歳は先輩と一つしか離れていませんが、先輩の方が十期以上早いです。わたしは短大卒、先輩は高卒なので」
 原がつまらなさそうな表情になって、守永を睨めつけた。守永はその視線に全く気づかぬようであったが、それは芝居のようにも思えた。
「ドラマや映画と違って、実際の刑事ってのは元気のある若者じゃねぇと勤まらないもんでね――」と、弁解するように原が言った。「そもそもベテラン刑事が爺さんじゃなきゃならないってのはいつの時代の話しなんだ……ちっ」
 なかなか本題に入らないので、そろそろわたしの方から誘うことにした。「君達は、董道一事件の初動捜査かい。神奈川の警官がこんなところまでやって来たのは初めてだ」
 口を開いた守永を制し、原が応じた。「いや、初動捜査はもうとっくに終わってんだ。捜査依頼も出ていねえし、屍体の身元確認もできないようだから捜本(・・)もすぐに解散されてんのさ」
「初耳だよ。この事件はもっと話題になっているのかとも思った。朝刊の全国版で扱われていたよ」
「それほどじゃあないべ。一家惨殺が起きる時代さ、マスコミの餌にはならねぇよ。そもそもやつらは肥え過ぎてるきらいがある」
「董道一事件の捜査ではないのに、何故君たちはここへやって来たんだい?」
「いやいや、探偵さんに直接用事があったわけじゃない」と、原はさも自然にデスクに放り出してあったわたしの捜査資料を手に取り、眺め始めた。「コッチはフッキを尾行(つ)けてきたんだべ」
「ははあ」わたしは唸り、原から資料を取り上げ、立ったままでいる守永へ呼びかけた。「君も座りたまえ、長くなりそうだ」
「どうも」答えながら、彼女は原の隣へ腰を下ろた。まるで生まれて初めて高級なバーへ入った世間知らずな娘のように、それきり体を強張らせて押し黙っていた。原が、そんな態度を戒めるように咳払いし、わたしへ注意を戻した。
「――だから、俺達は別に董道一の屍体から見つかった名刺を見てここを尋ねてきた来たわけじゃないんだ」
「フッキ君を尾行(つ)けていたらここに辿り着いたというだけだと君たちは言いたいわけだ。だったら今すぐ彼を追いかけたほうが懸命なんじゃないかい」
「他の捜査員がやってるべ。そもそも任意同行だ。断られれば終わりさ」
「やり方が軽率なようだ」
「別に殺人事件を調査してるわけじゃないんだ。構わないだろう」
「君達がしている事は、董道一事件とは無関係だと言いたいのかい」
「難しいね、関係あるかもしれないし、無いかもしれない。フッキが董道一事件に関係があるのなら、俺達も無関係だとは言えなくなる」
「どうしてフッキ君を尾行(つ)けていたのか、詳しく説明願いたいね」
「基本的にはその手の情報ってのは取り扱い注意なんだ。それに質問したくて来たのはコッチなんだが――」
「悪いがわたしだって、初動捜査の段階での事情聴取ならともかく、フッキ君との関わりを一方的に訊かれても良く知らないとしか答えようがないよ」
「じゃあ、どうしてフッキはあんたを尋ねてきたんだろうか」
「知らないんだ。よく事情が飲み込めていない」
「随分と強気なんだな。あの馬面のフッキはタクシーを長いこと待たせてまでアンタのお帰りを待っていたんだぜ? ここまで状況が揃っていながら、アンタはそんな風にいつまでもシラを切り通すつもりなのかい」
「知っていることは全部話してもいい、だが、君達が何を知りたいのか分からない。わたしを何かで疑っているのなら見当違いもいいところだ」
「事実だけが知りたいのさ。起こった出来事を、全部洗いざらい話してくれればそれでいいんだ。起こっている出来事を知りたいってのは、半分は人間の性(さが)みたいなもんだべ」
「そう言われてもね、わたしも何が起こっているのか分からないんだ」
 原は腕を組み、思慮深げに天井を見上げた。視線の先にある明かりの無い蛍光灯から、闇が放たれているような気がした。
「コテツさんは、路辺さんの知り合いなんだって?」原はそのままの姿勢で続けた。
「向こうがわたしを知っているというだけだよ。いや、逆という気もするな」
「そういうので知り合いと呼ばなかったら、ロミオとジュリエットだっていつまでも気まづい関係だな。あんたらどうして知り合いなんだ? ここは視庁だ、県警と関わる機会はそう多くないもんだべ?」
「もう忘れたよ」
「警察に顔見知りがいるってのは良いご身分だね。そうしてふんぞり返っていられるじゃねぇか」
「路辺とはただの友達だ。その関係を崩したくは無い。と言っても、あくまで警官と探偵だがね」
「――そうかい」と、原は深く背もたれに埋れて、息を吐いた。「守永ノロミよ――」
「ノゾミです」と、守永が苛(さいな)まれた表情で答えた。「またそんな風に呼んでいると、金沢課長にどやされますよ」
「どやされるかどやされないかは、そもそも守永に懸かってんだべ。事情を上手く説明してやってくれよ、探偵さんに」
 守永は視線を泳がすと、むしろ自分が気付かぬうちに何かヘマをやらかしてしまったのではないかというように、表情を曇らせ、記憶を反芻していた。
「何をそんなにうろたえている」原がいぶかしんだ。
「あの、私、どこまで話して良いのか分からないんですけど……。いえ、別に決して話を聞いていなかったというわけではなく……」
 肩透かしを食らったのは、恐らくわたしだけではなかったのだろう。
「ほとんど話しちまって構わねぇよ」と、原が脱力気味に先を促した。「どうしてここに来ることになったのか、はじめから説明すればいい。もともと大した秘匿事項でもない。でないと始まりそうも無いべ」
 彼女は力弱く頷いて、打ち解けにくそうに膝を擦り合わせながらわたしへ体を向けた。
「コテツさん――これから私達が公にできるだけの事情は説明します。その上で、その説明に沿った形で構いませんので、ここ数日体験した出来事を全てお話ししてもらえたら助かります」
「そういう時は、知っている事を全て話せと恫喝すれば上手くいくんだ」
 目を丸くして一瞬驚いたが、すぐにそれが冗談だと分かると、彼女は顔を赤らめた。
「そうもいきません……」生真面目に首を振ると、ショートに切り揃えられた頭髪が朝顔のように広がった。「私達所轄の人間には、現在のところ捜査権はほとんどないので……」
「じゃあ、そういうところも含めて説明願おうかい」
「わかりました。やや遠回りなような気もしますが、この捜査が始まったところからいきましょう。それで納得してもらえると思うので」
「よろしい」
 彼女は教育過程の賜物といったような姿勢をとると、何かの強迫観念に迫られるように、注意深く話し始めた。
「現在、私達の担当する捜査の舵を握っているのは、所轄の刑事課ではなく県警本部の刑事部組織犯罪対策本部なんです」
「待ってくれ」と、わたしは早くも遮った。「なんだいそれは」
「ええと、所謂(いわゆる)かつての四課です。暴力団組織を対策する組織です」
「わかった。続けてくれ」
「――本来私達が舵を握るはずだった董道一事件は、捜査本部が解散した時点で先送りにされています。董道一事件は、被疑者が外国籍の人間であり、本国に問い合わせても本人確認が出来ない。その上、親族及び知人からの捜査依頼もない。初動捜査の段階でも手掛かりは挙がらない。そのため、優先度は非常に低い事件となっています。そんな事件を追っているくらいならば、もっと他に捜査するべき事件は膨大にある。―― 一先ず董道一事件は保留という位置づけにされたんです」
「その通り」原が先ほどの自分の言葉とは裏腹に口を挟んだ。「董道一事件については後回しってことで一課の捜査会議は幕を下ろしたんだ――ところが可笑しなことに、後になって本部の四課が慌しく動き始めた。董道一事件の情報については定款(ていかん)に反するほど敏感になっていてね――それで再びコッチの署の連中がこうして駆り出されてる」
 頷いて、わたしは言った。「一度はお蔵入りになった事件が、別の課によって掘り返されたというわけかい。四課は君達に詳細を説明していないのかい?」
「ないんです」と、守永が半ば強引に話頭を取り返した。「私達はほとんど一方的に下された支持をこなしているだけです。フッキの尾行も、その一環でした。四課の目的が何かは分かりません。殺人事件の解決ならば一課に任せておけば済むので、董道一事件の解決が狙いというわけではないでしょう」
「四課が関わってきているのだから、野蛮なことには違いがないのじゃないのかい」と、わたしは憶測を述べた。
 原が答えた。「所轄の連中も探偵さんと同じ考えでさ。董道一事件のどこかで、中華街の筋者さん達が一躍かっていると皆が考えていてる」
 彼は、暫く目を細めてわたしの反応をうかがっていた。いつまで経っても、彼の目の色は変わらなかった。思わずわたしは訊きなおした。
「ちがうのかい?」
「――殺人事件に足跡を残すような間抜けな筋者がいるとはなかなか考えにくい」
「そういうのは詳しくないんだ。轢き逃げ事件の状況証拠収集が今まででわたしの一番大きな仕事なんだ」
「新聞、ご覧になれていませんか?」守永が言った。
「朝と夕だけなら」
 守永は当惑したようだった。「それで結構なんですが――」
「一昨日、暴力団組員が裁判で死刑判決を受けた後にいくつかの殺人をさらに認めたという記事が載っていたのは覚えている」
「そう」原が頷いた。「その手の事件が全て解決されるなんてのはなかなか有り得ない話でね。真犯人に辿りつくための手掛かりなんてのは上手く消されてるもんさ。だから四課が殺人事件に筋者達の関連を嗅ぎつけて董事件を掘り返したとは一概には言えないんだ――もちろん、四課の捜査官が優秀だったってことで話を終わりにしてもいいんだが、それじゃあ片付かない問題も幾つか転がってる。それで結局、コッチは四課が何をしているのか調べずにはいられなくなった、あんまりよろしいことじゃないんだけどな……。管轄で動き回られたんじゃ勝手に目にも入る」
「それで?」
「――なんというか、実際のところやっぱり筋者は直接一人も絡んじゃいないようなんだ」
「なのに四課が動いている?」
「ああ。だから“直接”って言葉を使ったわけで――どうやら中華街に住み着いた華僑出身の財閥に四課はマークを付けている。その財閥が経営する“華貴楼”って中華料理店と管理事務所を張っているんだ。別にその手の疚(やま)しい店ってわけじゃないんだが――問題なのは、話題の財閥が文字通り金持ち過ぎるってことだ。金があるところには、何が集まって来てもおかしくはないべ? となると、そこで筋者達が“間接的”に絡んでくる可能性がある」
「なるほどね。それが董道一と、いったいどんな関係がある?」
「この財閥の頭領は中国本土に引き換えしちまって、今は長男が横浜を継いでいるんだがね。その長男が見逃せないね。名前が、ドン・クーシャンってんだべ」
「興味深くなってきた」
「董道一(ドン・ダオイー)と、同じ苗字なんです」守永が言った。「ただ、董道一(ドン・ダオイー)について偽名の可能性は捨てきれないのも確かですが……。それでも少なくとも、董道一(ドン・ダオイー)だと思われる屍体が発見されたその日から、中華街の裏側が妙に慌しくなっていることも確かなんです。何かあるのは確かでしょう」
 わたしは言った。「県警本部の四課が董道一事件を追うのにはそこに何かの理由があるわけかい。――だが、それならドン・クーシャンという本人に直接話を聞きにいけばいい。彼自身に何かやましいことをしている自覚があって四課に張られているのか、もっと別の要因が作用して四課が動いているのか、ドン・クーシャン本人に確認するのが早い」
「私達もそれを望んでいます。しかし――」
 守永が短く答え、原が続けた。「ドン・クーシャンは、元々札付きの悪ってワケでもない男だった。いつも外には出てこないただの成金なのさ。何の冗談か、“眠れる獅子”なんて呼ばれていてね。そんな風に呼ばれるほど表だって悪さをするもんでもないから、どこもマークなんてしていなかった。ところがいつの間にか、このドンがどこかに潜っちまってね(・・・・・・)。もしかしたら何らかの事情で飛んだ(・・・)可能性もあるが、それが意図的にか、あるいはもっと別のことだとも考えられる」
「もっと別のこともね」と、わたしはただ意味も無くその発音を繰り返した。
「別のこと……ですか」守永はそこに何かの意味を汲み取ろうとしていた。暫く考えると、そこに象徴主義の罠があることに気がつき、無駄な憶測の暴走を制御した。
 原が言った。「さっきのフッキって男は、そのドン・クーシャンの経営する中華料理店のボーイでね、元々一匹狼でやくざな商売してたのさ。偶然その店を出入りしているのを見掛けて、四課の捜査員がコッチに張っとくように伝えた。なぜだか、そしたらコテツ探偵事務所に辿り着いちまった。こりゃ偶然じゃないってんで、董道一事件に詳しい所轄の捜査員が交代で、探偵さんがご帰宅するまで待機させてもらったって顛末(てんまつ)さ」
「どうりでタイミングが良かったわけだ」
「いずれにしろ、マル被(・・・)についての情報が無いんじゃあ、いつまで経っても足踏み状態だ。そのうちに地面がぬかるんで、みんなすっ転んじまうべ」
「だが、役者は十分に出揃ったようにも思えるね」
「だろう、コテツ、コッチの身にもなってくれ。どうしたって期待を抱いちまう状況じゃないか? あんたはあの馬面との関わりに身に覚えはないのかい?」
「そう多くは無いね。はっきり言わせて貰えば今日が初対面だった」
「少ない部分でいいから聞かせてくれ。フッキがあんたの事務所からなかなか出てこないのに痺れを切らしながらも、コッチは勇み足を堪えるのにふんばってたんだ」
「聞かせるほどの話はなにもないよ」
「どんなに価値の無い話でも、それを聞いて帰るのが仕事なんだ。例えば一つの事実を聞いて帰る捜査員が十人いるとする、その十人が今度は同じことを十回繰り返す、そうすると事実が百個集まることになる」
「寄せ集めの事実ばかりだ」
「そうさ。だが、それだけ寄せ集めでも事実があれば納得できる人間が大勢いるのをあんただって知らないわけじゃない。――フッキと何を話した?」
「それを吐かせるために、ここまで詳しく事情を話してくれたのかい。四課だの、捜査本部だの。手の内を明かしたつもりかい」
「そう考えるのはソッチの自由だが、別にそういうわけじゃない――コテツが何を話したらいいか分からないと言ったんで、その指針のつもりから話した。あんたが東京から出る気が無いのなら、別に知られたって構わないもんだ」
「いいよ、わかった。わたしは最近の私立探偵のマナーがなっていないくて気にいらないんだ。だから警察にはよろこんで協力する。これ以上私立探偵の評判を地に落とすわけにはいかないからね」
「だったらコッチもコテツをそういう私立探偵に相当する扱いをさせてもらう」
「オーケー」わたしは頷いた。「フッキ君とは、董道一事件についてお互いの意見を述べ合っただけさ。しかし、わたしは何も知らないも同然だった。相手はそれが気に入らなかった。こんな調子だ」
「そんな概略だけじゃあどんな警官も納得させられないべ」
「猟奇殺人事件の犯人なんだとフッキ君が自供した、とでも言えば満足してくれるのかい」
「もう少し具体的に聞かせてもらいたい。本当のことをね」
「少しくらい守秘義務にも出番を作らせて上げようじゃないか。一度、何を他人に話していいのか依頼人と相談しなくちゃならないんだ。私立探偵の決まりでね」
「依頼人がいるのか?」
「景気が良いときなんかは始終いるものだね、わたしは私立探偵のだから」
「そんなことは聞いてない。今、誰があんたを雇ってるんだ? それで何を調べている? あんたがまだ董道一事件に関わろうと企んでいるなんて、コッチは初耳だな」
「そういうのを話さないというのが守秘義務じゃないのかい」
「守秘義務だなんてものは法律的には何の意味もないだぜ?」
「ジャスミンの花売りの少女の話を知っているかい。中国の童話でね。今、新しい節を思い出したんだ」
 原は、突如降ってきた話題に怪訝な反応を示した。「僅かにも耳にしたことが無いな。なにか関係があるのか?」
「いや、君に聞かせたくなっただけなんだ。話してみてもいいかい」
「好きにしてくれ。口を動かすのはあんたの自由だ。警官に無罪の人間を黙らせる権利はない」
 わたしは話し始めた。「少女がいたんだ。彼女は花売りでね、彼女の作った花輪は特別良く売れたらしいんだ。それを他の花売り達が妬んで、編んだ花輪を壊され続けるという被害にあった。その彼女の前を、色々な人間が通り過ぎていくんだ――」
「どんな人たちですか?」と、守永希望が眸をわたしへ固定した。
「最初に彼女の前を通り過ぎたのは法律家だった。今で言う弁護士かもしれない。彼は少女に同情して、法律で他のジプシー達を懲らしめてやろうといった。だが、花売りの少女は他のジプシー達が酷い目を見ることに抵抗した。法律家は、ならば自分には何も出来ないと言った。だったら何もする必要はないと、少女は答えた。二番目に通り過ぎたのは医者だった。彼も法律家と同様に少女へ目を懸けたが、苛めによる身体的外傷が無いのを確認すると、何も問題は無いといってどこかへ消えてしまった。そして三番目にやって来たのは憲兵だった。憲兵も少女を目に留めたが、彼女よりももっと困っている人間が他にも大勢いるのでと言って、少女を相手にしなかった。――わたしは別にこの話が良く出来ているなどと言うつもりはないが、君の意見が聞きたい」
「フィクションだね」と、原が鼻で笑った。「たとえ交番へ逃げ込んで来た人間を忙しくて相手にせず、その後にその人間が殺されてしまったとしても、あくまでその物語はフィクションでしかない。そうだろう?」
「そんなことを言っていいのかい」
「俺みたな考え方は仲間内に歓迎されない。つまり警察官全員が歓迎しないんだ」
「だろうね」
「コテツは何が言いたいんだ」
「わたしは依頼人のために働いている。その事件を途中で投げ出して、信頼できない人間の手に預ける気は毛頭無い」
「それはつまり、協力する気はないと言っているんだな?」
「そうじゃない。依頼人の許可を取ってからだと言いたいんだ」
「まぁいい」と、原は砂利を噛んだような顔で立ち上がった。「時期尚早かもしれん」
 守永が辛辣な面持ちで間に入った。「少し話しすぎてしまったのではないでしょうか?」
「別にいいべ。そうムキになるな」原が説くように答えた。「話さなきゃいけない時もあるんだってことを覚えとけよ。澱んだ水溜りも、どこか一つの堰がくずれりゃあ水が流れて綺麗になることもあるもんだ。水は流れが無いと饐えちまうべ」
「崩れやすそうな堰が、わたしだったというだけに過ぎないというわけだ……しかしね――、君達の説明したことをわたしが鵜呑みにしたとは思わないことだね」
「警官が言うんだから間違いねぇのさ」と、彼は砂を噛んだまま、唇だけでにやけた。
「警官が信用できないタチの人間でね」
「だったら信じるなよ」帽子の下の表情が狡知に歪んでいた。「まぁ、コッチも、探偵さんが何もかも話してくれるとは思ってはいなかったんだ。また来るよ。警官ってのは初動捜査ででなけりゃあ持久戦でね」彼は立ち上がり、帽子を被りなおした。「路辺さんに会ったらよろしく伝えておいてくれ。永いこと警察学校で世話になったんだ」
「次ぎ会う時に向こうの耳が遠くなっていないという保障があれば」
 原は鼻だけ鳴らすと、早々に事務所を後にした。わたしは立ち上がって、彼の背中を見送った。ウナギのように最後まで掴み所がなかった。
 守永が、両手を固く握り締めてわたしを見上げていた。
「もたもたしていると、また怒られるよ」と、わたしは注意を促した。「さっきも君が気付かないうちに睨まれていたんだ」
「気付いていました――あの時は、ノロノロしていたから睨まれたんじゃありません。先輩、高卒がコンプレックスなんです。それを軽々しく口にしたから睨まれたんです。一応、それでも先輩は頭は良いんですよ。性格もいいです」
「君はノロく見えないよ」と、わたしは言った。「むしろキレ者に見えるね」
「ジャスミンの少女は、救われたのでしょうか……」
「私立探偵が通りかかれば――、あるいは。君は本当に刑事なのかい」
「申し訳ありません」
「なぜ謝るんだい。そんなので、どうして刑事が務まる」
「私は人助けが純粋に好きなので……。例えば、絵や音楽を創ることに自分を見いだす方もいれば、犯罪捜査に自分を見いだす方もいますよね。私の場合は、人を救うことに自分を見いだしただけです」
「悪くない性(さが)だ」
「だから、たとえもし私が別の時代に生まれて、それが戦時中であったら、人を救うために戦うなり医療的な救護をするために走り回るでしょう。たまたま現在、私が警察官という手段を採っているに過ぎないのです。どんな場所でも、どんな時代でもあっても、私がしたいことには変わりがありません。だから今も、こうして私は警察官として街を走り回っているのだと思います――」
「ノロミ!」階段の踊り場から声が昇ってきて、彼女の演説を遮った。「お前と無理心中するつもりはないぞ!」
「もう行きます」と、守永はそそくさと腰を浮かせた。立ち上がるときに、膝小僧をテーブルに打ち付けた。しかめ面にならぬように気を張る彼女を、わたしは無言のまま見送った。いつだって嘲笑される宿命の娘なのかもしれない。彼女はその顔つきのまま出て行った。
 可笑しな事はまだ続いているようだった。連日で事務所に人がやってきたのだ。一文無しの酔っ払いに、やくざ者、警官コンビ。ジャンボジェット機が事務所に突っ込んできても、わたしは驚かないだろうとも思ったが、多分そんなことはないのだろう。誰もが驚いたテロリスムだ。
 梁道一(リャン・ダオイー)がわたしに伝えた酒場、そこを襲った中国人達、いなくなった前マスター、そして華僑財閥。中華街にはわたしの知らない領域があるようだった。しかし、デスクの上で、これらの繋ぎ目を眺めていることで何かが解決するとは到底考えられなかった。
 事務所の中に、夜の闇が忍び込んでいる。わたしの心にも、董道一事件が忍び込んでいるようだった。
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