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※ルビはカッコ表記です。ご了承ください。
 

THE BLANK TRACK
( correction version )
by
Taki Sara
Copyright © 2007-2010 by
Taki Sara





   6

 あくる朝、蝉(せみ)が鳴き始めるより前にベッドの中で目を開いた。瞼の持ち上がる様が、劇場の幕が上がる瞬間を思わせた。淡い光が差し込み、夏の朝特有である湿った静けさが辺りに立ち込めているのだ。そして、その劇場の幕というのはあながち的外れというわけでもなかった。これから長丁場がはじまろうとしているのだ。
 目覚まし時計を使ったのは数ヶ月ぶりのことだったので、アラームに驚かされ、ひどく動悸がしていた。わたしはそれも収まらぬうちに、着替えの時間も惜しんで、電話で路辺刑事課長の自宅の番号を回した。
 彼の場合、携帯電話は握っているだけで役に立たず、その上、早朝以外にだと彼は自宅に居た験しがないのだ。この方法以外に、路辺へ連絡を取る手段をわたしは知らなかった。
 四回目のコール音が途切れて、代わりにまたあの神経に障るような厳(いかめ)しい声が飛び出してきた。わたしはコテツだと名乗った。
「夜勤のある日にはこの時間帯に電話を入れるなと言っとったじゃないか!」
「忘れてた」と、わたしは濁しておいた。実際のところは、そんな注意を一度も聞いたことが無かった。そして、そもそも路辺の出勤時間帯をわたしが管理しているはずもないのだった。
「おかしな刑事がやって来てね」と、わたしは続けた。
「まともな刑事なんぞ聞いたことが無いぞ」
「たのむから自虐的なギャグだと言ってくれ。それが無理ならあんたは今すぐに警官を辞めるべきだ」
「私立探偵に強迫なんぞされたくないぞい。料簡を言え、料簡を。食事中なんだ。鱒の塩焼きでな。冷やかしなら切るぞ」
「中華街署の原と守永ってコンビが事務所に来たんだ。どんな刑事か知りたい」
 妙な唸り声が聞こえただけで、なかなか返事が無かった。わたしは受話器を置いて、近場のキッチンからコップに一杯の水を飲んだ。もう一度受話器を耳に当てても何も聞こえてこなかった。そこで路辺が以前、高血圧で通院しなければならなくなったと愚痴を吐いていたことを思い出し、不安になった。
「平気かい?」と、わたしは少し声を荒げた。
「ヤバいな」と、苦い返答があった。「かなりやっかいかもしれん」
「本気か?」
「ああ。何年も前からの付き合いだが、毎度毎度面倒な思いをさせられる」
「医者を呼ぶか?」
「医者!?」
「よろしくなんじゃないのかい?」
「あぁ、やっかいだ」
「無理をするな、すぐに医者を呼んでやる」
「だからなぜ医者なんだ!? 医者を呼んであの男のやり方が治るのなら誰もが呼んどるだろうよ。人間の性格は医者の手が届く領域じゃないんだぞ」
「あの男?」
「中華街署の原のことが聞きたいんじゃなかったのか?」
「……ああ、もちろんそうだが――なにを今更。続けてくれよ。それで原ってのはどんなヤツなんだい」
「何を言っとるんだオマエさんは。今まで何を聞いとったんだ、このひょうろくだまめ」
「ひょうろく――?」
「“ひょうろくだま”だ! 私ぐらいの歳の人間はマヌケの事をそう呼ぶんだ!」
「そう怒るなよ。高血圧が悪化するじゃないか」
「もうとっくに完治しとるぞ」
 電話線を鋏で切って電話機ごとデスクの角に叩きつけてやりたい衝動に駆られたが、それは幸い衝動の領域を食(は)み出さずに済んだ。
「そうかい」と、わたしは静かに答え、先を促した。
「それで、原だったな――こいつはやっかいだぞ。警察学校(おおふな)にいた頃に犯捜で受け持って以来、稀に顔を合わせるようになったがな……なかなか弧賢しい。刑事よりシノギが向いとる」咳払いで息継ぎし、独り言のように付け足した。「警官でさえなければ大成しただろうに……」
 その言葉には、どこか孫を気遣う老人のような響きがあった。師弟の間柄というものを、受話器越しで耳にするとそう聞こえるのかもしれない。受話器からは暫く犬のような低い唸り声が発せられていた。
「たしか今時分は、まだ金沢班でやっとるはずだぞ」と、路辺は朧気に言った。「原がどうかしたのか?」
「昨日の夕、相棒を連れてわたしの事務所に来たんだ。――これはさっき言ったばかりだと思ったけど……」
「こいつはあれか、学校の家庭訪問だとか三者面談だとかと似たようなことなのか?」
「それだと修羅場じゃないか。複雑に考え過ぎているよ」
「私に何を教えて欲しいというんだ。内部事情は明かせんぞ、最近はどこもかしこも個人情報にめっぽう煩くなったからな」
「原はあんたによろしくと言っていたぜ。彼の相棒の守永って方は知らないのかい。女だったよ」
「女警か……知らんな」と、淡白な反応だった。「しかし、原と組んだとなると刑事課か――女には向いとらん職場だな」
 守永がテーブルの角に膝をぶつけてしかめ面になるのを堪えている図をわたしは思い出し、肯定の言葉を述べた。
「彼女はともかく、原はどんな人間なんだい?」と、わたしは言った。「一度対面しただけじゃあ何も掴ませなかったよ。あんただったら原の言うことは信用できるのかい」
「そんな事を訊くなんて安くなったな、コテツ。あの坊主だって仮にも警官の端くれだぞ。下手な鉄砲と嘘やハッタリは別モンだ。狙いどころも無く人を騙したりはせんだろう」
「だが、あんたはシノギの方が向いてると言ったばかりだ」
「ものの例えだ、駄法螺(だぼら)じゃないぞ。原は弧賢しいが、刑事としちゃあ本物だ。なんせあの金沢班でやっとるくらいだ」
「知らないよ」
「結果重視のところだ。成績は優秀だろうな、じゃないとやっとれん。そもそもあの男は実力なんぞ無くても優遇されとる立場におるんだ」
「どういうことだい?」
「知らんのか。何年か前に週刊誌を中心に波及しとったはずだがな。知らんに越したことはないな。部外者が聞いても面白い話しじゃない」
「上層部の息子か何かなのかい」
 窮屈そうな深い溜息が聞こえた。彼の顔が、見る見る赤くなっていくのを目の前にしているようだった。怒鳴り声をなんとか抑圧し、路辺はささやいた。
「詮索は私らの仕事の内の一つだがな、それを同類にやると居場所が無くなるぞ。それ以上私に訊いてみろ、若いもんに礼状を持って行かせるからな」
「わかったよ」
 電話口で乱暴に何かが動き、受話器を放す気配が伝わってきた。
「待ってくれ」と、わたしは呼び止めた。「まだ話があるんだ。肝心な事が残ってる」
「食事中だぞ。鱒の塩焼きだぞ。なんだか今日のオマエさんは放流魚みたいに食いつきが良いじゃないか」
 魚はもう勘弁して欲しい、という言葉を飲み込んだ。飲み込んでも、何も満たされなかった。
 わたしは言った。「あれから董道一事件はどうだい」
「どうだい? どうだいとはどういう意味だ。まるで捜査が続いているみたいな言い分だな」
「そういう意味で言ったんだ」
「何をしろというんだ。司法解剖や死体検案の結果でも教えろというのか? それとも科警研(・・・)に送って屍体のDNAでも調べたいのか? それで誰と比べる? それとも裁判を起こしたいのか? 誰が何を、誰に訴えるんだ? おまえさんも素人じゃないんだ。わかっとるだろう。もうあの事件は終わりだろうよ」
「ああ――だったら、あんたが以前、中華街の管轄を受け持っていた頃の話を聞かせてくれないかい」
「山手署だ。管轄じゃあないぞ、ご近所だったって程度だ。それに、何で急にそんなことしなきゃならん」
「フッキって男を知らないかい?」
 電話口がざわめいた。路辺の声もざわめいていた。
「オマエさん、何を企てとる?」固ゆで卵みたいにぼそぼそしたささやきだった。「奇妙なことに心当たりがあるぞ。オマエさんの口からそんな糞野朗の名前が出てくるとは思わんかった」
 路辺が、こんなに従順な調子で何かを認めるという記憶は今までに無かった。
「……やっぱり何か企んでるのだろう?」と、彼は念を押した。
「それはこっちの科白さ。アンタがそんなにたおやかに情報を露呈してくれると気味が悪くなってくる」
「私だって気味が悪いぞ。そいつの名前を中華街で耳にしたのは十年ぐらい前の話になる。たしか――、私の知っとるフッキというのはな、二十歳そこいらの日本語も大して話せんような中国人の筋者くずれだった。蛇頭じゃないぞ、ありゃ筋者とは別物だ。で、――そいつは噂の絶えん坊主でな。“なんでも屋”だとか大層なことぬかしていたせいか、四課の捜査員が笑い者にしとったのをよく覚えとる。私が知っとるくらいなのだから、中華街じゃあ有名人なのだろう。もちろんその道としてだぞ」
「あんたの記憶力には驚かされたよ」
「いや、優れていたのは私の記憶力よりも、その坊主の存在感なのだろう」
「その彼も昨日、わたしの事務所に来たんだ」
 彼はせせら笑った。「私はおまえさんの繁盛具合に驚かされたよ。事務所はいつ中華街に引っ越すんだ?」
 わたしは彼の皮肉を無視して続けた。「フッキってのは、そんな以前から中華街にいるのかい?」
「おい待て、そんな皮相な判断で良いのか。私が言ってるのはもう十年も前の話なんだぞ。本当に同一人物なのか?」
「彼は自分自身で大分長いこと日本にいると言っていたよ。見てくれは東南アジア系の人種に見えて、まぁ筋者にも見えるような風貌だった」
 唸り声が聞こえた。電話の向こうで彼が大儀そうに腕を組んでいるのが想像できた。「私の知っているソイツはいつもサングラスを掛けとったな」と、彼は何気なく言った。
「昨日会ったフッキ君も、サングラスを掛けていたよ」
「他にないのか? 例えば、馬面だったとか……」
「それだ。それが一番の特徴かもしれない」
「同一人物かは知らんが、重なる特徴は多いな――」
「ああ」
「手を引けよ」と、彼は突然いつに無く真剣な口調になった。それはわたしを責めるような響きをもって、受話器を揺らした。「十年以上もいりゃあ、そこそこの古株だ。あの男には良くない噂がブンブン飛んでるぞ。それこそまるで屍体に群がる蝿みたいにな。手を引けよ。あの男とは関わっちゃならんよ」
「仕事なんだ」
「やつには手を出すなよ。警官として、それから一友人として言わせてもらおうか」
「報酬を貰ってる。依頼人も一人失ってる。全部忘れて余生を貯金と年金で過ごせというのなら、それはわたしに生きる価値が無いと言っていることになる」
「日本人にはいないがな、中国人には殺人や誘拐を金で請け負うようなのがいるんだぞ。止しとけよ」
「ありがとう」と、わたしは老残のシンボルみたいになった年寄りの繰言へと礼を返し、受話器を丁寧に置いた。
 それから、洗面所で髪型を睨みながら髭を当たった。心の中では、ランク表でフッキ君の評価を上げておいた。ランク付けは好きでなかったが、徒競走の順位を無くしてしまうほど嫌いでもないのだった。
 朝食は、トーストとかりかりに焼いたベーコンとトマトジュースで済ませた。片手に眺めていた朝刊にも大した記事は載っていなかった。

 七時過ぎ、今朝早起きした理由のうちの、もう一つの目的を果たすために事務所を発つことにした。戸口を潜るときにに、ステンレスの防火扉にメモをぶら下げておいた。
“外出中。緊急の御用の方は、下記連絡先まで”
 視界の隅で、陽光に何かが煌いていた。それは剥がれるがままにさせてある老朽した看板だった。スロットに差し込まれた銅版には、このように刻まれている。
“コテツ探偵事務所――所員:宮間己哲”
 その下部に、油性マジックによる何かの書き込みがあったが、風化して判別することは不可能だった。

 首都高速道路横浜羽田線は、空いてもおらず、混んでもいなかった。マークⅡはいつになく快調だった。風も無く海は凪、ひしめく工場地区からの排気ガスは少しも臭わなかった。
 自動車がみなとみらいランプに近づくと、『ジャックと豆の木』の大樹のような高層ビルが、ベイエリア上で無数に伸びて視界に広がった。それが所謂ウォーターフロントだった。三菱重工業横浜造船所に建てられていた倉庫街や、貨物駅のさもしかったコテンナ郡も、都市再開発の波には逆らえず、時代の移り変わりと共に屍となったようである。赤レンガ地区を除いたみなとみらい21地区は、屍を糧にし情報発信都市として、今なお金の使い方を知らない金持ちのようにぶくぶくと肥大化していた。
 わたしは桜木町のパーキングエリアにマークⅡを寝かせると、緑化公園とクイーンズスクエアを縦断した。そのスクエアは、ランドマークタワーとパシフィコ横浜の間に位置し、窮屈ではないものの、都会に埋れた自意識の強い青年を連想させた。
 パシフィックホテルのファサードで、わたしは建物を見上げた。
 空は箒でさっぱり掃いたように雲ひとつ無く、海面にはその広い空が映えている。空のぽっかりとした空間にも、海の美しさが映せないというのが残念そうである。それがナルキッソスの神話をわたしに思い出させた。神話のようになったら、空が落ちてくるという結果になるので、わたしは恐ろしくなって身震いした。
 だが、もっとわたしを身震いさせたのは、県警察本部庁舎がここから余りにも近いという事実だった。
 そんな被害妄想にも似た考えを退けて、空調が絶妙に効いたホテルのロビーへと自動回転扉を潜った。上質な絨毯(じゅうたん)がわたしの足首をくすぐった。頭上を巡る曇りの無い窓ガラスから、幾条もの光線が降り注ぎ、寛(くつろ)ぐ人々の目を細めさせていた。奥まった窪みにフロントがあり、伸び伸びとしたアレカヤシに縁取られていた。
 そこから、給仕帽に無地のワイシャツとベストを着けたベル・ボーイが、頭を下げながらわたしに近寄ってきて、ご宿泊でしょうかと伺った。持ち合わせだといって、彼を追い払った。
 時刻は八時半を少し回ったところだった。
 サマー・テラスというラウンジが開いていたので、観葉植物の陰からちらりと店内を盗み見たが、そこにも丁玲の姿はなかった。
 とりとめもなくロビーの席に掛け、このソファを事務所に置いたら依頼人は心地がよくなってなかなか帰りたがらないに違いない、などと考えた。収入が増えるかもしれない、というありもしない想像を、突然やって来た丁玲の言葉が追いやった。
「少し待たせかしら」と、声がわたしの肩を叩いた。
 立ち上がって振り返ると、フロアに降り注ぐ陽光を全身に浴びた丁玲がいた。ネイビィブルーが海面のように踊ったセミロングドレスを着て、同じ色の肩掛け(ストール)を羽織った肩まで髪を垂らしていた。ミラーグラスは見当たらなかったが、昨晩持っていた半月型のハンドバックは今日も大切そうに抱えられていた。未だ疲れと悲しみが色濃く残る表情だったが、彼女はそれをあまり表に出さないだけの賢明さと意思を持ち合わせているようだった。
「時間を約束し忘れたんで、少し不安だったんです」わたしは答えて、どこか落ち着いて話せる場所がないかと周囲を見回した。ホールにしても、ラウンジにしても人影は濃過ぎたのだ。
 彼女はやさしく微笑み、顔を斜向かいにして頷いた。「コテツが来るまで、窓からずっとロータリーを眺めていたのよ。何か探しているの?」
「給仕(ボーイ)の邪魔が入らない場所を――」
「そんなところ、あるのかしら?」
「落ち着いて話しができれば、それで結構なのです」
「だったら、私の部屋へ来ない? 暫く予約は入れてあるから」
 背を向け、ストールで煽るように促すと、足音を立てずに彼女は歩いた。
 丁度乗客を吐き出していたロビー端のエレベーターへ、わたし達は滑り込んだ。エレベーターは、老人の寝息のように静かな音を立てて上昇し、十九階で止まった。
 朝日に白く滲んだ廊下を抜けて、部屋番号を刳(く)り貫いた金細工が打ち突けられたドアを引き、部屋に入った。
 そうするなり、パノラマの窓ガラスが視界に飛び込んできた。新港を中心にしたウォーターフロントが、自らの発展の象徴として胸を張っているようだった。そこから円を描く様に、室内の調度を眺めた。瀟洒(しょうしゃ)なウッディ調の空間である。横たわれば全身が沈んでしまいそうなベッドが二つあった。かなりの大きさのマホガニーの化粧台と、同じ様式の洋服箪笥(ワードロープ)もあったが、その大きさを微塵も感じさせないほど、室内は広々としていた。
 丁玲は化粧台に座り、ハンドバックを卓上に乗せた。昨日は見なかったキャリアケースがその膝元に転がっていた。
「バルコニーから時計の付いた大きな観覧車が見えるわ」と、彼女は場違いなほどの上機嫌な声を出した。「夜景はお嫌い?」
「今は朝ですよ」と、軽く話頭を流した。「どうしてツインルームなんです?」
「道一を見つけたら、暫く二人でゆっくりしようと思っていたから……」
「余計なことを訊きましたね」
「余計なことを訊くのが、コテツのお仕事だって、理解してるわ」
「体の調子はどうです?」
「どこにも問題はないわ。夕べだって、そんなに問題があったわけじゃないの」
「手が震えていて、顔が蒼ざめた人間を診て、正常だと診断する医者はこの国にいませんよ」
「さらりと大勢の人間を敵に回すことを言うわね」
「冗談のつもりだったんです」
 無粋な会話は、意外にもわたし達の間に親しみのような感情を生んでくれた。丁玲の幅の利いた口元が、おかしそうに弓形に反った。軟らかい光が唇で滑った。窓ガラスから差し込むうららかな陽光が作り出した朗らかな光景だった。彼女の視線は遠くパノラマの向こうで鴎(かもめ)と戯れ、新港の内で泳いでいた。
「一見、この眺めは上海のようだわ」と、彼女は何気なく言った。「東方明珠広(藩)電視塔(ドンファンミンジューグアンボーディエンシーター)からの眺めのよう。港があり、かつては租界があって、無頼の港湾労働者達が町の酒場から溢れかえっていた。堤防に沿う遊歩道があって、開港当時の洋風な建築物が残っている外灘(ワイタン)のような雰囲気もある……そして今でもその風景が微かに残っているの」
「オールド・シャンハイがあったように、オールド・ヨコハマもある」
「そうね、確かに上海にもジャズが響いて、艶やかなチャイナドレスが煌く歓楽街があったわ。でも、もうそれは魔都と呼ばれていた頃の大昔の話しよね……」
 彼女は横浜を透かしていつの時代かの故郷を眺めているようだった。それはそう遠くない未来における故郷の姿であるのかもしれない。時間の流れの中に、董道一と彼女が共に過ごした月日が呑み込まれていくのを、わたしは感じていた。町の移り変わりから見れば、無かったも同然の男の存在が、屍体となることで何かを叫んでいるように思われた。
「上海(シャンハイ)にファーストフード店が沢山建って繁盛して、そのやり方が間違ってなかったなんて言われているけれど、中国人は誰もそんなこと思ってはいないわ。ハンバーガーがどういうものか、一度興味本位に食べてみたいと思っているだけ。美味しいかマズイかはまた別の話なのよ」
 話が一人歩きし、目的地が見えなくなっていた。最後に一言、彼女の言葉を聞いて、本題へ入ることにした。
 彼女は付け加えた。「上海では都市開発が進んだその影で、ジャスミンの花環売り達の居場所がなくなっているのよ」
 わたしは部屋の奥まで進み、ベッドに腰掛けた。備え付けの電子ポットから、丁玲は紅茶を淹れた。ソーサーに乗せた二人分のティーカップが、低くて丸い硝子卓子にそっと乗せられた。ソーサーには、目が回りそうな紋様が描かれている。わたしは何も入れずに紅茶を飲んだ。
「色々と伺いたいことが増えたんです」と、わたしは細心の注意を払ってカップを置いた。ソーサーの紋様のせいで目が回り、手もとが狂いそうだった。
「よろしいですか?」
「ええ」と、彼女は足を組み替え、剥き出しになった太もものストッキングを引っ張った。そのせいで、余計にわたしの手もとが狂いそうになった。しかし、ここからが本当の意味でのわたしの仕事の始まりなのだった。
 わたしは訊いた。「はじめに訊いておきたいことは、あなたに道一以外の兄弟がいないか、ということです」
「長男が。中華街に」と、彼女は足を組み替えるよりも自然に、さらりと言った。「もともと日本へは、彼を頼りにやってきたのだから」
「彼はドン・クーシャンという名ですか?」
 髪を梳き、ティーカップ越しに彼女は微笑をくれた。「仕事が早くて何よりだわ」
「てっきり中国では今、少子化政策でほとんど兄弟がいないものだと思っていました……。一人っ子ばかりかと――。あなたが董道一の姉だと聞いた時から、ずっと考えていたんです」
「あら、そんなこと……」と、彼女はカップを置き、両手の平で身振りを交えながら答えた。「一人っ子政策っていうのはね、両親二人が中国人の場合だけ影響を受けるものなのよ。私達の母親は日本人よ――母親が日本人だと、まだ言ってなかったかしら? でも……、そもそもその政策は田舎へ行けば何も機能していないわね」
「そういうことでしたか」と、わたしは的外れな質問を取り下げ、先を続けた。「兄のドン・クーシャンが、今どこで何をしているのかご存知ですか」
 彼女は頭を振った。「いいえ。私も彼を探しているの。店にも事務所にも邸にも連絡がつかないものだから、困っていて。――店って言うのは、彼の経営する料理店のことよ? 事務所というのもその系列」
「ドン・クーシャン氏が料理店を経営していることは、他の場所で耳にしました。あなたは、普段から彼と連絡をとりあっている仲なのですか?」
「頻繁に、とは言えないわね。私は中国に住んでいるし、兄は日本(こっち)でしょう。しかもクーシャンは変わり者で……正直、仲は良くなかったわ。クーシャンは、兄妹でも人と余り関わりを持ちたがらない性格だったのよ。それが他人となれば尚更。料理店の経営は代理人に任せておいて、お金は放っておいても入ってくるから、余計に引き篭もってしまっているのね。常識が欠落しているというだけで、その他は至って普通の人間だということぐらいしか、フォローが効かないわ」
「ある一面からのみ見れば、常識が欠落した時点で普通の人間とは呼びづらいかもしれませんよ」
「常識だとか、普通だとか言うのは、難しい問題ね。人によって、捉え方が全く違うものだから……」
 その主題をより深く掘り下げることを拒むように、彼女の視線がわたしから逸れていった。まるでオッカムの剃刀のように、彼女自身が董道一事件に必然と要求される事象以外を拒んでいるようである。本題へ、話しを戻すことにした。
「まだ幾つか気になることがあります。お訊きしてもよろしいですか」
「ええ、コテツは私ために働いてくれているのよね、答えられるものなら答えるわよ」
 彼女は未だ残る悲しみの器の中で、もがくような愛想の良い微笑を作って頷いた。
「梁(リャン)という苗字について知りたいのです」
 しかしその質問に追いやられるように、彼女の微笑は行き場をなくした。
「さあ」と、気難しそうに彼女は首を捻った。「どういう意味かにもよるわ……良く耳にする苗字だから――」
「道一が、わたしには梁(リャン)だと最初に名乗ったのです。しかし、事件が起こった後になって、道一の噂のどこを耳にしても梁という苗字は釣り針に引っ掛かってこない。パスポートの表記も董という名でした」
 丁玲は押し黙って、眉をしかめた。
「どこまでお話しするべきかしらね」
 彼女は立ち上がり、ベッドのサイドテーブルからシガレットホールダーを手に取った。わたしの目の前では、ゆらゆらと彼女のスカートの裾が、現実と夢の境のように揺れていた。
「あまりこの事件とは関係のないことだと思うし……」
「差し障り無い程度で結構です。無理矢理あれこれと聞き出すやり方は好きじゃない」
 彼女はぎくしゃくした動きで席に戻ってくると、紙マッチで煙草に火を点けた。彼女の脚のように細く長い煙草だった。
「簡単に言うと、私達兄妹と道一は血が繋がっていないということね。道一は、董家の血を継いでいないのだけれど、董家の人間としては生きていたわ。それで、梁というのは、その董家の人間になる以前の苗字なの。生まれた時は、梁道一。今は、董道一」
「董家の人間として生きていた、というのはどういった意味ですか」
「身寄りが無い彼を、経済力のある董財閥が見返りを期待して育てたの。そういうのって、国柄なのよ。中国は広いわ、土地も人種も歴史も身分も、何もかもが。そいう場所では、労働力と血筋がどこへ行っても重宝されたり後ろ盾になってくれる。梁と名乗ったのは、彼が以前の生まれにもきっとまだ未練があったからだと思う……」
 彼女の態度が、またそれ以上の説明を切り落とした。
 事件そのものと関係のない過去を掘り返すという作業は、わたしが彼女に雇われている以上、無用でしかない行為のようだった。しかし、それは思ったよりもやっかいなことである。彼女が抱える事情が事件と関与している場合であっても、それを明かすかの主導権は彼女にあるのだ。
 しかし、今のわたしに無理矢理その主導権を奪う力は無いだろう。そして、そもそもそのような無理強いな行為は、ささやかな自分のポリシーに反するのだった。
「道一は、やっぱり最後はクーシャンを尋ねたのかしら――」今度は彼女の方から質問をしてきた。
「色々な要素を考慮をすると、それが一番可能性が高いと考えられます。しかし、彼はなぜ日本へやってきたのですか?」
「私にもよくわからないわ。道一が何をしようとしていたのかなんて……」
 室内に注ぐ陽光が急に弱弱しくなった。突然思い出したかのように外では風が鳴りはじめ、先ほどまで凪ていた海に白波がちらついた。雲はビデオテープのコマ送りのように流れ、わたし達の間から何かを奪い去っていくようである。
 丁玲の疲れが、油絵のタッチのような深さをもって輪郭を成していくのを見ているような気がしていた。さかんに触れられていた董家の話題も、彼女の気骨を折れさせている。そのことは傍目にも良く分かっていた。
 丁玲の顔は蒼白く、呼吸は上辺だけのもので、悲壮感が、涙の堰に罅を入れた。
「まだ訊き足りないことは多くあります」と、わたしは言った。「しかし、それはまた少し時間を置いてからにしましょう。私立探偵の追う事件に、時効はありません。まずは、ご自分の精神と体調を管理してください。今は、わたしができることだけをしておきます」
 彼女はしなだれた。押し隠していた疲れを見破られたことと、自分がまいっているという現実を見せ付けられことに打ちのめされているようだった。
「今の私って、そんなに無力かしら? 何もできないの?」彼女は僭越ながらという調子で言った。
「ドン・クーシャン氏に会うための手掛かりを思い出してみてください。彼の写真を持っていませんか?」
「いいえ、ここには無いわ」
「彼が何かを握っているのかいないのか、知らなければなりません。警察側の目論見(もくろみ)もそうあるでしょう。何か彼についての情報があれば――」
「警察が絡んでいるの?」
「殺人事件ですからね」
「そう……」と、彼女は絶望の谷底にでも転がり落ちて行くようにベッドへ体を倒した。
「ドン・クーシャン氏が直接犯人として疑われているわけではありません」
 慰めにもならような言葉をわたしは言った。
「分かっているわ。でも、どんな兄でも、兄には変わりないのだから……不安にもなるのよ」
「彼の行き先について何か心当たりはありませんか?」
 寝そべったまま天井を眺めて、彼女は言った。「昨日、大陸酒館に行く前にも兄を探してみたの。山手の邸も、中華街の料理店も、事務所にも行ってみたの。事務所と料理店は、普段どおり。経営の代理人も連絡がつかなくて困っているようだっただけ――。それだけなら納得がいったのだけれど、邸にだって使用人も誰もいないのだから、やっぱりおかしいわ……。もちろん携帯も繋がらない……」
 わたしは念のために、彼女の携帯電話の番号と、クーシャンの家、料理店、事務所の三箇所の住所も訊いて、手帳に控えた。
「こうなると、杳として行くへの知れないドン・クーシャン氏を探すことが、一先ずの仕事となりそうです。彼に友人はいなかったのですか?」
「いるはずがないわよ……」
 その断言する口調が、手詰まりを煽った。丁玲の指の間に挟まれたホールダーの先で燻る煙草が、少しづつ灰へ変わってゆき、重力にしなっていた。わたしはクリスタルの灰皿をその下に滑らせた。灰が縁を掠めて、精神鑑定のロールシャッハテストのような図を描いた。
「フッキという男に心当たりはありませんか」と、わたしは言った。「ドン・クーシャン氏の経営する料理店で働いていた、剣呑な感じの男です。背が高く、坊主頭で――」
「伏羲(フーシー)ね」と、彼女はベッドから上体だけを起こした。「知っているわ。サングラスのでしょう? 汗血馬みたいな顔をしてる」
「フーシー?」
「中国の神様で伏羲(フーシー)というのがいるの、彼の渾名(あだな)よ」
 彼女は、少々複雑な漢字を備え付けのメモ用紙に走り書きしてみせた。
「昨日、その伏羲に会ったんです。彼はクーシャン氏の経営する料理店でボーイをしていたと聞いたのですが、何か知っているような、思わせぶりな態度でした。もしかしたら、彼がクーシャン氏の居所を知っているかもしれない……」
「伏羲(フーシー)が、クーシャンを?」ほとんど無意識のような表情で、彼女はおうむ返しに言った。
「彼はどういった男なのですか。まだ一度会ったというだけで、輪郭がはっきりとしていないので」
「そうね――たしか、福建の出身だという話を本人から聞いたことがあったわ。とにかく儲けることならなんでもやる男というイメージが強いのよ……。店に来る前は、一匹狼で根城を作らず、いつも敵味方関係なく稼いでいたようだったし……。イソップ童話で「ひきょうなこうもり」というのがあったでしょう? あんな感じで、方々に敵を作っていたわね」
「蝙蝠(こうもり)はその時から世の中に脅えて安全な穴蔵で暮らすようになったという話ですね」
「伏羲(フーシー)にとって、その安全な穴蔵というのがクーシャンの下だったのよ。もともとは、中国人同士というのは同族意識が強いものでしょう? それで店の経営者に労働力として価値を認められれば、クーシャンの財力が守ってくれるのかもしれない」
「やくざ者たちからも身を守ってくれると?」
「同じ中国人同士なら、董家の名前を聞くだけでも手は出さないはずよ……。日本のは知らないけれど、伏羲(フーシー)がまだ陸(おか)にいるってことは、手を出していないのでしょうね」
「考えずらい事実ですね。それほど大きな財閥の血なのですか? 董というのは……」
「詳しく知りたいの? 1890年代の租借権だとか、門戸開放だとか、利権回収運動なんて単語出てくるのよ? ――そんなの、私に説明する気力が湧かないわよ……」
「では、それもまたいずれ詳しく伺うことにしましょう」
「でも……だったら、簡単にだけ今も教えとくわ。――董家はね、華僑を基盤にアメリカ資本で成り立っている財閥というのが骨組みなの。でもそれだけじゃないみたいだわ――父が今死に床でね、もう医者から告げられた余命はとっくに過ぎているの。そこで、財産の在りどころをはっきりさせておこうという話しが血縁の者達で持ち上がって、色々私も教えてもらった」
「具体的には?」
「『三国志』を知っているかしら? そこに董卓という男が出てくるの。その血を継いでいると教えられたのよ。信じられる? 私には馬鹿馬鹿しくて信じられないけど。董卓は北西部出身、私は上海だわ」
「血筋というものには、そういった迷信は付き物です」
「そういうこと。そういう迷信がつくような家系、家柄なのよ」と、彼女は瞼を閉じると、クスリと笑った。「あなたのコテツっていうのも、面白いけれどね。苗字なのか、名前なのかすらはっきりしないもの」
「もう少し、伏羲について話しを訊いてもよろしいですか?」
 彼女は途方に暮れたように、再びベッドへ埋もれた。が、すぐに思い直すと焦点をわたしへ結びなおした。
「いいわ」
「伏羲がドン・クーシャン氏の店を辞めていた場合、次に彼の身の安全を確保してくれるような場所が他にありますか。やはり彼にもう一度出会うことが、ドン・クーシャン氏へ会うためのの近道かもしれないと思うのです」
「もし伏羲(フーシー)がどこかに隠れているとしても、中華街は無理だわ。何かよっぽどのカードがない限り、今までに彼が恨みを買った敵から匿ってやろうとする人間はいないわよ」
 わたしは頷き、答えた。「どうやら状況は複雑というわけでもありませんが、わたし達の方にもカードが足りないようです」
 わたし目を瞑り、もう一度自分の手札を眺めた。まずまずのカードが手札に残っていることに気がついた。県警の四課が伏羲を張っているという原の話が思い出されたのだった。伏羲の出入りする場所ならば、原か守永から聞き出せなくもないだろう。
「警察沙汰は嫌いですか?」わたしは言った。
「好きな人間はいないと思うわ」
「警察の手を借りると、上手い具合に事が運ぶかもしれないのです」
「コテツはそう考えるの?」
「はい」
「あなたを信用するわ」
「電話を借りてもいいですか」
「好きにして」
 わたしは立ち上がり、サイドテーブルから受話器を持ち上げ、一一〇番を押した。一回目の呼び出し音が鳴り止まぬうちに、相手が出た。
 相手が言い出す前に、わたしから一方的に告げた。「中華街署の原に伝えて欲しい。探偵が連絡をくれと言っていたと」
「こちら、神奈川県警です」と、老獪そうな男の声がゆっくりと言った。「ご用件をもう一度お願いします」
「あとは録音テープに訊いてくれ」と、言下(ごんか)に言って受話器を耳から離した。
「どちらからお掛け――」
 そのまま受話器を置いた。オペーレーターがマニュアルに沿ってできるだけ会話を引き伸ばそうとしてくるのに合わせる必要は無かった。わたしは再びベッドに掛けて、携帯電話を枕元に置いた。
「何をしたの?」丁玲が言った。「なんだかおもしろそうだったわよ」
 適当な言い訳を述べようとすると、都合よく、虫の羽音のような泣き声を上げて携帯電話がバイブレーションをはじめた。
 通話ボタンを押すと、原の野卑な声が、雑踏のざわめきを押しのけて飛び出してきた。
「コテツがこんなに遠慮会釈も無い人間だとは思わなかったべ」
「他に方法が見当たらなかったんだ」
「コッチがソッチの電話番号をいつでも知っているのだと思ったのなら自惚れだべ」
「だったら君はこの現状をどう形容するんだい」
 暫く考える間が合って、「自惚れだべ」と、彼は続けた。「自惚れ以外に何があるんだいコテツ。遺留品(りゅう)にあったソッチの名刺が偶然にまだ署に残ってたから分かったんだ」
「良い言い訳を考えたね」
「少しは警官を信用する努力をしたほうがいい。リハビリをしようじゃないか。信用できる警官もいるんだってことを、体に叩き込んで教えてやる」
「その科白が信用できないね」
「聞き捨てならねぇな。料簡があんだべ? 直接会って聞いてやるよ」
「良いリハビリになりそうだ。会いたいのはそっちなんだろう」
「おかしなことに非番なんだ。反町の自宅にいる。だが、私立探偵なんぞを自宅に上げたくはない。何が仕掛けられるか分かったもんじゃない」
「非番なのは別におかしなことじゃないよ」
「気を利かせたつもりだったんだがね。電話で話せる事件の内容なんてのはたかが知れてる。ましてや警官の自宅で何を話そうってんだい」
「気を利かせる相手が間違ってるよ」
「青木橋で待ってろよ。自宅から近いし、あそこの眺めが好きなんだ。京浜急行電鉄の神奈川駅の出入り口だよ」
「外なのかい? 時間と季節を考えてくれ」
「気を利かせる相手が間違っているんじゃなかったのかい」
「結構だね」と、言ったわたしの視界の片隅で、丁玲が退屈そうに伸びをした。「三十分で行く。切るよ、女性を待たせてるんだ」
「クソッたれ」と、恨めしそうに彼は吐き捨てて、電話を切った。わたしも携帯電話をしまった。
 丁玲がふらふらとわたしの隣に腰掛けた。煙草が微かに匂った。
「私を待たせてるって言うの?」と、草臥れた声で彼女は言った。「私立探偵は大変だわ、依頼人の機嫌も取らないといけないのだから」
「どうして煙草を吸うんです?」
「それじゃあ機嫌は取れないわよ」
「残念です」
 彼女の横顔を、わたしはそっと眺めた。先ほどあった彼女自身の言葉を証明するかのように、容姿には董道一と似たところはあまり無い。しかし、ふとした拍子に見せる暗い眸と、次の瞬間にはそれを忘れさせてしまいそうな無邪気な微笑みは、あの夕暮れに事務所の待合室で見たものと似ている。その向こう側に見え隠れするものは何であろうか、わたしの知る由も無い。
「もうずっと煙草は止めてたのよ、何年も」と、彼女は独り言のように呟いた。「道一が止めてと言うから止めたのよ。でも――」
「そういう時は、何にだってあるものです」
「また止めようと思うわ」
 “そういう時”というのが、私立探偵と依頼人という間柄にもやって来てしまうのであろうか。それが来ないに越した事はない。なのに、いつまで経ってもわたしと董道一との間では、“そういう時”が一向に終わりそうもないのは、何故なのであろうか。

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