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THE BLANK TRACK
( correction version )

by
Taki Sara
Copyright © 2007-2010 by
Taki Sara





   7


 先ほどの曇天が嘘のように、空はまた夏本来の姿を取り戻していた。夏の空というのは、いつだってそうやって何かを忘れさせてしまう効果があるような気がする。
 しかし約束を忘れるわけにはいかなかった。
 原との口約の地である京浜急行電鉄本線の神奈川駅というと、JR横浜駅から目と鼻の先である。歩くには遠く、車を出すには近すぎた。そこで、わたしは両者の中間である列車を採用し、桜木町で根岸線に乗り込み、横浜駅で降りた。改修工事の進むプラットホームを下り、港側の東口へと群集を裂いた。
 そこは海の臭いのしない港町だった。香らないだけでなく、見えもしなかった。なのに、豪華客船をモチーフにしたショッピングモールを宣伝するポスターが、いたるところに張り巡らされているのだ。目に止まるものは、寂れたビル郡と幹線道路、そしてそれらを縫って流れる、海月(くらげ)の浮いた川だけだった。その堰に無数にへばり着いたカラス貝達だけが、わたしに海が近いことを教えているのだった。
 線路に沿って上ると、目的地はがっかりさせるほどの近さだった。
 青木橋は、造った人間が何の矜持も持ち得ないような個性の無いデザインだった。差し渡し三十メートルほどの長さで、股下に八本のレールを敷いて仰臥(ぎょうが)している。
 橋まで行くと、わたしは大仰な造りの欄干に腕を持たれながら辺りを眺めていた。
 人通りはあったが、原の姿はまだ見えなかった。交通量も多く、袂(たもと)には神奈川駅が蹲(うずくま)っている。ひっきりなしにやって来る列車が、轟音を引きずりながら橋脚を潜り抜けて横浜駅へと飲み込まれていく度に、足元が軋るのだった。
 ビル郡を線路が両断するだけのこの景色は、わたしに何の感銘も生んでくれはしなかった。なぜ、原がこんな場所にわたしを呼び出したのか、鑑みる必要があるのだろうか。
 さらに上り線が四本、下り線が二本、列車が橋下駄を潜り抜けたところで、わたしの隣で欄干にもたれた男がいた。赤い帽子が、どちらかといえばあまり目にやさしく無さそうな感じで輝いた。彼は、昨日と同じようにラフな服装だった。白いTシャツにジーンズ。
「この景色が素晴らしいもんだとは言わないよ」先に原が口を開いた。「でも“神奈川区ビューポイント36景”ってのに選ばれているらしいぜ。こんな街中にビューポイントだなんて、酔っ払いみたいな話さ」
「なに、場違いだって言われるのはこの橋だけじゃないんだ」
 原は片手の指を折ってピストルをこさえると、わたしへ照準をあわせた。
「ドン! これであんたの存在を知る者はなくなる――場違いってのは、そういう意味だべ。この橋も同じなんだ。孤独で時代遅れな橋さ。誰も覚えちゃいないし誰も気に留めない。死んだらそれで終わるが、それで何かが変わるわけでもない」
 彼は口を開けて、ねんごろな調子で大笑いした。列車が足下を潜り抜け、笑い声とデシペル数を競い合った。列車と共に笑い声も去り、原が真顔に戻った。
「あんたも笑えよ。笑わない男は嫌われるぜ」
「嫌われるには早すぎる」
 わたしも笑おうとしたが、思い直して止めた。彼は気にもせずに先を続けた。
「もう橋の話は終わりだ。何の生産性もない――。死んだ人間の話をしている気分になるよ」
 言った途端、また足下で列車が走り抜けた。何も聞こえなくなった。列車が去ると、わたしは言った。
「待ち合わせの場所が失敗だ。話し合いにならない」
「違うな。ここなら誰にも話を盗み聞きをされずに済むんだ」
 誰に盗み聞きをされるのか。その疑問に意味は無かった。恐らく都合はわたしにではなく、彼の方にあるのだ。
「君は非番だなんて大嘘なんだろう」と、わたしは言った。「そう言っておいて、わざわざわたしに気を遣わせないようにしたんじゃないのか。随分やさしい男じゃないか」
 彼は口の端を持ち上げて、微笑らしきものを見せた。
「茶化してんだべ?」さらに帽子を持ち上げて、頭を撫でた。別に帽子で禿を隠しているというわけでもなかった。使い古された豚毛のブラシみたいな剛毛が、ちゃんと生え揃っている。
「昨日一度会ったきりだ。コテツがそんなにコッチのことを知ってるわけじゃない」
「君もわたしのことをそんなに知っているわけじゃない」
「いや……」と、彼は頭を振った。「わかるよ。そういう仕事は十八番だべ。刑事ってのは、人を観る仕事なんだ」
「プライドは努力して手に入れたものには持たないほうが良い、という」
「つまり?」
「人を観る仕事ってのは、警官だけの仕事じゃないんだ」
「そうかい、そうだな、そうかもしれん」
 良く分からない三段活用が繰り出されたが、続く言葉は的外れなほど真剣なものだった。
「色んな人間を見る――色んな人間がそれぞれの事情を抱えてる。あんたも俺も、そんな“色んな”の隙間に生まれるトラブルを食い扶持(ぶち)にしてコソコソと生きてる。だが決定的な違いがある。それがなんだか分かるかい?」
「いや」
「警官になると、人それぞれの事情が大切なものに見えなくなってくる。人の都合なんてのは、法律を守らせるためにはゴミ屑と変わらないものだと思わなきゃならない。昆虫学者がバッタを眺めるように、警官は涙を流す人間を観察できるようになる。法律が上手いこと円滑に通るようにするために、進路にはみ出して来たゴミは四の五の言わずに脇へどけなきゃならんのさ。――まったく嫌な話だ。もしも、そんな風に俺を眺める人間がいたとしたら黙っていられないだろうな。だが実際のところ、そんな風に人を眺めてるのは俺自身なのさ」
 わたしは路辺の言葉を思い出した。「かなりやっかいかもしれん」という意味が、体験となって身に染み込んでくるのを感じていた。彼の人生哲学を聞いてやらねばならない謂れは無いのだ。しかし、そのはずだったにもかかわらず、わたしは次のように訊いた。
「警官でありながら警官が嫌なようだね」
「どうだろうな……。年間六人のペースで自殺者が出て、殺人事件が一日に四件あると毎日意識させられるような職場をあんたは好きになれるかい? ――実際に世の中で起こる殺人事件はもっと多いんだ。“事件性がない”と判断されて殺人事件として扱われないものはもっと沢山あるし、今回の董道一事件のように未解決のままに放置される件は掃いて捨てるほどある。今の警察制度では、扱う事件が少ないほど都合が良いんだ。掃き溜だよ」
「試験を受けろよ」
「試験に受かっても、休みが増えて給料が上がるぐらいなもんさ」
「じゃなかったら、これからの君の部下に期待するんだな」
「新米時代に優秀なやつに限って、大物にはならないもんだ」
「さぞかし君は優秀だったのだろう」
「皮肉はよせよ。そういう意味で言ったんじゃなかったんだ、警察の組織的な話さ。――優秀な警官は真面目に働いて、真面目に取り締まる。そうやって真面目に働くやつは試験勉強をする暇がない。試験勉強ができねぇやつはテストに受からない。もうレールが敷かれちまってんのさ」
 それで憂さが晴れたのか、彼の前座が終わった。こういう雑談から入るやり方は、取調べや職務質問で刑事が良くやるやり方でもある。
 原の視線がまじまじとわたしに注がれた。
「話があると言ってきたのは、ソッチだった」
「伏羲(フッキ)はどうしてる?」
 本題へ入ることに躊躇する必要は無かった。
「あの馬面か……別にどうもしちゃいないな。今も交代で見張りが入ってるよ。塒(ねぐら)で大人しくしてる」
「あの男が、ドン・クーシャンの居所を知っているかもしれないんだ」
「どこに根拠が――?」
「根拠が欲しいなら好きにこの横浜中を探せばいい。わたしはただ伏羲に会いたいんだ」
「ふざけた野朗だ」
 帽子の下で視線がぶつかった。わたしの科白を挑発と受け取ったようだった。原が一歩踏み込んでくるのと、わたしが二歩退がるのが同時だった。
「はじめて面(つら)見たときに思ったが、テメェは気にくわねぇよ」
「不祥事が好きなら他でやってくれ」わたしは語気を受け流した。
「昨日の伏羲とのやり取りで何かを掴んだな? どんな内容のやり取りをした?」
 なにも答えずにいると、原は諦めたようにポケットへ手を突っ込んだ。列車の騒音が、その殺伐とした瞬間の空気を消し飛ばした。
 わたしは言った。「四課が伏羲を噛ん(・・)でいない以上、彼らはまだ伏羲が重要な事実を握っているという確証は得ていないはずだよ」
「伏羲を泳がせているだけかもしれないぜ」
「泳がせているのか?」
「――いや」と、原は慎重に首を振った。「張っているだけだ。そもそも四課は伏羲が重要な人物だなんて思っちゃいないべ。今は野放しも同然だ」
「わたしとしては、伏羲と直接会ってもう一度話がしたい。出来れば四課のマークを外した状態でだ」
「それは聞きようによっちゃあ、警察を出し抜こうって話に聞こえるぜ? 意外に大胆なんだな」
「目の前の警官に許可を貰おうとしている」
 列車の騒音の中に笑い声が木霊した。原は、可笑しくてたまらないといったように腹を押さえた。
「はっきり言って不可能な相談だ。民間人と協力だ? 捜査会議を何回開かせるつもりだ?」
 彼はなおも小馬鹿にしたような笑い続けた。
「探偵と警官だべ? それは敵国のスパイを信じるようなものじゃないか」
「伏羲はわたしに会いたがっているんだ。警官よりも、わたしが直接会いに行った方が上手くやれるかもしれない。君の相棒よりは上手くやれるかもしれないな」
「相棒ってのは、守永のことか?」
 そこで笑い声はピタリと凪いだ。彼は帽子に触り、ためらって手を戻すと、もう一度帽子に触れた。表情は酷く捩れ曲がっていた。警官の持つ道徳心と倫理観、さらにはもう一つの得体の知れない感情が葛藤していた。わたしに手を貸すのか、貸さないのか、何かがせめぎあっているようだった。
 迷走した魂がやっと帰ってきたというように、原は視線を戻すと、暫く腕を組んだ後、自分へ言い訳するように言った。
「この掃き溜で、今更ろくでもない警官が一人腐ったところで何か変わるかね。むしろ変わるってんなら、歓迎じゃないか」
 彼はさらに何か言いかけた。が、そのとき、彼の良心を代弁するように、サイレンを鳴らしたPCが通りを南へ走り抜けていった。
「犯罪が目立ちすぎるんだ」彼は言った。「こういうのもモラル・パニックっていうのかね」
「社会学者じゃないんだ」
「そうかい」
「君は腐った警官なのか?」
「もぎたてのオレンジよりはね」
 わたし達は同時に息を吐いた。彼の語り節はいつまでたってもそんな調子なのだった。
「伏羲に会わなくてはならないんだ」と、わたしは何度目かの説得を試みた。
「俺は、新鮮なオレンジじゃないからな」彼はほくそえんだ。「会いにいくぞ。そんでテメェが何を企んでいるのか暴いてやるよ。こいつはもちろんコテツのための取り計らいじゃない。そもそも所轄ってのは、閉口したまま本部の言いなりになってるのが苦手な人種の集まりでね」
「首の皮が繋がったよ」
「意外に分厚い首の皮じゃねぇか」
「伏羲の塒(ねぐら)がどこなのか、教えてくれ」
「勝手に動かない、とまず約束しろ。俺も対談には参加させてもらう」
「約束しよう」
「証明してくれ」
「貧しいが、プライドまで捨てたつもりはないんだ」
「分かった、信じよう。シティホテルだ。筋者に匿われる以上、接触しずらい。それ以上細かくはまだ言えない」
「相手は中国人か」
「日本人だ」
「壁が多いな。障害物競走は学生時代から苦手なんだ。一度平均台で痛い目をみてね――」
「コッチは借り物競争が苦手だね、知り合いが少ないもんで、いつも貸し手がいなかった。――それで、そんな顔の効かない男二人が、ずかずか乗り込んだところで簡単に馬面に会える思うのかい。そうかい――あんたは思うってワケだ、だから話を持ちかけた。いいよ、俺はあんたを信じよう。だが言っとくが、伏羲とその筋者さん達が一体どんな関係で結ばれているかは知らないぞ。馬面に金は無い。しゃぶや拳銃やスネークヘッド(蛇頭)のルートを持っているってこともない。あるいは同胞意識の強い福建の出身の者が裏で手を引いている可能性もあるが、見通しはつかない」
「それでも伏羲は必ずわたしと会いたがるはずだから、そこから徐々にいけばいい」
「その妙な自信が空威張りでないことを祈るよ」
「彼を表敬訪問する時間を教えてくれ」
「早い方がいいんだべ? だとしたら今夜、深夜になると思う。場所や詳しいことは追って連絡する」
「時間は空けておく、携帯に連絡をしてくれれば大丈夫だ」
「そうかよ」彼は欄干をから離れると背を向けた。「じゃあ、俺との話はここで切り上げだ」
 わたし達も背を向けて、別々の方向へ歩き出した。僅かに残るわたし達の影を、京浜急行戦の轟音が散り散りにさせていった。
 歩きながら、彼の最後の言い草が気になっていた。“俺との話はここで切り上げだ”ということは、彼以外との話は済んでいないということなのだろうか。たいして進まないうちに、どうやらその通りだったことが分かった。
 ブリティッシュグリーンに塗られた旧型のローバーミニが、歩道を行くわたしの傍らで徐行し、寄せてきた。わたしはペースを落とさずに歩き続けた。ミニのウィンドガラスが下った。
「昨日、あれから何か思い出されたことはありませんでしたか?」
 覗いたシルエットは守永だった。していることの割には無垢な眸の輝きである。わたしが歩き続けると、ミニもそれにしつこく付いて回った。
「ちょっとそこの喫茶店でお話ししましょうか」
「何も話すことは無いよ」
「急いでいるんですか? お時間はとらせませんよ」
「急いでる。昼食がまだなんだ」
「だったら丁度良かった――」
 最後まで聞かぬうちに、わたしは横道へ逸れて手頃な喫茶店の戸を引いた。背後から、慌てたパンプスの靴音が追ってきていた。「何名ですか」と店員(ウェイトレス)に訊かれた時には、既に守永が隣で息を弾ませていた。
「一名」と、わたしは答えたが、「二名です」と、守永のゆるやかな口調が訂正した。
 わたしは踵を返し、店員(ウェイトレス)には申し訳ないと思いながらも店を出た。それから路地を出鱈目に逍遥し、地下道を潜り、繁華街を闊歩した。それでも、靴音は影のように付いてきて、執拗にわたしを追い回した。背後でクラクションが鳴った時もあったが、それはわたしに向けられたものではなかった。
 わたしは足を止めて、振り返った。彼女の頭頂部が胸元を小突いた。
「話を……」と、彼女は呟いた。
「今日はドライブ日和だ。こんな日は私立探偵の後を付け回すよりも、海岸通りで海風を追い駆けている方が気分は良い」
「仕事が好きなので」
「だったら尚更、たまには倦んだって誰も文句は言えないさ」
「話を伺いたいんです」
「わたしに何の利益がある?」
 答えは無く、彼女はまた堪えるように薄い唇をわなわなと結んだ。
 都合よく、わたしの携帯電話が鳴った。呼び出しているのは路辺だった。通話ボタンを押し、横浜駅に向かって歩きだした。
「今朝方、言い忘れとったことがある」
 しゃがれ声が、岩でも持ち上げるときみたいに踏ん張って、受話器から出てきた。
「事件から手は引けないよ」
「オマエさん、董道一事件がまだ解決される見通しがあると思い込んどるようだがな、そうもいかんぞ」
「何故だい」
「似たような事件は過去にも何度か前例があってな。その場合のマニュアルに則(のっと)って、遺留品(りゅう)は全て中国大使館の方へ送られたそうだ。これで事実上捜査も打ち切りだ」
「まだ何も分かっちゃいない」
「ああそうだ。お偉い善良な私立探偵殿の言う通りだ。だが私に何が出来る? 麻布にある大使館におまえさんを案内することぐらいしかできんだろ。そんなことに何の意味ある」
「別にあんたを責めたわけじゃない」
「なぁコテツ、手を引けよ。何の意味もない、良くある事件じゃないか。あんな事件、きっとマル暴同士の諍いが生んだに過ぎんぞ。マル暴同士の抗争なら屍体を隠匿する方が珍しいんだ。あの有り様はいかにもじゃないか」
「そう思っていればいい」
「去るもの水を濁さず、だ。事件から手を引くのなら今のうちだろう」
「あんたが言いたかったのは、結局そのことだけじゃないのかい?」
「そうじゃないないわい。いいか、良く聞け――」
 わたしは乱暴に電話を切った。
 しかし、その先で待つものも結局は警官なのだった。迷子の子犬みたいに跡を尾いてきた守永は、わたしが見咎めると、おずおずと笑った。この娘は一仕草ごとに幼くなる。
「董道一事件は打ち切りだよ」わたしは汗を拭いながら、彼女へ言った。「もう訊きこみをする必要はないんだ」
「前にも言いました」彼女も頬に、汗で髪をへばりつかせていた。「私達が追っているのは董道一事件そのものではありません」
 横浜駅西口の改札までやってきた。
「わたしは電車に乗るよ。君は車を取りに戻るんだ。路駐を食らうことになる」
「それでは原先輩に顔向けできません」
「わたし以外で収穫をあげてくれ」
「できません。いつも無邪気で健気な女を武器にしたような捜査にしか参加させてくれなかったのに、今回だけはようやくそれらしい仕事がもらえたんです」
「これから髪を切りに行こうかと思っていたんだ。おかしな髪型のままでね。また今度にしてくれ」
「私が切って差し上げます」
「まだ昼食も食べてないんだ」
「ご馳走します」
「警官は金の貸し借りなどは厳禁だ」
「家で……ご馳走します」
 うんざりもしていたが、彼女に対し、半ば同情にも似たような気持が生まれ始めた。こんな生娘のような刑事が存在することが奇跡のように思えたのだ。
「仕方ない」と、言った後に、食べ物に釣られたような形となった自分が惨めに思えた。
「同情ですか」と、突然彼女は訴えるような眼差しをわたしへ送った。「それは同情ですか? 私が女だからという哀れみも混じっていますか?」
「そうして欲しいのかい?」
「い、いえ……そうではなくて……。いつもそうのような扱いを受けていたものでつい……」
 彼女を無視し、わたしはローバーミニが駐められた通りへ引き返した。
 車は照りつける日差しを避けて、体よく雑居ビルの一階に押し込まれていた。それでも、彼女に促されて乗り込んだ車内は茹だるように蒸し暑かった。エアコンは無かった。守永の眸は、無言のうちに謝っている。わたし達は揃ってウィンドガラスを巻き下ろし、外の空気を入れた。車は暑さの中で場違いな身震いをすると発進し、旧東海道の流れに乗った。
「どこに行くつもりだい」わたしは訊いた。
「もちろん自宅です」
「君の上司のかい?」
「どうしてそんなことを言うんです?」
「警官が自宅に招待だなんて、フィクションにだって聞いた事が無くてね」
「気にすることはないですよ」
 彼女の運転は交通規制をよく守り、三分間クッキングの料理の手順くらいにスムーズだった。ローバーはのんびり旧東海道を下り続け、伊勢佐木町へと入った。途中で食材を買いに彼女はスーパーへ走った。依頼人がいない時の自分の私生活のような、塩気の無い日常がそこにあった。
 阪東橋信号付近で守永はハンドルを左に切ると、コンビニが一階に賃貸する真っ白な中層マンションの前で駐めた。リフト式の駐車場にミニを寝かせ、思ったよりも厳重そうなセキュリティ設備を横目にホールを抜けて、エレベーターに乗り込んだ。わたし達は五階で降りて、寒々とした開放廊下を進んだ。
 飾り気の無い玄関の前で、彼女が部屋を少し片付けてくると言い、廊下へわたしを残した。階下を見下ろしながら、わたしは待った。
 付近は奥まった住宅街のためか、人通りはそれほど多くなかった。選挙の宣伝車に驚いて飛んできた蝉が、目の前の手摺りに止まり、すぐにまた空へ飛翔していった。空は相変わらずこざっぱりとした表情をしている。その様相が、知らない土地にいるという足元がぬかるんだような感覚を少し薄れさせてくれたような気がした。港区と横浜、同じ港町でも似ているところはそう多くは無いようだった。
 背後でドアの開く気配がした。
「どうぞ」と、守永が手招いた。「暑い中待たせて申し訳ありませんでした」
 わたしは案内に従って木目調の廊下を抜け、クーラーの利き始めた居間(リビング)へと進んだ。
「もともとそう物が多いわけではないので……特に待っていただく必要は無かったんですけど……。それでも職業柄お見せできないものがありますので――お掛けになってください」
 室内はLDKの間取りで、良くあるといえばたしかに良くある造りのマンションの一室だった。リビングは整理され、デスクの上には何もなく、警官として基本が私生活でも徹底的に管理されている様子が伺える。物は少ないが、書棚はびっちり埋められていた。法律や心理学の専門書もあれば、剣道の入門書、サッカー雑誌、古い新聞記事などもあった。
 わたしは、円形のローテーブルに向かったカウチソファに掛けさせられた。普段見慣れないピンク調の室内のせいか、尻の置き場が妙にしっくりこなかった。
「すぐに食事がしたいですか?」と、彼女は開口一番に言った。ローテーブルの上に散在に詰まれた雑誌をブックスタンドに納めている。
「尋問に食事はつきものだ」と、わたしは答えた。
 柔和な笑顔で応えると、彼女はキッチンへ消えた。
 警官らしくもない、無防備で気立ての良い娘だった。誰もがなんとなく背中をぽんと押してやりたくなるような空気を持っている。
 わたしは、誰もいなくなった室内をもう一度ぐるりと見回した。
 小さなテレビとコンポが、テレビ台に一緒になって積まれていた。その横で、窓から入る陽射しに写真立てが存在を主張するように煌いた。それだけがわたしの眼を惹いた。角度を変えれば、ここからでも映っている人間が判別できる。
 アルミニウムフレームの中には一組の若い男女が収まっていた。二人とも夏服姿で、干し出された真っ白なシーツみたいにさっぱりとした笑顔で寄り添っている。海岸のバルコニーで撮られた写真のようで、背景にはなだらかに続く砂地と青い海が広がっている。
 そこに映し出されていた男が誰であるのか、すぐにわかった。男は原だった。顔立ちは変わらないが、今のように眸には貪婪さを備えてはいない。世の中は、真っ直ぐに光り輝くものだけが支配しているといったことを疑わない眸だった。女の方は、守永ではなかった。記憶にはない人間である。ただ、その見知らぬ少女がわたしの目を惹いたのは、彼女が赤い野球帽を被っていたからであった。真っ白いワンピースに、砂だらけになったはだしの足の裏を見せて、原に寄りかかり、無垢に輝く笑顔が弾けている。その無心な面影には、少々茶目っ気のある赤い帽子が良く似合っていた。さすがにそれ以上覗くことには、良心の呵責があった。
 わたしは、その傍らに置かれた赤いブックカバーの文庫本に目を移した。P・D・ジェイムス『女には向かない職業』と背表紙には印字がある。
 守永がデミタスカップを二つ、手に握ったまま帰ってきた。食事はまだのようだった。
「インスタントですが……」と、カップをテーブルに乗せ、アツツと一人呟きながら手を擦り合わせた。危なっかしい手つきで蓮っ葉な仕草であったが、顧みてみればこの事件に関わって以来、わたしに人間らしい態度で接してくれたのは彼女だけであったような気がした。
「悪いね」わたしはカップに口をつけた。
「悪くなんてないですよ。だって私が呼んだんですから」
 彼女はキッチンへ戻り、今度はキッチンミトンを着けて、パスタを二皿運んだ。フォークを受け取り、それを麺と絡めながら、わたしは訊いた。
「書物が多いね」
「どれも学生時代に集めたものです」
「サッカー雑誌なんてのもある」
「応援しているチームが連勝中でも、自分がスタジアムへ応援しに行けば必ず負けますけど……」
「あそこの赤いのは?」と、パスタを口に運びながら『女には向かない職業』を指した。
「あれは原先輩がくれたんです。私が読むべきだって……『女には向かない職業』だなんて……きっと嫌味を込めたんですよ」
「ははあ」
「私、刑事に向いてませんか?」
「それはわたしが判断することではない」
「そうですよね……」
「原は、読書が趣味なのかい」
「何でも読むって言ってましたね。ドストエフスキーとかアーウィン・ショーとか、ドゥルーズみたいな専門書でも」
 その名を聞いて、董道一と交わしたアレクセイ、スメルジャコフという冗談が思い出された。
「董道一事件について、何か思い当たる節がありましたか……?」
 顔に出たのか、彼女はするどく聞き返した。
「原から訊くといい。原には話せることは話してある」
「それでも、自分の耳で聞くことが重要なんです」
 わたしは彼女の熱意に負け、原へ伝えたことを説明した。彼女はそれに対し、丁寧な礼を返した。そして脇に放置してあったショルダーバッグから赤い手帳を取り出すと「一応、渡しておきます。もし何かあれば――」と、手帳の隙間から名刺を一枚抜きとり、わたしに進呈した。
 名前と携帯電話の番号しか印刷されていない、最近の女性には見られないデザインだった。こういった一面がなければ、すぐにでも彼女が警官であることを忘れてしまいそうだった。わたしは、それを手抜かり無く受け取って、念のために自分の名刺も進呈した。
「お名前の通りのデザインの名刺ですね」とだけ、守永は味気なく呟いた。
 彼女の尋問は続かなかったので、今度はわたしから出し抜けに、原について質問をした。今夜、何も知らない相手と組んで危険な人間と相対するというのも間抜けな話だろう。
「なぜ、原先輩について知りたいのですか?」不審そうに、彼女は言った。
「君も見た目とは反して、中身はやはり根っからの警官なようだね。なにかと動機から入りたがるみたいだ」
 彼女は消沈した。「これでも、警官である自分とそうでない自分……もっと明確に分けられたらなって思っているんですが……」
「警官という職業では難しいことだ」
「その通りです、警官は警官であることから逃れられない。と同時に、警官としての私と、女性としての私。二つを共存させていくことは求められていません。……この職業が長くなれば長くなるほど、昔の自分は消えていくように感じます。今では……どちらも本当の自分じゃないような錯覚に陥るときもあります」
「自分では、警官に向いてないと思っているのかい」
「さあ、でも……自分が警官ではない姿を想像することはとても難しいです……。家族からは、この職業に就くことを止められました。母親はいませんが、父親は娘をこんな仕事には就かせたくなかったようです……」彼女は一瞬戸惑い、わたしの表情が先を促しているのを見て取ると、また話し始めた。「この仕事に就いたのは、大学生の頃に偶然ひったくり犯を捕まえて、その時に警察官の方に誘われたのがきっかけなんです。おかしなことに、その決意をひったくりの被害者のお婆さんに話したら、“女の子には向かない職業だよ”って、止められましたけど……」
 原も守永も、今までにわたしが出会った警官とは決定的に違うところがあった。わたしの経験を通じて眺めると、警官というのは何かを一方的に押し付けて生きている人間が多く、自らの足元を見つめながら生きている者は少ない。しかし、この二人は足元を見つめ、その立つ瀬に吹き付ける風向きを感じ、歩く方向を定めかねているようだった。
「きっと原先輩は」と、彼女は言った。「私のこの二面性というか、迷いを見抜いているんです。そして、上辺だけ刑事になっても未だに踏ん切りのついていない私を指して、ノロミだなんて呼んでいるんだと思います――」
 彼女はカップの中の自分へ寂しそうな笑みを向けた。その微笑は、自己愛とは正反対の、自分と理想との距離に戸惑ったような、諦めの混じったもののように見えた。
 いつの間にか、原よりも守永自身についての話題となっていたことにわたしは気がついた。
 軌道修正するつもりでわたしは言った。「その原は君からみるとどんな人間だい」
「そういえば――コテツさんはそちらに興味がおありでしたね。あなたはやはり探偵のようです。何かこうして色々とつい話してしまうような雰囲気を持っています……」
 その主張は、彼女が自分の立場を揶揄したものなのだろうか、と思いつつも話を進めた。
 やはり今夜、伏羲のような男と談議する上で原を信じられるのか、彼女の評価が気になるところだった。
「原とはコンビが長いのかい?」わたしは言った。
「今年の十月で一年です。上手く仕事をこなせてきたのかは分からないですけど、思い返してみるとあっという間に過ぎ去った一年でした。良くある話ですね」
「私生活でも、繋がりはあったり、立ち入った話しがあったりするのかい」
 彼女は残念そうに眼を伏せた。「少し……だけです」
「なるほど。原は刑事としては優秀?」
「それは間違いありません。警察学校時代から学生隊を務めて、研修で入った中華街署からはそのまま誘いが来たらしいです。現場での検挙率は優秀だったので、配属先は署長の薦めもあって刑事課ということになりました。私とは雲泥の差で……」
「君の場合はそうでないと?」
「私は、署長に頼み込んで刑事課に配属させてもらいました……大学時代のことが忘れられなかったんです――その時にはじめて人の役に立ったような人間ですので……。かなり無理を言ってしまったな、と反省しています」
「原の方は、ああ見えて嘱目された新人だったわけだ」
「そうなります。色々、理由はあるんですけど――」
「理由?」
 路辺とのやり取りを振り返りながら、期待とも好奇心ともとれる感情に突き動かされながらわたしは聞き返した。
 彼女は気まずそうに、コーヒーカップの水面に移った自分とにらめっこすると、ゆっくりと言葉を選びながら話しはじめた。
「六年前――その頃、私はまだ学生だったので、詳しいところは署内の噂で聞いた話ですが――反町のあるマンションで強姦殺人事件がありました。現場は改修工事で使われなくなった古いエレベーターで、被害者は卒業間近の女子高校生――この区域では有名な進学校の生徒だった赤嶺愛美さんという方でした。事件の真相は遺留品(りゅう)からすぐに明らかになり、ホシは簡単に割れました。――ですが、ガサで見つかったのは少量の覚醒剤(しゃぶ)と顧客リスト、それからホシの屍体でした……自殺した後だったんです。ホシは元締めで、厚生省からもマークされていた男でした」
 わたしは黙って、彼女の話に耳を傾け続けた。
「悲しいことに、最近ではもうこんな事件も私達の耳に馴染んでしまいましたね。でも当時、この事件はそれだけでなく、ある理由から一部週刊誌のマスコミによって持ち上げられました。理由は、殺された赤嶺さんの父親が、所轄の警官だったからです」
 その噂に記憶はあると言えばあるが、ないと言えばないような気もするものだった。
「週刊誌のマスコミが取り上げたのには、さらにもう一つ重大な理由がありました。――赤嶺さんにも、以前から麻薬の所持疑惑が浮上していたからなんです。皮肉なものですね、警察官の娘がそんな風になってしまうというのは――でも、こういった話は実際のところ珍しくない話なんです」
「それが、原の刑事待遇とどういう関係が?」
 守永は顔を上げて、机の写真立てを眺めた。「そこの写真の、赤い帽子を被った女性が赤嶺愛美さんです。恐らくですが……当時の原先輩の恋人さんです。先輩は、事件があってからは大学行きを諦めて、すぐに警察官になることを決意したのだと、署内の噂で聞きました。つまり原先輩は、高校時代に恋人さんを亡くしているんです」
 わたしは言葉を失くしたまま、頭の中で原の人物像を練り上げた。
 こうした仕事を続けていると、思わぬ形で興味の無かった人間の過去を発掘してしまうことがある。その掘り出し物の価値は知らないが、かなり不気味なものを掘り返してしまったという印象だった。
「麻取(まとり)になるか警官になるかは相当悩んだそうです。原先輩自身が、どこに元凶を求めるのかということを悩んだんですね。麻薬と人間のどちらが悪いのか。結局、先輩は警官を選びました。そっちのほうが手を出しやすかったからという理由からかもしれません。しかし、それから後になっても、麻薬捜査のできる生活安全課か刑事課か、どちらに就くかは迷ったんじゃないでしょうか……現在は署長の薦めもあって刑事課にいますが……本心はどちらなのか分かりません」
 少しづつ、わたしの中で原永という男が立体的に像を持ち始めていた。
「そういう環境ですから」と、彼女は付け足した。「先輩には同期からの風当たりが少し冷たいというのも感じます……俺が俺が主義と言いますか――先輩の中では他人と自分しかないんです。それでいて、赤嶺さんの父親は現在も現役で続けておられますので、その視線が保護しているというか……」
「よくわかるよ。警察ってのは博愛主義に縦社会の権化みたいなところだと、耳にタコができてそれが潰れるくらいに話したがる爺さんがいる」
「コテツさん――」
 すがるような眼差しで、彼女はわたしを見つめていた。その眼差しには、知性と情熱が宿っていた。彼女ならば、原や周囲との距離をきちんとした定規(じょうぎ)で計ってくことができるのではないだろうか。成長過程に有る植物のように、伸びしろをもっている。成長の早さのためか、周囲の環境が変化していく様にたじろいている、といった印象なのだった。わたしに出来ることは何もないだろう。
「ところで、どうしてそんな写真が君の部屋にあるんだい」
「それは……」と、彼女はあまり進んでいない自分の皿を眺め、やり場が無さそうにうな垂れた。「なぜでしょうね……自分でも良く分かりません。そんな大変な過去もあるんだと、自分に言い聞かせ、おびえなくいいよう、そうした思想のようなものに縋(すが)っているだけなのかもしれません」
 わたしは、自分の背に吹き付ける風向きが変わっていることを感じていた。
「今夜……もし何かあれば」と、守永は誦えるように言った。「先輩を助けてあげてください。一夜限りのパートナーを、よろしくお願いします」

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