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THE BLANK TRACK
( correction version )

by
Taki Sara
Copyright © 2007-2010 by
Taki Sara





   8
 マンションを出ると、夕刻の日と人影が濃い大通り公園をぶらぶらと北上した。時間は余っていた。わたしは捜査を続けるために、黄昏の残る中華街へと戻っていた。
 ドン・クーシャンの店は、“華貴楼”という、中華街の隅を抜ける開港道を歩けば視野を掠める二階建てのレストランだった。中華街では中級といった規模で、店内にはわたしの想像していたようなくるくる回る円卓などはなく、蟹とアヒルと鮫以外のメニューもあった。せっかくなので暖簾(のれん)を潜り、ジャスミン・ティーを啜りながら、ウェイターに二・三の質問をぶつけてみた。訊きこみの内容は、はじめは大きな括りから、徐々に細部に触れていくという要領で行った。それでも、何の収穫も得られなかった。それから後も、空いた時間を中華街での訊きこみに費やしたが、結果は同じく芳しくなかった。
 日が落ちると、それに伴ってほとんどの店はシャッターを下ろし、観光客の足も中華街に留まることよりも海へ抜けることを選び始めた。わたしはその日の訊きこみを諦めて、桜木町へと戻ることにした。
 JR関内駅から根岸線に乗り、旧市街と新地区の間で揺られ、変わり行く街並みを眺めた。地理にも詳しいとは言い難い土地で、勘違いをしたような髪型の、力足らずで余所者の私立探偵が車窓に映っていた。すっかり髪の毛を切ることを忘れていた。
 桜木町で、髪型を隠すためのソフト帽を買った。ショウウィンドで身形を確認しながら、依頼人の宿泊するパシフィックホテルへ入った。深い理由があったわけではなく、ただ原との約束の時間まで何もしないよりはましだという思いに駆られての事だった。
 金細工を打ち付けたドアをノックをすると、直ぐにドアが開いて、多少失望したよな丁玲が迎えた。
「時間が空いたので、調査報告をしようと――」と、わたしは言った。「逐一依頼人とは連絡を取っておくのが方針なんです」
 紅潮した頬で彼女は頷き、わたしを通した。
 部屋へ進むと、彼女は今朝と同じように化粧台に掛けて半月型のハンドバッグを大事そうに抱えた。今朝からずっとそうしていたのではないか、という気持になった。が、化粧台の上に置かれたウィスキーのボトルとロックグラスが、そんな錯覚を振り払った。ラベルを眺めると、カティサークで、その中身はもう指二本分も残ってはいなかった。
 沈黙が苛んだのか、彼女は気まずそうに言葉を発した。
「これでは人間として立派だとは言えないわね……」
「依頼人が立派でなくとも仕事に差し障りはありません」
 彼女に必要だったものは慰めなのかもしれなかったが、生憎わたしはそれを持ち合わせてはいなかった。わたしが与えられるものは現実のみである。その現実が、彼女を慰められればいいが、とわたしは思った。
「伏羲とはこれから出会えそうです」わたしベッドへ腰を下ろした。「彼からクーシャン氏の居所を訊き出せれば、捜査は大きく進展するでしょう」
「いつ伏羲(フーシー)と会うの?」
「今晩という話ですが、正確な時間はまだ知らされていません」
「コテツは、伏羲(フーシー)とどういう間柄なの?」
「昨日知り合ったばかりなのに、殴り合いができるような間柄です」
「あまりよろしくないのね……」
 彼女の手が伸びてきて、先ほど買った帽子を掻っ攫(さら)った。
「あの男を甘く見ていると、髪型だけじゃなくって、頭に巻いた包帯も隠すことになるわよ」
「今朝は髭も剃ってワイシャツも新調した。伏羲君が不快だと感じることは何一つ無ありませんよ」
「あなたは伏羲(フーシー)を全く理解していないのね」
「自分のことも他人のことも、ほとんど理解してはいませんがね。この仕事をしている限り、理解なんて言葉とは無縁なので」
「その程度なら……一人で行くのは止した方がいいわよ。あんな野卑な男とわざわざ直接会う必要なんてないわ。電話でやり取りできないの?」
「殴り合いをしに行くというわけじゃないんです」
「そうだけれど……」と、彼女は長い睫を伏せ、声を低くした。それからボトルに手を伸ばし、酒をグラスに注ぎ、いかにも慣れた風情でストレートを一息に煽った。
「彼って、通り名みたいなものが沢山あるの――知ってるかしら?」まるでその事実自体が恐れることでもあるかのように、彼女は身を震わせた。「中華街へ行けば耳にできるわよ。白痴(バイチィ)なんて陰口で言われてるけど、誰も彼の前でそんな風に呼ぶ者はいないわ。徒党を組んで歩く筋者達だって、彼と街で鉢会えば道を空けるのよ」
 彼女はまた酒を注ぎ、グラスを煽って中身を空にした。薪をくべるように、彼女は酒が入るたびに頑固になるようだった。 わたしは『白痴』と言われて二つの小説を思い出したが、いずれにせよ最近はドストエフスキーに縁がありすぎて気味が悪くなっただけった。
「あなたは白痴美に近いものがありますね」と、わたしは言った。何にしても、伏羲についての情報の受け皿は溢れるほどだったので、話題を変えたかった。
「うれしくないわ、そういうことを言われても。弟が殺されたのに涙も流せない女が哀れで、あなたはそんなことを言っているのね」
「良くしゃべり、表情は動くが、その割には感情が少ない。表情や気持ちでは笑っているようでも、それ以外のどこかで泣いているようにも見える。でも、どこで泣いているのかは分からない」
「そんなことは、どうだっていいことだわ」
 眠りに誘われるようにゆっくりと彼女は目を閉じると、溜息を吐いて、またグラスに酒を満たした。それでほとんどボトルは空になった。
「パスポートのこと、お訊きしてもいいですか。今朝の続きです」と、わたしは切り出した。
 彼女には何のことだか分からないようだった。この問い掛けは、董道一事件に関する疑問の一つで、現状で思いつく限り最後の質問だった。補足を加えながら、わたしは続けた。
「昨日中華街で発見された屍体が所持していたパスポートのことなんです。パスポートは偽装でした。記帳された個人情報は道一のものですが、パスポート自体は偽造なんです。なぜ道一が偽装パスポートを所持していたのかということ自体も疑問ですが、同時に、普通日本で発見される偽造パスポートの多くは写真を張り替えただけと言うような単純なものが多いのに比べて、遺留品の偽装パスポートは個人情報までも書き換えられているという手の込んだものだというのも謎です。通常では手に入りにくい作りの物なのです。その辺に、なにか心当たりはありませんか」
「わからないわよ。……そんな難しいこと訊かれても……」
 尤もだった。そこまで詳しい事情が分かっていれば、私立探偵など雇う必要は無いのだ。
 彼女は再びグラスに酒を注ごうとしたが、ボトルが空なのに気付き、煙草に手を伸ばした。わたしは彼女のところへ行って、煙草を取り上げた。黒く細長いスタイリッシュなデザインの煙草だった。フランス語でシガローネとプリントされている。
 丁玲は、やり場の無いリビドーを抱えたまま立ち上がると、窓辺に佇み外を眺めた。視線の先では、壊れたネックレスのような夜景が無機質な埋立地を飾っている。
「残念だわ」と、彼女は静かに囁いた。
 わたしは黙ったままでいて、そして彼女もそれ切り駄々をこねたりはしなかった。
 わたしはシガローネをポケットへ落とすと、使われていない方のベッドへ体を横たえた。スプリングの軋む音が静けさの中に罅(ひび)入った。
 腕を頭で組んで、目を瞑り、暫く耳を澄ましていた。何も聞こえてはこない。が、頭の中では伏羲の馬面と董道一の仏頂面が行ったり来たりしていた。それらを苦労して振り払うと、今度は原と守永の姿が浮かんだ。
 守永は「警官は警官であることからは逃げられない――」と、言った。わたしも私立探偵であることからは逃げられないのだろうか、と思った。もし逃れられるのらば、私は何をするのだろうか。毎朝六時半に目を覚まし、新聞を眺めながら妻と一緒に朝食を摂り、電車に揺られながら会社へ行く。大事な商談を前に緊張しながら、妻の顔を思い出し、定時の夕方には帰るのだろうか。
 だがそんな疑問に答えが出るはずも無かった。
 もう一度、ベッドの上で耳を澄ませた。やはり何も聞こえてはこなかった。わたしは胸の中にぽっかり穴が開き、そこを海風が吹き抜けていくようなざわめきを感じていた。
 深夜までには、まだかなり時間があった。約束の刻までには遠い、と自分に語りかけたが、誰も何も答えなかった。誰も何も答えない。何年も、私立探偵として幾たびも質問を繰り返して来たのにもかかわらず、まだ誰も核心的な答えを提示してくれた事は無い。
 わたしはそのまま短い眠りについた――

 羽虫が耳元で飛び回っているような音が聞こえ、まどろみを裂いた。携帯電話がわたしを呼んでいるのだった。いつの間にか部屋の明かりは消え、ナイトランプだけが淡い光を放っている。
「起きたの?」という丁玲のやさしい言葉に軽く頷き返し、電話に出た。ディスプレイの光芒が青白く部屋に浮かんだ。
「原だ」と、相手は言った。「今どこにいる?」
「まだ横浜にいるよ」わたしは答えた。丁玲に目をやると、隣のベッドに潜り込みながらこちらを伺っていた。
「横浜のどこにいる?」
「埋立地だね」
「みなとみらいか――だったら三十分あれば平気だな。桜木町のガードを潜った辺りで待っていてくれ。コッチから向かいくべ」
 サイドテーブルに埋め込まれたデジタル時計に目をやると、〇時五六分だった。
「手ぶらでいいのかい?」と、わたしは言った。
「伏羲への土産があれば十分だべ」
「結構――」
 ああ、とだけ反応があって、電話は切れた。
 わたしは立ち上がり、化粧台の鏡で身形を確認した。疲れてはいないが、強張った表情が映っている。まだこの表情になるには早すぎた。これから嫌というほどこんな表情ができる。
「行くの――?」丁玲の声が、背後からわたしを包んだ。「ねぇ、コテツ。雇い主のいない探偵もサマにならないけれど、逆もまた然りよ」
 気の利いた言葉が出てこなかったので、わたしは頷いておいた。
「帰ってきてね――」と、彼女は言った。「もう追い掛けるのは、嫌だから……」
 わたしは部屋を出た。ナイトランプの明かりを受けて、上半身を起こしながらわたしを見送る丁玲の影だけが網膜に焼きついた。

 エレベーターが下りきると、到着ベルが、ホールの静寂の中で駆けずり回った。そのままホテルを出て、思ったよりも明るい夜のクイーンズスクエアを縦断した。
 残業中の労働者達が根を詰めているのか、周囲の高層ビル郡にはまだ疎(まば)らに明かりの灯る箇所が点在している。コスモワールドの観覧車は空しく時刻を報(しら)せ、使われなくなった巨大な車輪のようなシルエットを誇示し続けていた。昼間はたいして気にも留めなかったクロスゲートも、今はギュスターヴ・ドレの描いたバベルの塔のように闇に染まる天を貫いて気を滅入らせた。まるで深海に沈んだ古代文明都市の中でも歩くように、わたしはそろそろとJR桜木町駅へと向かった。

 黄ばんだ蛍光灯が煌々と点る駅構内のガードを潜り、わたしはファサードで原を待った。一時二十分、ガラガラの上り三車線道路を、周囲の闇と競うかのように黒く塗られたBMWのコンヴァーティブルが身を低くして疾走してきた。ファサードに滑り込んできて、ウィンドウが下りるより前に、赤い帽子が見えた。わたしはすばやく助手席に乗り込んだ。
「こんな時間まで一体どこで隠れてたんだ?」と、原はいぶかしんだ。
「山下公園のダンボールの中さ」
 原がつまらなさそうに笑い、BMWを怒らせるようにしてアクセルを踏み込んだ。
「急いでいるのかい?」わたしは訊いて、横目に流れる景色を追った。
「いや」と、彼は答えた。「コテツがあんまりにもセンスの無ぇことを言うから機嫌を損ねちまったんだべ」
「どこまで行くんだい」
 BMWは、日ノ出町方面へと平戸桜木道路を下りはじめていた。
「黒鉄町のマンションだべ」と、原は言った。
「そう言われても、ピンとこない」
「そうか、コテツは余所者だったな……」原は、伸びはじめてきている青苔のような顎鬚を撫でた。「京浜急行のガード下に埋れた街だよ。昭和十六年に湘南電気鉄道と京浜急行が合併してからずっと、ガードに下に敷かれ続けちまった日陰の街なのさ」
「もう少し詳しく」
「ああ。戦後は特殊飲食店街と麻薬売買で盛ってたんだ。特に二十年代は、京浜急行のガードを境にして密売組織の縄張り争いが頻発してた。その後は娼婦街になった。二○○五年から、横浜開港百五十周年を目標にして一斉摘発があった。いたちごっこには変わりないが、昔はバラックだらけだった風景も、今はマンションや平屋が立ち並んでる」
「まだ摘発をうけているのかい」
「鳴りを潜めたのは確かさ。しかし、それも表向きだけのようにも見える。スナックの看板を出して、中身では違うことやってるのがほとんどだべ」
「伏羲はそんなところにいるのかい」
「はじめはそうじゃなかった」と、彼は頭を振った。「マル対は動いたよ」
「隠語を使わないでくれ。わたしは刑事じゃないんだ」
 原は恨めしそうに舌を鳴らすと続けた。
「山下公園の氷川丸の正面辺りに建ってるホテルニューグランドっつう老舗シティホテルを知ってるか? 彼の有名なベイ・ブルースも泊まったホテルでな。今日の夕暮れまではそこの旧館に根を張っていたんだが――どうにも何かが起こり始めているのかもしれない……。日が落ちてから根城を変えやがった」
「で、その新たな根城が黒鉄町というところなわけかい」
「そうだ。あそこの娼婦はどいつも外人だからな。東南アジア、中国、中南米、ロシアってところか。馬面が出入りしててもカムフラージュは効くだろうな」
「マンションだと言ったね。部屋番号までもはっきりしているのかい」
「馬面のやつも尾行(つ)けられる心配がないと思っているのか、それとも根城がバレたところで高が知れていると思っているのか、尾行は割かし楽に済んだ」
「奇妙な男だな……」
「そうだな」
「彼にはいくつあだ名があるんだ」
「何だって?」
「伏羲(フーシー)もあだ名、白痴もあだ名、馬面もあだ名。まるで千の異名を持つ男だ。誰も彼の本名を知らないのかい」
「さあな、本名がわからねえから皆通り名で呼んでるんだろう。中華街に行けばもっと名前がある。ところで白痴ってのはどこで耳にした? 大方あいつを小馬鹿にした中国人の若造が使う名だが」
「どこでだろろうね」
「……伊達に私立探偵やっているわけじゃないってことかい」
 景色の隅で、京浜急行線・日ノ出町駅の瞬きがフロントガラスの片隅に消えていった。そこで珍しく、対向車線に自動車がすれ違った。白いレクサスだった。なんとなく、運転席の男と視線が交わったような気がした。神経質になりすぎているのかもしれない。
「四課はどうなった?」という質問が自然と口を衝いて出た。
「この時間の監視は空いた署の連中で回してる、勤務時間外労働ってやつさ。四課も暇じゃない、伏羲の張り込みはドン・クーシャン絡みの保険みたいなもんだべ。二人一組の一グループだけでやっていてね。今の張り番はコッチなんだ」
「もう一人はどうした?」
「守永なんだ。話はしてある、問題はない。こっちには来させないぜ――女に出来る仕事じゃない」
「彼女か……」と、言い、それから探る意味合いも込めて、気になっていた話題を唐突に持ち出してみた。
「フッキとの交渉が終わるまでは、その赤い帽子が風に飛ばないようにしっかりと押さえとくほうがいいじゃないのかい」
 原はわたしを見やったが、期待していた反応は返ってこなかった。
 彼はただ、どんな事件にでも全力を注ぐのがポリシーなんだとだけ、無愛想に言った。わたしは彼の眸を覗きこんだ。何かしらの感情が宿っているはずだと睨んだが、何も映ってなどいなかった。無関心な眼差しが、ヘッドライトの照らす先を追いかけつづけているだけである。
「――そろそろだ、降りるぞ」
 原は注意を促しながらハンドルを左に切った。BMWは東小入口の信号機を抜けて黄金橋を越えた。すぐにコンビニがあり、そこへ乗り入れ、自動車を降りた。先ほど越えた大岡川まで戻り、青々と茂る街路樹の並ぶ川沿いを、日ノ出町の方角へ引き返していく。
 先刻、桜木町にいた頃には気付かなかったが、空には月が無かった。真暗闇の中、静まり返った平屋群と大岡川の隙間で、アスファルトを這う二人の足音と、堀のせせらぎと、虫の鳴き声だけが響いている。
「昔はこの一軒一軒が売春宿だったって話だ」と、原が平屋群を指しながら路地を折れた。「今は本物のゴーストタウンみたいになっちまった――」
 平戸桜木道路に出る一歩手前で原は立ち止まった。そこまで出ると、幾分居住区らしくなってくる。彼はヒップポケットに挿してある携帯受令機を気にしながら、顎先で道路の向かいを指した。
「あそこだ」
 車道を挟んで、若草色をしたタイル張りの高層マンションが、街灯の届かない夜の空の闇に佇んでいた。その背後には、未だ煌くランドマークタワーが臨めるが、遠く小さく心もとない。みなとみらいの、爆心地のようにドーム状に広がった光明のあぶれが、建物の隙間から亡霊のように時折姿を覗かせている。触れれば届きそうだが、心許ないことに変わりは無い。
「四時まで」と、いくらか緊張を帯びはじめた声で原は言った。「日の空ける頃には張り込みの交代番がやって来る。コッチはその時間までに、もとの監視場まで帰らなくちゃなんねぇからな」
 腕時計の蛍光針は二時前を指していた。
「二時間ある」と、わたしは言った。
「間に合わなければコッチの首が飛ぶだけだ。そう気張るなよ」
「おかしなことを言うね」
「そうかい? じゃあ時間とも勝負するか?」
「無理をしなくてもいいんだ。放っておいても、フッキから連絡を寄越して来る可能性だってある」
「そうだな……だがそん時は、コテツは一人で馬面に会いに行っちまうんだべ?」
「……どうかな。依頼人と相談するよ」
「言っておくことがある――」
「なんだい」
「フッキにはもう知られているからともかく、他の者にはコッチが警官だってことは絶対にばらすなよ。その途端に口を噤(つぐ)まれるからな」
「当然だ。だいたい君は警官として後ろめたい行為をしているんだ。言いやしないよ」
「それから――」
「まだあるのかい」
「なんだかんだ言ってもコッチも筋者相手にゃあ素人だ……当てにするなよ」
「そんなことかい。わたしのことも、勝手に君と同じように考えてもらっては困るな」
 原が、はじめて面食らったような表情を見せた。
「冗談だ」と、わたしは言った。「もう膝が諤諤(がくがく)してきた」
 つまらなそうな渋面を顔面に張り付かせて、原は颯爽と車道を渡っていった。わたしも直ぐに後について、ガードレールを跨いでマンションの植え込みを踏んだ。
 リフト式の駐車場が地上部に出ているだけで五台分ばかりの土地があり、その他に一般駐車場が十台分ほどのスペース、地下駐車場への入り口もあった。しかし、そのほとんどは空いており、僅かに一台ばかり鈍銀色のメルセデスが駐められているのみである。
「風俗営業で盛ってた町なのさ」原はわたしの心中を汲み取ったかのように説明した。「摘発があってからは住民が大分減った。それでこんなゴースタウンみたいなんだべ」
「あのマンションに、見張りはいないのかい?」
「守衛のことか? ――だったら知らんな。別の見張りだったら、あのメルセデスに乗っているよ」
 言ったそばから、メルセデスのドアが開き、二人の男がのそのそと蟹股で踵を引きずってきた。駐車スペースに彼らの剣呑な足音が八方に響いて、どこか実態が掴みにくい感じがする。顔は暗がりでよく見えないが、二人とも胸をはだけた派手な柄物のワイシャツに、スラックス、革靴といういでたちだった。
「どこ行かれるんですかい?」と、強(こわ)い男の声が地面を這って来て、マンションを伝い空へ昇っていった。
 わたしも原も何も応えずに、彼らが近づいてくるのを待った。
 ファサードの街灯が、二人の顔を禍々しく照らしだした。スキンヘッドと角刈り、というコンビだった。
「このマンションは出入り禁止だよ。改装中でね」
 スキンヘッドが唾を溜めたような話し方で言った。口の端から目尻にかけて深い傷痕があり、口の動きに合わせて別の生き物のように醜くうごめいている。
「また後日にしてくれよ」と、彼は続けた。
「そうなのかい」原がすっ惚(とぼ)けたような声を出した。「昼間に人が出入りしているのを見たんだ。おかしいじゃないか」
 相方の、レイバンを掛けた角刈りが原に詰め寄った。にじり寄ったわたし達四人は、みな身長に然程変わりは無いが、体重別で見ればわたしが一番軽量級であることははっきりしていた。
 傷顔のスキンヘッドが、節くれだった手でレイバンを制し、わたし達へ唾を飛ばしながら言った。
「何かの間違いだろ。もう夜も遅い、人目も無い、帰った方がいいんじぇねぇのかい」
 暗に何かを匂わせる科白である。
 原が受け答えた。「この物件、今朝方は広告に出ててね……気に入ってんだよ。昼間は仕事が忙しくってさ、少しだけでいいんだ――中見せてもらえないかい?」
 レイバンが威圧を滲ませながら、一歩にじり寄って来た。湿った空気に乗って、煙草や香水、それから体臭などの混じった臭いが漂ってきた。
 傷顔のスキンヘッドが、歯の間から唾を飛ばした。「どうしてもっつうんなら、こっちにも考えがあるよ。まずは事務所の方に行きましょうや。こちらからも色々と諸注意があるんで」
 原もわたしも動かずに黙っていた。
「事務所はすぐそこだからさぁ。ウチらの車を出すから乗りましょうや。十分とかからない。着いて来てもらおうか」
 傷顔のスキンヘッドは、いやらしく吊り上げたような笑みを見せつけて、背を丸めてメルセデスへ歩き出した。
「茶番は終わりにしよう」
 そう言ったわたしの声は、予想していたよりも大きく響いた。
 待っていたとばかりにスキンヘッドの足がピタリと止まり、振り返った。厚い面の皮が、不自然な笑みで皺だらけになっている。心なしか、レイバンの方まで嬉々としているようにも見えた。
 傷顔は皺だらけの笑顔のままで煙草を一本引き抜き、火を灯した。ゆっくりと煙を吐き出す様を見せ付けて、もったいぶった間を作った。
「もめごとは極力避けなくちゃいけねぇ決まりなんだけどな……個人的にもそんなに好きじゃない」
 まかり間違ってもそんな風には見えないが、それが彼の言い分だった。レイバンはわたしに狙いを定めて向きを変え、原もわたしにちらりと視線を泳がせた。
「誰が揉め事を起こすなんて言ったんだい?」わたしは言った。「揉め事はわたしの仕事だけど、仕事一筋って人間なわけでもなくてね」
「じゃあ、どんなことして楽しませてくれんのだろうな――」
 傷顔はたっぷり意味を持たせて何度も頷いた。彼にしてもフッキ君にしても、無駄口が好みのようだった。わたしも彼のやり方に倣って言った。
「最近じゃあ、探偵に曲芸にやらせるのがブームみたいだね」
「なるほど――オメェさん探偵かい。この辺でやってんのか? 事務所教えろよ」
「山下公園のダンボールの中なんだ。マイブームでね」
「威勢がいいな。俺は自分の力量も知らずに威勢ばかりいいやつが嫌いでよぉ。事務所まで来るのか、それともその山下公園の向こう側に沈めて欲しいのか、好きな方選ばせてやるよ。海が嫌なら山でもいいんだぜ。知り合いに土建屋いてさ、土地も余ってんだよ。私有地の山の中なら好きな場所でオネンネさせてやるぜ」
 わたしは答えた。「フッキに会う方を選ぶよ」
「どういうつもりで言っているのか、もう一度考え直してみたほうがいいぜ。考え直したところで、もう行き着く先は変わらないだろうがな」
「フッキに会うつもりなんだ」
「頭がおかしくなって、口が動かせなくなる前に、テメェがどこの手先の者か聞かせてもらおうか」
「別に」わたしは一歩前へ踏み込んだ。「ちっぽけな稼業の者だよ」
「片腹痛ぇな。探偵には見えねぇよ――!」
「わたしはこの町の人間じゃない。警官でもない、筋者でもない、金持ちでもない。私立探偵にしか過ぎない」また一歩詰め寄った。「フッキに、そう伝えてくれ。会うか会わないかは、彼が決めることだろう。伝えないってことは、君達にとって出世のチャンスを逃すことにもなるだろうし、下手をすると君達自身が痛い目を見るってことになるかもしれないぜ」
「テメェの態度はおもしろくないね」と、傷顔は言った。「だが――、出世のチャンスをみすみす逃すのはもっと気にいらねぇ。ここで待ってるぉ」
 煙草を投げ捨てると彼は、丸めた背を向け、豪奢な煌きを見せるホールを抜け、カーペットを敷いた階段をゆっくりと上って行った。その奥に、硝子張りのエレベーターホールがあった。男はそこでインターホンを使って、液晶の向こう側の相手と何か話し始めた。
 レイバンを掛けた角刈りは、どうすることもなくその場につっ立ったまま煙草に火を点け、わたしたちを射すくめていた。煙草の煙が、微かに潮の香る風に流されてゆく。ベイシティの真夏の湿気た夜が、辺りに息づいていた。レイバンの指の間で、丁度一本分の煙草が燃え尽きた時、足音が帰ってきてわたしの前で止まった。
「七○二だ」と、傷顔のスキンヘッドは言った。「女が出るはずだ」
「行こう」わたしは原を促した。
 僅かに顎を引いた彼が先立って、エレベーターホールへと進んだ。背後で二人分の舌打ちが、行き場を失くしていた。
「探偵さん?」
 ホールに立つと、女の声がインターホンを通して聞こえた。
「そうだが」と、わたしは答えた。
 目の前の自動硝子扉が開いた。
「七階まで、上がってきて。廊下に出て右だからね」
 インターホンが切れた。
 エレベーターが七階に着くと、またホールに出た。そこから左右にカーペットを敷いた長い中廊下が伸び、その奥にはどちらにも非常出口があるのが目に付いた。明かりはその案内板だけで、両壁に設えた足下灯は消えている。
 原は言った。「非常階段の出口は全部入り口一階のホール付近に通じてる」
 わたし達は、インターホンで告げられた案内の通りに右手へ進み、動物の皮膚のようにザラザラした外壁を手で伝いながら七○二号室の前に立った。
 スロットに表札は入れられておらず、扉は黒く重厚なものだった。原はノブに手を掛けて、わたしを振り返った。
「私立探偵ってのは随分と不見点(みずてん)なんだな」
「膝が笑ってる」
「あんなやり方は、はじめて見た」
「無駄口を叩いてる暇はないだろう。君に警官を辞めてもらうつもりはないんだ。はやくしよう」
「……辞めなきゃならないときは潔く辞めるさ。――馬面とは、はじめにコッチが話しをつける。いいかい?」
「わたしに時間制限はないからね、構わないよ。いざとなったら、君だけ帰ればいい」
「そうもいくかよ。コッチと代わった見張り番に、コテツは目を付けられるはまめになるぜ」
「それは困る」
「なぁに、まだ一時間半以上ある。入るぞ」
 原はドアノブを引いて、そのまま中へ一気呵成に進んだ。
「捜査令状はないんだが……」と、わたしは彼の背中に呼びかけながら後に続いた。
 室中は、ゆったりとしたワンルーム型の一室だった。木目調の床に暖色系の調度品、ワイドテレビの前には応接セットがある。カウンターキッチンでは、エプロンを着けた女が洗い物をしていた。アンニュイな感じで、いつも眠たそうに見える女だった。目にはまったりとした光が宿り、その割には歯切れ良く快活に口元が動いた。
「土足で結構だよ」カウンターの中から、しわがれ気味の声で言った。「そのまま部屋に入って、待ってて」
 見やる室内に伏儀の姿はなかった。
「伏儀はどうした?」と、原が女へ差し迫った。
「慌てないで。入って待ってて、って言ったのに。あの人はバスルーム。何か飲む? お酒でも」と、エプロンを外した。見た目は美人だが、声はぎすぎすしたハスキーで、そのアンバランスさが孔雀を連想させた。
「いや……」原は引き下がった。「酒は遠慮しておこう……」
 わたし達は奥へ進み、コの字型に硝子卓子を囲った応接ソファに腰を下ろした。女もわたしの向かいに座った。左手にはワイドテレビに音響セット、右手には原という陣になった。
「二人って刑事(デカ)? アンタ――」と、彼女は握っていたグラスをわたしへ掲げた。「刑事(デカ)には見えないけど刑事(デカ)ってタイプ。それで隣のはそのまんま刑事(デカ)。当たりでしょ?」
「違うな」原が答えた。「ドン・クーシャンの使いの者だ」
 彼は適当なことを述べていたが、わたしは干渉せずにいた。
「ふーん」と、女がいぶかしんだ。「あたしって、人を見た目で判断するの得意なんだけどなぁ……その、ドンなんとかって人も知らないし」
「おまえ、この町の人間か?」
「偉そうね、やっぱり警官みたい」
「質問に答えろ」
「違うわよ」
「だろうな――」原は腕時計を見た。「フッキはどうした?」
「せっかち……バスルームって言ったじゃない。大体あたしに伏儀がいつ風呂から出てくるかなんてわかるわけないじゃない。あんた達が来るタイミングが悪いのよ」
「埒があかねぇ――お前さんが何者だい?」
「あたしは伏儀のお守り役。アゲハって呼んでね。言っとくけど日本人だから。それで、あたし達のボス、あの男を匿(かくま)ってやってるけど、実際何やらかすか分からないようなならず者でしょ? 爆弾抱えてるような気分なんだって。だからあたしがお守り役」
 アゲハという女は得意げに胸を突き出し、さらに猫のように欠伸と伸びをした。
「事情には詳しいのかい?」と、わたしからも質問をしてみた。
「いいえ、全然。あたしって、ただのボスの愛人だからさ――って言っても正直なところ、誰かに何か訊かれたらいつもそう答えろって言われてるだけなんだけど――でも、本当に伏儀のことについては何も知らないの」
 わたしは腕時計を見た。時間が、頭の中で大きな足音を立てて通り過ぎていく。アゲハの持ったグラスから雫が滴り、硝子卓子に水溜りを作っていた。
 ようやく背後でバスルームの扉が開く音が聞こえた。脱衣場から衣擦れの音がする。
 アゲハがグラスを置いてキッチンへ消えた。グラスの側面からさらに三滴ばかり雫が流れ出た。アゲハはタンブラーを抱えて戻ってきて、グラスにその中身を注ぎ足た。そしてわたしを上目使いに盗み見ると、さっとグラスを差し出した。
「飲む?」
 わたしは黙って受け取り、中身を口に入れた。強い生姜(しょうが)臭が鼻を抜けていった。
「ただのジンジャーエール」と、アゲハは微笑んだ。「あんたさ、あたしが飲んだくれだと思っていたでしょ? 声はハスキーだし、テンションも高いし。でも、これ、ただのジンジャーエール。ハイボールだって思ってたでしょ?」
「睡眠薬が入ってないか不安だ」
「ジンジャーエールだって言ってる」
 そこで、脱衣場の扉が開いた。ナイトガウンにサングラスと言う奇妙な格好のフッキが出てきて、わたし達を見回した。
「賑やかだな」と、彼は一言発した。
 待っていた三人の間で最初に口を開いたのはアゲハだった。
「言った通り、お客さん入れといたから」
「手間取らせたな」伏儀は女をあしらってスペースを作ると、そのまま彼女の隣に腰を滑らせた。「それで、ようやくコテツさんは事情を話す気になってくれたわけいかい……」
 伏儀は事務所で見たときと変わらない粒よりの歯を見せ、サングラスの向こう側からあの万力のような視線を投げて寄越した。頬がなめし皮のように厚く、強靭さが伺えるのは相変わらずだった。
 わたしは言った。「その恰好はなんとかならないのかい」
「気にするな」煩わしそうに、彼は答えた。
「伏儀君がこんなに大物だとは思っていなかった」
「その前に、気になるのが一人いるぜ、コテツさん。気になってしょうがない。どうして警官(おまわり)がこんなところにいるのか説明願いましょうか」
「そこの女性は婦警さんだったのかい?」
 伏儀は笑おうとしたが、始めからニヤけた面なのでそれ以上笑うことが出来なかった。彼は黙って手の平で自分の頭を軽く叩き、帽子を匂わす仕草をした。
 わたしが肩を揺すってみせると、伏儀は答えた。
「一回会った人間を忘れちまうほど、俺は耄碌(もうろく)してねぇよ」
 原が答えた。「随分余裕なツラしてやがるな。あれからコッチのことでも調べたかい」
「どっから警官(おまわり)が絡んで来るんだか分からねぇや。俺は何も悪いことをしてないぜ」
「コッチにも良く分からなくてな」そのまま原が受け答えた。「だからアンタにヒントを頂こうと思ってんだ。何が起こってんのか知りたい。安心してくれ、今晩はフリーランスだ」
「フリーランスね……おもしろいよ――原さん。中華街にいてな、そんなに立派な帽子を被ったやり手の刑事(デカ)さんがいれば噂になるぜ。それで、俺みたいなやくざ者に助言を請おうなんて、アンタがしてることは上の連中は了承してるのかい」
「正直なところ、これは仕事の範疇じゃないね。警官がこんなことをしてたら、面子にかかわるべ」
「じゃあアンタがこんな無謀な捜査をしているのは、刑事(デカ)魂が黙っちゃいないからって理由からかい? そんな警官がまだ世の中にいるんだとしたら、捨てたものじゃないかもしれねぇな」
「俺は俺の捜査を進める。それだけだ」
「口出しはしねぇ、妙な噂も流したりしねぇ。だからテメェのその偉そうな態度をなんとかしてくれ、気に食わねぇよ。警官(おまわり)じゃねぇ時はそれらしくしててもらいたもんだ」
 どこからか、苛立たしげな空気が煙幕のように二人の間へ流れてきたようだった。原は神経質に頬の筋肉を緊張させている。
「そんなことはどうだっていい」抑揚の無い原の声は虚しく響いた。「コッチは、ドン・クーシャンの居所が知りたい」
  伏羲はテレビ台に腕を伸ばすと、手探りで煙草のパックを掴み取った。白いパッケージに赤いライン、金文字で“利郡/Ligun”とプリントしてある、見たこの無い銘柄だった。一本抜き出し、ロンソンのジッポで静かに火を点けた。彼がわたしの視線に気付いて言った。
「吸えりゃ何だっていいのさ」
「聞いてるのか」原が詰問するように遮った。
 紫煙がアゲハの方に流れ、彼女は顎を引きながら上体を反らせた。
「対対(ドゥイドゥイ)」と、伏儀は静かに身を引いた。「俺が、まだ日本に来て間もない頃、浮浪者だったから警官(あんたら)には良く世話になったな……。その中でも特に俺の世話をしてくれた生活安全課の親父がいてな、何か騒ぎを起こす度に目ざとく俺を見つけて駆けつけて来たよ。ソイツは多分、俺が身寄りの無い人間だって事を知ってたんだろう、署につれて行かれそうになったところをも何度も庇ってくれたよ。その内、ソイツは俺の保護者みたいになっちまって、終いには俺と一緒に住んでもいいなんて言い出しやがった。なんでその親父がそんなこと言い出したのかって理由はな、別に善良な心が働いたからってわけじゃねぇんだ。その親父はただのバイ野朗だったのさ。余りに醜男だったもんで女が寄り付かない、そんで俺んとこに擦り寄ってきたのさ。汚らわしいと思わんかい」
「さぁな」
 原の表情は、彼の見え透いた挑発のおかげで冷静さを取り戻していた。
「汚らわしいさ。おめえは自分が汚らわしいところにいるのにも気付かないほど汚れちまってるんだ」
「そんな人間ばかりじゃないだろう」
 伏儀はつまらなさそうに煙を吐くと灰皿で煙草を揉み消し、アゲハのグラスを取り上げてジンジャーエールを飲み干した。
「酒じゃないのか」酒じゃない飲み物はこの世から消えて欲しいとでもいうような調子だった。「まぁいい。それで、何の話だったか?」
「あんたが、ドン・クーシャンの居所を知っているとコテツに聞いて、その話を伺いに来たんだ」
「原さんはドン・クーシャンが実在するとお考えなんですな?」
「もちろんだ。査証の有効なパスポート・写真・住居登録謄本。この辺りは確認してある。彼の姿を見たことがある人間がいないというだけだ」
「だがよく言うじゃないですか、そんなものは書き換えたり偽装が利くなんてことを」
「あてにならんな」
「実際に、中華街であの男を見たことがある人間が何人いるでしょうかね」
「そんなにドンの存在を虚構のものに仕立て上げたいかい?」
「そうじゃない。原さんがどれほど貴重な情報を求めているのかということを自覚してもらいんですよ。そもそも、クーシャンという存在を目にしたことがある人間に出会えたというだけでも奇跡的なんじゃないですかね」
「確かに、面と向かってドンと友好を交わせる人間と話しをしたのは、刑事人生で初めてだよ」
「あの男は本当に臆病だ。だから滅多なことが無い限り人前になんて姿を現さない。ちょっとした理由から、ひどく傷つきやすい野朗になっちまいやがったのさ」
「ソッチはドンの居所を知っているんだな?」
「触らぬ神に祟り無し、この国の言葉だ。眠れる獅子は、寝かせとくのが一番なんじゃないんですかい」
「あんたにとって、いつまでもドンの上に乗られたまま手綱を握られっぱなしってのはどうなんだ?」
「こんな事態の時に、そんなことはどうだっていい」
「こんな事態?」
「知ってるんだろう? 董道一が殺された。ドン・クーシャンの弟だ」
「伏儀、テメェは何が起こっているのか知っているのか?」
「コテツさん次第さ。コテツさんが肝心なモン抱え込んじまってる。そいつに気付いてるのは、恐らく俺だけだと思うんだがね。残念ながらそっちはコテツさんがすっ惚(とぼ)けてるようで、このままだと真相は闇の中ってことになりかねませんな」
 わたしは言った。「やはり話はそこにいく着くわけだ。事務所でも似たようなことを君はわたしに訊いた」
 伏儀は不遜に微笑んだ。「董道一から、何か預かっているはずじゃあないんですかい? かなり狙われ安いものさ。コテツさんがそいつを持ってる。この噂が、さも信憑性が高い様子で広まれば、中華街の筋者達はコテツさんを標的に定めるかもしれないな」
「昨日と、同じ言葉を繰り返さざるを得ないよ。わたしが今日ここへ来たのは、その誤解を解くためでもあったんだが――」
「董道一が日本に来てから出会ったのはコテツさんとドンだけだ。あんたは気付いちゃいないか、すっ惚(とぼ)けているか、そのどっちかだと俺は考えてるんだがね」
「何をそんなに血眼になって探す?」
「……また暗礁に乗り上げようとしてるな――いいかい、もう一度言わせてもらいますぜ。董道一が日本に来てから出会ったのは、コテツさんとドンだけだ。ドンは持っていない、この事実からは、どんな馬鹿でもそう時間は掛からずにコテツさんを突き止めますよ」
「説明が突拍子過ぎて、良く理解できないんだ……」
「悪いが、俺の口からこれ以上のことは出てきませんよ。そんなにお人好しになるつもりはさらさら無い」
「わかった」と、わたしは素直に引き下がった。「もし、董道一が残したものというのに心当たりがあった場合は君に一報しよう」
「それが、今のコテツさんに出来る最大限のご奉仕ってわけですかい……」
「時間も迫ってるんだ。ドンが隠れている場所を教えてくれないかい」
「いいでしょう、それで成立させてやりますか。裏切りは命取りですぜ」
「もちろんだ」
「それから、これだけははっきり言わせて貰いますか。相手は“眠れる獅子”だ。クーシャンの根城の全てを把握しているわけじゃない。警官(おまわり)も中華街の筋者も知らねぇクーシャンの隠れ家は教えられますが、そこに絶対にアイツがいるという確証は持って無ぇってことを覚えておいてくだせえ。これなら条件的には五分だと思うんでね。どっちみち、お互いの情報は不完全なんだ」
「君の教えてくれた場所にドンがいなかった場合はどうする?」
「この話はチャラってことでサービスしときますよ。コテツさんがそれでもお礼がしたいって場合は“品”をもって来てくだせえ」
「結構だね」
「一度しか言いませんぜ――芸者町のドヤ街っすよ。ドンはいつも中華街が混沌としてくると、そこの外人用に貸し出されたホステルに引き篭ります。あそこには、同じような一部屋四畳間くらいのホステルが腐るほど軒を連ねてる。ドンはそこの一軒一軒、毎日寝床を変えている筈だ。まるで蓮の葉の上を渡るみたいにね。だから、ドンに会おうと思ったら、片っ端からホステルのドアを叩かなきゃなんねぇんじゃあねぇですかな。百件以上あるホステルのどこかにいますよ」
「そんな隠れ家があったとはな……」怒りがぶり返したとでもいうように、原が口を挟んだ。「もっと吐いちまえよ。このクソ野朗。知ってるのはそれだけじゃないんだろ?」
 途端に空気が冷え、殺伐としたものになった。伏儀は巨躯を持ち上げると、原の目の前に聳(そびえ)え立った。改めて見ると、その二メートル近い身体つきに度肝を抜かれた。前触れも無く太い荒縄のような彼の指が原の喉仏に喰いついた。最初に感じたのは絞め過ぎだということだった。急所を的確に捕らえ、脅しにしては性質が悪すぎた。原の喉から呻き声が泡のようにこぼれ出た。
「勘違いしてるよ」伏儀が原の耳元で囁いた。「言っとくがね、俺はコテツさんは用事があるから通してんだ。おめぇはなぜここに来れた? 安い野朗がナメた口利いてんじゃねぇぞ。手帳がなけりゃ何もできねぇ坊主が――!」
 原の指先が虚しく腕を掻き毟り、腹部は蠢(うごめ)いて何かを告げようとしていたが、喉に栓をされたようにままならなかった。瞼が痙攣し、白目と黒目が意識の境界を彷徨うようにぶれた。赤い帽子が力なく地面に垂れた。
「よせ」わたしは伏儀の腕に手を掛けた。「脅しにしては度が過ぎる」
 手の中で伏儀の腕の力が抜けて、抜け殻のようになった原の体躯がフローリングにへたり込んだ。伏儀は片眉を擡(もた)げ、わたしをいぶかしんだ。
「止めねぇかと思いましたよ。警官庇う探偵なんざ聞いたことが無い」
「一夜限りのパートナーなんだ」
「そこをどけ! コテツ!」原が口端に涎を光らせ眼球を剥きだし、体躯を折りながら片膝をついた。「このクソ野朗のチャイニーズ! 二度と日本の土を踏めねぇようにしてやる!」
 金擦れの音がすると、黒いものが原の手の中に現れた。拳銃か、と思い一瞬身構えたが手錠だった。
「やってみろよ」伏儀は赤い野球帽に唾を吐きかけた。「てめぇが今何をしているのか良く考えてからだぞ。ワッパと手帳なしで何が出来んのか、しっかり考えろや。刑事(デカ)の肩書きがねぇと何もできないぺいぺいがしゃしゃり出てくる所じゃねぇんだ」
 軽い鉄アレイが落ちるような音がした。手錠が床に投げ出されていた。
 原の哮(たけ)りを耳にアゲハへ目をやると、彼女はピタリと体を固定したままうろたえもせずに静観していた。視線を戻すと、その隙に二人の間合いが変わっていた。まだ、どちらの間合いとも断定はできなかった。原は頭が湯立ちながらも、動きが体に染みついているのか、ボクシングの要領で自然にリズムを刻み間合いを計っている。素人ではなかった。堂に入ったもので、顎に右拳を沿えて守備にも抜かりは無かった。一方、伏儀は間合いそのものを捨てたように動かず、相手の出方を伺っている。
 止めるべきだったが、大の男二人を一辺に黙らせる手段などを思いつきはしなかった。
 原が跳んだ。身のこなしは軽やかだった。ジャブ。次のフックは顎を狙わずに捻じり曲がり、ステップで大外を周ると後頭部を叩いた。ガードがあったとしてもそのさらに外を打つ鉤のようなパンチだった。それで終わりだったとしても、誰も相手が弱かったなどとは思わなかっただろう。しかしこの場合は逆だった。原は、タイトルマッチ前日に風邪を拗(こじ)らせた思い上がりの強い新人ボクサーよりも脆弱な挑戦者に過ぎなかった。フッキは振り向くこともなく、原の顔面を鷲掴み、そのまま壁に捻りつけた。衝撃音と折り重なるように部屋が揺れ、床でグラスが悲鳴をあげた。波濤(はとう)が漣(さざなみ)を飲み込む時のような、抗いようの無い力が作用したように見えた。
「なぁ」と、伏儀が誰にともなく嘯(うそぶ)いた。「こいつは邪魔だ。どうしたってこんなに威勢がいいんだ」
 伏儀の手の平と壁の間で、絡んだような荒い息遣いが聞こえる。それが響き、まるで部屋全体が苦しげな呼吸をしているように感じられた。
「放してやれよ」と、わたしは言った。
 だがまるで耳に入らない様子で伏儀は答えた。
「もう一度、道一に預かったものを思い出してみてくれませんかね? 俺はどうしても信じられねぇんですよ」
「タリスカー一本きりだ」
「他には?」
「ない」
「思い出してくれたら、コテツさんにも色々良い思いさせますよ。中華街じゃあ顔も利くようになる。探偵なんてケチな稼業(しょうばい)やんなくても、一生楽して暮らせるだけの金だって保障できる。革命みたいなもんだよ……コテツさん。俺達は本当にそんだけの大きな“うねり”の中にいるんだ」
「董道一も、同じようなことを言ったよ――」
「俺の知ってるヤクの販路(ルート)なんてのも教えてやってもいい。あんたは元締めなんてやる必要も無い。ショバ代もみかじめもいらねぇ。ただ黙って見てれば金が入ってくる。利子率の馬鹿デケェ銀行みてぇなもんだ」
 わたしは何も言わなかった。原もがらがらと喉を喘がせるのみで黙っていた。伏儀はわざとこんな有りもしない御託を並べているのだろう。彼の行いは、長い間その筋で生きてきた人間にありがちな警官への腹癒せに過ぎないのだ。目の前の警官が何も出来ないことが、フッキの反発心に火を点けただけなのかもしれない。彼のような男にとって、警官には絶対に逆らえないという、年中自分の頭上に被さる天蓋をずらし、ようやく空を拝めるチャンスが巡ってきたというだけなのだ。
 原の腰の無いパンチがフッキの腕を叩いた。浜に打ち上げられた魚のような、空振りした呼吸が音を立てている。彼の有様と赤い帽子を見比べ、フッキに持ちかけられた交渉を材料に、わたしは原の心境を推し量った。
 腕時計を見ると、四時を回ろうとしていた。半にもなれば、空は白みはじめるだろう。
「時間だよ」わたしは言った。「彼を放してやってくれ」
「こいつをここへ置いていく気はないかい」と、彼は答えた。「コテツさんも、これからこの事件に関わっていく上で刑事は必ず邪魔になりやすぜ。それだけじゃなくて、このマンションを出た途端、御用になるって手筈かもしませんぜ。選んでくだせぇよ」
「わたしがかい?」
「他に誰がいるんですかい」
 迷うべき事柄は何一つ見つかりはしなかった。
「原を放すんだ」
「そうかよ」腕がどかされた。「コテツさん、全然素人だよ。やり方が素人だ。クールじゃない」
「次に逢うときにはクールになっていることを願おうか」
「まるで他人事だな」
 原が膝を折って顔面から落ちた。鼻腔から泡を吹いた血が流れ出していたが、鼻骨は無事なようだった。あっても役に立たない程度に意識はある。脳震盪のようだった。
 わたしは彼の肩を担ぎ、伏儀に言った。
「最後に一つだけ訊かせてもらってもいいかい」
「俺は構わない」と、彼は嗤(わら)った。
「大陸酒館というバーを襲撃したのは君の知り合いかい?」
「その店は知っているが、俺はそんな野蛮なことしない」
「よくそんな冗談を言えるね」
「襲ったのは、どんな連中だった?」
 素振りは見せないが、興味があるようだった。
「中国語を話すやくざ者たちだったそうだ」
「中華街には大勢いるな……言葉は北京語か上海語か広東語か?」
 わたしは首を振った。
「それだけじゃ分からんぜ」
「だろうね。だが、わたしにはもっと分からないんだ。すまなかった、迷惑をかけた。それから――」と、言って、わたしはアゲハからグラスをひったくった。「もしわたしに度胸があったのならば、迷わずにこのグラスの中身を君にぶちまけていたよ」
「度胸がなくて良かったな――俺がじゃなく、コテツさんがだぜ」
「もちろん知っているよ」わたしは女にグラスを返し、原と共に外へ向かった。
「ハイチャイ」と、アゲハが答えた。「またどこかで会えるといいね、嘘つき二人組さん。最後のはなかなか良かった」
「二度とあんたの連れの顔は見たくないよ」
 わたし達は部屋を後にした。
 廊下に出ると、一つの考えが頭をもたげた。フッキからしゃぶの話題が持ち出された際に、原の表情が何一つとして変わらなかったのは何故なのであろうか。ひょっとしたら守永がわたしに話して聞かせたことは丸々嘘なのではないだろうかと思わせる程、彼は頑なに感情を見せなかった。
 そんな疑問に答えが出るはずも無く、空が白みはじめ、港町には朝がやってきていた。
 たった今出てきた扉が再び開いた。アゲハが出てきて、赤い帽子を差し出した。
「忘れ物」
 受けとるか迷ったが、わたしはそれを原の頭に被せると、その場を後にした。顔と名前しか知らないような死んだ人間のために、わたしが出来ることはそれだけだった。

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